短編 96 君と夜風と花束と 無月編
またしても『君と夜風と花束と』です。今回は無月君のストーリーとなります。
無口なピアニストである無月君の真実に迫る!
そんな話です。
それに気付いたのは幼稚園の時だった。
自分は他の人とはなんか違う。漠然とした違和感を感じたのは、確かにこの時だったと思う。
自分は男として生まれてきた。股間に付いてるのは確かに男性器だ。そして自分は確かに男だと思う。女装したいとは思わないし、女言葉を使いたいとも思わない。化粧なんてしたくもないし、スカートも履きたくない。
でも……好きになったのはみんな男の子だった。
女の子の友達もいた。それは友達だ。男の子の友達もいた。
強く惹かれるのは男の友達の方だった。
何となく危険なものを感じた。幼くても何か致命的な事になる、そんな感じがした。だから僕は黙っていた。
そして周りを見るようになった。
親には聞けなかった。誰にも聞けなかった。だから僕は黙っていた。僕は『無口な子供』として周りに認識されるようになっていた。
自分が『おかしい』と確信が持てたのは小学校に入ってから。友達みんなに好きな人が出来た。みんな違う性別の人だった。
女の子の友達は男の子を好きになった。
男の子の友達も女の子が好きになった。
みんながそうだった。
それでも僕は女の子が好きになれなかった。
女の子の友達。一緒に遊ぶし一緒に給食を食べたりもする。でも胸は熱くならない。ずっと一緒にいたいとも思わないし触れていたいとも思わない。
抱きついていたいと思うのはいつも男の子。
僕は自分がおかしい人間であると自覚した。
そして僕の世界は真っ黒になっていった。
うちにはピアノがあった。昔、母親が弾いていたピアノだ。音は狂っていたが、まだ弾けた。
自分がおかしいと自覚した自分は家に引きこもるようになった。学校には行く。でもそれだけ。親しい友達も作らずにピアノをメチャクチャに叩く日々がしばらく続いた。
割れた音が僕の心にぴったりだったから。だから僕はピアノを叩き続けた。
でも両親は僕の様子を見て勘違いした。
熱心にピアノを叩く僕を見て、ピアノ教室に通わせる事にしたのだ。
この時、僕は既に言葉を発しなくなっていた。ふとした時に自分がおかしいということを言ってしまうかもしれない。そんな恐怖で僕は言葉を出せなくなっていたから。
ピアノ教室は狭い部屋で先生との一対一だった。すらりとした女の先生。それは特になんとも思わないがピアノの音には驚いた。
家のピアノとはまるで違う音が出てきたからだ。
思わず先生の事を忘れてピアノを叩き続けた。割れてない音なのに僕の心は不思議と癒されていった。
気付くと僕は先生に羽交い締めにされ止められていた。僕の爪が割れてピアノの白い所が紅くなっていた。真っ赤だった。指先の感覚は無くなっていた。
先生は大絶叫して助けを呼んでいた。
子供心に『大袈裟だなぁ』と思った。すごく怒られたけど。
とりあえず病院に連れていかれて治療してもらった。
病院に来た両親はドン引きしていた。爪が割れるまでピアノを弾く子供。
あ、これも危険な感じがする。
そう思ったが、手遅れだった。
両親は僕をもて余していた。無口で何を考えているか分からない子供。それが狂ったようにピアノを弾く。
怖かったのだろう。口を閉ざしていた僕がいつも恐怖していたように。何をするのか分からない。何を言われるか分からない。その恐怖は僕も同じだったのだから。
僕が口を閉ざしたように、両親は僕を切り離す事にした。
僕はピアノの才能を伸ばすという名目でピアノの先生に身柄を押し付けられたのだ。
子供心に『そりゃないよ?』と思った。
まだ小学生の低学年。
あっさりと養子に出された。
でもピアノの先生はその無茶ぶりを何故か受け入れた。
こうして僕は先生の子供になることになった。
この時の事がどうしても気になって、大人になってから先生に聞いたらこう答えてくれた。
『だってイケメンだったし』
うん、先生はそういう人だった。正直で明け透けで……真っ直ぐな人。
僕は先生の下でピアノを習いながら成長していく事になる。
相変わらず無口なまま。でも両親よりも仲良くなれた。少なくとも一緒にいて恐怖する事は無くなった。
先生も……ちょっと変わっていたから。
先生には沢山の友達がいた。男もいれば女もいた。年寄りもいれば若いのもいた。
でもうちに遊びに来るのは可愛い女性ばかりだった。
先生は……可愛い女の子の事が大好きな人だったのだ。
先生は普通に教えてくれた。自分は女であるけれど『女性』が好きであると。特に好きなのは、可愛い女の子。女子高生は超さいこー! と鼻息をふんすーと荒げて語ってくれた。
自分はそのとき小学生。
かなり冷たい瞳で先生を見てた覚えがある。でも先生との距離は縮まった。多分先生も僕に何か感じたのだろう。
僕は相変わらず無口でピアノを弾いてばかりだったけど……少しだけ気が楽になった。
ちょっと問題が起きたのは僕が小学生の高学年に差し掛かった辺り。
何故か女の子から告白をされまくった。先生が嫉妬するほどに僕は女の子から告白を受けまくったのだ。
勿論全部お断りした。無言で首を振ってお断りした。好きでもない人と付き合うことは出来ない。それに僕にはピアノがあった。
先生のもとに来て大体3年。ピアノの事が少しだけ分かってきた時期だった。毎日発見がある。毎日挫折がある。夜までピアノを弾いてて先生に羽交い締めにされて練習を止めるのも、しょっちゅうだった。
僕は最初に言われていた。
『君には恐らく音楽の才能は無い』
先生に真顔で言われた。
だろうなー。僕もそう思っていた。先生のピアノと自分のピアノ。音が違う。僕の音はいつも怒ってる。
先生の音とまるで違う。
僕も分かってた。僕はピアノを弾いていない。ただ叩いているんだと。
『それでも続けたければ続けなさい。止めたくなったら止めなさい』
先生は優しく言ってくれた。
『でも爪が割れるまで弾くなー! このおバカー!』
そしてものすごく怒られた。まだ爪が割れてた時の話だ。僕がまだ……先生の子供になる前の話。初めて先生と会った直後の話。
そこから3年。
毎日ピアノを叩いて。
先生の演奏を聞いて。
僕はピアノが楽しいものだと感じ始めていた。
そんな時に学校で告白ブームが押し寄せてきたのだ。
困った。普通に困った。
相手にするのが、とにかく面倒。
先生は『イケメンの宿命ね』と言っていた。
僕はどうやら学校でイケメン扱いされていたらしい。
無口で寡黙なピアノボーイ。
学校の女子がキャーキャーとうるさくて逃げ回る日々が続いた。
女子が騒ぐのだから男子も当然騒いだ。女子が騒いでいるのが面白く無かったのだろう。僕は男子から総スカンを食らうことになった。
元々誰とも親しくしていなかったので全く困らなかった。
僕は男の子を好きになるが、それにも好みというものがある。学校の男子にそういう人はいなかった。
こうして僕の学校での孤立はどんどんと進んでいった。
いつの間にかピアノの貴公子と呼ばれるようになったのは中学生になってから。
中学生になっても相変わらず僕のピアノは酷かった。まだ弾くではなく叩く癖が抜けなくて先生はいつも苦笑いしていた。
『イケメンパワーがすごすぎて演奏が誤魔化されてるわ! なんかずるい!』
そんなことを言われても。
とりあえずピアノを叩いたり弾いたりする日々が続く。
中学生になると告白を受ける回数が更に増えた。先輩や他校の女子からも告白を受けまくった。
正直意味が分からない。
よく知りもしないのに付き合ってくださいと言われて首を縦に振る奴がいるのだろうか。
このぐらいの時から僕は女に嫌悪を抱くようになっていた。
僕は好きでもなんでもないのに、女の子が勝手に僕の恋人を騙り自慢する。それが学校で横行したのだ。
