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「私たちの姿形が仮想から生まれたものだったとして、じゃあ私たちの命や心は、すべてまがいものだと思う?血が流れないものは命ではなくて、涙を流さないものに心はないのかな?」
虫は。花は。海は。大地は。
生きているきみ達は涙を流さない。
握りしめたその手から伝うのはどうしようもない無機質の空白だった。
たとえば僕が千の技術を手にし、万の言葉を尽くしてきみの魂を証明できたなら―――少なくともきみは平らになんてならないのかもしれない。
「どうして人は、命に温もりを求めてしまうんだろうね」
きみの魂を肉付ける方法を、僕はまだ知らない。
『最近会わないね。明日は学校おいでよ』
『待ってるからね』
教室の窓側、自席にて。
同級生の幼馴染から昨夜届いたメッセージを眺めながら、僕はちいさくため息をつく。
学校に来るつもりなんてなかった。けれど、幼馴染の気遣いを無碍にも出来なかった。
結果として僕は今、息苦しさを必死に堪えてここにいる。
梅雨の時期に突入した教室内は空気が沈んで青臭い。
僕はこの季節が苦手だ。それこそ登校する頻度が極端に減るくらいには。
やっぱり来るんじゃなかったな、と心を萎れさせた僕は、自分の席で昼食をさっさと済ませてから窓の方へと顔を向ける。
外の景色に興味があるわけでも、ましてや何か目的があるわけでもない。誰にも僕の存在を気にとめて欲しくないからじっと同じ姿勢でい続けるだけ。
これが僕の、高校三年目の夏だった。
授業開始のチャイムが鳴るまであと30分。その間にここから消えたって、きっと誰も僕を見つけやしない。
いや、あの幼馴染だけは、僕がいなくなった事に気付いてしまうだろうか。
中学生に上がる頃にはほとんど会話なんてしていなかったのに、高校に入って僕の登校頻度が極端に減りだしたあたりからまた話しかけてくれるようになった子だ。きっとほうっておけなかったのだろう。羨ましいくらい正しく生きる、やさしい子だから。
「ふぁ・・・」
ちいさなあくびが僕の口から漏れる。それはまるでトリガーのように、どんどん僕の脳を眠気で満たしていった。いつもならまだギリギリ寝ている時間だもんなぁ、とぼんやり考えながら机の上で重ねた両腕に頭をのせ、瞼を数回のたりのたりと上下させてから・・・ぴったり閉じる。
―――さっきまで何を考えていたんだっけ。
考えれば考えるほど記憶は眠気のモヤに包まれて、ものの数秒で僕の思考は現実を手離した。
―――・・・。
ぱちり。
泡が弾けるような感覚と共に目を開ける。
「・・・え?え、ああ・・・夢か」
一瞬おどろいてしまったが、なんだ。一目で分かるくらい清々しく、夢らしい夢じゃないか。だって、周りの景色がまったく違う。教室とは似ても似つかない場所に僕は立っていた。
そこは奥行きがまったく想像できない白い空間で、床には方眼用紙のような線がどこまでも続いている。それから、小さな小さなシャボン玉のような何かが、この空間のいたるところで円を描きながら飛んでいる。それはどこからともなく現れては、ぱちっと音を鳴らしてバラバラのタイミングで消えていった。
「あれりゃ、めずらしいゲストさんだね?なにやつ?」
当然、後ろから声をかけられてハッとする。どうやらこの夢には僕以外の登場人物もいるようだ。
振り返る。
振り返って、目を見張る。
そこには薄氷の少女が一人、首をかしげてちんまりと佇んでいた。
「・・・ワ。すごい」
僕は思わずほろりと言葉を零す。それは素直な感嘆の言葉だった。何故かって、その少女があまりにもうつくしかったからだ。
ふり積もった雪の中のような水色が淡く透ける髪。
光をめいっぱい吸い込んでキラキラ反射するまあるい両目。
つるりと輝く雪を欺く肌。
どこもかしこも、触れたら溶けてしまいそうだ。
僕は今までこんなにもうつくしいものを見たことがなかった。
少女は一言だけ呟いて何も言わなくなった僕を不審に感じたのか、眉を下げて口元に手を当てる。
「もしかしてバグってやつ?」
「いや・・・僕は・・・」
バグと言われて、そこでようやく気がついた。僕の体にはどういうわけかところどころにグリッチエフェクトのようなものが発生している。なるほどたしかに、アニメなんかでよく見る典型的なバグらしい見た目じゃないか。この少女が不安そうな顔を浮かべるのも無理はない。
いやしかし。それでもこれは僕の明晰夢なんだから、僕に都合のいい解釈と思考に合わせてもいいだろう。
「僕はバグじゃないよ。僕は・・・ユウ。そう、ユウって名前だ。」
僕がそう告げると、少女はそのまるこい目をぱちぱちとはためかせ、それからゆるりと目尻を落として笑った。
「素敵な名前だね。私は雫ツイ!あ、もしかして新人さん?なあんだ、緊張してたんだね!」
「・・・新人?いや僕は・・・えっと、何の新人?」
「そんなのもちろん、バーチャルライバーだよ」
「バーチャルライバー」
復唱。脳内で反芻。理解。
なるほどこれはそういう設定の夢だったのか。
あまり造詣に深いわけではないが、流行りのコンテンツが故にその存在くらいは僕でも知っていた。
バーチャルライバーとはたしか、多種多様なキャラクターをLive2Dや3Dで作り上げ、それを配信者の姿として出したうえで配信活動を行っている存在だ。
それならばこの少女―――ツイの容姿がこれだけ優れているのも納得できる。
なろうと思えば人型だけでなく人外にだってなれるのがバーチャルだ。それこそ奇跡のような少女にだって、なろうと思えばなれてしまう。
僕だって出来ることなら自分ではない何者かになってみたいものだ。いっそコレらのように、自分ではない誰かを作りあげて、それが自分だと言い張ってしまえたら、どんなに生きる事が楽になるだろう。
だがしかし。結局、何になったって僕の魂は変わらない。僕は僕を、自分という存在をいつだって根こそぎ否定している。
だから―――。
「違うよ。僕はバーチャルライバーじゃない。ここは僕の夢の中で、きみは僕の脳が創りあげた登場人物だ。すべて現実逃避のなれの果てだ」
自分で否定しているくせにいたたまれなくて、ツイの顔が見れない。たとえ夢だとしても、自分の存在を否定される辛さを僕は知っているから。
だから勝手なことは承知で、それでもどうか悲しまないでほしいと願った。
「きっと、運命の電子糸が繋がったのかもね」
「・・・え?」
ツイのちいちゃな口からぽつりと落とされたその言葉の意味が分からなくて、反射的に顔を上げる。
いつの間にこんなに近くにいたのか、僕の視界いっぱいには薄氷色から零れだす淡い輝きがキラキラと広がっていた。
「ねぇ、きみがここに来たのは運命ってことにしよう。私はユウがどうしてそんな顔をしているのか分からないけど、きっと神様がユウをいっぱい笑顔にしてあげて!って、私にまかせてくれたんだと思うの!」
「・・・そんな顔って?」
「うーん。迷子なのに誰にも見つけてもらえないって顔かな」
「僕そんな顔してるかな・・・それになんで無関係のきみが任されるの」
「だって私はバーチャルライバーだから!皆を笑顔にして私も笑顔になるのが、私の生まれた理由なの!」
息をのむ。それがあまりにも真っ直ぐな輝きだったから、逃げることも隠れることもできなかった。否定した気持ちや言葉がほろほろと崩れて、心のやわらかい部分が照らされてしまう。
「あ・・・でももう時間みたいだね」
「え?」
眉を八の字にしたツイが僕を指さす。その先を辿れば、色を失い透明に変わっていく僕の手のひらがあった。
指先はほとんど消えかかっていて、光の反射でかろうじて形を感じることができる。
「またね、ユウ。私はいつでもここにいるよ」
「また・・・同じ夢を見れるといいな」
やがて僕の体はすぅーっと色を失い風景に溶けていく。足元からは泡が生まれ、無数の透明とぶつかり合い、光に反射して輝く世界の一部になる。
そうして僕のこの体は夢のようにあっけなく、そしてむなしくなるほどに清々しい速度で、跡形もなく消えてしまった。
「あ。流星ったら、やっと起きた」
「結・・・?」
今日はイヤというほど嗅いだカビ臭い教室の匂いが鼻腔をぬるく刺激する。何やら聴き慣れない楽器の音が響いているが―――時計を見て、たった今その音が吹奏楽部のものだと分かった。いつの間にこんなに時間が経っていたのか、時刻は十七時前。
そして、すぐ隣には見知った顔。
どうやら僕は夢から覚めたようだ。
まだ完全に開ききっていない目をかしかし擦る。僕の顔をのぞき込むようにして座っている幼馴染は、呆れた素振りでため息をついて立ち上がった。
「もう授業も終わったしみんな帰っちゃってるし、そもそも今日来てたの知らなかったよ。なんで一言くらい連絡くれないかなぁ」
「あ・・・昨日のメッセージに返信しようと思ってはいたんだけど色々考えごとしてて、その・・・ごめん」
モソモソと口の中で言い訳の言葉を探して、結局は結の優しさに不義理で返してしまったという事実だけが見つかった。自分が情けなくて恥ずかしくなる。
「ふふ、もういいよ。私がメッセージを送ったから頑張って学校に来てくれたんだよね」
この幼馴染―――天根結は、優しく息を漏らすようにしとやかに笑う。僕はこの笑い方をされるといつも何となく言葉につまってしまう。
幼馴染でもあり学校の人気者である彼女は僕にとって、良くも悪くも特別な存在だった。いつだって彼女は僕に優しさと正しさを教えてくれる。そしてそれと同じくらい、現実と劣等感を与えてくれるのだ。
「ほら流星、一緒に帰ろ。昔みたいに」
「そうだね。起こしに来てくれてありがとう」
外の空気はすっかり匂いを変えて一日を終えるための準備に取りかかっている。空は黄金と薄い群青が混ざりあっていた。僕はその眩しさから逃げるように灰色の地面へと視線を落とす。
「ねぇ、流星っていつも家で何してるの?」
「別に何も・・・勉強したり配信サイトで動画を見たりかな」
「あー、私も最近よく色んな動画見るよ。実はバーチャルライバーにハマってるんだー」
バーチャルライバー。そういえばさっきの夢に出てきた気がする。断片的にかすかな記憶は残っているのに、あの少女の名前や顔がすぐには思い出せない。
「そういえばね!私が推してるバーチャルライバーの子がね、アイムヒアっていうグループに所属してるんだけどさ。そのアイムヒアっていうのが、すっごくミステリアスで謎だらけなの」
いつもより少し興奮気味に話す結は、声の下から続ける。
「そこに所属してるライバーは全員が正体不明でね、誰ひとり身バレもしてなければアイムヒアに所属する以前の活動歴も何にもないの!」
「?そもそもそういうのってバレるのが当たり前なの?バーチャルなんだから、中身が誰とか分からないものなんじゃないの?」
「うーん、そういう人もいるけど大体はバレちゃうよ。元々別名義で活動してた人が多いし。声とか喋り方とか、あとネットって色々消せないものがあるでしょ?なのによ!アイムヒアには何十人もライバーがいるのに、一人も情報が出てないってかなり不思議でしょ!」
「ふーん」
なんとなく理解はできたが、正直微妙な話だなと思う。せっかく仮想世界で何者かになれたとしても現実を追われてしまうなんて。まぁ結が言うにはそのアイムヒアとやらは、いわば完全仮想集団らしいが。
「ね、ほら見て!これが私の今の推し!」
可愛いでしょ。と誇らしげに見せられた携帯のロック画面には、淡く澄んだ薄氷の少女が写っていて―――「ツイ?」―――僕はさっきまで忘れていたはずのその少女の名前を無意識に口にしていた。記憶の雫が僕の胸にぽとりと落ちる。
「え!流星、ツイちゃんのこと知ってるの?」
何故。どうして先に夢でみた少女が現実に存在しているのだろう。彼女は僕の脳が勝手に作り上げた架空の登場人物であったはずだ。いや、もしかしたら知らないうちにどこかで目に入った雫ツイというバーチャルライバーの記憶が無意識に僕の記憶の底で眠っていたのだろうか。
結は固まって返事をしない僕を不思議そうに見つめ、それから心配そうな表情を作って携帯をポケットの中にしまった。
あの子はたしか、こう言っていたはずだ―――運命の電子糸が繋がったと。それは何を意味しているのか。残念ながら今の僕に分かることは何もない。ただ不思議とこのおかしな偶然に、得体の知れないものに対して人間が本能的に抱くべきであろう恐怖的感情なんかはほんの少しも湧かなかった。それはきっと、記憶の中にいる雫ツイという存在がいつまでも無防備に笑い続けていたからかもしれない。
