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【前編】雨の日

「買い替え時かねぇ、そろそろ」


 激しい雨音に吸い込まれる独り言。

 種田耕情は、中学三年生の頃から愛用してる無地の折り畳み傘を差しながら、コンビニ帰りの夜道を一人歩いていた。


 最近の耕情は、決まって最寄りのコンビニで夕食の買い出しを済ませている。

 仕事が早く片付けば、少し遠いスーパーで食材を買い込み、手料理の研鑽を積んでいたのだ。

 しかし今となって積み重なるのは、馬鹿にならない食費ばかり。


「自炊とあとは、課金控えなきゃな……」


 耕情は口座の残金を思い返しては、頭を悩ませていた。


「それにしても酷いな」


 激しさを増す雨風。

 思わず上空を見上げるも、傘の裏地を眺めるだけだった。

 コンビニのレジ袋が風に靡き、激しい音を立てている。

 寿命の近そうな折り畳み傘を心配し、帰路を急いだ。


「うわ、光った」

 耕情は加速する視界の中で光を捉えた。稲妻だ。

 心の中でカウントを始める耕情。当然、カウントが近ければ近い程雷は近くに落ちる。

 そして、七つ数えたあたり。


「え」


 ピシャアアアン!

 耕情は落雷に打たれた。

「…………」

 自分より一回りも二回りも体格の小さな少女が、木の陰に隠れ、うずくまっていたからだ。


「お、おい! 何やってんの!」

 耕情は膝を曲げ、少女の肩をゆすった。


「だれ?」

 少女は力なく答えた。

 本当に小さい。小学一年生位だろうか。


「誰って……誰でもいい、君何してんの! 風邪引くぞ、家帰れ!」

 耕情は少女を立ち上がらせようと、腕を掴もうとした。


「ひっ!」

 耕情の手が少女の腕に触れた瞬間だった。

 少女は短い悲鳴と共に、弱弱しい視線を向け、怯えの色を示した。

 耕情はおずおずと手を引いた。


「ご、ごめん、えっと、そうだ! お巡りさんを呼ぶから。これでおうちに帰れる」

「や、やめて!」

「え?」

 耕情は耳を疑った。

 少女は唇をわななかせながら叫んでいた。


「帰ったらまた……」

「か、帰ったら?」


「けられ、る……」

「っ!」

 けられる。蹴られる。

 眼前の少女の言葉に驚愕する耕情。


「まさかお前」

 深い夜、何も持たず身を潜める少女。

 耕情の頭は、一つの解を導き出していた。

 そして決心を固めた耕情は、少女に傘を差し出す。


「ほら傘だ、それに早くここから離れよう」

「でも……」

「雷は高いところに落ちやすいんだ。だから木の下にずっといるのは危ないだろ?」

 耕情がそう告げると、少女はようやく立ち上がった。が、傘を受け取ろうとはしなかった。


「風邪引くから差しとけ。ま、もう手遅れかもだけど」

「でも……」

「俺の心配か?なら大丈夫さ。俺は雨が大好きなんだ」

 そこまで言うと、少女は腫れ物に触れるかのように折り畳み傘を受け取った。

 直撃する雨粒。妙な解放感に耕情は髪をかき上げた。


「ご、ごめんなさい」

「全然! それに天然のシャワーも捨てたもんじゃないな! さて、これからどう……」

「へくちっ!」

 少女のくしゃみが会話を中断させた。顔を赤らめているのが暗闇の中でも確認できた。


「はは、せめて風呂、入って行けよ。知らない人には普通近づいちゃダメなんだが、もう時効だろ?」

「でも……」

「大丈夫。悪いこともしないし、警察にも親にもとりあえず連絡しないから」

 耕情は努めて柔和な表情を作った。


「わ、わかりました。ごめんなさい」

 申し訳なさそうに呟く少女。

 耕情は少女の歩幅に合わせながら、帰路に就いた。



 二人してマンションの一室に帰宅すると、耕情は土間に少女を待機させ、急いで浴室からバスタオル二枚と、足ふきマットを用意した。


「今から風呂入れるから。身体拭いとけ」

 バスタオルのうち一枚を、少女に押し付ける。

 浴槽には蛇口からお湯が勢いよく注ぎ込まれてゆく。


「ご、ごめんなさい」

 少女はバスタオルを申し訳なさそうに受け取り、靴と靴下を脱ぎ、玄関に敷いたマットで足を拭く。


「ごめんなさい、とか。でも、とか。口癖か、それ?」

「い、いやその、ごめんなさい」

「……まあいいや」

 二人はそれから、玄関で一言も発さないまま身体を拭いていた。


 それから五分程経過した。


「さあ溜まったぞ、遠慮せず入れ。一人で風呂入れるよな」

 耕情が沈黙を破る。

 浴槽にはお湯が半分ほど溜まっていた。

 給湯器が無いので一からお湯を張りなおす必要があるのが面倒だ。