僕は基本的に喋らない。
女の子達による『否定しないから肯定とみなす』という謎理論で学校は荒れまくった。
僕が学校に居られなくなるのも当然だろう。
不登校……は流石に問題なので僕だけリモート授業となった。僕としては、とても楽になったが学校は荒れ続けた。
僕の恋人を自称する女の子達で乱闘騒ぎも起きた。
他校の生徒も巻き込んでの大乱闘が学校で起きたのだ。
僕はドン引きした。
そして女が嫌いになった。
そばに寄られるのも駄目になった。吐く。震える。汗が止まらない。
病院に行ったら精神的なものと言われて薬も出された。全く効かなかったけど。
一緒に暮らしている先生はギリギリで大丈夫だった。
『本当のイケメンってこうなるのねー』
そんなことを軽く言われた。
僕は学校に行かなくて良いことになった。リモート授業も免除になった。女子の声を聞いただけで吐くようになったから。
僕のピアノ時間がその分、増えた。
一日のほぼ全てをピアノの椅子の上で過ごす。
僕の中学時代はこうしてピアノ漬けになったのだ。
そして中学を卒業した僕は音大付属の高校へと進学することになった。
僕にピアノの才能は無い。
しかしほぼ二年間ずっとピアノ漬けになってたお陰で、僕はそれなりの腕になっていた……らしい。
『イケメンパワーが更に上がってるわ! 腕は普通。普通のピアニストには成れそうねぇ。多分試験には受かるわよ』
そんな軽いノリで僕も受験したのだ。
ダメならダメで男子校で相撲取りになろうと思っていた。先生には、ものすごく止められたけど。
入学試験の成績は『普通』だった。悪くもなく、良くもない順位で合格していた。まさに普通。
入学は出来た。万々歳だ。才能が無かったのに入れたのだ。良しとしなくては。
でも登校はどうしよう。
二年間で女性忌避症は多少は良くなったけど、ガンガンに言い寄られたら絶対に吐く。そんな自信は満々だった。
とりあえず先生に相談したらこう言われた。
『イメチェンよ! イケてない男の子に変身しましょう!』
先生提案によるイケてない男の子作戦はこうして発案された。
寝癖全開ボサボサヘアー。
新品なのに何故かヨロヨロな制服。
口許をいつも隠す不織布マスク。
目を隠す為のぐるぐる眼鏡。
ネクタイは新入生なのにへろへろ。
『やりすぎじゃね?』
僕はそう思った。パッと見、変質者にしか見えない。でも鏡で見てみるとそこまで酷くも無かったので、これで行くことにした。ちょっと声を掛けるのに躊躇するくらいの変質者レベルなだけだし。
こうでもしないと自分は学校に行けない。それにピアノを演奏するのに見た目は必要ない要素だ。
ヨロヨロの制服の方がむしろ弾きやすいかも知れない。
僕は意気揚々とダサくて変質者な格好で高校の入学式に臨むことになった。
これなら何も問題ないと。
……担任となる先生に注意されまくる事になったけど。
流石に駄目だったらしい。
一応病気の事はきちんと学校に知らせていた。
それでも初日からヨレヨレ変質者スタイルはダメだったそうだ。
それでも学校に行けた。
女子もいる高校に僕は行くことが出来たのだ。その日は先生と先生の恋人達に囲まれてお祝いをすることになった。
先生の恋人が年々増えていることに若干の恐怖を抱きつつ僕はこうして高校生となったのだ。
あまりにもダサい普通の男の子として。
僕が進学したのは音大付属の高校なので入学してくるのはみんなプロを目指すような生徒達。
無口でダサくて普通の僕なんかに積極的に関わってくる人は皆無だった。
みんなストイックで真面目。
毎日勉強勉強で僕もみんなから刺激を受けていた。
自分には本当に才能が無かったんだなぁと見せつけられもした。
イケメン補整を失った僕は先生達から微妙な評価を受けていた。
普通。とても普通。もっと頑張りましょう。
悪くないのが良いところ。
そんな評価を全ての先生から頂いた。
僕は嬉しかった。ようやく正当な評価をしてもらえた事に嬉しくて泣いてしまった。
先生や同級生には悔し泣きしていると思われていたが。
高校一年はクラスメートの背中を追って慌ただしく過ぎていった。
高校二年になると体が急に伸びた。ゴムみたいに、びよーんではなく、身長が上に伸びたのだ。
ヨレヨレの制服は更に酷い感じになった。つんつるてんで、手足が出た。一年で制服の仕立て直し。ある程度の余裕はあったのに。
高校二年で僕の体は一気に大人になっていったのだ。
まず真っ先に自覚したのは手が大きくなった事。
ピアノが弾きやすくなった。
これは普通に嬉しかった。
あと足も伸びてペダルを踏みやすくなった。
これも嬉しかった。
毎日全身に激痛が走るのは辛かったけど。
寝癖だらけのボサボサヘアーも一年でかなり伸びた。さらにボサボサになった。
不織布マスクは外した。ボサボサヘアーで顔の大半を隠せるようになったから。
入学式から着けていた、ぐるぐる眼鏡は僕のトレードマークになっていた。
僕の体が一気に大人になって……一番喜んだのは実は先生だった。
『やはり私の見立ては間違ってなかったわ! 超イケメンよ! 私の息子は超イケメン! そろそろ私の事をママと呼んで欲しいなー?』
うん。先生はそういう人ですから。
学校ではダサいけど家の中ではちゃんとした格好をさせられていた。
先生の恋人がもりもり増えてて怖くなったのも、この時だ。
僕の体が大きくなって……ピアノの音も少し変わっていた。
学校の評価も『普通』から『やや良い……かも』に変わった。
毎日ピアノに向かっているから気付き難かったが、僕も成長していたらしい。
同級生には『成長しすぎだ!』と驚かれた。ピアノではなく見た目の方で。
同級生が僕に話し掛けてくるようになったのもこの時だ。
僕は喋らない生徒として有名だった。ボサボサ頭でぐるぐる眼鏡で無口でなんかいきなり大きくなった……すごい変な生徒だとは自分でも思う。
制服もヨレヨレだし。
同級生はすぐに僕が退学すると思っていたそうだ。まぁ才能は無いのでそう思われても仕方無い。
でも一年経ってその評価は変わっていた。
『才能は無いけど誰よりも努力している無口な変人』
そんな評価に変わっていた。
やっぱり変人に見えるんだなぁ。自分もそう感じているので文句はない。
友達が一気に増えた。
男も女も関係なく僕に話し掛けてくるようになった。
友達とは言えないかも知れない。ただの同級生というだけで。
でも僕は嬉しかった。
相変わらず僕は言葉を喋らない。無口なまま。
それでも良かった。
良くない事になったのは夏のコンサートだ。
高校二年の夏。生徒は課題曲を披露する。学校内のコンサートで観客を呼んでの大きなイベントだった。
卒業生や著名人も招待する大規模な催しだ。
当然ながら僕の見た目はあまりにも不適とされた。
ママ先生に相談したら『……そろそろ本気を出すときが来たみたいね』と言われた。
とりあえず面倒なので頷いておいた。
自分は燕尾服に覆面でも被ろうかなと思っていたが、ママ先生とその恋人達は許してくれなかった。
夏のコンサートは大騒ぎになったのだ。
コンサートのあとはいつものダサい格好に戻った。
勿論手遅れだった。
夏以降、僕は練習室に籠る日々が続いた。前から似たようなものだったから不満はない。苦でもない。
女の子達から熱烈にお世話される事を除けばだが。
僕の体質、病気の事は同級生に知らされることになった。女の子が苦手で近付きすぎると吐く。
実際に夏のステージで吐いたのでみんな信じてくれた。吐いたのが演奏が終わった後で良かったと思ってる。まさか視線と歓声だけで吐くとは思わなかったけど。
同級生の女の子達も距離を置きつつ接してくれる。元々そんな感じだったのでそれは良い。
