趣ある民宿にて2
おじさんはグラスを置き、少し焦ったようにこちらを見た。
「兄ちゃん、どうしてその民宿にしたんだ?」
「他のところに比べて、だいぶ安かったんですよ」そう答えると、おじさんは短く息をついて黙り込んだ。
「……そうか」
それ以上は何も言わず、話題を切り上げるように酒を口に運んだ。
本人は不思議に思ったが、まあ何かあるのかもしれない、と軽く受け止めた。
その後は旅の話や地元の祭りのことなど、他愛ない雑談を少し交わし、店を出ることにした。
夜の町は静かで、街灯の下を歩くと影が長く伸びる。
駅近くにある○○民宿へ向かうと、木造の建物が闇の中に浮かび上がった。
古びてはいるが、どこか趣のある佇まい。引き戸を開けると、擦れた音が響いた。
玄関正面にはガラスケースが置かれていて、その中に日本人形が一体飾られていた。
赤い着物を着た人形の目が、灯りを受けてわずかに光っているように見える。
思わず足を止めたが、女将さんが笑顔で迎えてくれた。
「ご予約いただいている○○様ですね?」
柔らかい声でそう確認され、頷くと女将さんはにこやかに案内を始めた。
部屋は昔ながらの和室で、畳の匂いが落ち着きを与える。
障子は少し黄ばんでいて、壁の時計は古い振り子式。
トイレと風呂は共用だと説明され、素朴な民宿らしさが漂っていた。
時計を見ると、ちょうど20時を回ったところだった。
荷物を置き、ひと息ついたとき、ふと玄関の人形のことが頭をよぎった。
あの視線は気のせいだったのだろうか…。
やがて風呂に入ろうと部屋を出る。
廊下は薄暗く、裸電球の灯りがところどころに吊るされている。
風呂とトイレへ行くには、必ず玄関の前を通らなければならない。
そのガラスケースの中で、日本人形は静かにこちらを見ていた。
足音が板張りの廊下に響く。
人形の前を通り過ぎる瞬間、視線を逸らそうとしたが、どうしても気になってしまう。
ガラス越しに見える顔は、さっきよりもわずかに角度が違っているように思えた。
風呂場の扉を開けると、湯気が立ち込めていた。
古いタイル張りの浴室で、湯船にはぬるめのお湯が張られている。
体を沈めると、旅の疲れがじわりと溶けていった。
だが頭の片隅には、玄関の人形の姿が残っていた。