「あれ?天根じゃん。今帰り?」
「あ、久野くん!私たちは見ての通り下校中です」
僕の位置からはちょうど死角になっていて見えないが、久野というのは中学から一緒の同級生である久野光のことで間違いない・・・おそらく。絶対に。何せ、この春夏の風を想起させる爽やかでよく通る声には良くも悪くも聞き覚えがあった。
久野光は何もかもが格好いい。芸能人みたいに華のある顔を綻ばせるだけでたびたび女子が色めきだつ。そして何より人望があり、常に他人に囲まれていた。僕自身は彼とそこまで親しい間柄ではなかったが、ただ彼がそういう人間で、そしてとてもいい人だという事を知っていた。
彼は孤立していた僕に何度か声をかけてくれた。くだらない噂話をしているところを見た事がないし、率先して人助けをしていた。修学旅行の同じ班に誘ってくれて、結局行かなかった僕にお土産まで買って来てくれた。
彼は本当にいい人だ。
いい人はいつだって損をする。
悪いことなんて何もしていないのに、勝手に他人の不幸を押しつけられる。
彼は僕なんかに構ったから、一生忘れられないであろう傷を負った。
「私たち?・・・あ、降谷・・・・・・久しぶり!」
「ひ、久しぶり・・・」
角からひょっこりと現れた久野は僕の存在に気が付くと一瞬気まずそうに視線をさ迷わせ、それからすぐにごまかすように頭をかいてからニカッと笑った。
それは梅雨を越えた夏の快晴のようだった。
間。
会話が途切れてほんの数秒。
心臓がドッと鳴り、急速に喉が乾いていく。
「ごめん、僕用事があるから、ここで・・・」
恥ずかしくなるくらい下手な嘘だ。二人だってきっと気付いてる。でも二人とも優しい人たちだから、何も言わないでいてくれる。今も気遣うように「またね」と言葉をかけてくれて、でも、その真人間らしさがさらに僕のみじめな部分を容赦なくあぶり出す。心臓が頭の中にあるんじゃないかと錯覚するほど、ドッドッドッという心臓の音が絶え間なく脳を揺らしていた。身体中が熱いのに寒い。
「久野は悪くない・・・誰も悪くない・・・」
―――あの日、久野はぐちゃぐちゃの笑顔で僕に「ごめんな」と言った。本当は泣いて僕を責めてもよかったのに、泣かないように耐えていた。なのに僕は先に泣いて逃げ出した。彼にすべてを押しつけて投げ出したのだ。
僕は、僕は、僕は―――人として正しくなれない臆病者だ。
「学校、どうだった?」
母が笑っている。
僕にやさしく問いかける。
薄暗くて何もない空間に、学校の帰り道で嗅いだことのある匂いが充満している。
母が笑う。笑っている。
―――ということは、これは夢だ。
「どうして何も言わないの?」
違う。何か言いたくても出来ないんだ。頑張っても口が開閉するだけで声が出ない。
「どうして私の役に立たないの。邪魔ばかりするの」
・・・。
「あの人を引き止めるに値しなかった!あの子みたいに優秀ならきっとぜんぶが上手くいっていたのに!」
さっきまでの母の穏やかな笑顔はあんなにぼやけていたというのに、今の顔は鮮明だ。それもそうだろう、僕はその顔ばかり向けられてきたのだから。そのつり上がった目尻にはうっすら涙が浮かんでいる。それでも久しぶりに母の顔を見れたことが、単純に嬉しかった。
「ごめんなさい」
何もかもごめんなさい。
生まれてきたことも、あなた達を繋いであげられなかったことも、ぜんぶ、ぜんぶ、ごめんなさい。
「それは本当に謝るべきことかな?」
「え・・・」
瞬き一回。
それだけで、その一瞬ですべての景色が変わる。
さっきまで僕の目の前にいたはずの母はいなくなっていて、そこには最初からそうであったかのようにツイがいた。ツイは目が合うと顔の近くでピースサインを作ってにっこり笑う。
「また会えたね、ユウ」
「えっ、あ・・・」
ユウという呼び方に聞きなじみがなくて反応が遅れたが、そういえば僕はほんの出来心から彼女に嘘の名前を教えていたんだったか。
「んー?ユウ、どしたの?」
「あ、いや、何でも」
不思議だ。彼女がユウと呼ぶたびに、僕は生まれて初めて味わう感覚に包まれる。それはまるでやわらかな羽毛に全身をくすぐられているような、ざわざわして落ち着かないけれど決して悪い心地のしないものだった。
「き、きみは何者?」
どうして僕の夢に現れたの。
どうして現実にも存在しているの。
どうしてきみは、僕が欲しいものをくれるの。
「超人気バーチャルライバー!」
ツイは自信満々に言いながらもう片方の手もピースにして、僕の頬をはさむようにその両手をグイグイと押し当てた。正直やめてほしいけど、きゃふきゃふ笑うツイが可愛らしく思えて結局されるがままになる。小動物に甘噛みされても怒る気になれないのと同じ感覚だ。
「いや・・・うん、まぁいいや。なんか急に肩の力がぬけたせいでぜんぶどうでもよくなったかも」
「どうでもいいの?」
「うん、もうどうでもいいよ」
どうでもいい。だってここにはもう僕とツイしかいない。正しい幼馴染も気まずい同級生も、憐れな母もいない。だったら現実のことなんて今はどうでもいい。
「じゃあゆっくりお話しようよ。私、雑談得意だよ!」
昼間にも感じていたが、この少女はどうやら些か強引なところがあるらしい。こちらの返事を待たずその場に座り込んで、方眼紙のような白い地面をぺたぺた叩く。僕は促されるまま彼女の隣に座って、それから何を話せばいいのか分からず沈黙した。
「そういえばユウはさっきなんで謝っていたの?」
ツイの目は硝子玉みたいに透き通っている。もしくはこれが飴玉だったら、中にはとろりと甘い蜜が閉じ込められているだろう。
「すっごく悲しそうだった。もう平気?」
僕の肩に添えられたツイの手に温度は感じられない。それでも、なぜかこの手にはたしかな温もりがある気がした。
だからだろうか。僕は誰にも知って欲しくなかった僕の物語を、彼女には聞いて欲しいと思ってしまった。ぐっと堪えなければいけないものを吐き出したくてたまらなかった。
「母さんに謝ってたんだ。何もできないのに生まれてきてごめんなさいって」
ツイは僕の言ったことが上手く理解できなかったのか、不思議そうにこちらを見つめたまま何も喋らない。
「僕はさ、不倫で生まれた子どもなんだ。僕の母さんが、不倫相手を繋ぎ止めたくて授かった子なんだ。結果は母さんが捨てられて、僕には何の価値もなくなったけどね」
改めて口にした途端、ぐにゃりと視界が歪む。両目が熱くなって、気が付けば頬が濡れていた。
生まれた瞬間から僕の世界を満たしたのは、祝福ではなくどろどろの執着を孕んだ希望だ。そんなのきっと誰も幸せにはなれない。母さんだって真っ当に誠実に生きる道を選べていたらこんなことにはならなかった。他の誰かが傷付く現実は存在しなかったはずだ。
僕は生きているだけで誰かを傷付ける。
僕の命はもう誰にも許して貰えない。
「価値ならあるよ」
「・・・ないよ。あってはいけない」
「お母さんが見出した価値じゃなくて、きみ自身が生み出す価値がある」
「僕自身が?こんな、石ころみたいな僕が何を生み出せるっていうのさ」
「きみの命はきみが生きてこそ輝くの。石ころなんかじゃない、私の目には懸命に生きるその命がキラキラ輝いて見える。もし宝石だったらきっと地球丸ごと買えちゃう値段だよ!だってきみはこんなにも綺麗なんだから。それくらい価値のあるものなんだよ」
そう言ってツイは僕の涙を袖でぬぐい立ち上がる。つられて立った僕の手をひいて、溶けてしまいそうなくらい明るい笑顔で走りだした。
「ど、どこにいくの?」
「ユウを大歓迎してくれる皆のところ!」
走って走って走り続ける。どこに行くのかも分からないのに、不思議と何もかも大丈夫な気がした。この子が導く先はきっと明るくてあたたかい場所なんだと信じられる、ツイにはそう思わせてくれる力がある。
やがてがむしゃらに動かし続ける足元に違和感を覚え視線を落とせば、そこには無数の色とりどりな光の粒が川のように流れだしていた。それは僕たちの周りを循環しては増殖をくり返し、途方もなく埋めつくす。目を開けていられないくらい強い輝きの中でお互いの姿が視認できなくなっても、それでも僕は走り続けていた。繋がれたこの手だけを信じて、膨大すぎる光に身を委ねたのであった。
「ここだよ!」
途端、視界を埋めていた輝きは一斉に弾け飛ぶ。
音や衝撃のない花火の中心にいたらこんな感じなんだろうか。ぱらぱらと光の残滓が下へと落ちて儚く消える。
やがて視界が開けて―――そこに広がっていた光景に思わず目を奪われた。
黎明の空、雲の切れ間から淡い光線が柱のようにまっすぐ下へと降り注いでいる。その光に照らされて色を変える木々や、反射してゆらめくエメラルドグリーンの水辺は、神々しさを感じるほどの瑞々しい色艶をめいっぱいに含んでいた。上を見上げると、光る鱗を落としながら泳ぐ魚の群れや、雲の子どものような眠り羊が浮かんでいる。足元では星が跳ね、花々を輝かせる。そして一際目立つ、天と繋がるほどに背の高い巨木と、それを囲うように重なり繋がり合う白で統一された建物たち。
そこは今まで僕たちがいた平坦な場所とはまったく異なっていて、そして現実世界の景色とも乖離する場所。
僕はこの不思議でうつくしい景色にたまらず驚嘆の息がもれる。
「ここが私たちの配信世界―――〝アイムヒア〟だよ」
「アイムヒア・・・」
その言葉に、ふと結から聞いた話を思い出す。
正体不明のバーチャルライバーグループ、アイムヒア。そして目の前の少女―――雫ツイ。
ここまですべてが偶然だと思えるほど、僕は鈍感ではなかった。ただ、この巡り合わせが何であれ僕にとってこの夢の世界は現実よりもうつくしい。今はそれだけで充分だ。
慣れた動作で進むツイの後を追って長い階段を降りていく。その間にも景色はやわらかな質感で色んな姿を見せてくれる。夢のような夢の中。今の僕はまさに夢心地だった。
階段を降りきった先にある広場まで到着し、そこでやっと少しずつ頭もさえてきたが、内心の興奮は冷めやらないままだ。どこを見たって楽しいなんて初めての経験なのだから仕方ない。
ツイはそんな僕をみて嬉しそうにころころ笑い、一拍おいてから広場に集まっている集団へと声をかける。
「ただいま皆ー!ちょっといいー?」
「ツイ、おかえり。・・・あれ?そっちの子は見慣れない顔だね」
「えへへー、皆に紹介したいの」
「おおん?誰だそいつ」
「新しいライバー?」
「えっとね、紹介するね!この子はユウっていうの。私のお友達だよ!それからユウ、こっちの皆はアイムヒアの仲間たち」
じっとこちらを見つめる男女が一、二、三・・・おそらく十数名ほど。離れたところにも人がいるようなので、全体数はもっといるだろう。みんな個性的な見た目をしているが、中には現実世界にもいそうな普通の装いの人もいる。見た目年齢にはもっとバラつきがあって、ツイよりも小さな女の子から果ては40代くらいのおじさんまで、かなり幅広く多種多様にいるようだ。
「僕は水無月ルイです。よろしくね、ユウ」
ルイと名乗ったその人は、たおやかな仕草で骨ばった手を僕の方へ差し出した。背が高く中性的な美人だ。蜜のようにとろりとした桃花眼に見つめられてドキリと心臓が跳ねる。
「よ、よろしくお願いします」
「次!次俺な!俺は日車ヒナタ!ユウって呼ぶからヒナタって呼んでくれな!」
「え、あ、うん」
横から急に肩を組まれ、さっきとは別の意味でドキッとする。
直射日光のような笑顔の彼は日車ヒナタというらしい。名は体をあらわすとはこういう事か。
ヒナタのオレンジがかった金髪が首にかかって少しくすぐったい。もし彼が動物だったら多分ゴールデンレトリバーとかだろう。
「ヒナタくんは落ち着きがないですねぇ、まったく。私はヴォルフと申します!この子はリルリィ!以後お見知り置きを」
髪の毛をぴっちり七三にまとめたスーツ姿の男性が意気揚々と、すぐそばにいる幼い女の子の紹介まで済ませてくれた。親子なのかと聞けば、二人ともキョトンとした顔で否定する。まるで「何を言ってるんだこいつ」とでも言うような顔は親子のようにそっくりだったのだけど、それは僕の胸の内にしまっておこう。