でもお菓子とかジュースとかを頻繁にくれるようになったのは、やはり夏のコンサートのせいなのだろう。
女の子は明らかに対応が変わっていた。
男子は特に変わりなし。むしろ同情されて、より仲良くなった。
女の子に囲まれてガタガタ震えているところを助けてもらうこともしばしば。
不思議なもので先生達からの評価も少し変わった。
『やや良い……かも』から『本気を出したらすごいな、君』に変わった。
最初から本気だったんです。僕の全力は『やや良い……かも』なんです。
でも授業で教えてもらったのだ。
どんなに腕があろうと、見た目がある程度良くないとプロとしてやっていけない。見た目は大事! あと人とのコミュニケーション能力も必須なのだ! と僕を名指しして教えてくれた。
喋らないけど筆記で意思疏通は出来る。メールでも。
そこまでコミュニケーション能力が壊滅的と言うわけでもない。
でもクラスメートはみんな頷いていた。一年の時の授業の一幕だ。
腕だけではプロになれない。
才能だけでは売れないのだ。
世知辛いなぁと思ったのを覚えている。
夏以降、僕にはモデルのお誘いが沢山届いていた。学校関係者経由での依頼だ。
勿論全部断った。
そんなことをしてる暇があるならピアノを弾いていたい。
僕は才能のない人間だ。でもピアノが大好きだった。
ずっとずっと弾いてきた。弾けるようになったのは多分最近の事になるんだろう。ずっとピアノを叩いてきた自分なのだから。
モデルの誘いや取材の類いは僕には要らない。
ピアノがあれば、それで良い。
なんて思ってたのにママ先生経由でモデルのバイトをすることになった。
ママ先生を睨んだら目を逸らされた。
ママ先生の恋人達も目を逸らした。
敵は身内にいた。
高校二年の夏から僕の生活は慌ただしくなっていった。
怒濤の波に翻弄され、気付けば春がやって来ていた。気が付けば高校三年生。僕は少しだけ大人になっていた。
高校三年の春。僕は相変わらずダサい格好で学校に通っていた。ちょこちょこバイトをしつつピアノを弾く日々。
『ピアノだけでやってけると思うなー! これはママの愛なのよー! ……ごめんなさい。ママ反省してるから。ほら、大人には断りきれない頼みってのがあるのよ』
大人の世界に触れた僕は少しだけ大人になった。
確かに僕の才能は春になって『やや良い……かも』から『やや良い』になっただけで学年でも下位に属するだろう。
ピアノ以外でも生きていける道を用意するのは当然と言える。
最近は芸能事務所からのお誘いもすごい。それが『演奏家』としての誘いなら僕も考えた。でも全ての誘いがモデル、タレントなので断った。
弾かせろ。
僕はピアニストだ。
たとえ才能が無くてもそれが僕の矜持。
モデルのバイトはあくまでバイト。
高校生三年の春はこうして始まった。
僕の通う高校は大学付属の高校である。だから大体の生徒がそのまま大学に行ってプロを目指す。学生の内からプロになる人もいて、海外に留学する人も結構な数に上る。
僕は『やや良い』だけの生徒なのでそんな話は来ない。
先生達もその辺りはきちんとしていた。
『アイドルになってみんかねー!』
と教頭には言われたが。
勿論断った。あまりにもしつこいので消火器をかけてやった。
何故か先生達の評価は上がった。同級生からも評価された。
春から一月の謹慎を食らったが、僕はピアノに明け暮れる事になった。
順風満帆。
他人にはそう見えていたのだろう。
しかし僕は絶望に飲まれていた。
男友達が何人も出来た。とても良い人達だ。一年生の時は塩対応だったが、今では普通に接してくれるようになった。困った時は助けてくれるし、僕も助ける、そんな関係だ。
僕よりも才能に溢れた友達。大体の人が僕よりも才能豊かなのでそれは気にならない。
むしろ良い刺激になった。
問題は……僕が彼らを好きになってしまった事だった。
僕は男だ。それは間違いない。
女の子のような格好をしたいとは思わないし、女の子っぽい事をしたいとも思わない。
僕は女になりたい訳じゃない。女の心を持ってる訳でもない。
でも好きになるのは、やっぱり男だった。
触れていたい。一緒にいたい。抱き締めたい。抱き締めてもらいたい。
そんな感情が胸に溢れた。
僕のピアノはまた荒れていった。
先生の評価も変わった。『やや良い』から『青春だねぇ』に変わった。
苦悩が音に現れている。そういうことらしい。何故か成績は上がったが僕の心は晴れずにモヤモヤだけが溜まっていった。
何故自分はこうなのか。
どうして男を好きになるのか。
絶対に言えない。
男が好きだなんて。
言ったら全てが壊れてしまう。
家で泣き崩れているとママ先生に慰められた。分かっていたのだろう。僕が男にしか好意を抱けないということを。
『……恋人はちゃんとママに紹介してね?』
……分かっていた……はず。うん。真顔だったので多分。
ママ先生の恋人達も慰めてくれた。こっちはちゃんと分かってた。苦労話とか聞けた。
『仕方無いよ、好きなんだから』
この一言で僕は少し楽になった。
『で、刺されたいの? 刺したいの? どっちかなー?』
そう聞いてきたママ先生の顔面にはシュークリームを投げつけておいた。
僕にも反抗期があったのだ。
結局僕のモヤモヤは晴れることなくピアノは無駄に色付いた。
先生達からは『うむ! これなら大学でもやっていけるぞな!』とお褒めの言葉も頂いた。
高校三年生。僕は恋をしたままピアノを弾き続けたのだ。
その年の事だった。
大学の方のコンサートでとんでもない事が起きたと噂になった。
本来出るはずだった学生の代わりにステージに上がった人が何かをしでかしたと。
当時の自分は丁度風邪を引いて寝込んでいた。なので、あとで同級生から話を聞いた形になる。
その代打の人は歌で人々を泣かしたという。
病み上がりで学校に行ったらそう説明された。
『……たまねぎ?』
筆記で聞いた。
秒速で玉ねぎ違うと突っ込まれた。
なんかすごい事になったらしいが、その全てが謎だという。
元々代打というのはコンサートの前に知らされていたそうで、その人の時は丁度トイレに立ったりした人が沢山居たそうな。
なので聞けた人はそこまで多くない。
でもとにかくすごかった。
というのが噂になっていた。
元々風邪を引かなくても、大学のコンサートには行くつもりが無かったから微妙な気持ちになった。
この噂の人物。
僕の中では『玉ねぎさん』とこっそり呼ぶようになった。
家に帰り、ママ先生に何か知っているかを訊ねたら『あなたにはまだ早いわ!』と必死な顔で止められた。
絶対に知らないと確信した。
ママ先生はピアノ教室の講師。それも可愛い女の子が専門だ。僕の時は体験教室だったから受け持ったそうな。
交遊関係は広いけど、なんでも知ってる訳じゃない。
『そろそろお母様って呼んで欲しいなー』
うん。こういう人なんだ。
学校はしばらく噂の『玉ねぎさん』で持ちきりになった。
大学に訪ねにいったクラスメートもいた。でもそれらしき人とは出会えずに、時間は過ぎていった。そしてまた夏がやって来る。
コンサートの季節が。
高校三年生の夏コンサートは、ある意味で大学入試も兼ねている。付属なのでエスカレーター式なんだけど、このコンサートが生徒の実力を見る場にされていた。
なので今回はいつものダサい格好で弾かせてもらった。
僕の実力をちゃんと見てもらう為なのでママ先生も笑顔で送り出してくれた。
このときの僕の評価は『ん~そこそこ』だった。
僕も成長したものだと思う。
入学したときは『普通』だったのだから。
夏のコンサートは一般にも解放されるが会場が満員になる程のものではない。何せ高校生のコンサートだ。
しかし今年は客席が満員で立ち見も出たという。
高校生のコンサートなのにすごいなと思った。
もしかして『玉ねぎさん』が出るのか?