「で、でも」

「いいから! 風邪引かれたほうが面倒だから、入りなさい」

 耕情は苦笑混じりに促した。

 すると渋々といった様子で、少女は浴室に足を踏み入れた。


「ふぅ」

 浴室から聞こえてくる女性の衣擦れの音。

 初めての経験は、興奮も感動ももたらさなかった。



「あの、上がりました」

「悪いな、着替えがなくて」

「そ、そんなこと!」

 耕情がなんとなしに謝ると、両手を振ってそれを否定する少女。

 耕情は少女を風呂に入れる前に、比較的小さめのTシャツを持たせていたので、それに着替えた格好だ。

 下のほうは恐らくパンツ一枚な訳だが、シャツがぶかぶかなので、ワンピース風に着こなしていただいている。


「いや、園児のスモッグか?」

「スモッグ?」

「す、スモッグなんて言ってないけど?」

 耕情は胸に手を置き深呼吸をすると、邪念を心の奥底にしまい込んだ。


「俺も風呂入ってくるよ。それまでここ座ってていいからテレビでも観て……」

 そう言ってテレビのリモコンを渡そうとした。しかし。


「嫌っ!」

「えっ」

 両腕を使って頭をかばうような姿勢をとる少女。

 条件反射だ。

 リモコンに拒否反応を起こしたのか、それとも耕情が頭上から物を渡そうとしたのが起因したのか。


 耕情は実家で買っていた金魚を思い出した。

 耕情が水槽に近づくだけで、魚たちは水面から顔を出し口をパクパクさせていた。

 毎日餌を与え続けたが故に、耕情を視覚した金魚たちは餌をもらえると思い、口を開けていたのだ。

 しかし、今回の話はそんな可愛らしいものではない。

 耕情は自分の配慮の欠けた行動を反省した。


「ごめん! 叩くつもりなんて毛頭ないから。ほらこっち来て好きな番組見てな」

 ベッドに座る耕情は、自分の隣のスペースをぽんぽんと叩き少女に座るよう誘導する。

 耕情はベッドにそっとリモコンを置くと、テレビの電源を付けた。


「この子の抱えている問題、随分根が深そうだ」

 少女に聞こえないよう、独りごちた。



 風呂場には水滴が滴っており、少女が利用した痕跡が残っている。

 耕情は湯船の中で思案を巡らせていた。

 少女の現状を鑑み、警察にどういった説明をすれば正解なのか。

 少女はきっと相当な覚悟をもって、家を飛び出してきたのだろう。

 だが耕情が警察に引き渡したところで、元の木阿弥で終わる可能性が高い。

 現状を打破するには親子関係の修復や、最悪の場合親権の変更や破棄が考えられる。

 しかしそこに赤の他人である耕情が介入する余地などはないだろう。


「俺は何をしてやれる……明日も仕事だし」


 耕情はシャワーの水滴と思考で重くなった頭を左右に振ると、勢いよく湯船から上がる。

 身体を拭き、着替えを済ませ、少女の待つ部屋に戻ると、少女は熱心にテレビを視聴していた。


「なんだ、ニュース観てたんだ。偉いじゃん。俺なんて未だに堅苦しい情報番組は毛嫌いしちゃうのに」

 画面には愛らしい小動物が器用に木を登ったり、餌を食べる映像が映されていた。


「はは、そっか。動物好きなんだ」

 耕情は少女の隣に腰かけた。二人は同じ香りを共有している。


「べ、別に……」

「いいんだよ。思ったことは好きに言って。子供なんだからさ」

 耕情は少女に微笑みかけた。

 少女のやたら謙遜してしまう癖も、家庭環境から生まれたものなのだろうか。


「でも……」

 ぐるるるるる……。

 耕情の隣から、空腹を告げる合図が鳴る。


「はは、お腹のほうが素直らしいな、ちょっと待ってな」

 耕情は立ち上がり、キッチンへ向かった。


「ご、ごめんなさい」

 羞恥に顔を赤くしながら俯く少女がどうしようもなく幼気で、耕情は頭を撫でてやりたくなったが、すぐに手と邪念を引っ込めた。


「牛肉って食べれるよねぇ?」

「は、はい」

 ベッドのあるリビングはキッチンと一体化しているので、少し離れた場所から耕情はそう質問すると、少女は健気に声を張って答えた。

 会話の後、耕情はレンジにコンビニで買ってきた商品を入れた。

 耕情はキッチンから、少女はリビングのベッドからテレビを眺めていると、やがてレンジから温めの完了を知らせる音が発せられた。

 耕情は温まった中身を耐熱皿に半分移し、プラスチックのスプーンと共にそれらを手渡した。


「はい、牛丼お待ちぃ」

 白い湯気を放つ牛丼半人前が、少女の小さな手の中に納まった。


「牛丼、食べたことない? 美味しいよ」

 牛丼をじっと見つめるだけの少女が可笑しくて、耕情は尋ねた。


「いえ、チルド食品は便利なので」

 どうやら馴染みのある料理らしい。

