懐中時計の記憶 後日譚
オーナーが懐中時計を両手で包み込むように受け取ったあと、
店内にはしばらく静かな余韻が漂っていた。
俺は深く頭を下げ、
静かに時計屋を後にした。
扉を閉めた瞬間、
店内の空気の重さがふっと遠ざかり、
外の風がひんやりと頬を撫でた。
オーナーは最後まで、
「購入金額を……」と申し訳なさそうに言っていたが、俺は首を振った。
「いえ……お金で買うっていうのは、なんか違う気がして」
そう答えると、
オーナーは胸に懐中時計を抱えたまま、
深く礼をしてくれた。
その姿を背に、
俺はゆっくりと帰路についた。
昨日聞こえた「ありがとう」の声が、
まだ耳の奥に残っているような気がした。
その夜は、
いつもより早く布団に入ったのに、
翌朝はなぜか目覚ましよりずっと早く目が覚めた。
胸の奥に、まだ昨日の余韻が静かに残っていた。
会社に早めに出勤すると、
ちょうど後輩と顔を合わせた。
「懐中時計、持ってないんすね?」
何気ない一言だったが、俺は少し笑って答えた。
「あぁ、あれは……俺にはまだ持つのは早いかなと思って。
人に譲ったよ」
後輩は興味なさそうに「そうですか」とだけ返し、
それ以上は何も聞いてこなかった。
その無関心さが、
逆に昨日の出来事の特別さを際立たせた。
仕事を終えた帰り道、
ふと足があの骨董品屋へ向いていた。
昨日の店主の笑顔が、どうしても気になった。
だが、
店の前に立った瞬間、
胸の奥がひやりとした。
暖簾はなく、扉も閉ざされ、
中は空っぽの空き家になっていた。
埃っぽい匂いが風に混じり、
昨日のあの柔らかな空気はどこにもない。
まるで最初から、
そこには何もなかったかのように。
けれど、不思議と恐怖はなかった。
むしろ、
あぁ、やっぱりそういうことか
と、静かに納得している自分がいた。
昨日の出来事は、夢のようで、でも確かに手触りのある現実だった。
懐中時計が本来あるべき場所へ戻ったこと。
あの声が「ありがとう」と言ったこと。
そして、今日ここが空き家になっていること。
全部が一本の線で繋がっているように思えた。
俺はしばらく空き家を見つめ、
やがて小さく息を吐いた。
不思議な体験だった。
でも、どこかで“こうなる”と分かっていた気もする。
大切な品を、
本当に必要としている人のもとへ届けられた。
その満足感が胸の奥にじんわりと広がった。
帰り道、夜風に吹かれながらふと思った。
こんなことがあるから、骨董品集めは辞められない。
古い物の向こう側にある、人の想い、時間の流れ、
そして時々顔を出す“縁”。
それがたまらなく愛おしい。
俺は少し笑いながら、ゆっくりと家路についた。