とも思ったけど、そんな人は居なかった。
高校三年生の夏コンサートは満員ではあったけど波乱もなく終わった。
終わったあとで問題が起きたらしいけど、それは知らない。
高校生最後の夏。ずっとピアノが側にあった。高校生最後の秋もそうなると思っていた。
秋。僕は恋をした。
そんな広告のモデルになりました。
恋ならしてる。ずっとしてる。なんなら半年ぐらい前から。
僕は秋に大規模なバイトをすることになったのだ。
これはママ先生経由のお仕事になる。外国に行ってまで撮影する気合いの入ったお仕事だった。学校にも『うちの子がピアニストだけでやってけるかー!』と直談判してあっさりと許可がおりた。
一週間の海外旅行。保護者のママ先生も同伴する撮影旅行だ。
この間の授業は後に補習という事になった。
色々と言いたいこともあったが我慢した。
生まれて初めての海外旅行。
ワクワクが止まらなかった。
中学では修学旅行前に不登校になった。
高校にはそもそも修学旅行が無い。外国の先生とか普通に来てるので。
いつものようなダサい格好ではなく普通の格好で僕は外国に飛んだ。
そして吐きまくった。
モデルの仕事をしている間も吐きまくった。
仕事はなんとかこなせたが、二度とこんな仕事を受けるかと心に決めた。
あのママ先生ですら激昂していた。杜撰で適当すぎる仕事だったのだ。イケメンパワーでなんとかなっただけで本当に酷い仕事だった。
初の海外旅行は嫌な思い出しか残らなかった。
そして傷心のまま季節は冬になった。
高校生最後の冬。
こたつにミカンで年を越した。ママ先生とママ先生の恋人達と一緒に賑やかな年越しをした。
『ハッピーニュー……ラバー!』
うん。去年もそんな感じだったね。恋人が二十人越えはおかしいと思う。
でもそれだけ多くの人が僕と同じような悩みを持っているって事でもある。
結局僕の恋は秘めたままで燻り続けていた。
『音がエロい! エロいわよ!』
ママ先生にも言われた。
好きな人に好きと言えない。伝えることすら破滅をもたらすのだから。
大学に行っても今の同級生の多くは一緒に授業を受けることになる。
ずっと苦しむのかなぁ。
そんなことすら思ってしまう。
こたつで凹んでいたら優しく抱き締められていた。
ママ先生はこういうとき側に来て、黙って僕を抱きしめてくれる。
『……無理矢理はダメよ? 薬やお酒で正気を失わせてからが勝負!』
とりあえずミカンの皮で目潰ししておいた。ぶしゅー。
『眼がぁぁぁぁ!』
と部屋を転がり回るママ先生を眺める間に年は変わっていた。
高校生最後の冬はこうして過ぎていき。
僕は普通に卒業した。
高校を卒業しても特に感慨は無かった。すぐ近くの大学に通うようになったのだから感激しようがない。
大学生ということで制服は無くなった。僕はとてつもなくダサい服装で大学に通うようになった。
頭ボサボサにぐるぐる眼鏡。
ダボダボのシャツと上着とズボン。そして白のスニーカー。
センスの欠片もないコーディネートで変装はばっちり。
ピアノを弾くに当たり、見た目は関係無いのだから。
でもこの格好は大学の教授にもダメ出しされることになった。
流石にそれは無かろうよ、と。
同級生がみんなお洒落なのに一人だけダサいので、とにかく目立ったのだ。
女の子なんてミニなスカートとか履いてた。どうせ練習するときはジャージに着替えるというのに。
体質の事は有名だったので一応許してもらえたが、もう少し何とかせい、と言われてしまった。
これは同級生達も同感だったようだ。
髪型を変える。眼鏡をとる。服を変える。
せめてどれかをやってくれと熱く言われてしまった。
僕の大学生活はこうして少し変化することになったのだ。
お洒落な服装で頭ボサボサぐるぐる眼鏡である。
教授も同級生もみんなが深いため息を吐いていた。
そんな、ため息吐かれましても。
大学では高校よりも更に踏み込んだ授業をやった。でも基本はピアノをどれだけ弾いているかに掛かってくる。
一日の半分は必ずピアノの前にいた。
それでも評価は上がらない。大学は高校より、もっとすごい世界だった。
現在の評価『ん~そこそこ』がどの辺なのかも僕にはよく分からない。多分そこそこなのだろう。
大学には高校から上がってきた人以外にも結構な数の学生が入学していた。全体の四割が新しい人達だ。
僕よりも遥かに上手い人もいれば、そうでもない人もいる。
みんなプロを目指していた。
大学卒業後にプロになれるのは一握り。どこかのオーケストラに入ったり歌手としてやっていけるのは本当に一握りなのだ。
あまりにも厳しい世界。
僕も少しだけ後悔していた。
相撲取りになれる道も少しは開拓しておくべきだったと。
ちゃんこ鍋を今からでも頑張って食べるべきなのか。
入学からしばらく経って、僕はそんな事を思い、悩んでいた。
ピアノが伸び悩んでいる、というわけではない。
大学から入ってきた新入生が目の色変えて探し回っているのだ。イケメンなピアニストを。
イケメンすぎるピアニストとして僕は外の世界で有名になっていた。
バイトでモデルをしていたのがここで噴火してしまった感じだ。
学校内だと僕イコール頭ボサボサぐるぐる眼鏡で通じる。高校から上がってきた人達も当然それで通じる。
僕が女性に近寄られると吐くこともみんな知ってるし、ピアニストとして微妙な事も知っている。
僕が変装してることも、無口なことも勿論知ってる。
でも新しく大学に入ってきた人達はそんな事など知らなかったのだ。
『イケメンはどこよ! どこなのよ!』
と騒ぎ立てる新入生が続出したのだ。
つまりただの現実逃避で、ちゃんこ鍋を食べたいなーと思っていただけである。
でも……本当にプロになりたいのならば。
持てるものを全て使うのが正しい道なのだろう。僕もいつかは変装を止めなくてはいけない。
ママ先生に相談したら『拒絶反応が無くならないと死ぬわよ?』と真顔で言われた。
僕も同感だ。
今も女性に近寄られると強い拒絶反応が出る。大学での自分は頭ボサボサぐるぐる眼鏡なので、わざわざ近付いてくる女の子は居ない。だが道の曲がり角は危険スポット。
出会い頭でリバースしたのも一度や二度ではない。
大学で自分に付けられたあだ名は『眼鏡ライオン』だ。
高校から一緒の友達は何かと助けてくれる。本当にありがたいと思っている。
みんな真面目に練習しているので、大学に入ったばかりだけどプロ確実か、と教授達に言われてる。
僕も誇らしく思う。僕の友人達はすごいんだぞ、と。
大学から入ってきた学生は……なんか違う。浮わついているというか、フワフワしているというか。毎日練習はしているのだろうが、何となく不真面目な気配が滲んでいた。
『イケメンを出しなさいよ! そのためにこの大学に来たんだから!』