 その若さで添加物の多い商品のお世話になっているのも、問題はありそうだが。


「だな、じゃあ食うか! 頂きます」

 耕情は初めて自分の家で食材に感謝を示した。


「い、いいんですか?」

 両手を合わせたのと同時に少女は上目遣いで尋ねてきたので、耕情は無言で首肯した。


「いただき、ます」

 少女は皿を膝の上に置き、両手を合わせた。

 耕情は牛丼を掻き込むように箸で食べ始める。

 それを確認した少女もスプーンで中身を掬い、食べ進める。

 無言の食事。

 部屋を満たすのは、テレビの音と咀嚼音のみ。

 時折耕情は隣を確認し、食事に集中する少女の横顔を盗み見ては、満たされた気分になっていた。


「美味しい?」

 不意に、耕情は問いかけた。

 すると少女はスプーンを止める。


「…………」

 何も答えない。


「ど、どうしたの?」

 食べかけの牛丼を暫く見つめていたかと思えば。


「うっ……ぐす……」

 唐突に、泣き出したのだ。


「え、その、どうしたの?口に合わなかった?無理して食べる必要なんてないぞ?」

「ち、違う、違いますっ……」

 突然の事態に動転する耕情に対して、涙声で否定する少女。


「そ、のみっ……想実っ、こんなに、あの……」

 言葉がうまく出てこない様子の少女。

 想実そのみという名前なのだろう。


「お、落ち着けって。ゆっくりでいいから」

「こんなに優しくされたの、初めてで……!」

「えっ……」

 そんな理由で少女は、想実は泣いていたのだ。


「ごめんなさいっ、想実のために、迷惑かけちゃって……!」

 飽和状態だった想実の感情が爆発したのだろうか。


「何にも迷惑なんて思ってないよ。当たり前のことさ。想実ちゃんは何も悪くない……!」

 気が付けば耕情は、涙を流す想実の肩を優しく抱き寄せていた。

 そして耕情の瞳にもまた、涙が浮かんでいた。

 想実が直面している境遇は、計り知れない。

 だからこそ耕情は確信した。


「想実ちゃんは、幸せになるべきだ」

 耕情は約束の言葉と共に、明日からの予定を練り直すのであった。



 翌日の朝。


「目覚まし鳴ってない……て、おい! 大遅刻じゃん!!」

 耕情は寝ぼけ眼でベッドの中からスマホを確認すると、表示された時刻に驚愕し、途端に覚醒した。


「あ、違うわ。休み取ったんだった」

 しかし冷静さを取り戻しつつある頭で、昨日の出来事を思い返していた。

 夕飯の後、耕情は会社の上司に連絡を取り、有給を取得していたのだ。

 それからは、想実の今後について一人考え込んでいた。


「俺がしてやれること、それは……おっ」

 そこまで呟くと、来客用の布団から物音が聞こえてきた。想実が目覚めたのだろう。


「おはよう」


「ふわ……はっ! す、すいません! 私まだ何にも準備が……!」

 目を開けるや否や跳ねるように飛び起き、あたりをキョロキョロしだす想実。


「ここは実家じゃないよ。ゆっくり歯でも磨いてきな」

 朝からこの慌て様。この幼さで家事を任されていたのだろうか。


「す、すいません」

「謝ることなんてないよ。顔洗ったら、少し話そう」

 スマホの時計は朝の十時を示していた。

 平日に惰眠を貪れた幸せで、耕情は少し上機嫌だった。



 起床後、二人は身支度を整え、ある施設へ向かう。

 耕情は、昔親戚から譲り受けた白の軽自動車を走らせる。


「あの、どちらに向かってるんですか?」

 想実は恐る恐るといった様子で質問した。


「へへ、到着してからのお楽しみだ」

 耕情のマンションから車で三十分の場所。目的地はそこにあった。


「そういえば今、何歳なの?」

 耕情は車内に流れるCDの音量を絞りながら尋ねた。


「え、六歳です」

「小学生?」

「いえ、来年から」

「そっか。楽しみ?」

「……わからない」

「はは、だよねー」

「ご、ごめんなさい」

「いや、実際わかんないよね。でも友達出来るときっと楽しいから。いい子だからすぐできるよ」

「そんなこと……想実、見てるとイライラするって……」

「……親に言われたのか」

「……」

 無言で想実が頷いたのを耕情は横目で確認した。

 空気が重くなる。プレイヤーから流れるガールズバンドの楽曲が、空元気を振りまいているように聞こえる。


「大丈夫。俺は一緒にいて楽しいよ。趣味とかあるの?」

 フォローを入れることでまた謙遜されるのも嫌なので、耕情は続けざまに質問をした。


「ど、読書とか……家の本を読んだり」

「例えばどんな本?」

「それは……小説とか、漫画とか、です」

