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【後編】別れの日

 車を走らせること数分、目的地に到着した二人。自動ドアから店内に入る。


「いらっしゃいませ、何名様でしょうか」

「あ、二人」

 耕情は店員にピースすると、おしぼりを手渡され、席番号を告げられる。


「ごゆっくりどうぞー」

「あの、ここって……」

「回転寿司」

「ふおっ」

「ふお?」

 想実が突然素っ頓狂な声を上げた。


「え、ふおって何さ想実ちゃん?」

 指定された席に着きながら尋ねる耕情。後に続き反対の席に想実が座る。


「い、言ってませんけどそんなことっ」

 伝統芸となった赤面を発動すると、想実はテーブルに備えつきの蛇口下の黒いボタンに手をかざしていた。


「ちょっと何やってんの想実ちゃん!?」

「ふえっ、す、すいませんっ、手を洗おうと……お先に洗いますよね……」

「ベタすぎるよ! 今時誰も笑わないよそれ!」

「えっ?」

 本気で驚いている様子の想実。こんなふざけ方をする人間ではないことを、耕情は一番理解しているつもりだった。


「これはお湯汲みだよ、見てて」

 想実の暴走を止めると、耕情はコップを二つ台上から取り、うち一つに粉末茶をたっぷり入れ、コップを黒いボタンに押し当てた。


「いっ……」

 湯気を立てて注がれるお湯を見て、想実は戦慄していた。


「回転寿司も初めてらしいね。もしかしてさっきは喜んであんな声を?」

「だ、だから知りませんっ」

「はは、ごめんごめん。一応向こうに水もあるから、熱いのが嫌だったらそっちで汲んでくるといいよ」

 言及するのも可哀そうなので、話題を変更する耕情。想実は立ち上がり水を汲みに行った。

 少しして想実が戻ってくる。辺りを見渡し落ち着かない様子だった。


「ご、ごめんなさい……本当に来たことがないので、勝手が分からなくって……」

「そっか。でも別に緊張する必要はないよ? 流れてるお皿を自由に取って食べていいんだ。あ、この変なお皿に乗ってるやつは駄目ね」

 耕情はそう言って、ご注文品と書かれた皿を指さした。


「このタッチパネルから注文することもできる。さっきの変なお皿で運ばれてくるんだ。俺は基本パネルから注文するかな、何週も流れてるネタとか取りたくないしね」

「よ、よくわかりました」

 流れる皿を目で追いながら答える想実。


「好きなネタとかあるの?」

 何か探している様子だったので、耕情は問いかけてみた。


「おすしはあまり食べたことなくて……でもおさしみなら」

「言ってごらん? 注文しよ」

「か、かつおのたたき……」

「ほぉー……渋いね」

「そ、そうなんですか?」

「いや、わかんない……でも意外だったな、サーモンとかまぐろとか想像してたから」

 耕情は、赤身や焼きはらすばかり注文していた幼少期の自分を思い返していた。


「じゃあかつお注文してっと……そら、ほかに好きなの選びな」

 耕情はタッチパネルの充電を外し、想実に差し出した。


「え、ど、どうしましょう……」

「本当に何でも注文していいからね? それとも無遠慮になんでも注文するのは、まだハードル高い?」

「う……いえ、そんなことっ」

 ええいままよといった具合に、想実はたまご焼きを注文した。


「よく頼めました! レーンに流れてるネタも取っていいからね?」

「は、はいっ」

 注文の勢いに任せて、想実はレーンからホタテを取った。


「いいねー!」

「は、はいっ……ん? これは、ほかのおすしとお皿の色が違いますね……」


「えっ? そ、それはあれだよ想実ちゃん……そう! 店のお皿の在庫が不足してるんだよ、きっと」

 少し高めのネタであることを説明すると皿を戻しだしそうなので、お茶を濁す耕情。

「なるほど、おすし屋さんも大変なんですね」

「だな……あ、先に食べていいからね」

「わ、わかりました……いただきます」

