とある地方での怖い体験 4
その日は朝から町を歩き回った。雪景色の中に佇む古い神社、地元の人しか知らない小さな温泉、そして雪に包まれた城。石垣の上に積もる白雪は静かで、まるで時間が止まったように見えた。観光客は少なく、城下町の通りもひっそりとしていて、ただ雪の音だけが響いていた。
どこも温かく迎えてくれて、昨日の居酒屋で聞いた怪談など忘れてしまいそうになるほどだった。だが、夕方になり町を離れる時間が近づくにつれて胸の奥に重いものが戻ってきた。
峠を越える決意をしたことを思い出したのだ。
最後に寄ったお土産物屋。暖簾をくぐると、そこに昨日忠告してくれた老人が立っていた。まるで待っていたかのように。
「……来たか」
老人の声は低く、雪の夜の静けさを思わせる。
「ええ、もう出発しようと思って。峠を越えて隣県へ」
俺が答えると、老人は深くため息をついた。
「まだ決めたか。あんたは行くんだな」
「はい。怖い話だとは思いますけど……噂だと思ってます」
老人は首を横に振った。
「噂ならいい。だが、もし振り切れなかった場合――女が近づいてきて、どうしても逃げ切れないと感じたら……」
俺は息を呑んだ。
「……どうすれば?」
「車を走らせ続けろ。峠を抜けた先に小さな御堂がある。そこに駆け込め。御堂の中には古い鐘がある。鳴らせば、女は入って来られん」
「御堂……鐘……」
俺は繰り返すように呟いた。
「忘れるな。止まるな。振り返るな。もし女が立っていても、見なかったことにしろ」
老人の目は真剣で、まるで俺の運命を見透かしているようだった。
「……分かりました」
そう答えながらも、心臓は早鐘のように鳴っていた。
老人は最後に一言だけ付け加えた。
「御堂に辿り着けるかどうかは……あんた次第だ」
その言葉を背に、俺は車に乗り込んだ。
エンジンの音が雪の静けさを破る。ハンドルを握る手は汗ばみ、胸の奥では老人の言葉が何度も反響していた。
「御堂……鐘……止まるな、振り返るな……」独り言のように繰り返しながら、町を離れていく。
夕暮れの雪道は、次第に人の気配を失っていった。商店の灯りも消え、街灯も途切れ、やがて車のライトだけが白い世界を切り裂いて進む。
山へ近づくにつれ、道は細く、雪は深く、音は消えていく。
タイヤが雪を踏みしめる音だけが、妙に大きく響いた。
「……本当に行くのか、俺は」心の中で何度も問いかける。
遠回りすれば安全だろう。
だが、なぜか無性に峠を越えなければならない気がする。
まるで峠そのものが俺を呼んでいるように。
やがて、峠の入り口に差し掛かる。
木々は黒い影となり、雪の中で揺れている。
空はすでに暗く、車のライトが闇を切り裂き、白い雪を照らす。
峠道は細く、両脇の木々は黒い影となって迫ってくる。
タイヤが雪を踏みしめる音だけが、世界のすべてのように響いていた。
「……石碑は、この先だ」
独り言を繰り返しながら、ハンドルを握る手に力が入る。老人の忠告が頭の中で反響する。――止まるな。
振り返るな。御堂まで走り抜けろ。
やがて、視界の端に黒い塊が見えた。
雪に半ば埋もれながらも、確かにそこにある。古びた石碑。
ライトがその表面を照らすと、刻まれた文字は雪に覆われて読めない。
だが、そこに立つだけで異様な存在感を放っていた。
「……これか」息を呑み、速度を落とさないように意識する。
その瞬間…石碑の横に、影が揺れた。人の形。雪にまみれた着物姿。顔は白く、だが目のあたりだけが暗い穴のように沈んでいる。
「……っ!」
思わず声にならない声が漏れる。
ライトに照らされた女は、確かにこちらを見ていた。
瞳がないはずなのに、視線だけは突き刺さるように感じる。
ハンドルを握る手が震える。
減速したい衝動が襲う。だが、老人の言葉が脳裏をよぎる。絶対に止まるな。振り返るな。
女は動かない。
ただ、雪の中に立ち尽くしている。その姿はまるで石碑の影そのもののようで、境界を越えた存在に見えた。
「御堂まで……走り抜けろ」自分に言い聞かせるように呟き、アクセルを踏み込む。
車は雪を巻き上げながら石碑の前を通り過ぎる。だが、バックミラーの奥で女がゆっくりと首を傾けるのが見えた気がした。
背筋が凍りつく。振り返りたい衝動が喉元までせり上がる。だが、必死に視線を前へ固定する。
「振り返るな……振り返るな……」独り言は祈りのように繰り返される。
峠の闇はさらに深く、御堂の存在はまだ見えない。ただ、雪の中で何かが追ってきている気配だけが、確かに背後に迫っていた。