「さて、時にユウくん。私たちの仲間になるならぜひこの契約書にサインを!大丈夫です、ただのコラボ企画の同意書なので・・・」
「あたしがリルリィでこっちがヴォルフ!よーしく!」
「あ!リルリィ!貴女まぁーた私のセリフにかぶせてきましたねぇ!?んもう!」
「ヴォルフ話ながいんだもん。うさんくさいし」
「キーーーッ」
中性的な美人、陽気な青年、その次はスーツの男性と幼い女の子(辛辣)ときた。
さっきまでは現実世界にいそうな人もいるなんてことを思っていたが、どうやらそれは僕の勘違いだったようだ。皆まるで物語の登場人物のような、キャラクター然とした個性的な人ばかりだった。きっと彼らが現実に存在していたら、僕がこうして挨拶する機会なんてなかっただろう。同じ世界にいたとしても違う世界の住人だったに違いない。
彼らを見ていると、僕の知る現実はますます頭の中で色あせていった。精彩を欠く回顧に胸の空っぽな部分が少しだけ刺激されて、その痛みが広がらないように胸のあたりをぎゅっと掴んだ。
「どうしたの?」
「あ、いえ。すみません」
握手を交わしても、肩を組まれても、やはり彼らには体温が感じられない。
ここは夢の中で彼らはバーチャルの存在という設定だから、何も不自然なことではないのだろう―――ただあまりにも彼らが〝生きている〟ものだから―――それが行き場のない違和感として僕の肩や手のひらに残り続ける。
「なぁなぁ、ユウ!俺もうすぐ配信あるからさ、遊びにこいよ!」
「え・・・ヒナタの配信に?」
「それいいね、見学しようよ!楽しそうだなって思ったら、もうそのままライバーデビューしちゃお!」
「えっと、それは・・・」
これはどうしたものか。ヒナタとツイの明朗コンビにはさまれて、僕になす術などあるはずもない。どうにか話を逸らせやしまいかと脳をフル回転させて考える。
「あー、その、配信って普段どこでするの?」
「どこでも出来るぜ」
こんな風に。と言いながら、ヒナタは親指と人差し指で輪っかを作り、その穴にふぅっと軽く息を吹いた。するとそこから、淡く虹色に光る透明の膜のようなものが溢れだし―――そのまま僕とヒナタの周りを球体となり囲んでしまった。
「えっ、ちょ!」
続いてやってきた急な浮遊感に驚き足元を見れば、すでに球体は地面を離れ、数メートルほどの高さまで上昇しているではないか。下には小さくなったツイがこちらに手を振っているのが見える。
こんな急展開になるなんて思いもしなかった。ちっとも状況が飲み込みきれず、透明な外壁をバタバタと手のひらで打つ。まるで強制連行される罪人の心地だ。
「まって・・・ええ!?」
「大丈夫、ダイジョーブ!配信まであと五分あるからゆっくりしてていーぜ」
「あの、そういう問題じゃなくて・・・」
「中ちょっとごちゃついてるけどごめんな!昨日、ヘビメタ曲縛りで激しい歌枠やったばっかなんだー」
「・・・ここに積まれてる大量のガムテープは何?」
「ノリすぎて物壊した時用に買っておいたやつだな!」
「ええ・・・もう色々不安なんだけど」
「あ、クッションそこら辺にあるから適当に使ってくれな」
「今はクッションより地面がほしいよ」
「あそう?ジュース飲む?」
「話を聞いて」
「エナジードリンクは一日二本まで!」
「共通言語を話してるはずなのに伝わらないのが一番こわい!」
「ぷっ・・・あはは!ごめんごめん。ユウって意外とズバズバ言うタイプなんだな!俺そういうの好きだぜ!」
「は・・・」
ケラケラと笑いながら僕の背中を軽く叩くヒナタはまるでイタズラが成功した子供のようで、その無邪気さに毒気をぬかれた僕は言葉をつまらせてしまう。
ヒナタとの対話は決して不快なものではなかった。その証拠に、僕の体は下にいた時よりもずいぶんとやわらかく解れているのだから。さっきまでの焦りや嫌な緊張感はもうどこにもない。
思えば誰かに対してこんな風にあけすけな物言いをしたのは生まれて初めてのことかもしれない。
先に出会ったツイとだって―――まぁ、かなり情けないところは見せてしまった気もするが―――同年代の友人としようもない話をしてダラダラと時間を潰すような、そんな関わり方はしたことがないと思う。現実でなんてもっとありえない話だ。
陽光がぎゅっとつめられたヒナタの目がまっすぐこちらに向けられている。
僕が目をそらすよりも先に彼が口をひらいた。
「あのさ、もしユウがどうしても嫌だって言うなら今からでも下ろせるから。でもユウ、さっきちょっとだけ暗い顔してたように見えたからさ・・・ホントは配信に参加させるつもりもなくて、ただ俺が配信してる間だけでも一人でゆっくり考える時間ができたらいいかなって思って。もし今、嫌な思いさせちゃってたならごめん!」
勢いよく頭を下げるヒナタにどう答えればいいものか悩んで、とにかく「大丈夫だよ」とだけ告げる。その声はわずかに空気をふるわせただけの弱々しいものだったから、きちんとヒナタに届いたかは分からない。でも、彼は下げた時と同じようにまた勢いをつけて頭を上げて、それから清々しく笑ってくれた。
「あんま遠慮とかせずに、さっきみたいに何でも言っていいからな!友達なんだからさ!」
「うん。ありがとう」
今度ははっきりとした音で言葉を贈る。やっぱり少しは緊張したけれど、ここではっきり返答ができなければ僕に彼らの隣にいる資格はないと思ったから。きっとこの想いや彼のまっすぐなやさしさは風化させてはいけない。
「ねぇ、そういえば配信はいつ始まるの?」
「あ!やっべ忘れてた!サンキュウ!」
「僕、配信中はどこにいれば映らないかな?」
「なんかそのへん!配信スタートぉ!」
「うえ!?」
―――そのへんって、適当にもほどがあるだろう!
僕の心の叫びはすんでのところで喉の奥にしまう。
ヒナタが声をあげたそばからすぐに彼の目の前には大きな窓枠のようなものが出現した。さらに配信部屋である球体の外側にはたくさんの文字が表れ、ぐるぐると円を描くように動きだす。文字を目で追うと、それはどうやらヒナタの配信へのコメントがそのまま反映されているようだった。
「こんヒナ!今日はお悩み相談アンド雑談枠でやってきたいと思います!ヨロシクっ!」
『こんヒナー!』
『始まった!』
『配信うれしい』
『今日もすっごくいい笑顔』
『仕事終わりの癒しだー』
・・・
窓枠の端にある数字が急激に上昇していく。今現在で10,000と書かれているが、まさか視聴者数なのだろうか。だとしたらとんでもない数字だ。そういったものの基準はよく分からないが、開始まもなくこの人数を集められるのなんて簡単にできることではないだろう。
僕はとにかく姿が映らないようにと、すみっこで息をひそめて縮こまる。意味があるのかは分からないが、たとえ夢の中でも配信にのるなんて体験はしたくない。それもこんな大勢の目に晒されるなんて絶対に嫌だ。
「皆は今日どんな日だった?俺はさー、すっげぇいいことあったんだよ!何だと思う?・・・なんと、友達ができました!へへ!」
くしゃっとした笑顔で話をするヒナタの横顔は活き活きとしていて、やはり僕なんかよりよっぽど〝生きている〟ように思う。流れるコメントからは、そんな彼の底抜けの明るさに感化されて気持ちが盛り上がっていく人々の様子が見て取れた。
「お、さっそくお悩みキタ!なになに?〝どうやって友達と仲を深めればいいか分からないです〟かぁ・・・」
ヒナタはたくさんあるコメントのひとつを読み上げて、んーと唸る。それからすぐにパッと顔を明るくし、その文字の羅列を指先で軽くなぞった。
「俺は相手に好きだ!って気持ちを隠さないようにしてる。誰でも人から向けられるのはポジティブな感情の方が嬉しいじゃん?」
たしかに。今日出会ったばかりだけれど、僕は彼から一度もネガティブな感情を受け取っていない。多少強引なところはあれど、彼は人をよく見ている。
常に快晴のような笑顔で、人懐っこい言動で、一ミリも敵意や悪意なんてものを感じさせず。
その徹底ぶりは、彼自身が完璧に日車ヒナタという人物をまっとうしようとする強い気概さえ感じる。
「俺、皆を笑顔すんのがすっげー好きなの。だから友達になりたいって思った奴にはいっぱい笑っててほしい!」
―――だって私はバーチャルライバーだから!皆を笑顔にして私も笑顔になるのが、私の生まれた理由なの!
ありったけの輝きを放つあの笑顔が鮮明に蘇る。瞬間、鼓動がトクンと脈をうった。
「なぁ、さっきコメントくれた人!もしどうしても後ろ向きになっちゃったり踏みだす勇気がでない時はさ、俺のこと思い出してよ!俺はずっとそばにいるから大丈夫。いつだって俺がきみの勇気になる!誰かとの繋がりを大事に悩めるお前のこと、俺は尊敬するし応援してるぜ!」
この配信を見ている顔も名前も知らない誰か。存在するかも分からない、夢の一部の煌めき達。きみたちはきっと幸せ者だ。彼を応援し、彼に応援されている。明るい方へと導かれている。それがどれだけ幸せなことか、暗い場所で身を縮めることしかしてこなかった僕にはよく分かる。
ここが現実で向こうが仮想なら―――そんな空想を思い描いて、僕はすぐにかぶりをふった。
それを望んでしまえばきっと僕は夢にすがってしまい、明日を生きられないだろう。彼らと共に行きたくなるだろう。それはとても寂しくて、後戻りのできない空白だ。
今日ここに来られてよかった。たとえ現実でなくとも、涙をぬぐってくれた子がいる。友達だと言ってくれた人がいる。それだけでもう充分だ。僕は多くを望んではいけない命なのだから。
『アンチ・コル発生、アンチ・コル発生』
『配信外のライバーはただちに避難』
『配信中のライバーはライン防御せよ』
その機械音声が鳴り響いたのは突然のことだった。
避難、防御という言葉に驚いてまわりを警戒すると、いつの間にか赤黒くてドロドロとした何かが僕たちのいる球体の外を覆い隠そうと蠢いているのが見えた。
明らかな異常事態にヒナタを見やれば、意外にも彼は何食わぬ顔で雑談を続けている。未だ鳴り止まない機械音声が反響し続けているが、コメントを見るかぎりではどうやら視聴者にその音声は伝わっていないようだ。
僕はどうするのが正解なのか分からずにただ狼狽えることしかできなくて、赤黒い何かを注視する。
「・・・は?なんだよこれ・・・」
生き物のように見えたそれは、文字だった。
ただの文字ではない―――悪意の羅列だ。
他人を傷付けるために構築された言葉たちだ。
『ただの絵の分際で人気者気取りか』
『首吊って死ね』
『皆お前が嫌いだよ』
『はやく辞めろ』
・・・どれも目をふさぎたくなるような言葉ばかりだ。おぞましい。
僕はそれらを言葉として認識した途端、血管の中を氷水が流れていくような感覚に陥ってしまう。ドロドロと這いずるそれらが不快で仕方がない。逃げ場がなくとも目を覆えばこの不快感も少しはマシになるだろうに、僕の体は僕の意思に反して指先ひとつ動かせやしない。それどころか瞬きの仕方すら忘れたように、ヘドロみたいな悪意の塊を呆然と見つめ続けていた。
『あんたはもう誰にも望まれていないのよ』
僕の脳裏に浮かぶ母の姿。
そうだ、このおぞましいモノは母からもらった呪いによく似ている。あの人が僕を罵るたびに、僕はいつもこうして身を固めて内側のやわらかい部分を守ろうとしていた。遠くの景色を見るように凪いだフリでごまかした。
ドンッ!ドンッ!―――外側から何かを叩きつけるような音が響く。
「ヒナタ!ユウ!無事!?」
ツイの声だ。ドロドロがこの配信部屋を半分ほど覆っているせいではっきりと姿は見えないけれど、どうやら外側にはツイがいるらしい。
「・・・ぶ、無事だよ。それよりこれは一体どういうことなの?」
「ごめんね、じっくり説明してる暇がないから簡単に言うと、今バリアシステムの不具合か何かで外世界からのウイルスが通過してしまって自動削除もされない状態なの!普段はこんなことありえないんだけど・・・とにかく私たちでどうにかするから、ユウはもしもの時にヒナタを手助けしてあげて!」
「え、もしもの時って・・・」
「このドロドロはアンチ・コルって言って、ただの文字じゃないの。悪意が成れ果てた怪物・・・ライバーがこれに汚染されたら廃人になっちゃうらしいの!だからお願い、ユウ!ヒナタを助けられるのは貴方しかいないの!」
「でも・・・そ、そうだ、配信を止めるのは出来ないの?」
「だめ、妨害されてる!」
「そんな・・・」