「たらふく食いなさい」


 醤油をかけたホタテを口に運ぶと、想実の表情が一気に明るくなった。

「お、おいひいです」

 好きな量を選び、低価格で食べれられる回転寿司は子供連れとの相性がいい。財布への懸念も少なく済む。


「ご注文の品が間もなく到着致します」

「ふわっ」

 前触れも無く声を発するタッチパネルに驚愕する想実。


「お、かつおとたまご来たよー」

 二人がかりで到着したネタを机に移していく。

 耕情はとろたくと鯛を注文していたので、それも運ばれてきた。


「すいません、かつおなんですけど……」

「ああ、ポン酢で食べるのね。はいこれ」

「あ、いえ、お塩無いかなって……」

「え、かつおに塩?」

「は、はい」

「お、大人な食べ方だねぇ」

「そ、そうなんですか?」

「昔、上等な居酒屋でかつおのたたき頼んだら、塩でどうぞって言われたことあるよ。その年でかつおの極致に辿り着けるとは……想実ちゃん末恐ろしいね」

「は、はい?」

 想実はよくわからないといった様子で、苦笑いを浮かべていた。

 耕情はレールから運よく流れてきた塩の小袋を二つ摘み、テーブルに置いた。


「ってあ! 想実ちゃんラッキーだよ。これ半分こしよう」

 言いながら、はまちの皿をレーンからテーブルに移した。


「はまちですか?でも写真のものと色が、違う?」

「これ、レーン限定でたまに流れるはまちの腹身だよ」

「はらみ?」

「うん、魚のお腹のほうの部分ね。普通にはまちを注文したんじゃ背身……魚の背中側の部位が届くんだけど、はまちの腹身はあんまり流れないから食べたほうがいいよ」

 自身の腹と背中を実際に触りながら説明する耕情。


「い、いいんですか?そんな貴重そうなものを……」

「そ、そんな貴重ってわけじゃないよ。別に高級なものでもないと思うし、せっかくだから食べようと思って」

 耕情は中央に置かれたはまちの腹身寿司に醤油をかけると、うち一貫を口に運んだ。


「うん美味い、想実ちゃんもどうぞ」

 興味深そうにはまちを観察していた想実も、残りの一巻を食べた。


「わ、お口の中でとろけてます」

 新感触に舌鼓を打っている様子だった。

 はまちの背身はあっさりとしていて歯ごたえがあるが、腹身は脂がのってこってりとしている。


「いや、でも寿司で食べるならずりより背身のほうが美味いなー」

 ずりと言うのははまちの腹身の意だ。

 魚が泳ぐ際に、腹が海底に擦れることから名前が付けられた。


「あ、あの、お兄さん……想実、ねぎとろを頼んでもいいですか……?」

「ああ。それといちいちお伺いを立てる必要もないよ。好きに頼みな」

「は、はい」

 それからも二人は様々な寿司ネタを堪能した。



 「お会計、千七百円になりまーす」

 耕情は十皿、想実は五皿の寿司を平らげた。内二皿ずつ、計四皿が百五十円の寿司なのだが、想実には終ぞ気づかれなかった。

 耕情は伝票を持ち、セルフレジで会計を済ませる。


 「ほう、六時過ぎになるとこんなにごった返すもんなんだな。早く来てよかったね、想実ちゃん」

 耕情は順番待ちをしている客を見渡しながら尋ねた。


 「……っ! お、お兄さん……!」

 「な、なにどうしたの?」

 先程まで満足気に腹をさすっていた想実だが、まるで身を隠すように耕情の足元に張り付き、怯えた表情を作っている。


 「は、早く……出て……」

 「う、うん」

 弱々しく呟く想実の言葉に危機感を覚え、耕情は手早く支払いを済ませ、店を後にした。


 「ど、どうしたってんだよ想実ちゃん?」

 店の外で唇をわななかせる想実の両肩をがっちりと掴む耕情。


 「お、おか……」

 「大丈夫か? ゆっくりでいいから……深呼吸するか?」


 「いえ、お、お母さんが、い、いて、それで、想実、びっくりして……」

 「な、お母さん?」

 お母さん。

 それは、年端もいかない少女に対して家庭内暴力を振るい、想実を家出にまで追い込んだ張本人だ。

 