「その年で活字に触れてるなんて偉いじゃん。本読むの楽しい?」

「は、はい」

 わずかに微笑む想実。それを見て耕情は安堵した。


「そっか。まぁそんなこんなで目的地が近づいてきた。ここからちょっと歩くよ」

 耕情は車をパーキングエリアに停車させ下車すると、助手席のドアを開け、想実を抱えながら車内から出した。

 目的地まであと数分。耕情は右手を差し出した。


「えっと……」

「手、繋いでてくれるか」

 耕情がそう言うと、想実はしばし耕情を見つめた後震える左腕を上げ、差し出された手を掴んだ。



 快晴の昼間。目的地に到着した想実は、巨大な看板を見上げ、口をあんぐりと開けていた。


「ここは……」

「そう! 動物園。動物さんたちを間近で見れるんだ」

 昨日想実が観ていたニュース番組の動物特集。

 動物たちの愛らしい姿に目を輝かせていたのを、耕情は記憶している。


「来たことは?」

「ないですっ」

 想実は食い気味に答えた。

 わかりやすく興奮している。とりあえず喜んでくれたようだ。


「えっと、大人一人、未就学児?一人で」

「では五百円なります」

「え、安いじゃん」

 大人五百円、未就学児無料。受付でチケットを購入するとゲートに通される。


「いってらっしゃーいっ」

 近くにいた係員が高い声を出すと共に、想実に手を振った。


「い、いってきます」

 想実はか細い声で返したが、表情に穏やかな微笑を湛えていた。


「うひょー!人少ないねー」

 園内に入場してもすぐに動物と会えるわけではない。

 動物ごとにエリア分けされており、全ての動物と出会うには効率よく園内を回る必要がある。

 平日の正午。人が少なく、閉園まで時間もある。


「な、なんで」

「ん?」

「なんで動物園に来たんですか? 何か理由があるんですか?」

 無償の行為に疑問を浮かべる想実。


「そうだなぁ、想実ちゃんが動物さんに興味ありそうだったからかな? 昨日そう思って」

「わ、私の為……?」

「何も不思議がることないよ。やりたいことや行きたい場所があればすぐに行動を起こせるのが大人だ。なら子供はどうする?」

「……わ、わかりません、すいません」

 耕情は謝る想実の頭に手を置いた。


「駄々こねて大人にお願いするのさ。買ってとか行きたいとか言ってな。それが出来ないなら大人が勝手に施してやるさ」

「でも……」

「大丈夫。徐々に我がままになっていけばいいさ。子供のうちに色々おねだりしとかないと損だぜ?」

そこまで言うと、耕情は想実の頭に置いた手を離し、園内のパンフレットを握らせた。

「さあ、どこに行きたい?」

「……じ、じゃあレッサー……」


 ぐるるるるる……。


 耕情の隣から空腹を告げる合図が鳴る。

「あはは、またお腹に先越されちゃったか。レストラン入ろうか?」

「そ、想実……」

 顔を真っ赤にする想実。何度見ても飽きない。


「想実、食いしん坊じゃないですっ!」



 動物園に併設されているレストランは、平日ということもあり、昼間でも客は少なかった。

 メニュースタンドに掲示されてある料理は、子供向けのものが多い。

「なんでもいいからな?ちなみに俺はこの一番高いステーキセットにする。想実ちゃんも気にせず選びなさい」

「じ、じゃあカレーで……」

「普通のカレーか? なんかうさぎカレーってのもあるけど。可愛くない?」

 耕情はライスがうさぎを象った、いかにも子供向けそうなメニューを指さした。


「わっ、可愛い……そ、それにしようかなぁ」

 そう言うと想実は、恥ずかしそうに耕情を見上げた。

「い、いいですか」

「無論じゃ」

 耕情は大きく首を縦に振ると、券売機で食券を購入した。

 出てきた食券を店員に渡し、席で二人暫く待っていると料理が運ばれてきた。


「お待たせしましたー」

「ごはんが、うさぎっ、すごいっ」

「おぉ、いいなー想実ちゃん」

 カレーの具は細かくカットされており、子供でも食べやすそうだ。

 耕情は子供の頃によく食べた、キャラクターもののお子様カレーを思い出していた。

 これならチルドの牛丼よりはずっといいだろう。

 同時に耕情の料理も運ばれてきた。特筆すべき点もない、ステーキとライスとスープのセットだった。


「いただきまーす」

 そう言って二人は合掌し、料理を食べ進めた。

 ステーキに関しては可もなく不可もなく、付け合わせも普通だった。

 だがうさぎの顔部分を避けながらカレーを食べる想実が幼気で、しかし最終的にごめんなさいと小声で漏らした後、うさぎの顔を食べ出した想実がいじらしくて、耕情はそんな彼女を眺めて満足していた。


