趣ある民宿にて 3
湯船から上がり、体を拭いて浴衣に着替える。
髪はまだ濡れたままで、首筋を伝う水滴がひやりとした。
浴室の扉を開けると、廊下の空気は冷たく、裸電球の灯りが心許なく揺れている。
板張りの床は歩くたびにきしみ、古い建物の呼吸のように音を立てた。
部屋へ戻るには、玄関を通らなければならない。
その正面には、ガラスケースに収められた日本人形が静かに立っている。
赤い着物の袖が、灯りの影で揺れているように見えた。
濡れ髪のまま歩を進めると、足音が板張りに響く。
視線を逸らそうとしたが、どうしても気になってしまう。
ガラス越しに見える人形の顔…その目が、こちらを追っているように感じられた。
ちょうどその時、奥から女将さんが姿を見せた。
「お風呂、ぬるくなかったですか?」と柔らかい声で問いかける。
「ええ、ちょうどいい湯加減でした」と答えると、女将さんはにこやかに頷いた。
「この建物も古いですからね。人形も昔から置いてあるんですよ。お客様を見守ってくれてるんです」
その言葉が妙に耳に残った。
人形が「見守っている」という表現が、視線を感じた直後だっただけに、背筋に冷たいものが走る。
女将さんは廊下をすれ違い、奥へと消えていった。
残されたのは、玄関の人形と自分だけ。
静けさが戻り、再び人形の目がこちらに向けられているように思えた。
部屋へ戻り、障子を閉めると畳の匂いが広がり少し落ち着いた。
濡れた髪をタオルで拭きながら、ふと考える。
あの女将さんは本当に「見守っている」と思っているのだろうか。
それとも、何かを隠すためにそう言ったのだろうか。
荷物を整理し、布団を敷いて横になる。
外は静かで、虫の声すら聞こえない。
古い時計の振り子が、規則正しく音を刻んでいる。
目を閉じても、玄関の人形の姿が頭から離れない。
赤い着物、ガラス越しの目、そして女将さんの言葉。
「見守ってくれてるんです」
その響きが、まるで呪文のように耳に残る。
やがて疲れが勝ち、意識が少しずつ薄れていく。
眠りに落ちる直前、ふとした錯覚のように思えた。
ふと、人形の顔が、ほんのわずかに笑っていたような気がした。




