後輩の物件探し10
俺は間取り図を見比べていたスマホを、ゆっくりと閉じた。
画面が暗くなる瞬間、胸の奥に小さな違和感だけが残った。
「……まあ、今日はここで寝るわ」
後輩は驚いたように目を見開いた。
「え……あ、すみません……
ありがとうございます……」
「いいって。
お前一人でここに置いて帰るほうが気持ち悪いしな」
後輩は引きつった笑みを浮かべたまま、
小さく頷いた。
俺は観葉植物を持ち上げ、窓際へ移動させた。
鉢の底が床を擦る音が、妙に耳に残る。
「とりあえず、こいつは日当たりのいい場所に置いとこう」
「……はい……」
後輩はまだ落ち着かない様子で、
視線が何度も“あの壁”へ吸い寄せられていた。
その夜は後輩の部屋に泊まった。
特に何も起きなかったが、
後輩は寝返りを打つたびに小さく息を呑んでいた。
翌朝。
後輩は仕事に向かい、
俺は一人で不動産屋へ向かった。
店に入ると、担当の営業が気まずそうに笑った。
「ど、どうも……昨日はお電話ありがとうございました……」
「ちょっと間取りのことで聞きたいんですが」
俺はスマホを取り出し、間取り図を見せた。
営業は図面を見た瞬間、
ほんの一瞬だけ表情を固くした。
だがすぐに、作り笑いを貼り付けた。
「え、ええと……まあ、その……
図面って多少ズレたりすることもありますしねぇ……」
声が上ずっている。
「多少どころじゃないですよね。
ここ、実際より壁が“増えてる”んですよ」
営業は視線を逸らし、
机の上の書類を意味もなく整え始めた。
「えー……まあ……
建物って、実際に建てるときに微調整が入ったり……
そういうの、よくあるんですよ。はい」
「微調整で“壁が増える”ことあります?」
営業の手が止まった。
呼吸が一瞬だけ詰まったように見えた。
「い、いやぁ……その……
構造上の問題とか、耐震とか……
そういうので、後から壁を追加することも……
まあ、ゼロでは……」
「じゃあ、その“構造上の理由”を教えてくださいよ」
営業は露骨に顔をしかめた。
目が泳ぎ、椅子に座り直し、
ペンを指でカチカチ鳴らし始める。
「いやぁ……あの……
ちょっと、私のほうでは分からないというか……
担当が別でして……」
「あなた、この部屋の担当ですよね?」
営業はピタッと動きを止めた。
その沈黙が、逆に“図星”を物語っていた。
「……ええ、まあ……担当では……ありますけど……」
「じゃあ、説明できますよね?」
営業はため息をひとつ吐き、
まるで“これ以上は本当に言いたくない”というように、
小さく首を振った。
「……あの部屋は……
ちょっと……事情が……」
声が途切れた。
俺はその曖昧な言い方に、
わざと軽い調子で返した。
「事情って……どんな事情です?
少しでいいんで、説明してもらえます?」
営業の肩がピクリと跳ねた。
明らかに嫌がっている。
「い、いや……その……
本当に……大したことじゃ……」
「大したことじゃないなら、言えますよね」
営業は視線を机に落とし、
書類を意味もなく揃え始めた。
その手つきが落ち着かず、
ペンを持つ指が微かに震えている。
「……あの部屋……
以前、少し……トラブルがありまして……」
「トラブル?」
営業は唇を噛み、
しばらく黙ったまま動かなかった。
「……入居者の方が……
“音がする”って……何度か……」
俺は眉をひそめた。
「音?」
営業は頷きかけて、慌てて首を振った。
「い、いや……その……
壁のきしみとか……配管とか……
そういう類いの……ええ……」
言いながら、
自分でも無理があると分かっているような声だった。
「で、壁を……その……
補強したんです。
はい。補強です。
だから……図面と違うのは……その……」
「補強で“壁が増える”って、普通じゃないですよね」
営業は完全に目を逸らし、
椅子の背にもたれたまま、
天井を見上げるようにして小さく息を吐いた。
「……すみません。
本当に……これ以上は……
私の口からは……」
その怯え方は、
“ただのクレーム対応”のそれではなかった。
営業は最後に、
ほとんど聞き取れないほど小さな声で言った。
「……あの壁は……
触らないほうが……いいです……」
その一言だけは、
妙に重く、
妙に真実味があった。
後輩の部屋の“あの壁”に、
何かがあるのは間違いなかった。