学生の事務窓口でそう騒いでる女子の群れを見て納得した。
僕の変装はまだまだ続く。多分卒業まで、この頭ボサボサぐるぐる眼鏡なんだろうなぁ。そう思いながら練習室に逃げ込んだ。
大学生になっても僕の生活は変わらない。ピアノを弾く日々が続くだけ。
評価も全く上がらない。
『ん~そこそこ』
これでプロになれるのかなぁ、とママ先生に相談したりもした。
『若い頃のお母さんよりプロ向きよ? お母さんは嫉妬で狂いそうです。だからこの仕事受けてくれる? 受けてくれるわよねー?』
やぶ蛇だった。
押し付けられた仕事はママ先生の恋人が関連する地方のイベントで、賑やかしとしてステージに上がるお仕事だった。
地方のイベントということで目玉がない。
なのでお願い! イケメンパワーで盛り上げて! 演奏も出来るから!
とママ先生の恋人に頭を下げられた。別にお仕事じゃなくても頼まれたら普通に手伝うつもりだった。
そう言ったらママ先生と恋人の両方に怒られた。
プロを目指すのなら、そこのところをきっちりしなくてはならない。
安売りは誰も幸せにならないのだと。
でも格安でお願いします! 地方のイベントなので予算が!
とも言われた。うん。そうなると思ってた。だってママ先生の恋人だし。
こうして僕は大学生として勉強する傍ら、日本全国を飛び回ってイベントの賑やかしをするようになったのだ。
ママ先生と恋人達も同行し、ローテーションを組んでの日本全国家族旅行だ。
なんかそれが本当の目的にも思えたが、気にしない事にした。
色々な所に行った。温泉にも行った。山にも行った。川にも行った。田んぼの真ん中で演奏したりもした。
……蛙は可愛かった。うん。
そんな風に過ごす日々。いつしかピアノの評価が変わっていた。
『ん、良いよ』
なんで毎回口語なんだろう。友人達もこればっかりは困り顔だ。
才能豊かな友人の評価は『いける!』だとか『やったね!』になるらしい。みんな苦笑いしてた。
そして少しでもサボってると『辞める?』という評価が付くらしい。怖い。大学超怖い。
『辞める?』が三回連続すると退学になる、なんて噂も友達から聞いた。
高校から上がってきたメンバーに『辞める?』をもらった人は居ない。受験して入ってきた人達は結構な数で出たらしい。あくまで噂だけど。
春が過ぎ、夏が終わって秋が来る頃には生徒の数が減ってる感じがした。多分気のせいだと思うけど。
秋。
大学一年生の秋である。
僕はずっとピアノと旅行で忙しくしていた。
大学の季節恒例コンサートの出席は教授達からストップを掛けられていたので、一年生の中で僕だけがのんびりとした感じになっていた。
絶対に騒ぎになるからと、同級生達にも止められた。
頭ボサボサぐるぐる眼鏡には許されなかったのだ。一応大学の正式なコンサートになるので。
なので見る側の勉強と割りきり、ママ先生と一緒にみんなの演奏を聞くことにした。
ステージの上で驚愕する友達の顔が印象的だった。ママ先生と手を繋いでいるところをバッチリ見られていた模様。
みんなすごい驚いていた。
それでも演奏に影響を出さないところに彼らとの隔絶した実力差を感じた。
これが『いける!』の実力なのかー。
と思ってたらコンサート後に囲まれた。おめかししたままの友達全員に囲まれた。まだ人もいる客席は一気に妙な空気に包まれた。
その空気をぶち壊したのは、ママ先生だ。
『私はこの子の母親だー! 血は繋がってないけど私がこの子のママ先生だー!』
この時ほどママ先生の度胸に震えた事はない。
とりあえず控え室に移動して話をすることになった。
なんで客席で叫んだんだろう。
この疑問はその日の夜。お風呂に入ってるときに浮かんできた。
友達とママ先生の会話は普通に行われた。普通に。
次の日からみんなの見る目がとても優しくなった。
そんな大学一年だった。
秋が過ぎ、冬が明けての春、爛漫。僕は大学二年になっていた。
大学二年になってもやることは大して変わらない。毎日ピアノを弾いて、休日にはイベントに出る。
謎のイケメンピアニスト、地方の祭りに飛び入り参加!?
そんな学校新聞も大学に張られるようになっていた。
……間違いなくバレてる。
でも頭ボサボサぐるぐる眼鏡の僕に突撃してくる人は居なかった。
イケメンハンターだった人達は大半が消えていたのだから。
二年に上がれたのは一年生の七割くらい。三割が一年で落第した。『辞める?』の評価を受けた学生達だ。
噂は噂ではなかった。
震えながらも教授に教わる日々が続く。
二年になると他の学科とのセッションや合同授業が増えていった。プロの予行練習みたいなもので、色々な人と音を合わせることになったのだ。
僕はピアノ。相手はオーボエ。そんな組み合わせも普通にあった。
色々な人、楽器と合わせる授業。
僕はちょくちょく吐くことにもなった。
プロを目指すのならば、どうしても慣れなければならない事でもある。ソロでの仕事なんてプロになったらまずあり得ない事なのだから。
ママ先生達と全国のイベントに行って知ったのだ。
プロであれ、アマチュアであれ。多くの人に支えられてステージは成り立つということを。
一人では絶対に成り立たない。
それが音楽家だったのだ。
でもなるべく男性と仕事をしたいなぁと思うのも事実。そして優秀な人の割合は女性の方が圧倒的に高いのもまた事実。
現実は中々に厳しいものだ。
相変わらず同級生の男の子達には心惹かれる日々。僕も自分が惚れっぽいのでは? と思いもしたが、そうではない。
頑張る人は輝いている。だから僕は友達に惹かれていた。
輝いていない人を全国各地のイベントで見たからようやく分かった。輝いている人に性別は関係ない。
男であれ女であれ、光を放つ人には惹かれるものなのだ。
僕が側に居たい。触れていたいと思うのはやはり男性だったけど。
女性でも尊敬出来るし、憧れも持てる。でも好きになるのはやっぱり男性。
ママ先生からは『早く恋人を連れてきなさーい!』と催促される日々。
いつかは僕もここまで吹っ切れる事が出来るのだろうか。
大学の友人には何も言えない。
言ったら今の関係や今までの関係も崩れてしまう気がしたから。
親しい友人達にも相変わらず無言を貫く大学二年はこうして進んでいった。
そんな大学二年の中盤戦。気が付けば僕以外のみんながプロデビューしているという摩訶不思議な事態になっていた。
みんな実力があるのは分かっていた。高校の頃から実は噂になっていたらしい。大学の季節恒例コンサートの演奏を見たプロの方々から友達全員にオファーが来たのだ。
うちの楽団にちょっと来てみないか。
今度アーティストの演奏を頼まれたんだけど君もどうかな。
地元でコンサート開きませんか?