 腹ごしらえが済み店内を後にするも、相変わらず平日の動物園は閑散としていた。

「さーてと! 楽しみだなぁ、何から見よっか」

 耕情は伸びをしながら、想実がずっと凝視しているパンフレットを覗いた。

 閉園時間は午後五時。今から最大で四時間以上楽しめる算段だ。


「そ、想実が決めていいんですか?」

「あたぼうよ」

「じゃあ、レッサーパンダ、見たいです」

 思い返せば先日のニュース番組でも、レッサーパンダが登場していた気がする。

 耕情は想実の手を握ると移動を開始した。


「おっきな鳥……なんですかあれっ」

 レッサーパンダがいる場所までの道すがら、想実はさまざまな動物たちの誘惑を受けていた。

「エミューだってさ。わ、凄い、想実ちゃんこれ見てみなよ。エミューの卵だって」

「わ、黒くて、大きいですっ。でもダチョウの卵のほうが大きいですよっ」

「へぇー、こう比べて見ると鶏の卵って小さいんだなぁ」

 ケースに鳥の卵が大きい順に並んでいる。エミューは世界で二番目に卵のサイズが大きく、その上がダチョウだ。

 耕情が動物園に訪れたのは小学生以来だが、知識欲を満たす動物の生態や姿等に触れ、少なからず興奮していた。


「こ、怖い……」

「え、どうしたの?この子怖いの?」

「は、はい。ごめんなさいお馬さん」

 想実が次に見つけたのは野間馬、ポニーだった。

「あーあ、可愛いのに嫌われちゃったなぁ。俺はお前のこと好きだよ」

 ポニーを仕切る柵が低いので、威圧感を感じてしまったのだろうか。

 普通の馬と比べてぬいぐるみのような毛並みが印象的だ。

 耕情はのそのそと歩くポニーに慰めを入れた。

 耕情たちは移動を再開する。レッサーパンダまであと少し。


「ふわっ、なんですかこの音」

 コーコーと甲高く鳴く動物の声に、想実は驚愕した。

「タンチョウ……鶴だってさ。白くてきれいだなぁ」

 その美しさと希少性が、特別天然記念物たる所以なのだろう。

 タンチョウは泣くのを止めると、飼育小屋に備え付けてある水辺にくちばしを付け、魚を捉えようとしていた。

 いつの間にか耕情と想実の手は離れていた。金網を両の手で掴み、動物に夢中になる想実の表情は、年相応のものだった。


「うぉーカバだ!でっかいなぁーこりゃ」

 サバンナ地帯をイメージしているのか、水辺に隣接している陸地で、カバが乾燥した草をむしゃむしゃと食べていた。

「なんだか怒ってるみたいです」

「ふふ、そうだな」

 確かにしかめっ面で草を食べているように見える。

 ポニーの倍以上は体格の大きいカバには怖気づかない想実が不思議で、耕情はクスリと笑った。

 カバに飽きたのか、想実は辺りを見渡すと、わが意を得たりと言わんばかりにある場所へ駆け出して行った。


「来てよかったよ、本当に」

 耕情は呟くと、想実の後を追いかけた。


「うわぁ、可愛い……」

 てくてくと何気なく歩く姿や、木に登り葉っぱをむしゃむしゃと食べるレッサーパンダを、動物舎越しに眺める想実の目の輝き方は、他の動物たちの比ではなかった。

「良かったなぁ。お目当ての動物さんがいて」

「はい……」

 視線をレッサーパンダに向けたまま答える想実。完全に虜にされている。

 彼らは確かに愛らしい姿をしているが、よく見ると鋭利な爪を備えている。

 これで簡単に木に登ったり、物を掴んだりしているのだ。

 この爪は引っ込めることもできるらしい。