「でも、し、知らない男の人と一緒に……お父さんは、いませんでした……」

 身体の震えが止まらない想実。


「どいつだ」

「え……?」

「自分の娘がいなくなったってのに、探そうともしない馬鹿親はどいつだって聞いてるんだよ」

 耕情は窓ガラス越しに店内の様子を眺める。

 恥も外聞もない。わき目も降らず、その母親を殴ってやろうと耕情は考えている。


「や、やめてくださいっ!」

「しかし想実ちゃん……」

「お願いですっ、お兄さん!」

 想実は瞳に涙を湛えていた。必死に声を振り絞っていた。

「……車に乗ろう」



 車窓から覗く車たちのライトが、薄暗い夜を照らし出していた。

 帰路に就く耕情と想実。耕情は会話の切り口を探っていた。


「お兄さんは……」

「ん?」

 先に口火を切ったのは想実だった。


「どうして……そ、想実なんかに優しくしてくれるんですか?」

 想実は今まで親から虐待を受けてきた。

 母親の姿を視認しただけで身を隠し、震えを起こしてしまうほどに恐怖心を植え付けられてしまっている。

 実際、耕情が想実を拾っていなかった場合、家出という行為が無駄に終わっていた可能性が高い。

 視線を下に向ける想実に対し、ハンドルを切りながら耕情は答える。


「相手の心に残り続けるからだよ」

「心に……」


「俺が思うに、忘れたくても忘れられない思い出ってやつは二種類ある。わかるかな」

「……い、いえ」


「優しくされた思い出と、辛い思い出さ」

 耕情は続ける。


「俺は中学の頃、よく部活でいじめられたよ。でもそれ以上に、色んな人に励ましてもらった」

「当時は学校に行くのも億劫になってたっけ。でもその人たちのお陰で、こうやって何の気なしに話せるようになった」

「今でも俺をいじめてた連中の顔は思い返せるけど、その度に、俺に無償の愛を注いでくれた大切な人たちの顔を思い出すのさ。連中より、何倍も明るく微笑んでな」

「でも、想実には、お兄さんしか……」

「大丈夫、これから君はいろんな人と出会う。生きてて孤独なんてそうそう味わえるものじゃないよ?」

「そ、それは、怖いです……お、お兄さんより、優しくしてくれる人なんて、いるのでしょうか……」

「いるさ、断言するよ。世界は厳しいけど、想実ちゃんは孤独じゃないから大丈夫……それにこれ以上、俺は想実ちゃんに優しくしてあげることは出来ない」


「え?」

 耕情の言葉に目を丸くする想実。


「働くこともできない子供が一人で現代社会を生き抜くことなんて出来ない。かと言って、俺が想実ちゃんを育ててやることなんてとても出来ない」

 前を見据える耕情の瞳に、信念の光が揺らいでいた。


「……じゃあ想実はこれから」


「……児童養護施設っていう、子供の面倒を見てくれる施設に引き取られることになる。君が望めば、親と二度と顔を合わせることもなくなる」

「そうですか……」

「不安?」

 ちらりと想実の横顔を盗み見る耕情。シートベルトを握りしめ、物思いにふけたような表情だった。


「い、いえ」

「強いね」

「そ、そんなことありません……」

「普通は嫌なもんさ、右も左もわからない場所に、単身放り込まれるんだ」

「だ、大丈夫です、一人でも……お兄さんには、これ以上迷惑をかけられません……」

 シートベルトを握る手が強くなる。覚悟を固めているのだろうか。


「あ、いや、一人じゃなかったわ」

「え?」

 信号が赤になり、自動車が停止する。耕情は後部座席から何かを取り出した。


「ボクモイルヨ!」


「……え、そ、それっ」

 唐突に裏声を発する耕情に、想実が驚いたように顔を上げる。

 耕情は顔の大きさ程度のレッサーパンダのぬいぐるみを自身の眼前に持ち、ぬいぐるみの腕をぶんぶんと振っていた。


「こっそり動物園で買ってたのさ。ささやかな、プレゼントフォーユー」

 それを想実に差し出す。想実は両手で受け取ると、ぬいぐるみと目を合わせ、表情を綻ばせた。

「想実、ここまでしてもらえるなんて……なんて言ったらいいのか……」