ヒナタは今も配信を続けている。
もしかしたら本当はたいした事がなくて、取り立てて騒ぐような事象ではないのかも、なんて勘違いそうになるくらい平気な顔で。変わらぬ笑顔で。
でも僕は知っている。いや、知ってしまった。ヒナタは決して明るいところだけを掬いとる人じゃないと。誰かを照らすために、ちゃんと暗い部分から目をそらさない。きっと彼は悲しみも悔しさも知ったうえで笑う人だ。
「分かったよ。僕にできるか分からないけど・・・やってやる」
「ありがとう!無事でいてね!」
ビュンッと空を切る音が聞こえてツイの声が遠ざかる。まだアンチ・コルとやらに覆われていない上部に目を向けると、大きな羽だけが目立つ頭や足のない鳥に乗っかったライバーたちが、武器を手に戦っている様子が見えた。
どうやらこの配信部屋の周囲だけではなく、この世界全体にアンチ・コルが発生しているらしい。
僕に彼らのような武器や知識は何もない。ただ、じっとヒナタの様子をうかがい外側への警戒を強める。
なおも笑顔を崩さずに視聴者とやり取りを続けるヒナタにほっとしたのもつかの間―――ゴウッと唸るような音と共に、僕たちは強い衝撃に襲われた。
「おわ!・・・っとぉ、ごめんごめん!立てかけてたギターが倒れたっぽくてびっくりしちゃったわ!気にしなくてダイジョーブ!いやー、物は大切にしないとな。あはは」
ヒナタの誤魔化しに気づいているのかいないのか、視聴者のコメントは彼を心配するものが増していく。
僕はキョロキョロとあたりを見渡して音の発生源を探り、そしてある一点を見つけた瞬間に、思わずこぼれ出た焦る声を抑えきれなかった。
僕のいる場所からすぐ近く、ヒナタの左後ろの壁にヒビが入っていたのだ。おどろおどろしい化け物のような姿に変容したアンチ・コルが、何度も何度もそこを突いては暴れている。配信部屋の強度がどの程度のものかは分からないが、このままいけばすぐにでもヤツらはそこを突破してしまうだろう。不幸中の幸いは、そこがちょうど配信には映らない位置だったことくらいだ。
「〝自分を愛せないから、そんな風にポジティブにもなれない〟・・・かぁ。んー、よし!どうしたらいいのか一緒に考えるか!」
なんとか持ちこたえているうちにどうにかしなければ、彼の努力が無駄になってしまう。それだけでなく、あの笑顔が失われてしまう可能性だってある。それは絶対に駄目だ。それに、僕はツイと約束した。彼を助けると。ツイは僕を信じたんだ。たとえこれが夢の中だろうと、僕はもう他人の気持ちを裏切りたくない。
ぐっと足に力を込めて立ち上がる。
とにかくやるしかない。
まずは転がっていたガムテープを使って壁を補強する。心許ないうえに意味があるかは不明だが、やらないよりはいくらかマシだろう。補強している間にも化け物は壁を打ち付けている。振動が僕の手のひらを伝い、身体中を震わすほどに響いていた。
「やっぱり、さすがにこれだけじゃ・・・そうだ」
ヒビ割れた壁のすぐ近くにある棚を押してみるが、重くてビクともしない。棚に置かれている物をどかせば多少は動かせるのかもしれないが、そんなことをしている猶予はなさそうだ。
「ぐっ・・・うぅ」
こんなことなら筋力をつけておけばよかった。家で何もせずに時間を消費し続けたツケがこんなところで回ってくるなんて誰が想像できようか。湿り気をおびた手のひらがわずらわしい。視界をさえぎる長い前髪がうっとうしくて乱雑にかきあげる。吹き出す汗もかまわずに一心不乱に力を込め続ける。
ズ、と音がした。ほんの少しだけ棚が動いたのだ―――が、無情にもそれとほぼ同時に壁からバキィッと不穏な音が鳴る。棚ごしにチラつく赤黒い物体。つまりそれは、アンチ・コルが壁を打ち破ったのだと瞬時に理解した。
―――まずい!
もはや棚を動かすことは諦めざるをえない。どうにかしてヤツをこれ以上この中に侵入させないようにしなければ。咄嗟に掴んだクッションで壁の穴をふさぐ。必死におさえつけて侵入を拒むが、隙間から這い出ようとする触手のようなモノを間近に見た僕は全身が粟立つほどの恐怖を感じた。
壁を押さえつける僕の手に、ザワザワと無数の細い触手が絡まる。そしてそれらに触れられた途端、僕の視界には黒いモヤが広がってゆく。
『しようもない命だ』
『いなくてもいい存在』
『誰もお前に愛を与えない。現実は辛いだろう』
『いっそ楽になろう』
右も左も分からない暗闇の中で誰かが囁く。せり上がる絶望感。耳を塞いでも頭の中で反響し続ける呪いの言葉が、誘惑するように僕の思考を撫でつける。
『ほら腕を動かせ。そう、首はそこだ。命の終わり方は分かるだろう?』
まるでそうするのが当然かのように自然と僕の手は自分の首にのびていた。不思議と抵抗する気にならないのは、深層心理にある諦めからなのかマインドコントロールの一種なのか。ひとつ分かることは、意外にも僕の頭は冷静であるということ。
「・・・僕も・・・いつかは、輝けたのかな・・・」
『無理だよ。お前が一番よく知っているだろう?自分につけられた値札が他人を不幸にするということを』
「うん・・・そうだね。やっぱり僕なんて生まれてこなければよかったんだ」
『仕方ないさ、仕方ない。お前の命はもはや罪ではなく罰なのだから』
「じゃあやっぱり、生きることは罪なんだ」
ギリギリと首が締まる。息が苦しくなるほどにモヤが晴れていく。きっと命の終わりこそが禊なのだ。僕が輝く瞬間がくるとしたらそれは、命が破砕され魂が剥き出しになったその時なのだろう。
「輝かない命なんてない」
はっきりと耳に届いたその声はまぎれもないヒナタのものだった。薄暗い場所に陽の光が差したように視界がひらけて、首を締める手の力も少しずつゆるんでいく。
「ここにいる皆も、俺自身も、生きて生きて一生懸命に生きていれば、いつかきっと誰かを照らす光になれる。俺はそう思う。そう信じてる!そんで、俺が一生懸命になれるのは皆のおかげなんだ。だから、いつもありがとな!」
たとえそれが僕に向けられたものでなくとも、今の僕にとってはこれ以上ないくらい希望を持つのに充分な言葉だった。熱くなった目頭にグッと力をこめて、それでもこぼれ落ちてしまう涙を拭おうと両目を手のひらでおさえる。
そこでふと気が付く。
まとわりついていたアンチ・コルが僕の体から離れていたことに。
『死ね死ね死ね死ね』
『お前は光になんてなれない、思い上がるな』
『お前が壊れるまで粘着してやる』
僕の脳内を支配していた化け物の声が遠ざかり、配信部屋の周りを流れるコメントの中に醜悪なそれらが増殖する。ヤツは完全にヒナタへと矛先を変えたのだ。しかしヒナタはなおも笑顔で語りかけている。
今度こそ彼を守らなければ。悲しみにのまれて簡単に暗闇の底へと落ちてしまうような僕だけど、僕が僕を愛せないことに変わりはないけれど、それでも。彼らが僕と同じところに落ちてしまうのは嫌だ。
『本当は自分のことしか考えてないくせに』
『心ない偽善者』
『本心じゃ何も感じてない』
ヒナタの目の前に並んだその言葉を見た瞬間。
僕の心臓は爆ぜるように脈動し、頭のてっぺんからつま先までを赤い熱が駆けぬけた。
「ふざけるな!」
僕の声に驚いたヒナタがこちらを振り向く。まん丸の目がかすかに潤んでいるように見えた。そう見えただけで、彼は涙を流してなんかいない。でも、泣かないことは心を持たないことの証明ではない。
「ヒナタはやさしくていい奴だ。バーチャルだから何を言われても平気で笑ってるんじゃない、ヒナタは誰にも傷付いてほしくないから笑ってるんだ!心ない言葉をぶつけて平気なお前よりずっとずっと、あったかい心を持ってるんだ!!」
許せなかった。彼のやさしさを侮辱されることも、傷つけるための言葉をぶつけたことも。許せなくて腹立たしくて悔しい。発散しきれない感情が堪えきれなくて体が震える。泣いている場合じゃないと分かっているのに情けなくも涙が止まらない。
思えばあの日もそうだった。
久野が真実を知った日。
僕は真っ先にぐちゃぐちゃな心と言葉を彼にぶつけた。
『きみは僕が逃げ隠れるための暗闇さえ奪うの』
『どうして暴こうとしたの』
『酷いよ、きみは。もうたくさん持っているのに』
―――本当はあんなこと言うつもりじゃなかったんだ。気が動転して取り乱してしまって、それで―――それに何より怖かったんだ。彼が自分の意思で僕を遠ざける結末が、彼に憎まれ否定される未来が。もしもあんなにやさしく正しい人間から責められたら、僕はその場で死んでしまわなければいけないと思ったから。
でも僕のしたことはこのアンチ・コルと変わらない。
そうだ―――この化け物はあの日の僕だ。救いようのない卑劣で最低な臆病者なんだ。
対峙しろ、対峙しろ、目をそらすな。
逃げずに向き合え。
弱さは罪じゃない。
自分の弱さをやさしい人間に押しつける、その狡猾さこそが罪なんだ。
「そんなふうに誰かを落としても、自分が正しくなれるわけじゃない・・・だからもうやめよう。やさしさの上を踏み荒らすのは終わりにしよう」
成れ果ての化け物はふつふつと沸騰するように蠢いている。どう転ぶか分からないその動きが不安で、冷や汗が額を伝った。
まさか手遅れだったか、それとも失敗したのだろうか。
だったらせめてヒナタのかわりに―――そこで、ふとあることに気がついた。
さっきまで蠢くアンチ・コルの動きは怒りに滾っているのだとばかり思っていたが、よくよく観察してみれば、それはまるで苦しみのたうち回っているようにも見える。
が不思議に思った僕が立ち止まっているうちに、やがて視聴者たちのコメントが淡く発光し始めた。
それらはアンチ・コルの黒く淀んだけがれを浄化するように、どんどん強さを増していく。
『ヒナタくんのおかげで生きることが楽しく思えたよ』
『いつも元気と勇気をありがとう』
『だいすき』
―――強く、強く
『俺たちだってずっとヒナタの味方!』
『何があっても皆がついてるからね!』
『ずっとずっとずーっと応援してる』
―――想いは重なり合って
『人生最悪だったときに、ヒナタがいたから乗り越えられた』
『ヒナタのこと信じてるよ』
『いつもヒナタが私たちの心を明るく照らしてくれるから、ヒナタが悲しいときや辛いときは私たちがヒナタを照らすよ』
―――必ず届く。
『大丈夫』
『一緒に輝こう。一緒に生きよう』
―――そこに奇跡を携えて。
「皆・・・ありがとう」
はにかんだように笑うヒナタの顔には、一切の陰りもない。彼らは自らの力で乗りこえたのだとその顔をみたときやっと理解した。
「俺、幸せだ!」
瞬きをするたびにまつ毛の隙間から木漏れ日のような光がゆらめく。ヒナタの言葉が、文字の羅列が、互いに呼応するように煌めく。なんて綺麗なんだろう。なんてあたたかいのだろう。彼らには誰にも汚せない希望があった。それはきっと時間と想いの積み重ねがなし得た絆だ。
アンチ・コルの動きは完全に停止している。光に触れて灰となり消えゆくその化け物の姿は、想像していた最期よりもずっと地味で虚しいものだった。
「・・・次生まれてくるときは、光になれるといいね。君たちも、僕も」
いつかきっと、こんな化け物のような姿になる前に気がつけますように。そして思いとどまれますように。
僕は汚れのいっぺんも残さず風にさらわれた悪意たちの行く末が知りたくて、いつまでも空中を見つめて探し続けていた。
*
「終わっ・・・たぁーー!!」
「一時はどうなることかと思ったけど・・・皆よく耐えたね」
「ええ、ええ!私の活躍は見てましたか皆さん!」
「ううん、ヴォルフはあたしに守られてたのよ。銃の使い方がへったくそなんだもん」
「そ、そんなこともありましたっけねぇ?」
「ふふ、みんなお疲れ様」
花吹雪が空を彩り、そこかしこで歓声があがっている。勝利を祝う声にあふれる中で僕たちは自然と寄り集まって歩いていた。
「ユウとヒナタも無事でほんとによかった!」
「おう!」
「ツイも、お疲れ様」
「ありがと!」
あれから皆の配信は無事に終了し、外でのアンチ・コル駆除も見事完遂されたらしい。つまりは誰ひとりとして犠牲者を出すことなく穏やかに幕を閉じたのである。まさに大団円。これが映画なら、今ごろはハッピーエンドにふさわしい曲と共にエンドロールが流れているだろう。
「いやー、正直やばいって思ってたけど。そうだ、ユウがすげぇ格好よかったんだぜ!」