等々。みんなそれぞれ違うけど、一線で活躍する人達から、お仕事のオファーが舞い込んだのだ。
ある意味僕も各地のイベントに出てはいるけど、それはプロの仕事とは言えない。田んぼの真ん中で蛙の為にピアノを演奏するのはプロ違う。楽しかったけどさ。
何となくモヤモヤした。
この頃から評価が『人間味が出てきました。ハラショー』となった。教授の一人はロシア人。
モヤモヤが全て音に出ているはずなのに高評価されるという謎。友達全員からも音に深みが出たと言われる始末。
……音楽って奥が深いなぁと思った。
大学二年はみんなが忙しく動いた時期だった。大学の授業の傍ら、プロに混ざって社会勉強。みんながそんな感じだった。
とても意外な事も後に判明したけれど。
みんなの中では僕が一番プロとして動いているように見えていたそうだ。モデルをしたり、各地のイベントに出たりしてたのがその理由。
僕としては微妙な感じ。モデルはバイトだし、各地のイベントは家族旅行のついで、という感覚なのだから。
通例であれば、院生として学校に残りながらオーケストラの空きを探す、というのが学生の進路となる。進路というか就職活動か。
定年なんて無い世界。腕はあって当たり前。才能と努力、そこにプラスで何かを持っていないとプロにはなれない厳しい世界。
僕らの学年は卒業前に内定者が続出という異例の学年となった。
……僕の進路は全然決まって無かったけど。
アイドルのスカウトはあった。全部断った。
専属モデルのオファーもあった。全部断った。
ピアニストとしてのスカウトは皆無だった。一人泣いた。
やはり才能か。才能なのか。『ハラショー』と『いける!』ではそんなにも違うのか。まぁ聞けば分かるくらいに差があるので納得ではあるのだけど。
有名なアーティストのライブで演奏を経験した友達がいた。観客に蛙は居なかったそうだ。
海外の大きな劇場でオーケストラに参加した友達もいた。コンサートでは酔っ払いの乱闘は起きなかったそうだ。
地元のコンサートホールを貸しきりにしてソロコンサートを開いた友達もいた。ステージに興奮した観客がよじ登ってきたりはしなかったそうだ。
……遠いなぁ。そんな感想を持った。
友達はみんな苦笑していたが。
みんなが少し遠くに感じた、そんな大学二年はあっという間に過ぎていく。
大学三年生。僕も成人を迎えてお酒が飲める年齢になった。お酒は全く飲まないけど。
ママ先生達に勧められて少し口に含んだらぶっ倒れた。体質的にアウトだったらしい。丸一日寝込んだ。
大学三年生になると教授達から酒盛りのお誘いが解禁される。そしてみんな酔い潰されるのが恒例行事となる。ここでお酒と大人の怖さを学生に叩き込むらしい。
僕はその宴会の端っこで唐揚げをつついていたけれど。
お酒は大人のコミュニケーションツール。だから飲めなくてもそれを利用する練習は必要だ。ママ先生と恋人達の大宴会である程度は慣れていたが……酔っ払った学生は酷かった。
うん。みんな我慢し過ぎていたようだ。
何故か宴会の最後は僕への説教タイムになった。みんな僕に一言物申したくて仕方無かったらしい。
僕は自分が優れた人間だとは思ってなかった。でも他人から見るとすごく恵まれた人間に見えたそうな。
イケメンで努力家で少しずつでも着実に伸びてるすごい奴。慢心もしないし手を抜くこともない。お前は本当に人間かっ!
と管を巻かれた。
イケメンなのに女でゲロ吐くとかキャラ立ちすぎ! ずるい! 変装も酷すぎて逆にずるい!
と地味な女の子にも叫ばれた。
とりあえず頷いてその場をやり過ごした。ママ先生達でこういう時の対処法には詳しいのだ。
高校からの付き合いなので、みんな容赦なかった。僕への愚痴は酒盛りになると毎回開催される事にもなった。
教授達は笑ってた。
そこは助けて欲しかった。毎回同じ愚痴は疲れるんです。
大学三年。普通なら進路で学生がピリピリし始める頃。この年は、いつもの流れと少し変わっていた。
僕ら三年生は他の大学との合同イベントで、てんやわんやすることになったのだ。
お前ら進路決まってるから暇だろ。一丁かましてこい。
教授の一人が暴走した結果そうなったのだ。
三年生の主力と、そのおまけで僕もイベントに駆り出された。
この手のイベントはプロになっても役に立つ。社会勉強に最適。
進路が決まってるとそんなカリキュラムに変更されるようだった。僕の進路は決まって無かったけど。
日本各地の地方イベントに現れるイケメンピアニストとしてなら、オファーはかなりある。
うちのイベントにも是非!
そんな依頼がひっきりなしだ。
ママ先生と恋人達は温泉のあるなしで決めてる感じがしないでもない。
今はそれで良いと思う。
僕もプロのピアニストという形では出ていないので。
名前も『謎のイケメンピアニスト』としてステージに立ってるし。
……でも翻って考えてみる。
これもひとつのお仕事かな? と。
恐る恐る友達にも聞いてみた。これはプロの仕事になりますか? と。勿論筆記で。
みんな呆れた顔で僕を見た。
他校との合同イベントで僕は馬車馬のように働かされた。無口でも出来ることは沢山あったのだ。楽譜配りから椅子の準備に至るまで。
バカな事を考えてないで現実を見ろー!
と叱咤激励されながらの馬車馬だった。ひどい。
他校とのイベントは一緒に行う演奏会だけではなく、各校による団体戦演奏勝負も行われた。
……僕は負けた。僕だけが負けた。
頭ボサボサぐるぐる眼鏡というだけでマイナス評価がすごかった。
純粋なピアノの腕では多分僕の方が上。
それでも負けた。
見た目も大切。そんな理由らしい。見た目で負けた。なんか微妙な気持ちになったが、参加している学生全員のアンケート採点による結果なので、これが世間の評価なのだろう。
友人達は不満そうな顔をしていたが、それが現実。
イベントは無事に終わった。事故も問題も起きることなく、平穏にイベントは終了したのである。
大問題が発生したのはイベントが終わった後の打ち上げパーティーでだ。
ここで大乱闘になった。
特に大暴れしたのがうちの大学の女性陣。
男性陣もすぐに参戦してとんでもない事になった。
僕は用事があって早々に打ち上げパーティーを退散したから、それを知ったのは翌日の事になる。
事の発端は『頭ボサボサぐるぐる眼鏡』に対する他校からの苦情、だったらしい。
なんであんな学生をこういうイベントに連れてきたの?
