眠りを促す響く声
先週の午後、
駅前の喫茶店で女友達と話していたときのことだ。
コーヒーの香りが漂う静かな店で、
ふと「なんか不思議な話ない?」と聞いてみた。
彼女はストローを指でくるくる回しながら、
「いやぁ、私そういうの全然ないで」と笑っていた。
けれど、少し間を置いてから、
「あ、ひとつだけあったわ」と思い出したように言った。
その言い方が妙に自然で、
“本当に忘れていた記憶が浮かんできた”感じだった。
彼女が四歳か五歳の頃。
祖父母と暮らしていた古い木造の家。
「今思い出しても、あの家って独特の匂いあったわ。
木の匂いと、古い畳の匂いが混ざったような」
寝室は祖父が一階、
彼女と祖母は二階で布団を並べて寝ていた。
その夜、
枕元のスタンドライトをつけて、
ひらがなばかりの児童書を読んでいたという。
「おばあちゃん、よう寝られたなって思うわ。
あんな明るい中で、ページめくる音もしてたのに」
祖母は背中を向けて寝ていたらしい。
静かな部屋に、紙の擦れる音だけが続いていた。
しばらく読み進めた頃、
「はやく寝ろ」
その声が、
部屋の空気を震わせるように響いた。
彼女はその瞬間のことを、
今でもはっきり覚えているという。
「おじいちゃんの声でも、おばあちゃんの声でもなかった。
なんか……部屋全体から聞こえた感じやねん。
どっちから聞こえたとかじゃなくて、
“空気が喋った”みたいな」
普通なら泣き出してもおかしくない。
でも彼女は不思議と恐怖を感じなかった。
「怖いって思わんかったんよ。
“あ、寝なあかんのやな”って、
なんか素直に思って、布団に潜った」
そのまま眠ってしまったらしい。
翌朝、
祖母に「昨日なんか言った?」と聞いても、
もちろん何も言っていない。
祖父も一階で寝ていた。
「今思うと、なんで怖くなかったんか分からんねん。
でも、あの“部屋全体の声”だけは、
今でも耳に残ってるねん」
そう言って、
彼女は少しだけ遠くを見るような目をした。
喫茶店の静けさの中で、
その記憶だけが妙に鮮明に浮かび上がっていた。