どこをどう綺麗に切り取ったって、僕はたいして褒められる働きをしていないのだが―――彼のことだ、きっと心から純粋にそう思ってくれているのだろう。こうなると僕はもう何も言えず、ただひたすらに後ろめたい気持ちでいっぱいになってしまう。まるで自分が他人を騙している詐欺師にでもなってしまったようだった。
だって実際、僕が何かをしたから解決したワケでもなく、彼らが掴み取った奇跡の勝利としか言いようのない結末だったのだから。ありていに言えば、最初から僕に入る隙などなかったということだ。
「いや、僕はなにも・・・あ!」
そこでふと立ち止まる。
あの時のことを思い返して―――ある一つの事実を思い出してしまったのだ。
「そ、そういえば、僕!ごめんヒナタ、僕の声が配信にのったよね!?ほんとごめん!ああ・・・どうしよう」
たしかな記憶の中には、腹の底から叫んだ自分がいた。配信にのらないわけがない大きな声だった。僕にしては大きな声だっただけで実は他人からすれば小さなボリュームだったかもしれない、なんてことをわずかに期待したかったのだが、あのときヒナタは驚いてこちらを振り返っていた。それはつまりきちんと届いたというわけで。
「ものすごく申し訳ない・・・大丈夫かな、急に変な声が入っちゃって、みんな困惑してたり」
「あー、それなら大丈夫。俺以外の声は入らないように遮断してあったから!それも妨害されてたらどうしようかと思ったけど、それはなかったっぽいしセーフ!」
「よ、よかった!よかったぁ・・・!」
首の皮一枚つながったとはこのことか。心からの安堵に体の力がぬけて、へなへなとその場に座り込んでしまう。そんな僕をみて皆は驚いていたが、それが怪我や疲労によるものではないと分かるや否や速攻で愉快そうに破顔した。特にリルリィなんかはお腹を抱えて笑っている。指をさすんじゃありません、とヴォルフにたしなめられているが、そう言うヴォルフも口元のニヤつきが抑えきれていない。まぁ、別に悪い気はしないので良しとしよう。
「ユウはいい子だね」
立ち上がろうとした僕に手をかしてくれたルイが、クスクス笑いながら言う。
僕はいい子と言われていいような人間ではないのに。どうしてそんな風に言って、慈しむような目を向けてくれるのだろう。そんな気持ちを抱えながら、しかしそれらが僕の口から飛びだすことはなかった。
なぜかって、ルイの頭を撫でる強さがちょうどいいとか、笑い方が綺麗なこととか、声が落ちつくだとか―――そういう些細な気付きが胸の奥にふり積もって、否定や疑心なんかは根こそぎやんわりと沈められてしまったからだった。
「他に配信していたライバー達も言ってましたけど、緊急アナウンスや被害による騒音などは向こうに伝わっていなかったようですよ。ただ、アンチコメントだけはしっかり配信にのってしまったようです」
「配信中は視聴者さんたちも必死にガマンしてくれてたけど、やっぱり悲しませたよなぁ」
「あとでそれとなくケアしてあげないとだね」
「ケアといえば二人も、しっかり診てもらおうね」
「え?」
「今そのためにメンテナンスラボに向かってるんだよ」
初耳だ。ただ皆に合わせて歩いていたが、どうやら僕とヒナタの健診をするためらしい。最悪の事態が起こる前にアンチ・コルの支配から免れることはできたが、念の為だそうだ。
「そもそもアンチ・コルの被害にあったのってかなり昔だし、データが少ないんだよな。後遺症があるかもわかんないし、ないならないでオッケー!」
「つまりはまぁ、未知なことだらけってワケなのよ」
「そうなんだ。昔も今回と同じような感じだったの?」
僕の問いかけに答える人はいない。ツイだけが、僕と同じように困惑した表情を浮かべていた。
「・・・今回はまだ対応できた方だよ。むしろよく誰も犠牲にならずに済んだと賞賛すべきだ。あれに汚染されたライバーがどうなったのか・・・ユウ、きみはそれを知らなくていい」
それは気遣いからの言葉なのだろう。そしてはっきりと引かれた境界線だった。それが嫌でも分かってしまったから、僕は複雑な気持ちを押しこめるように口をつぐむ。
「それから―――ツイはまだライバーを始めて一年と少しだから詳しくは知らなかったんだろうけど、アレを知識として認識はしていたはずだね?」
「う、うん・・・」
「ライバーでないユウに対応させるのはとても危険な行為だったんだよ」
「あ・・・ご、ごめんなさい!」
サッと顔を青ざめさせたツイが勢いよく頭を下げる。僕としてはそんなに大仰にしなくても、というのが本音だった。とはいえこのまま黙ってツイのつむじを見つめ続けるわけにもいかない。
僕は彼女にどんな言葉をかけるべきかと思案する。
―――たしかに、今にして思えばアレはとても危険な行為だったのかもしれない。ルイの言葉に反発する気はまったくないし、冷静になって考えれば考えるほどにむしろその通りだとも思う。
でもあの時は皆が皆、必死だったのだ。
僕が今さらその危険性を認識したのと同じように、ツイだってすべてを完璧に対処できるほどの余裕はなかった。いっぱいいっぱいの中で必死に考えて自分にできることをしただけ。それだけだ。
それに巻きこまれたとはいえ僕は自分の意思で選択して行動したのだから、すべてツイの責任と言うのは間違っている。もし僕が無事でいられなかったとしても、それは僕のミスだ。
―――と、そこまで思い至ったところで、やっと僕の口は僕の思考を言葉として形造るために動きだす。
「あにょっ」
だしたのだが、人と関わってこなかった分のツケは一朝一夕ではどうにもならないらしい。自分の考えを順序だてて伝えることの難しさを今さらになって噛みしめる。
じとっとした目でこちらを見つめていたリルリィからは小さな声で「シャキッとせい」なんて叱られてしまった。ツイにはぺったりと寄り添っているあたり、この女児は随分と他人の扱いに落差があるようだ。
「次からは絶対に気をつけようね。きみ達に何かあったらと思うと、想像するだけで胸が張り裂けそうになるんだから」
そんな僕たちの様子に、つい先ほどまで真剣なまなざしをしていたルイがふっと力を抜くように眉を下げて微笑む。ツイの背中に手をおいてからゆっくりとさすってやる姿に、いつかドラマで見たやさしい母親役を想起する。
なるほど、水無月ルイという人は、飴と鞭がうまいというか、厳しさの中にしっかりと愛を感じさせてくれる人のようだ。この人と接すると心臓のあたりがむず痒くなるのはそういうことか。
親からの愛情の何たるかを、たぶん僕はこの先もずっと知らないまま生きていくのだろうけれど、ここにいる人たちを見ていると家族にはこういう形もあるのだなと妙に納得してしまう。
「ユウ、本当にごめんね。私そこまで頭が回ってなかった・・・ユウのこと笑顔いっぱいにしたいのに、むしろ逆な目に合わせてしまって」
「そんな、僕は気にしてないから大丈夫だよ。むしろありがとう、その、こんなに素敵な場所に連れてきてくれて」
「ユウ・・・」
薄氷の頬に薄桃色が滲む。ツイが分かりやすく顔を明るくさせたのがあまりにも愛らしくて、僕の言葉がそうさせた事実に口元がゆるんだ。
ツイはいつもまっすぐで嘘がない。彼女の心はずっと等身大で、雫ツイのまま喜んで、雫ツイのまま落ち込んで、雫ツイのまま笑う。そこに欺瞞や見栄なんてないことは明白で疑いようもなかった。
「ツイに出会えてなかったら、僕はそれこそ誰かのために頑張ろうなんて思えない人間のままだったよ。ツイはすごいね、本当に。僕にとってきみは奇跡みたいな女の子だよ」
なんて少し気取りすぎただろうか。普段は絶対にこんなこと言わないけれど、正真正銘これは本心からの言葉だ。
対するツイは、ただでさえ大きな両目をさらに開いて口元をモニョモニョさせている。まるで褒められた喜びを隠しきれていない幼子のような表情だ。僕には妹や姪なんて一人もいないけど、そういう子がいるとこんな気分なんだろうか。
ツイは頬だけじゃなくて顔から耳の先までを桃色に染めてころころ笑う。
やっぱりかわいい。何をしてもきっとこの子はかわいいのだろう。
「ハイハイ、二人とも!目的地はもう目と鼻の先なんですからさっさと行きますよ!」
「ヴォルフってば、自分がモテないからって若者のジャマをするのはいけないことなのよ?」
「カーーーーーーッペ!」
「うわ!なんてヤツなの!」
あはは、というヒナタの笑い声が響く。しばらくすればルイがやれやれといった様子で彼らの喧騒に介入し、慣れたようにあっさりと収拾をつける。おそらく彼らの日常はいつもこんな感じなのだろう。それはとても楽しそうで、そしてあまりにも僕の知る現実からは遠かった。そのいっそ清々しいほどに完璧な光景はどこをどう切り取っても輝いて眩しくて、羨ましいと思うよりも素晴らしいと感じてしまう。
要するに、僕には不釣り合いのワンシーンだ。
「さ、ここがメンテナンスラボだよ」
たどり着いたのは大きくて白い、大聖堂によく似た建物。
ラボなんて言うものだからてっきり漫画でよく見るような研究室を想像していたけれど、およそラボという呼び名にはふさわしくない壮麗な外観だ。
内装もやはりというか、教会らしい造りとなっている。長く続く床部分には水が張られていて、身廊部分にのみステンドガラスでできた足場が設けられていた。水に反射したステンドガラスの彩りがユラユラと揺蕩っている。
ますますラボという言葉からイメージされるものが遠ざかっていくけれど、ここにいる人たちがこの建物をラボというのなら誰が何といおうとラボなのだ。チャーチでもチャペルでもない。
「おや、皆さんお揃いで」
バシャバシャと音をたてて水がはねている。最初は水そのものが喋っているのかと思ったが、どうやら違うらしい。とぷんと水のかたまりが抜け出して、僕たちの足元へ素早く移動する。変形、変色していく水。それはみるみるうちに猫の姿へと変わっていった。
「ねこだ・・・」
「この子はニャルガー。アイムヒアのライバーで、このメンテナンスラボの番犬ならぬ番猫だよ」
「どうもはじめまして様、お名前を伺っても?」
「あ、僕はユウです。えっと、きみもライバーなんだね・・・さっきのはどうなってたの?」
「さっきのとは?」
「水になってた」
「ああ、猫は液体なのです。常識でしょう」
猫に常識をとかれてしまった。たしかに猫は液体と言われるほど体がやわらかい生き物だと聞くけれど、ここまで本物の液体になれるなんて常識は残念ながら知らない。
猫を飼ったことも触れる機会もなかった僕は、くたくたでやわそうな体に触れるのが何だかこわくて、ニャルガーと握手する瞬間は今までにないくらい慎重になってしまった。
「雨露さんはいる?」
「いますよ、ほらあそこに」
ニャルガーがピンク色の肉球がついた前足でラボの奥をさす。そこには大きな講壇らしきものがあり、どっしりと重たい存在感をはなっていた。
「おはようございます、ライバーの皆さん。そしてユウさん」
その講壇の下―――僕たちの死角となっていた場所から登場したのは一人の男であった。のっそりと重たそうな動作で講壇に手をついて立ち上がるその人は、どことなく他の皆とは違う異質な雰囲気をまとっている。
どこがと言われると説明のしようがないが―――失礼ながら、この場にいる人たちの中ではいちばん自分に性質が近いような気がした。それは本能的直感であった。
「ここに来た理由は分かっているさ、見ていたからね」
プツ、とテレビの電源がつくような音がして、彼の背後に多数のモニターが出現する。そこにはこの建物の外の様子が映し出されており、彼の言い分と合わせればつまりそれは監視カメラのような使われ方をしているのだろう。
「雨露さんはここの最高責任者代理で、僕たちが窓の外の世界へ干渉する技術を開発した偉い人だよ」
「ぜひ気楽に接してくれ、ユウさん」
「よろしくお願いします、雨露さん」
不思議と緊張感はない。なんならニャルガーの小さな手を握ったときの方がよっぽど緊張したと思う。
挨拶が終わってすぐ、雨露さんはパリッとしたワイシャツの上によれて形のくずれた白衣を羽織り、パサついた髪を長い前髪ごとひとつにまとめあげた。
「さ。ユウさん、ヒナタさん、ここに座りなさい」
「うーい!」
言われるがままに従って、講壇の前にある赤い木製の長椅子にヒナタと並んで腰かける。前方には大きな大きな鏡。周りのモニターには相変わらずアイムヒアのうつくしい景色が映し出されている。それらは絵画のようで、そして僕たちは敬虔な教徒のようだった。
