とある地方での怖い体験 6
縄を掴んだ手は汗で滑り、背後から迫る冷気が皮膚を刺す。女の白い顔がすぐそこにあり、瞳のない穴がこちらを覗き込んでいた。
「……っ!」
必死に縄を引く。
ゴォン……。
御堂に響いたその一打に、女は顔を歪めた。口を大きく開き、声なき悲鳴を吐き出す。肩を震わせ、両腕を痙攣させるように振り乱し、まるで鐘の音そのものを拒絶するかのように。その姿は人ではなく、雪の闇に溶けかけた異形の影だった。
「嫌がっている……!」息を荒げながら呟き、再び縄を引く。
ゴォン……ゴォン……。
二度、三度と鳴らすたびに、女は頭を抱え、雪を蹴り、壁に爪を立てるような仕草を見せた。御堂の灯りに照らされたその姿は、怒りと悲しみが入り混じり、恐ろしくも哀れに見えた。
だが、鐘を鳴らすごとに俺の腕は重くなり、気力は削られていく。呼吸は荒く、膝は震え、縄を握る手が力を失いかける。
「もう……鳴らせない……」
声が漏れる。女はその隙を狙うように、再びこちらへ手を伸ばしてきた。冷たい指先が背に触れようとした瞬間――
ゴォォォン……。
御堂全体を震わせる深い音が響いた。振り返ると、斎服姿の老人が鐘の縄を握っていた。
「よく鳴らしたな。だが、まだ足りん」老人の声は低く、重い。
女はその音に打たれたように立ち尽くし、口惜しそうに顔を歪めた。そして、寂しげに肩を落とし、雪の闇へ溶けていった。
静寂が戻る。鐘の余韻だけが御堂に漂う。俺は膝をつき、荒い息を吐いた。
老人に一声かけて、車へと戻り、一度エンジンを切り扉を閉めてお礼を行ってから出ようとした時、老人は肩に手を置き、静かに言った。「今夜はここに泊まっていけ。峠を越えるのはもう遅い。御堂なら守られる」
その言葉には儚さと無常さが滲んでいた。俺はただ頷き、鐘の響きに包まれながら御堂の一室へと歩みを進めた。
翌朝。雪は止み、峠の空は澄んだ青に変わっていた。御堂の境内は白く輝き、朝日を反射して眩しく光っている。
御堂の一室に案内されると、簡素ながら温かい朝食が用意されていた。炊き立ての白飯、漬物、湯気の立つ味噌汁。冷え切った体に染み渡るような温もりだった。
「いただきます……」箸を手にした瞬間、老人が静かに口を開いた。
「昨夜はよく耐えたな。鐘を鳴らし続けたあんたの気力が、女を退けた」その声は穏やかだったが、次の言葉は重く鋭かった。
「だが、忘れるな。あの女のことを口にしてはならん。語ればまた呼ばれる。噂話でも、冗談でも、決してだ」
俺は思わず箸を止めた。「……話してはいけない、んですか?」
老人の目が鋭く光る。「いけない。峠の女は“語り”によって形を得る。人の口が呼び戻すのだ。昨夜消えたのではない、眠っただけだ。語れば再び立つ」
その言葉に背筋が凍る。御堂の灯りに照らされた老人の横顔は、雪の闇に溶けていくように見えた。
「分かりました……絶対に話しません」俺は深く頭を下げた。
老人は頷き、少しだけ柔らかな声で言った。「それでいい。ここを出れば、もう女は追ってこない。だが、峠を越えた先で軽々しく口にすれば、また呼ばれる。忘れるな」
食事を終えると、老人は境内の端まで歩み寄り、手を振った。「気をつけて行け。御堂は人を守るためにあるが、守りきれぬものもある。あんたの口と心が、次を決める」
俺は車に乗り込み、エンジンをかけた。雪を踏みしめるタイヤの音が響く。バックミラーには御堂の灯りと老人の姿が小さくなっていく。
峠を抜ける道は静かだった。だが胸の奥には鐘の響きと女の寂しげな顔、そして老人の強い忠告が、いつまでも余韻のように残っていた。
これで1つの締めくくりとしてますがもしかしたら後日譚を書くかもしれません