 想実はそんなレッサーパンダに夢中になりつつも、立ちっぱなしで疲れたのか、足を度々屈伸させていた。


「見終わったら休憩する?」

「い、いいですか、すいません」

 相変わらずの謝罪癖だが、その表情は楽しげだった。

 長い時間をかけレッサーパンダを堪能すると、二人並んで木製のベンチに腰を下ろした。


「お、お兄さん」

「ど、どした?」

 想実に初めてお兄さんと呼ばれ、耕情は気恥ずかしくなった。


「この後、ペンギンの、ご、ごはんタイムがあるみたいなんですけど……」

「へぇ、いいじゃん。休憩したら行こっか」

 耕情が答えると、想実は破顔して喜んだ。


「あ、近くでソフトクリーム売ってるじゃん。ちょっと行こう?」

「は、はい」

 耕情が立ち上がると、それに続き想実も後をつけた。


「結局一周回ってチョコが一番美味いんだよなぁ。想実ちゃんは好きな味ある?」

「ば、バニラ」

 それを聞き、耕情は財布を取り出した。


「うわー四百円かぁ、足元見やがるよ」

 料金表を見て、耕情が小さく垂れた。

「あ、想実は別に……」

「おっといけない……すいませーん、バニラとチョコくださーい」

「八百円になりまーす」

「あ、う……」

 想実が遠慮する前に、耕情は注文を済ませた。


「へっへー、もう頼んじゃった」

「ご、ごめんなさい」

「謝るな想実ちゃん。ベンチに戻って食べよう」

「は、はい」

 耕情と想実は店員からそれぞれソフトクリームを受け取ると、ベンチに戻って休憩の時間を過ごした。


「はむっ、今のところどの動物さんが一番好きだった?」

 耕情はソフトクリームを唇だけで加えながら尋ねた。

「それは、もちろんレッサーパンダですっ」

「もちろんなんだ……」

 確かにほかの動物たちとは食いつきが違った。


「……お、お兄さん」

「どしたの?」

 手の中のソフトクリームに視線を合わせながら、口を開く想実。


「想実、これから……」

「想実ちゃん?」

「い、いえ、何でもないです、すいません」

「そう?遠慮せず何でも言っていいんだよ?」

「いえ、その……ぺ、ペンギンのごはんタイムがそろそろ……」

「ああそっか、じゃあそろそろ行こう」

 二人はソフトクリームを平らげると、ペンギン広場へ向かった。


「それではこれから、フンボルトペンギンのごはんタイム始めさせていただきますー」

 二人がペンギン広場に到着するのと同時に、飼育員がやってきた。

 プラスチック製のバケツを手に持っており、中にはアジが大量に入っている。

 客は思いのほか集まっていたが、それでも十数人程度であったため、二人は労せず最前列を確保できた。

 子連れの主婦、写真家、若いカップル、老夫婦。様々な客層の中で、耕情たちはさしずめ、子連れの主夫といったところだろうか。

 二十匹近くのペンギンが、バケツを持った飼育員のもとにぞろぞろと集まっていくのを見て、小さな歓声が沸いた。

 取り合いになるのを避けるためか、一匹一匹手渡しでアジをペンギンに食べさせていく。

 鋭いクチバシに当たれば怪我は避けられないだろう。


「わぁ……」

 観客たちの声に紛れ、想実も息を漏らしていた。

 小さな身体で細長いアジを丸呑みにする姿は見ていて気持ちがいい。餌にありつけたペンギンはプールに飛び込み、羽を広げ優雅に泳ぎ出す。暫くすると、また餌をねだりに来る。