正論ではある。僕もそんな人が居たらきっと疑問に思うだろう。
でもそれを小馬鹿にした感じで聞いてきたらしい。お酒は怖いね。
僕らを引率していたおばあちゃん先生がそれを側で聞いていた。真っ先に大暴れしたのが、このおばあちゃん先生だったのだ。
おばあちゃん先生はテーブルにあったお酒の瓶で小馬鹿にした学生をズゴンした。頭はヤバイから太ももに振り下ろしたそうだ。
そして太ももを押さえて悲鳴を上げるその人の顔面に女性陣が蹴りを放ったそうな。
そこからは大乱闘。
うちの大学三年生は教授達によって、酒の席のイロハがみっちりと叩き込まれている。
みんな何故か酔拳とか使えるのはそういう事だ。いや、どういう事なのか。
事の起こりが起こりなので、乱闘は酒の席でのお茶目、という事で手打ちにされた。大人だね。
教授達も『よくやった!』とみんなを褒め称えたそうだ。
……うん。僕もお礼を言うべきなのか、諌めるべきなのか少し悩んだ。
多分……僕を擁護する所から始まった乱闘になるのだろうが……。
大学で再会した友人達とおばあちゃん先生がすごく晴れやかな顔をしていたので、ただ単に暴れたかっただけなのかなぁとも感じてしまったのだ。
お酒は怖いなぁと思った。
そして……こんなにも素敵な友人に、今も黙り続けている自分に対して嫌気が差した。
僕の秘密を。僕の異常を。
みんなに打ち明ける時が来た。そう決意した。
僕は無口ではあるが喋れない訳ではない。家の中やママ先生達と居るときは普通に喋っている。
『もっと! もっとイケメンな息子の声を! お母さんは聞きたいの!』
とママ先生が騒ぐ程には喋っている。
大学三年生の冬。
三年生と教授達でまた酒盛りを開くことになった。忘年会とも言う。
僕はここで全てを話すことにした。
ママ先生にも、そう告げた。
『……あなたの望むようにしなさい。何があっても私はあなたの母親。あなたの味方よ』
ママ先生のその手にビデオカメラが無ければ僕も泣いていただろう。
『当たって砕けろー! 骨は拾うわー!』
『おー!』
恋人達もそんな感じだった。
あとから思えば彼女達には確信があったのだろう。自分達が苦しんできた道を僕も歩んでいた。悩み苦しむ僕の心をよく知るのは彼女達自身が経験してきた苦しみでもあったのだから。
忘年会。僕は変装せずに宴会のお店にやって来た。帽子とサングラスをお店の中で外した形になる。
もはや素顔では外を歩けない。それぐらいに僕は有名になっていた。
そんなつもりは微塵も無かったのに顔だけはとても有名になっていた。
お祭り大好きなイケメンピアニスト。
違うんだけど、そうなった。違うんだけど。
既にお店の中ではみんなが程よく出来上がっていた。僕が忘年会に遅刻して来たわけじゃない。みんな早めに来て騒いでいたのだ。
教授達も勢揃い。おばあちゃん先生も一升瓶を抱えている。
少し考えた。次の機会にしようかと。
でも話すことにした。
全て。
僕の口から。
まずは変装していない自分の姿に呆然として固まるみんなに声を掛けるところから始まった。
ここからが僕の人生におけるクライマックスと言える。
でもそれを話すまえに少し休憩を挟むことにした。
「……うん。まだ続くんだな?」
「……ええ」
ここはキャバレー『十六夜』
僕が今日面接を受けている場所である。そして目の前にいる人はここのバーテンダーにして最高の歌手『クモハチ』さんだ。少し疲れた顔をしているような気がする。大丈夫だろうか。ここからが山場なのに。
「三回目の面接でまさか身の上話をされるとは思わなかった」
「……どうしてもここで働きたいので」
そう。僕はここに面接を受けに来て二回も落ちている。今が三回目の面接の真っ最中ということになる。
一度目は頭ボサボサぐるぐる眼鏡で落とされた。二回目はイケメンスタイルでやっぱり落ちた。
どちらも『ん~。ここでやっていくには未熟過ぎる』との評価を頂いた。
それでも諦めきれない僕はママ先生直伝『泣き落としの術』を使うことにしたのだ。
身の上話をすることで情に訴える。困ったときはこれでなんとかなるとの太鼓判付き。
僕はなんとしてもここでピアニストになりたい。未熟なのは承知の上。それでもここでピアニストになりたい。クモハチさんがいる、ここ『十六夜』でピアノを弾かせてもらいたいのだ。
「……女に出る拒絶反応って治ったのか?」
クモハチさんが腕組みして唸っている。
「側にいるくらいなら大丈夫です。抱きしめられると吐きます」
僕の体質もかなり改善された。今なら曲がり角での出会い頭も大丈夫。少し、うっ! とするけど耐えられる。
「……う~ん」
やっぱりクモハチさんが唸っている。
でも前回よりは反応がある気がする。この人の評価は容赦が無い。前回、前々回、一緒に面接を受けた人はみんな泣いて去って行った。
「腕は未熟……でも女にだらしなくない。それだけでも十分か」
……むむ? これはもしかして好感触なのだろうか。クモハチさんが真剣に考えてくれている。
「うちの歌姫が色気ムンムンなお姉さんなんだけど……大丈夫か?」
「……セクハラされたら吐きます」
「だよなぁ」
本気で心配している顔をされたら嘘は言えない。彼も誠実な人なのだ。僕の話をずっと聞いてくれた人なのだから。
でも僕の望みは完全に断たれた……かに思えた。
「いいんじゃないかな。この子はまだ若い。ここで育っていく姿を見るのも楽しそうじゃないか」
そんな声が聞こえて来た。お年寄りの男性の声。びくんとして声のした方を向くとお化けが居た。バーテンダーの格好をした……多分バーテンダーの人だ。
いつの間にかキャバレー『十六夜』の店内に初老のバーテンダーが立って居た。にこにこ笑う朗らかなご老人がぽつんと薄暗い店内に立っていたのだ。すごく上品そうな人で結構小柄。お化けに見えたのは今の時間、お店の電気を最低限にしか点けていないから。
「おやっさん……ってことはもう夕方か。……もうそんな時間か!?」
クモハチさんが驚いていた。
お昼から面接していたので、すごい時間話していた事になる。僕もちょっと喉が痛い。
「そろそろ店も開けたいから演奏家が一人欲しかったんだよねぇ。これも縁だよ、クモハチ君」
おじいちゃんは笑顔で言った。
「……カグヤ大丈夫ですかね?」
クモハチさんは心配顔だ。
「それも縁だよ。大丈夫なようになればいい」
クモハチさんは依然青い顔をしているが、おじいちゃんの方は、にこにこ笑顔の好感触。これは……いける?