「はは、そこまで喜んでもらえるとは光栄だよ」


 車は再度動き出す。

 運転席に身を預けると、疲労感が吸い込まれていくようだった。

 隣を確認すると、想実がぬいぐるみを抱いたまま首を上下に揺らしていた。


「眠い?」

「ご、ごめんなさいっ、眠くないです」

「いや、いいさ。たくさん歩いて疲れたろ。目瞑ってな」

「は、はい、ごめんなさい……」

 そのまま目を瞑る想実。


「ちょうどいいや、下らない話しようとしてたんだ。子守歌代わりに聞き流してくれ」

「はい……」

 寝言のように呟く想実。耕情は構わず続ける。


「大好きな言葉があってね……何、誰でも知ってる簡単な言葉さ」

「誰でも知ってるはずなのに、最近の大人はこれを何故か言えないんだよな」

「どれだけ些細なことだろうと、どれだけ機嫌が悪かろうと、どれだけ仲が悪かろうと……」

「優しくされた思い出ってのは、心の中に残り続ける。そしてそいつは俺の支えになる。だから俺は感謝を伝える」

「想実ちゃんもよかったら使ってくれないかな、大事なことだと思うから。想実ちゃんは慣れてないみたいだから、ちょっとずつでいい」

 まるで、自分に言い聞かせるように。


「その言葉は……ふふ」

 隣から短い寝息が聞こえてきた。

 その寝顔は安らかで、今日を全力で楽しんだ証拠のように思えた。



 帰宅後。


「明日の朝、出発するから」

「……わかりました」

 夜十時。カーテンを閉め、闇に静まり返った世界をシャットアウトする。


「この布団で寝るのも最後だな。この枕じゃなきゃ寝れないです、とか言わないでね?」

「だ、大丈夫です。想実、枕が無くても寝れるので。それより……」

「それより?」

 想実は言葉を区切ると、身体全体を布団に忍ばせ、頭の半分を外に出した。


「この匂いが嗅げなくなるのが、残念です……」

 そう言って、鼻をすんすんと鳴らす想実。


「お、おう」

 耕情は想実の発言に面映ゆさを覚えた。


「い、いいな想実ちゃん、それ。俺も彼女の家に泊まることがあったら使わせてもらおうかな」

 恥じらいを悟らせまいととぼけてみせる耕情。


「……」

「想実ちゃん?」

 想実からの返事はない。就眠時間が近いのだろう。


「寝よっか。おやすみ」

 言葉と同時に部屋の電気を切った。

 社会人の耕情にとっては、いささか早すぎる時間。

 重くなる気配を見せない瞼を閉じ、何も考えずに脳が眠るのを待つ。


「お兄さん……」

 耕情のベッドより少し離れた布団から、想実の声。


「……どしたの?」

 耕情は瞼を閉じたまま答えた。


「お兄さんは、は、離れ離れになっても、想実のこと忘れませんか?」

「当たり前だ」

「し、施設で暮らすようになったら、一度手紙を送ってもいいですか?」

「もちろん、誠心誠意返信するよ」

「や、やっぱり、いっぱい送ってもいいですか?」

「何通でもウェルカムだよ」

「暇なときは、会いに来てくれますか?」

「行くよ」

「ど、どのくらいのペースでですか?」

「仕事があるから、そんなには来れない。ごめんね」

「い、いえ、こちらこそ無理を言って……ごめんなさい」

 暗闇の中、目も合わせずに二人は言葉を交わした。


「あ、安心しました。これで明日からきっと大丈夫です。邪魔してすいませんでした、おやすみなさい……」

「ああ、おやすみ」

 ベッドに沈んでいく身体。動物園を何時間も散策した疲れが心地よい疲労感となり、ようやく耕情を睡眠へといざなっていく。


「さ、最後に……!」

「最後に、い、いいですか?」

「……いいよ」

 耕情は瞼を開け、仰向けにしていた顔を想実の布団側へ向けた。

 想実はずっとこちらを見据えていた。


「そ、想実の……お、お父さんに、なっ……い、いえ、すいません……忘れてください」

「……おやすみ、想実ちゃん」

 想実と過ごした最後の夜。その日、耕情はなかなか寝付けなかった。



 出発の朝。