 鳥と同じだ。ペンギンには歯がない。餌を丸呑みし、消火液で溶かす。

 しかし年老いてくると、飲み込む力が弱くなっていく。

 この広場にも同様のペンギンがいた。飼育員から餌を貰うも、うまく呑み込めない。

 飲み込もうとしてアジの頭を潰してしまい、余計呑み込みずらくなるからだ。結果吐き出してしまう。吐き出されたアジは、水中や地面に落ちる。それを拾いに行きもせずに新たな餌を無心しに行く。

 そんな図々しいとも取れる行動を何度も繰り返すペンギンを見て、耕情やほかの客はもちろん、想実も終始笑顔になっていた。


「可愛いなぁ」

「はいっ。うわぁっ、ふふ」

 餌に夢中になるペンギンに夢中になる想実。

 ペンギンによってアジの好みが分かれるらしい。特に、頭の黒いアジはあまり好んで食べない。

 飼育員がペンギンにしっぽからアジを食べさせた。

 するとそれを受け取ったペンギンは、クチバシで器用にアジを反転させ、頭から飲み込んだ。ウロコが引っかかるからだ。

「おぉ、凄い……」

 それを見て想実は感嘆を吐いた。


「それでは、ごはんタイム終了でーす」

 観客たちは、こぞって飼育員に拍手をしていた。

 十数分のごはんタイムに耕情と想実は終始釘付けだった。


「いやー、可愛かったね」

「はいっ、と、特に餌を何度もねだりに来る子が可愛くてっ」

「うんうん」

 積極的に感想を述べる想実が珍しく、耕情はペンギンたちに心の中で感謝した。


「まだ見てない動物さんもいるから見よっか」

「は、はいっ」


 それからは閉園時間が近づくまで、園内をひたすらに回った。

 耕情がチンパンジーの桃尻を興味深く観察していると、想実は気味悪がって暫くそっぽを向いていた。

 ホッキョクグマが水面にダイブした際の衝撃音に想実はびっくりして、間抜けな声を上げていた。

 想実がでかい犬と言って眺めていたのがオオカミであることを耕情が告げると、得意の赤らんだ顔を披露してくれた。

 そのほかにも様々な動物を二人は観察したが、想実の一番のお気に入りはやはりレッサーパンダだった。


 日が沈みかける黄昏時。名残惜しさを残しつつ耕情は想実と手を繋ぎ、出口を目指す。


「いやー、こんなに歩いたの久しぶりだよ。どう? 楽しかった?」

「は、はいっ、こんな楽しい場所初めてです……」

「そっか、来た甲斐があったってもんだ」

「で、でもごめんなさい。想実のために来てくれたんですよね……時間を削って……」

「おいおい想実ちゃん、隣で楽しそうにしてる俺の顔見てなかった? むしろ動物園に行く機会を与えてくれた想実ちゃんに感謝だよ。ありがとう」

 言いながら自身の顔を指さす耕情。

 想実は怪訝そうな表情を浮かべる。


「感謝……」

「うん、感謝。感謝ついでにこのまま晩御飯もご馳走させてよ。行きたいお店とかある?」

「そんな、そこまでしていただかなくても……!」

 慌てたように耕情の顔を見上げる想実。


「へへ、何言っても無駄だよ? もう俺の中で外食は決定してるから」

 シニカルに笑う耕情に対し、想実は逡巡する。


「ぎゅ、ぎゅうどんっ」

「はは、流石にそれは無しでお願いするよ。想実ちゃんも二日連続は嫌だろ?」

「べ、別に」

「うーんそうだなぁ……」

 繋いでいない側の手を顎に添える耕情。


「あ、あそこならいい。想実ちゃん、魚は食べれる? もちろん丸呑みじゃないよ?」

 問いかけに想実は首を縦に振ると、耕情は納得したように頷き、二人で園内を後にした。

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