「あなた達の身体に異常がないか調べるから動かないでくれ。ニャルガー、膜を」
「アイアイニャー」
ニャルガーが宙を舞い、上空で一回転。半透明になった体で僕とヒナタの周りをぷるんと囲いこんだ。猫ゼリーの完成。これはまたなんとも、かわいい。
「これは?」
「建物や物と違って人は複雑だから、ニャルガーの透過スキャンシステムを使うんだ。それに万が一バグが発生したら他を侵食しないようにそのまま閉じ込めておけるしね」
それっきり、雨露さんは何も言わずキーボードを操作し始める。何やら小難しい文字列で埋め尽くされた小さなモニターにのみ目を向けて、ついぞこちらには一度も視線を寄越さなかった。
「なぁユウ。改めてさ・・・さっきはほんとにありがとな」
「え、何が?」
ヒナタが神妙そうな面持ちで話し始める。言っちゃ悪いが、彼がシリアスな顔を作っても大型犬が真顔になっているようにしか見えない。
「アンチ・コルが発生したときのこと。俺のためにあんなに怒ってくれたの、本当に嬉しかったんだぜ。後ろには俺のために声あげてくれる友達がいるんだ!って思えたからまたまっすぐ前を向けた。そんで前を向いたらリスナーのあったかい言葉が今まで以上にはっきり見えるようになったんだ・・・ユウの言葉が俺の視界を晴らしてくれたんだと思う。だからありがとう!」
「そんな・・・えっと、いや」
そうか、彼は僕が何か役に立ったからああ言ってくれたんじゃなくて、僕が行動したことそのものを讃えてくれていたんだ―――心臓の裏をくすぐられているような感覚に、今度は後ろめたい気持ちじゃなくて純粋な気恥しさから何も言えなくなった。
「これからもずっと友達でいてくれよな!」
「・・・うん」
目頭が熱くなって、誤魔化すように前髪を触る。
現実ではありえない言葉を受け取るのが苦しかった。
「そうだ!あのさ、これ終わったら皆で花火しよーぜ。ツイやリルリィが手持ち花火だいすきでさ、よく皆で遊ぶんだ。せっかく友達になれたんだしユウとも夏の思い出を増やしてぇ!」
今思いつきました!とでも言うような声色だ。いやしかし、彼からの突然な提案は今に始まったことではない。
配信部屋に拉致された(語弊のある言い方だが、あのときの僕は真剣にそう思った)あのときに比べれば、むしろ前後の緩急がゆるやかで理解の追いつく提案だった。
「うん、いいね。花火」
「ユウも花火すきか?」
「うーん、どうだろ。嫌いではないよ」
「打ち上げ花火と手持ち花火はどっち派?俺は打ち上げ花火の方がドーン!バーン!って感じで好きなんだよなぁー」
「はは、ヒナタらしいね。僕は・・・手持ち花火かなぁ」
―――嘘だ。本当は手持ち花火なんてしたことがない。打ち上げ花火だって、テレビのニュースで花火大会の様子を見たことはあるけど、それだけだ。本当にそれだけ、それっきりの、向こう側の景色。
「手持ち花火って、打ち上げ花火よりも寂しいよね」
「寂しい?あぁ、地味ってこと?」
「いや・・・」
夜空に咲く大輪は壮大で、大勢の人たちの記憶に深く鮮烈に残る。そのくせ遠くて大きいから、そのうつくしさを手に入れることは出来ないのだと否応なしに思い知らされる。
かたや手持ち花火は目の前に、すぐ手の先にあるというのに、いっとう綺麗なところにはやっぱり触れない。むしろ無理に触れようとすれば傷を負ってしまうぶん、もっと残酷だ。
「打ち上げられたものとは違って自分のすぐ近くにあるのに、その綺麗な部分には触れないでしょ。近いのに遠いって、何よりも残酷なシチュエーションだと僕は思うから。だったらいっそ遠くで咲いて落ちて、自分の知らないところで消えてほしいのになって」
なぜか今、僕の頭には花火よりもたった一人の少女が色濃く鮮明に浮かんでいる。
バーチャルは永遠だ。けれど現実から見える彼女らは酷く儚い。そこに血の通った意思があるならなおさらだ。僕があの子の体温を感じられないように、仮想と現実は深い部分で交わることが出来ない。いっそ花火のように触れるたび深い火傷を与えてくれた方がまだマシだった。
透明な膜ごしに見えるツイは酷くうつくしい。
ほとんど無意識のうちに伸ばしていた僕の手は彼女に届くことなく、隔てる透明に触れた。
「んー。俺は難しいことよく分からんけど、そういえばツイも似たようなこと言ってたなー」
「え?」
「なんだっけ―――遠くで輝くよりも近付いた方が誰かの足元まで照らせるとか―――あれ?いやこれ花火のときの話じゃなかったっけ?ごめん、忘れちゃった」
ふっと影が重なって前を向けば、向こう側にいるツイが僕の手に自分の手を合わせるようにして膜の上を撫でていた。澄みきった湖のような目と視線がぶつかる。温度のない透明がふわりと波打って、凪いだ。
彼女は口をぱくぱくと動かして何かを伝えようとしている。一度ではうまく聞き取れなくて首をかしげてみせても、ツイは無垢に笑うだけだった。
それだけのことで、僕の胸に灰色のモヤが広がる。
花火の話なんてしたからかもしれない。目の前にいるはずの少女が急に遠くの世界にいってしまうことを想像して、それがどうしようもなくおそろしかった。
「なぁに?なんて言ってるの?」
お願いだから答えてよ。
目の前にいるなら、遠くにいるみたいに笑わないで。
〝大丈夫だよ〟―――その声が聞こえたのと同時に、透明の膜がパシャッと音をたてて散らばってゆく。
隔たりを失った僕たちの手はぴったりと重なり合い、そうするのが当然のように隙間なく繋がっていた。触れている手は熱くも冷たくもなくて、きっとこの世界の中で唯一、僕のうるさいくらいに脈打つこの心臓だけが熱をもっているのだろう。
「検査は終わりだ、どこにも異常はないよ。よかったね」
「・・・おふたり様、そういうのはニャルガーを介さずにやって下さい。まったく、ひと昔前の恋愛ソングのMVじゃあるまいし」
猫らしい形に戻ったニャルガーが訝しげな顔で僕とツイを睥睨する。
じわじわとせり上がる熱が頭までのぼってきたところで、僕は俯きながら、お手本のような〝蚊の鳴くような声〟で謝罪の言葉を口にした。今度は心臓どころか身体中が熱くてたまらない。
かたやツイは「そういうの」という言葉にまだピンときていない様子で、僕とニャルガーを交互に見つめる。ヴォルフなんかはニヤついた顔でピューピューと口を鳴らして僕たちを茶化しているというのに、まったく呑気なものだ。かといってルイのように生あたたかい眼差しを向けてくるのも、それはそれで面映ゆいのでやめてほしいけれど。
だけどそれ以上に、この繋いだ手を離すのが惜しいと思ってしまう僕も大概なのだろう。
「なぁー、検査も終わったし今から花火やろうぜ!」
ヒナタの爽やかな風が吹き抜けるような声が、青くて小っ恥ずかしい空気をリセットする。
「いいね!やりたい!」
彼の提案に真っ先にのったのはツイだった。
「ユウとさっきまで話してたんだよな!」
「う、うん」
ツイが両手を上げてはしゃぐ。僕の悶々とした気持ちとは裏腹にあっけなく離れていった手が、頭の上で楽しそうに揺れていた。僕は未練がましくもその手を目で追ってしまっていることに気がついて、それが周りにバレないよう咄嗟に首を横に向ける。
ぱちり。雨露さんと目が合った。
彼は感情の読めない顔を微動だにせず、目線だけを上下にゆっくりと動かす。まるで観察されている動物か何かになった気分だ。
「あの、雨露さんもやりますか?花火」
―――きっと僕の自意識過剰だろう。すぐにそう結論付けて声をかける。
とはいえ、こう言っては何だが、てっきりこの誘いはすぐに断られるだろうとばかり思っていた。それは単純に、雨露さんという人に僕が抱いているイメージ的な話として。けれど意外にも彼は顎に手をあてて一考するような仕草を見せたので、失礼ながら内心で驚いてしまう。
「・・・そうだな、たまには参加してみようか」
「え、雨露さんと一緒に遊ぶの初めてじゃね!?やったー!」
「珍しいこともあるもんですねぇ」
「じゃじゃ、はやく行こうぜ!雨露さんの気が変わる前にさ」
彼らの口ぶりを聞くに、やはり普段は誘いを断る人なのだろう。僕の抱くイメージは遠からずらしい。でもそれならばなぜ急に誘いを受けたのか。気分と言われてしまえばそれまでだけど―――ちらりと雨露さんを見やれば、彼の瞳はすでに僕を写してなどいなかった。空中に置き去りにされたような空っぽの目がただ前に向けられている。
その顔を見て、僕はなぜか彼に母を重ねてしまった。
頭にこびりついた母の顔がゆっくりこちらへ向けられる。雨露さんはこちらを見ていない。母だけが僕にその能面のような顔を向けているのだ。
呼吸が浅くなるのを必死におさえて瞼を閉じる。見なければいい。見えなければいないのと同じだから。見られなければ、向こうにとっても僕はいないもの同然だ。
「ほら、ユウもいこ」
声をかけられてハッとする。いつの間にかこの場には僕とツイ、それからルイと雨露さんの四人だけで、母の影はもうどこにもなかった。
ヒナタたちはどうやら上がり調子なテンションのまま先に行ってしまったらしい。前方に見える彼らの背中はもうあんなに小さい。
「皆と一緒に先に行かなかったの?」
「私がユウと一緒に行きたかったから」
「―――。」
キュッとしまる喉から嗚咽まじりの声が出てしまわないよう、深く息を吸う。
疑いも迷いもなく手を差し出して笑う、この子のこういうところが好きだ。一点の曇りもない無邪気さで心の内にこびりついた孤独を晴らしてくれる。出会ってからの時間は短くとも、僕は雫ツイという少女を好ましく思っていた。それが恋愛なのかと問われれば、正直なところよく分からないというのが真実だ。ただ、この子が幸せになるためなら僕はもう何だってしてやれる気がする。それくらいこの子がかわいくてかわいくて仕方がない。そういう〝好き〟だ。
僕はツイの手をさっきよりも強く、離れないようしっかりと握り返す。それから歩幅を合わせてゆっくりと歩きだした。
*
「みんな揃ったな?じゃあ火ぃつけるぞー」
ヒナタの号令を受けてリルリィが手をかざすと、全員の花火がバチバチ音をたてていっせいに点火する。さっきの動作を見るにおそらくリルリィが火種なのだろう。それが手品なんかではないことも、この世界ではこういう不思議な力が当たり前にあるものだということも、僕はすでに十二分に理解していた。
しかし、理解していることと感動の有無は別である。
すごいものはすごいし、非現実は非現実だ。
「わぁ、チャッカマン要らずだ。すごいね」
「ふふんっ!何を隠そうあたしは炎から生まれた精霊なのだから、これくらい朝食後だわ」
「おしい!朝飯前ですよ。食べ終わっちゃった」
「そっかぁ・・・炎の精霊ときたか」
幾重にも重なる光線のようになって飛び散る火は激しく色を変えていく。それはシュワシュワと音をたてて、はしゃぐ声に調和し混ざりあう。ただ弾けるだけの火がこんなにも綺麗だなんて知らなかった。
隣で花火に夢中になっているツイが綺麗と呟く。僕はそう言う彼女の横顔の方が、何十倍も綺麗じゃないかと思った。それこそ精霊とか妖精とか、そういう人外めいたうつくしさを、彼女からは感じるのだ。
そこでふと、軽い疑問が頭をよぎる。
リルリィが精霊だとするならば、他のみんなも何かしらの特殊性を持ち合わせているのだろうか。パッと見だとスーツ姿のヴォルフと白衣にワイシャツの雨露さん以外は皆とても派手な容姿で、言ってしまえばたいへん個性的な格好をしている。
「ねぇ。みんなも精霊とか、そういうのだったりするの?」
「ううん、みんなじゃないのよ。ヒナタは音楽とゲームが好きな高校生、ルイは性別不明の芸術家で、ヴォルフはただの七三だから、三人は普通の人よ」
相変わらずリルリィのヴォルフに対する辛辣さは切れ味がするどい。離れた場所にいたヴォルフは耳ざとくその言葉を聞き取って、リルリィに苦情を申し立てていた。僕は苦笑しながら続ける。
「じゃあ、ツイや雨露さんは?」
「雨露さんは・・・わかんない。たぶんニャルガーすら知らないんじゃないかな?雨露さんってあんまり自分の話しないから」
次の疑問に答えてくれたのはツイだった。リルリィはヴォルフに顔をみょーんと引っ張られていて、喋れる状態ではなさそうだ。
「じゃあ、ツイは?」
そこでひと足早くツイの花火が燃え尽きる。彼女は黒く焦げついたその先を目を細めて眺めながら、水のはられたゴミ箱へと突っ込んだ。