 九時に起きた二人は、出発の準備を済ませると車に乗り込んだ。

 耕情は運転に集中していた。

 想実は両手に持ったレッサーパンダのぬいぐるみをずっと眺めていた。

 二人は車内で一言も言葉を交わさなかった。

 ただ、迫りくる別れの時間に身をゆだねるだけだった。


「着いたよ」

 白の軽自動車を門の前に停車させると、耕情は運転席を降り、すぐさま助手席の想実を抱きかかえながら下車させた。


「へぇ……」

 目的地の児童養護施設だ。

 耕情は大きめの一軒家という印象を受けた。

 玄関に入る前に小規模のグラウンドがある。遊具もいくつか置いてあるので、外でのびのびと遊ぶことも可能だろう。


「お、お待たせしましたー」

 エプロン姿の女性が玄関から駆け足でやってきた。

 二十代後半辺りの顔立ち。人のよさそうな笑みを湛えて、温和な雰囲気が全身から滲み出でいる。


「ああすいません、ご連絡した種田耕情です」

 大人二人は軽く挨拶を済ませる。

 一時保護という形で、想実は預かられるのだ。

 細かな手続きは施設側で対応するとのこと。

 しかし入所において、もっとも大切な事項がある。それは。


「……じゃあ想実ちゃん、元気でな」

「……」

「想実ちゃん?」

 本人の意思だ。


「ごめんなさいお兄さん……想実、最低な我がままを、言ってしまいそうです……」

「それは……」


「やっぱり、お兄さんが……お父さんがいいよ……」

「想実ちゃん……」

 想実の左手は耕情と繋がれていた。

 想実にとって今の一言は、生半可な覚悟で放ったものなどではないだろう。

 自分を殺し続けた少女の、最後の我がまま。

 どう答えるやるべきか。耕情はとっくに決めていた。


「甘えちゃだめだ」

「お兄さん……」

 心を、鬼に。


「別れっていうのは誰しも経験することなのさ。好きだった先生も、優しい上司も、ずっと一緒にいることなんて出来ない」

「そいつらにさよならって手を振って、初めて人は成長できるのさ。いつまでもぬるま湯に浸ってるなんて許されない」

 少しでも気を許すな。想実のために最善の回答をしろ。

 耕情は自分に言い聞かせ、未練を断ち切ろうとする。

 繋がれた手を、解いた。


「駄々こねろって言ったのは、お兄さんじゃないですかっ!」

「じゃあどうすんだよ!」

 耕情と想実、思いは一つのはずだった。


「俺、めちゃくちゃ稼ぎ悪いからな! 好きな服も、ゲームも、本も買ってやれない! 言ったろ、育ててやることなんてとても出来ないって! だから!」

 そこまで言って、熱を帯びた頭を冷やす。


「想実ちゃんは、幸せになるべきだ」

 ずっとそれが、耕情の根幹にある願いだった。


「覚悟を決めたはずだ。親と決別したはずだ。なら前を向け。俺が駄々こねろって言ったのは、それが必要になった時にだけしろってことだよ。今じゃない……わかったか」

「……はい……ぐすっ」

「ふん、よく言ったよ、じゃあな……」

 言うが早いか、耕情は手も降らず、さっと踵を返した。

 涙を見られたくなかったからだ。

 啜り泣く想実を見たくなかったからだ。

 こんな悲しい別れは、嫌だったからだ。


「嫌われちゃったかな……」

 足跡と共に地面に涙が落ちた。


「お、お兄さんっ!」

 耕情の足が、止まった。


「あ、ありがとうございましたっ……!」

「っ……!」


 想実の口から、ずっと放たれることのなかったその言葉。

 耕情の大好きな、その言葉。

 謝ることしか知らなかった。

 自分自身を迷惑な存在としか思いこんでいなかった。

 だがたった今、想実は変わったのだ。

 きっとその心には、優しくされた思い出が刻み込まれている。

 耕情は地面に落ちた涙の跡を消すように踏み鳴らした。


「元気でな、想実ちゃん……ありがとう」

 車に乗り込む。

 空っぽの助手席が、随分と寂しく思えた。


 -end-

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