趣ある民宿にて1
昼間は町を歩きながら、古い寺や小さな資料館を見て回った。観光客は少なく、どこか時間が止まったような静けさが漂っていた。
夕暮れが近づき、そろそろ一杯やりたいと思い、道端で声をかけた地元の人に「この辺でいい店ありますか」と尋ねた。
「観光客はあんまり来ないけど、落ち着ける店があるよ。路地を抜けた先に暖簾が出てるから、行ってみな」
そう教えられ、少し薄暗い細い路地を進むと路地の奥にひっそりと灯る看板。木の板に手書きの文字が残り、長い年月を感じさせる。
暖簾をくぐると、店内のざわめきが一瞬止んだ。
見慣れない顔に気づいた常連たちがちらりとこちらを見て、すぐにまた会話を続ける。
その一瞬の静けさが、余所者である自分を際立たせた。
カウンターの奥から、大将が「いらっしゃい」と声をかけてくる。
注文を聞かれ、軽く酒を頼むと、小皿に盛られたお通しが置かれた。煮物の湯気が立ち、出汁の香りがふわりと広がる。
箸をつけると、素朴な味が旅の疲れをほどいていく。
ふと隣を見ると、年配のおじさんが一人でグラスを傾けていた。
背中に少し影を落とすような姿勢で、黙って酒を見つめている。
やがてこちらに顔を向け、少し笑みを浮かべて言った。
「旅行かい?兄ちゃん?一人で?」
「ええ、ふらっと来てみたんです」そう答えると、おじさんは「いいねえ」と肩を揺らして笑った。
「俺も若い頃はよく一人で歩いたもんだよ。今じゃ腰が重くてな」
そう言ってグラスを掲げ、軽く乾杯の仕草を見せる。
「どこから来たんだ?」
「関西です。電車でふらっと」
「へえ、じゃあ近いじゃないか。こっちの酒は口に合うか?」
「はい、出汁の香りが落ち着きますね」
「だろ?観光客はあんまり来ないけど、こういう店が一番落ち着くんだよ」
おじさんは少し照れくさそうに笑い、また酒を口に運んだ。
「俺なんか毎晩ここだ。家に帰っても誰もいないしな。だから大将とここの連中が家族みたいなもんだ」
そう言う声には、寂しさと安心が入り混じっていた。
「兄ちゃんみたいな人と話すのも、ちょっとした楽しみなんだよ。こっちの話も聞いてくれるしな」
そう言って肩をすくめるおじさんの仕草に、妙な温かさがあった。
しばらく雑談が続いたあと、おじさんがふと思い出したように尋ねてきた。
「で、兄ちゃん、宿はどこに取ってんだ?」
「駅の近くの民宿○○です」そう答えた瞬間、おじさんの笑みが止まった。
ほんの一瞬、間が空く。グラスを持つ手が動かない。
その沈黙に気づいたのか、周りの常連たちも会話をやめ、こちらに視線を向けていた。
店内の空気が、さっきまでとは違う重さを帯びていく。