「当ててみて」
ツイが新しい花火を選びながらこちらをふり返り、にんまり笑う。僕がツイに関して知っていることなんてまだほとんどないというのに、これは些か意地悪な出題ではないだろうか。なんだか無性に悔しくなって、これは絶対に当ててやろうと、すでに消し炭寸前となった自分の花火を片手に頭をひねらせる。
そういえば初めてツイに会った時は氷や雪なんかを思い浮かべていたっけ―――でもそれは見た目だけの印象であって、ツイ自身はむしろあたたかくて春のいちばんやさしい日差しを彷彿とさせるような子だ。だから、そういったものに関連する妖精や天使の類だと言われればすんなり納得できる。見た目とのあべこべ感は否めないが、これはきっと正解に近いような気がした。
目の前にいるツイはやっぱりどこまでも淡く青くうつくしい。
「奇跡みたいな女の子っていうあの口説き文句、あながち間違ってないよ」
ルイが耳元でそうささやく。ずっと背後にいたのか、はたまた僕が躍起になって考えている間にリルリィかツイに話を聞いたのか、どちらにせよ僕を存分にからかおうとしているのは明白だ。
「ちょ・・・く、口説き文句って、僕はそんなつもりで言ったんじゃなくて・・・」
「たしかに奇跡そのものかも。ツイは人でもあるし人ではないのよね」
裏返った声が情けなくしぼんでいく言葉尻に、リルリィの舌足らずな声が被さって呆気なくうち負けてしまう。このままいくら弁明したところでどうせすぐに撃沈されるのが関の山か。
しかし、人であって人でないとはどういうことだろう。
奇跡そのものと称された彼女は未だに答えをくれはしない。
「ごめん、降参だ。いくら考えても分からない。ねぇ、ツイは何者なの?」
「仕方ないなぁ。じゃあ最大のヒントあげるね」
私は―――「ユウさん、少しいいか?」
ツイの言葉はそこでぴたりと遮られた。
それは抑揚の少ない雨露さんの声だった。
「え?僕ですか?」
「貴方に話しかけている」
「あ、はい・・・」
僕たちから少し離れた場所にいる彼は、ぴくりとも動かず僕だけを見据えている。こちらに来る気配がないことから僕が動くしかないと判断し、若干渋々ながらも彼の方へ歩み寄った。立ち上がる瞬間に見えたルイの表情はかすかに眉をひそめていて、どこか胡乱げなものだった。
雨露さんは僕がすぐそばまで近づくと、そのまま何も言わずに歩きだした。僕は仕方なく彼の後を追う。説明の一つくらいはしてくれてもいいんじゃないか―――なんて内心で悪態をつきながら。
そうしてしばらく無言で歩き続け、ぽつんと設置されていたベンチの前で立ち止まる。皆が集まっている場所からはけっこうな距離だ。名残惜しく米粒のような皆の等身をぼーっと眺めていれば、とうとうベンチに座るよう促された。
それでもまだ雨露さんは何も言わない。何か話しだすことをためらっている―――というわけではなさそうだ。しいて言うなら、そう、僕を待っているような―――僕の何を待っているのかはまったく分からないが、とにかく僕はずっと彼に待たれていた気がする。
とはいえだ。結局、彼自身が要件を言葉で伝えない限り、僕にはそれを読み解く能力などない。ツイたちと話しているときはあんなに楽しかったというのに、今の僕は自分でも呆れるくらいにふてくされる子どもだった。
遠くから聞こえる楽しげな喧騒が響く。
花火はまだ残っているだろうか。
ツイはさっきの答えを教えてくれるかな。
「貴方はこの世界をどう捉える?」
「―――へ?」
思わず素っ頓狂な声が出てしまった。
「言い方を変えよう。貴方は貴方の思う現実が、本当かどうかを証明できるか?」
彼は何を言いたいのだろう。そもそもそんな問いかけをする意味が分からない。言葉につまる僕をおいて彼は話し続ける。まるで僕のだす答えなんて本当は重要ではないのだと言わんばかりに、独り言のように。
「今いるこの場所が本当は現実で、向こうの世界が仮想かもしれない。貴方は永すぎる夢から覚めて、やっとここに帰って来たんじゃないか」
「どういう意味ですか」
「私はずっと探していたんだ。あちらとこちらを行き来できる―――つまり、繋がりとなれる存在を」
「ごめんなさい、雨露さんが何を言いたいのか僕にはさっぱり・・・」
「貴方は降谷流星でいたいか?それとも、ユウになりたいか?」
頭の中が真っ白になる。
何か言おうにも僕の口は、はくはくと動くだけでまるで役立たずだった。
耳の奥でキーンと音が鳴り響いている。うるさい、うるさくて吐き気がする。急に頭の中を食い荒らされるような激しい痛みに襲われて、とうとう僕はその場にうずくまってしまった。
「あちらの世界を拒絶しているな。それは無意識だろうが、貴方の本心だ」
違う。違わない。
「いちど向こうに帰るといい。どうせすぐにこちらへ戻れるさ、何せ貴方がそう望むのだから」
頭上から声がする。顔を上げても雨露さんの顔は見えなかった。どころか、周りのすべてが白紙に戻っている。
「仮想であるべきはどちらか、貴方が決めなさい」
―――ぷつん。
痛みが消えて、白い世界はあっという間に暗闇へと変わる。
僕は深い眠りに落ちるように、意識を手放した。
*
目を覚まして最初に感じたのはむせ返るほどの暑さだった。
今年は例年に比べてかなり気温が上昇しているらしい。人間が生きるための環境なんてものはもうこの地球に必要ないのだと、そう発信した有名人が炎上していたのをつい最近SNSで知ったばかりだった。必要かどうかはさておき、この暑さは人間が生きていられる環境ではないなと思う。
ベトベトした体がとにかく不快で、ベッドサイドに置いてあるリモコンを操作し冷房をつける。電気代のことで母の機嫌を損ねる可能性もあったが、昔いちどだけ僕が軽い熱中症で倒れたときに叱られたのを思い返せば電気代なんて気にしてはいられない。言われた言葉はもう思い出せないけれど、いつも僕を詰るときと同じ顔で何かを叫んでいる母の様相にひどく胸が締め付けられたのを覚えている。もうあんな思いをするのは嫌だった。
ズキズキと痛む頭をおさえて起き上がる。生成色の(元は淡い黄色だったのだが、色褪せてしまった)カーテンを開けてみれば、外はまだ少しだけ夜の裾を残して白んでいた。
「あ。学校行かなきゃ・・・」
無機質な動作で開けっ放しのクローゼットにかけてある制服に手をかけたところで、ふと我に返る。
「学校には昨日行ったじゃないか・・・それでツイと会って、あれ?会ったのは結?」
徐々に鮮明になっていく記憶の中で、色濃く思い出すのは今いる世界ではなく向こうの世界でのことばかりだ。もうずいぶん長い間あの夢の中にいた気がする。
記憶に染み込んでいる夢の風景は今この瞬間も新鮮な色をしていた。なのに、僕が肉眼で認識しているこの世界では何一つとしてうつくしいと思えない。だからこそここは紛れもなく僕の現実なのだと実感できた。
布団の上に寝転んで、ぼうっとしながら徐々に思考の動きを鈍らせていく。二度寝が出来るほどの眠気はなかったので、せめて夢の余韻くらいは味わいたかった。
正直、あの世界にいるときは心のどこかでほんの少しだけ非日常な現象であることを期待していたが―――起きてみれば何のことはない、夢は夢のまま僕を現実へと帰して終わりだった。
送風口から冷たい風をサァーっと滑らせるエアコンの音だけが響くこの部屋に素っ頓狂な声が落ちたのは、布団に戻ってしばらく経ってからのことだった。
「・・・え?」
たまたま手にあたった携帯が作動してロック画面を映し出した。まさかそれだけのことで驚くはずもない、問題はそこに表示されていた日付だ。そこには昨日の日付である、七月三日という文字が見間違いのしようもなくはっきりと映し出されていた。
昨日、学校に行かなければいけないと何度も無意味にこのロック画面の日付や時刻を確認してはうなだれた記憶があるから間違いない。
ロックを解除し、結とのトーク履歴を開く。
『最近会わないね。明日は学校おいでよ』
『待ってるからね』
これは一昨日に届いたメッセージのはずなのに、日付はやはり昨日送られたものになっている。
『昨日、学校で会ったよね?』
そうメッセージを送るとタイミングが良かったのかすぐに既読がついて、それから一分もしない内に結から返信が送られてきた。
『何の事?』
『昨日学校に来てたの?』
どういうことだろう。何が起こったのか、それとも何かが起こっているのか。今、僕がこうしている間にも現実は無音のまま形を変えているような気がして落ち着かない。なんだか取り返しのつかないことが始まろうとしているのではないか―――そう思うと居ても立ってもいられなくて、シワになることも厭わず急いで制服に着替えて部屋を出る。
ダカダカと音をたてながら階段をかけ降りて、最低限の支度を終えてからやっと玄関ドアに手をかけた頃には、学生が登校するのにちょうどいい時間帯となっていた。
「いってきます」
人気のない屋内に向かってそう言えば、僕の挨拶は無音の中に吸収される。玄関のシューズラックや三和土には、母さんが普段仕事中に履いているらしい黒のヒールは置かれていなかった。
「あつ・・・溶ける」
外はやっぱり蒸し暑い。気力も体力も根こそぎ蒸発してしまいそうになるのを何とかおさえて黙々と足を動かす。
ふと見上げた空は、薄暗い家の中と大差ないような灰色で、すぐにでも泣きだしそうである。
そういえば、昨日もこんな空を見たような―――それで傘を持たずに出たことを後悔していたくせに、帰り道では傘の存在なんてすっかり忘れていたのではなかったか。
ふと視界の端でつもる違和感。
ああそうだ。たしか昨日はそう、こんな風に―――
くすんだ色の紫陽花が群生していた。
気だるげな女子高生が携帯を落として舌打ちをした。
公園の遊具が無くなっていることに、この日初めて気が付いた。
前を歩くサラリーマンが誰かと通話しながら頭を抱えていた。
通り過ぎるバスの車中から小さな女の子がこちらに手を振っていた。
足早に過ぎ去る道中、見るものすべてに見覚えがある。僕の習慣的に存在し得ないはずの既視感だらけだ。
どれもこれも僕のこれまでの生活の中で記憶の隅にすら介入していなかった、昨日初めて出会ったはずのものばかり。どうしてなかったことになっている昨日という今日に、それらが現実として存在しているのだろう。
走る。
息がきれて止まる。
また走る。
・・・・・・。
ゆるやかに速度を落としていく。
「・・・」
学校が見えてきた。特に思い入れはないが、趣のある立派な校舎。そこまで一直線に、両足を交互に動かし続ける。
本音を言えば行きたくない。
というより、見つかりたくない。
だって僕はここで今から起こることを知っている。
もしも自分以外のすべてが昨日と同じままであるならば、この先には僕にとってある意味とても辛い出来事が待ち構えているはず―――「降谷!」―――やっぱり、来た。
僕はここで担任の黒井先生に呼び止められる。そして、このあと先生は僕の肩を無遠慮に叩いてこう言うのだ。「大丈夫か?」と。
機縁は、ここで言葉に詰まってしまったことだろう。いや、そもそも学校に来たことか。もっと辿れば僕が不登校になったことかもしれない。とにかく、最悪な七月三日のスタートを迎えるターニングポイントはここだった。
昨日の今ごろ、先生は何も喋れない僕の精神面を心配したのか、お優しくて熱意ある言葉をしつこいくらいにかけて下さったのだ。すごくすごく大きな声で。
降谷流星が不登校気味であることついて触れた内容の言葉を配慮なく撒き散らし・・・それが周囲の注目を集めたのは当然の結果だろう。
そしてさらに追い討ちをかけたのは、歩きだしてすぐのこと。
僕が先生からの熱心な猛追を振り切って行こうとした際に、気が動転していたのか、自分の両足を器用にもつれさせてその場で派手に転倒してしまったのだ。
荒くてごつごつしたコンクリートが容赦なく皮膚を裂いて血の滲んだ手のひらを、保健室に行くまで必死に隠す虚しさったらなかった。なぜわざわざ隠したのかって、きっと怪我をしたなんて知られたらもっと騒がれるに違いないし、それに正直なことを言うと、やたらと僕を保健室登校させたがるところも前々から気に食わなかったからだ。保健室に行くと知られて、あの顔を―――弱者に慈悲を向ける自分を演出しているような顔をされるのだけは避けたかった。
「大丈夫です」
記憶の引き出しをパタンと閉じて簡素に言った。あのまま黙っていると、昨日の二の舞になるところだったかもしれない。
というか、そもそも一体この人にとって僕の何が大丈夫で、何が大丈夫じゃないのだろう。
先生から「大丈夫か」と問われるたびに、ここに居場所なんてないぞと告げられているように感じてしまう。だってまるで、ここに来て大丈夫なのか?とでも言うような口ぶりじゃないか。
僕のことを気にして言ってくれているにしても、何もしない人間が口をはさむだけならそんなものは最初からいらない。
だって、一度でもこの大人が面談の機会などを設けたことがあっただろうか。いつも僕が学校に行けば分かったような微笑みで腫れ物扱いをして、たまに熱いお言葉をかけてくるだけ。安全な場所から引っ張り上げる気もない手を適当にぶら下げて、それで終了。
別に何かをしてくれと要求しているわけじゃない。むしろそれが普通だと理解しているし、僕なんかが誰かに時間や労力をさいてもらってまで助けられる意味もないから、それでいい。
この人にしてほしいことを強いてあげるとすればただ一つだけ。
もう中途半端なその手で、僕の心にベタベタ触ろうとしないでほしかった。
「降谷、どうした?気分でも悪いのか?なら保健室に行っていいぞ」
「いえ。本当に大丈夫なので」
前髪が長くてよかった。むき出しになった嫌悪感が前髪の裏側で身を潜めている。たとえ僕がこの人のことをよろしく思っていなくとも、それが他人を傷つけていい理由にはならないのだから。隠して隠して、僕の内側でどうか潜み続けて、人知れず消えてしまえばそれでいい。
先生が添えようとした手を、僕はそれとなく躱して校舎の中へ歩を進める。
後ろからは先生の明るい挨拶の声が響いている。切り替えの早いことだ。他の生徒が元気よく挨拶を返して、彼らの日常は滞りなく始まっていた。
廊下を歩けばもうすでに登校して来ていた同級生たちとすれ違う。教室の内外に関わらず彼らはまるでそれぞれの役割を果たすように、各々の小さな世界をそこらじゅうに作りあげていた。
ここでは僕は背景の一部に過ぎなくて、彼らの世界の登場人物ではない。降谷流星という人間はモブキャラYくらいの取るに足らない存在だろう。
今までは、そう認識するたびに安堵していたはずだった。
けれど、自分だけが昨日の世界に取り残されているかもしれないというイレギュラーが発生したことで、その唯一の安寧すら、僕の中でひどく不安定なものへと変わってしまう。
今も、廊下側の窓枠から見える教室内が、僕の目にはどうしても無機質で薄気味悪い人形劇のように映っていた。
彼らは正しく人間の姿をしているが、はたしてそこに魂は存在しているのだろうか。魂があるならばなぜ何事もなく笑っていられるというのだ―――いや、分かっている。僕はこの気持ちがとても自分勝手で無様な言い分だと自覚している。それでも濁流に飲まれる心を止められないのだ。
そんな内側の醜いモノをごまかすように、今はただまっすぐに結のいる教室を目指す。何も考えず、ひたすら目的地に足を運ぶ。そうしなければ、魂ごと根腐れをおこしてしまうと思った。
そうして青い時期を謳歌するようにプログラムされたロボットたちとすれ違いながら、三年六組の教室の扉を静かに開く。
結は―――まだ来ていないようだ。
もしかしたら学校のどこかにいるのかもしれないが、残念ながら結の行動パターンなど不登校の僕が知る由もない。目当ての人物がいないのであればここにい続ける意味もないので、とりあえずは自分の教室に戻って出直そう。
そう考えて、踵を返そうとした時だった。
「―――降谷か?」
斜め後ろから僕を呼ぶ声がした。無機質に思えた空間に似つかわしくない、清涼感のある声だ。
「久野・・・あ、おはよう・・・」
まさか彼から僕に声をかけてくるなんて。いや、久野はそういう人だったか。自分でも分かりやすくて呆れるくらいぎこちない挙動で振り向けば、そこにはやはり久野光が―――「え、なんで、ヒナタ?」
「へ?」
否、そんなはずはない。ヒナタがここにいるなんてありえない。現に、そこにいるのは間違いなく久野光だ。顔も声もすべて僕が知っている久野だけど―――さっき振り向いたときのその一瞬だけ、なぜか彼の顔が日車ヒナタに見えたのだ。
「あ、ごめん。なんでもない」
「そっか?・・・あー、あのさ。天根なら委員会の用事で視聴覚室にいると思うよ」
「え?」
「天根を探して来たんじゃないの?勘違いだったらごめん」
「い、いや!勘違いじゃないから・・・ありがとう」
ああ、どうしよう。向こうの世界で膨らんでいた気持ちが、ここでは何の力も出せずにぺちゃんこになってしまう。
久野に謝りたい、謝ろうって決めていたのに、結局このザマだ。
「視聴覚室の場所わかる?二つあるけど」
「えっと、多分・・・」
久野は少し間をおいてから、こっち。とだけ告げて歩き出した。どうやら案内までしてくれるつもりらしい。そこまでさせてしまうのは申し訳なくて断ろうとするが、僕がどう言おうか考えている間にも久野はどんどんと先を行ってしまう。
一緒に歩いているというには少し距離の空きすぎる歩幅で、僕たちは灰色の廊下をひたすら進む。僕は歩いている間ずっと久野の背中をたまに盗み見ては、床の傷や自分の真っ白なシューズを眺めていた。
「久野!おはよ!」
「おう、佐倉!はよー!」
「あ!なぁ久野、頼みがあんだけど!」
「なんだよ山岸ー?今ちょっと用事あるんだけど」
「お前にしか頼めないんだよー!昼メシ奢るから!」
「久野くんに迷惑かけんなよ山岸」
「アンタと違って久野くんは忙しいのよ」
「うっせー!」
廊下を歩けばたちまち明るい声が周囲を飛び交う。そのすべてが久野に向けられたもので、人気者はすごいなと関心する反面、小気味よいテンポ感でそれが連続して行われるものだから、なんだかそれすらも機械的に思えて寒気がした。
笑っている目、笑っている口。どれもこれもが作られたもので、決まった場所、決まった時間に配置されているみたいだった。
しかし僕が何よりもおぞましいと感じるのは―――こんな風に思ってしまう自分自身だ。ここにある異物はこの僕独りだというのに、自分を正常な位置に戻したくてまわりのすべてを異質な枠におさめようとしてしまっている。僕はなんて嫌な人間なんだろう。
「降谷、悪い!なんかコイツがどうしてもノート貸してくれって言うから、俺いったん教室戻るわ。ここ真っ直ぐ行けば視聴覚室につくから」
久野と、それから久野のまわりにいる同級生たちが立ち止まってこちらを見ている。「誰?」「不登校の子でしょ」―――そんな会話が交わされたのをやんわりと咎めた久野は、気まずそうな視線をこちらへ寄越す―――別に久野が気にすることじゃないのに。
「そっか。ごめん、わざわざ本当にありがとう」
シン、と。僕の言葉のあとには無音が横たわった。
親しくない他人が一瞬でも輪の中に入ったときのシラケた空気感。これも仕方がないことだ。そもそも彼らは自分の友達である久野に同調しているだけで、僕と関わりたいだなんて思っていないのだから。
せめて異物である僕にできるのは一挙手一投足、彼らの中で不快にも愉快にも映らないよう慎重に、呼吸を最小限に控えてさっさとこの場から去ることだけだ。
いつもの如く下を向いて進む。
彼らの間を通り抜けるときに見えた久野の手が少しだけ僕に向かって動いた気がしたが、きっと気のせいだろう。
「またな―――ユウ」
「―――え?」
今、彼はなんと言った?
顔を上げて、声の主である久野を凝視する。
届いたその言葉がじわじわと脳に浸透する頃には、すでに僕の体は反射的に動き出して久野に詰め寄っていた。
「今、今、なんていったの」
凍りついた心臓から結露が浮き出すように、肌の表面にも汗が滲む。開いた窓から入り込んだ風が僕と久野の間を通り抜けて、ばっちりと目が合った。
「なんてって・・・またな降谷、って言ったんだけど」
「でも・・・そんな、本当に?」
「本当だよ、本当にそう言った」
久野はめずらしく狼狽えた顔をしているが、嘘をついているようには思えない。でも、降谷とユウなんてかすりもしない名前を聞き間違えることがあるだろうか。
もし仮に彼が僕のことをユウと呼んでいたとして、それは僕の夢の中でだけの名だ。彼がそれを知る可能性なんて現実的に考えれば一ミリもありえない。ありえないはずなんだ。
「夢・・・まさか、まだ夢の中なのか?」
震える手で頭に触れる。髪を引っ張っても顔に爪をたてても、しっかりと痛みがあった。夏の暑さも、ついさっき久野の腕を掴んだときには体温だって感じていた。
僕はたしかに現実に存在している。
でも今となってはもう、ここが現実なのかどうかの境界があやふやになっていた。
「え、なに?ヤバい奴?」
「なんかキモ・・・」
「久野、もう行こうぜ」
久野の友人たちは、まるで醜怪なモノを写すような目をこちらに向けて僕の前に立ちはだかった。そこにははっきりとした拒絶の色が伺える。
「あ・・・」
向こう側にいる久野の顔―――他の人たちと同じだ。
謝らなきゃ、謝らなきゃ、謝らなきゃ!気持ち悪いことを言って、空気を壊してごめんなさいと、い、生きていてごめんなさいと、すぐに謝らなきゃだめだ!
「ごめ―――」
「ごめんな、もう行くわ」
複雑な表情で久野が言った。裁ち鋏のごとくキッパリとした声音だった。
同時に、鋭い視線や軽蔑の声がこの場から遠ざかっていく。だというのに心はまったく落ち着かない。それどころか視界がぐにゃぐにゃと揺れ動き、ひどい目まいに立っていられなくなる。
その場にしゃがみこんで零れそうな嗚咽を両手でおさえる。僕のキャパシティはもうとっくに限界だった。
『貴方は貴方の思う現実が、本当かどうかを証明できるか?』
『今いるこの場所が本当は現実で、向こうの世界が仮想かもしれない。貴方は永すぎる夢から覚めて、やっとここに帰って来たんじゃないか』
『 仮想であるべきはどちらか、貴方が決めなさい』
なぜか今、雨露さんのあの言葉が頭をよぎる。
もしこの世界が仮想だったら―――ふっと浮上した浅ましい願望。知らないふりをして沈めるには遅かった。
夢現に惑わされ、取り乱し、この世界のどこにも僕の居場所はない。何も分からないまま放り出され迷子になった捨て子の気分だ。
「―――流星?」
視聴覚室へと続く廊下の先から、声が届いた。僕をそう呼ぶのは幼馴染のあの子だけだ。
こちらへと近づいてくるひとつの足音が聞こえる。その間、僕は身を小さく縮こめたまま力なく項垂れていた。すぐ真下の床がひび割れていて、その溝には入り込んだ黒い土埃などが詰まっていた。
頭上で彼女の息をのむ気配がする。すぐ傍まで来てしまったようだ。会いたかったはずなのに、それと同じくらい見つけてほしくはなかった。
「結は昨日、僕と会っていないんだよね。本当に、昨日、僕はいなかった?」
往生際の悪い自分が嫌になる。かすかに期待をしてしまう愚かさも、腹の底では諦めている卑怯さも大嫌いだ。
「・・・ごめんね、流星が何を言ってるのか分からないよ。それより、ねぇ、大丈夫?」
本当は結に会ってもどうにもならないと分かっていたというのに。それなのにここまで来てしまったのは、取り残された世界の外側で独り味わう漠然とした寂寥感を恐れたことと、そして何より、僕はきっと彼女に無責任な期待を寄せてしまっていたのだろう。
天根結は僕にとって正しさの指標だった。
完璧に倣うことは難しくとも、絶対的な憧憬たる模範であった。
「大丈夫。変なこと言ってごめん」
「でも・・・」
大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫。
思えば、今までその言葉は自分や他人に言い聞かせるように使ってばかりで、本当に大丈夫だったことなんてほんのひと握りしかなかった。
「りゅう―――」
―――続けて何かを言おうとした結の声に重なって、予鈴の音が鳴る。
廊下を突き抜けて反響する音に彼女が言葉をとられているうちに、僕は自分の体に鞭打って立ち上がった。
「もう教室戻りなよ。本鈴もすぐに鳴るでしょ」
「うん・・・」
結はそれ以上なにも言わず、けれど何か言いたげな顔で胸の前に置いてある手をキュッと握りしめている。「またね」と小さく手をふる姿に、心臓がチクリと痛んだ。
僕は「ばいばい」と言って、重い足取りのままその場をあとにした。