「……なるほどなぁ。確かにこれも縁。よし、君をここのピアニストとして迎え入れたい。しばらくは大変かも知れないが……」
「よろしくお願いします」
僕はクモハチさんの言葉に被せるようにして頭を下げていた。
僕はキャバレー『十六夜』で働ける事になったのだ。嬉しさが込み上げる。
三度目の面接で僕は何とか合格をもぎ取れた。ママ先生直伝の『泣き落としの術』のお陰だ。太鼓判は本当だったのだ。ありがとうママ先生。でも恋人はもう増やさないで欲しいな。30人を越えると家が狭くて大変です。
まぁそれはそれとして。
ちょっと気になることがある。心残りとも言おうか。なんかすっきりしない感じ。
「……さっきの続きも話しますか?」
僕の話は途中で止まってる。あそこからが山場。むしろここを話さないとダメな気がする。
「いや、もう大丈夫だ。大体のことは分かった。というかこれから急いで店の掃除もしないといかんし」
「そうだねぇ。良い友達を持った。今の君を見れば分かるものだよ」
……話したかったんだけどなぁ。
大学四年生。僕は友達と遊ぶことを覚えた。悪い遊びではなく、みんなでどこかに遊びに行ったりするくらいの小さな冒険。
僕の性癖暴露は思ってもみない結果を生んだ。
男にしか恋愛感情的なものを感じない。
僕はそう言った。
だからどうした。
友人達はそう言った。
女に興味が無いことは百も承知。もしかしたらそういう嗜好なのかもとは思っていた。
高校から僕を見てきた友人達は何となく察していた。その素振りはないけど、そうであってもおかしくない。
たとえそうであっても、だからなんなのだ。
自分達が知る『頭ボサボサぐるぐる眼鏡』は闇雲に人を傷付ける人間じゃない。
真面目で努力家で無口な変人だ。
でもお尻の穴は勘弁して?
それが友人達の反応だったのだ。
……僕はお尻に興味は無い。
ちゃんと伝えておいた。
触れたい。抱き締めたい。側に居たい。それで僕は満たされるって。
お尻はノーサンキューだと、ちゃんと伝えておいた。
忘年会は何故かみんながお尻をガードしての不思議な飲み会となった。酔っ払いってノリが変。
教授達も笑顔で尻をガード。女の子達も何故か尻をガード。男の子もやはり尻をガード。
だから尻に興味は無いと言うのに。酔っ払いって本当に変。
でも一升瓶を抱えたおばあちゃん先生が……いや、これは止しておこう。忘年会は荒れに荒れた。おばあちゃん先生は笑顔で……うん。お尻はガードしないとダメだよね。
おばあちゃんの一升瓶はみんなのトラウマとなった。
僕の暴露は友達との関係性を少しだけ変えた。
距離が縮まった。女の子とも距離が近くなった。
だからなに、ということもない。
友達は友達のまま。一緒に演奏したり、講義を受けたり。いつもと変わらない演奏浸けの毎日が続く。
僕の評価はまた変わっていた。
『煩悩が晴れたねぇ。減点!』
成績が落ちた。ここに来てまさかの後退。音の深みが無くなり、代わりに音が柔らかくなった。自分でも別人のような音色にびっくりした。
そしてここからがプロとしての第一歩である、と教授達に言われた。
あの深みを自在に引き出せるようになること。
プロとして何年も経験を積んだ先に、それは成るだろう。先は長い。頑張れ。
激励だった。
色々な体験をして僕のピアノは変わっていった。ピアノの音はその人の心の音。隠せないし、誤魔化せない。
プロはそれを自在に操る事を要求される。技術、表現力は、あって当たり前。その先にプロの世界は広がっている。
……音楽って本当に奥が深いなぁと思った。
自分の音を深めるため、見識を広めるとして、友達と色々な演奏会を聞きに行ったりした。
みんなと遊びに行くようになったのは、そういう事でもあったのだ。
スチールドラムの演奏会は、なんか楽しかった。音が独特で笑いが込み上げた。
バイオリンの演奏会は眠くなった。ちょっと外れだったかも。
和太鼓の演奏会は吐きそうになった。音の振動がずっと胃を揺らすのは頂けない。
楽しかった。本当に楽しかった。
下級生や院生からは『遊び呆けてるぞ、あいつら!』と白い目で見られたが気にしない。遊びも学びになる。むしろ演奏会の後に行われる感想会が本番なのだ。
みんな違う感性を持つ。それがみんなの刺激になる。
でもお酒は厳禁。
みんな熱くなりすぎて酔拳が炸裂。
そんな楽しい冒険の日々。
とある噂を聞いた友達が異色の演奏会へとみんなを誘った。
『満月の日にしか歌わない歌手がいる』
見れたら幸運。会えたら強運。そんなツチノコ歌手として噂されるすごい歌手が居るという。
友人は次の出現場所が偶々分かったそうだ。なのでこれも勉強ということで僕らもそこにお邪魔させてもらう事にしたのだ。
結果としてお邪魔させてもらう事が出来たが、そこに至るまで、ものすごく大変だった。
ママ先生と恋人達にも協力してもらって、ようやく叶ったのだ。本当に大変だった。
大変だったんだけど、まさか演奏会の会場が京都の撮影スタジオだとは思わなかった。
僕はそこで知った。
そこで出会ったのだ。
「……うん。だから話が長いわっ!」
「長いわねぇ。でもそこでクモハチに出会っちゃったのね。そりゃクモハチが悪いわよ。青少年になんて刺激を与えちゃってるのかしら」
「……泣きました」
あのときの衝撃は忘れられない。僕はあのとき心を奪われたのだ。目の前にいるバーテンダー『クモハチ』さんに。あのときは何故か破戒僧の姿をしていた。すごく似合ってた。
「……カグヤとの挨拶がこんな展開になるとは」
「この子なら大丈夫ね。クモハチ目当てで惚れきってるし。むしろライバルかしら」
僕の隣、バーのカウンターに座ってるこの女性はキャバレー『十六夜』の歌姫カグヤさん。彼女は僕が面接を終えて、しばらくしたらお店にやって来たのだ。
すごく色気がムンムンな人だった。本当にムンムンで逆に驚いた。『うわぁ、ムンムンだぁ』と。一目で分かるムンムン加減。すごい人だと思った。
「カグヤも大丈夫そうだな」
クモハチさんは僕らの様子を見て頷いていた。その手にバケツがあるのはきっと念のためだ。
カグヤさんと挨拶がてら僕の話の続きになったのは本当に偶然だ。
どうしてこの店に来たの?
その答えはやっぱり僕の根幹に根差すものなのだから。
「クモハチに惚れちゃった?」
「はい。家族に早く紹介したいです」
正直に答えたけど、カグヤさんは笑顔だった。でも彼女の目は笑ってない。今なら分かる。この人もクモハチさんが好きなんだ。
あの歌を聞けば分かる。男女関係なく、きっと惹かれてしまう。
今のバーテンダークモハチさんにはあんまり惹かれないけど。
ステージのクモハチさんは本当にすごかったのだ。破戒僧だったけど。首に掛けてたドクロの数珠がすごく似合ってた。破戒僧というか妖怪?
「うふふふ」
目の前のカグヤさんもオーラがすごい。
「カグヤさーん。新入りを脅さないでー。目が怖いよー。この店は従業員同士の恋愛禁止だよー。二人しか居ないんだから喧嘩しないでー」
「あら、恋のライバルはノーカウントよ」
「……負けません」
「お前も張り合うな!」
僕の戦いはこうして始まった。
キャバレー『十六夜』
大学を卒業してからようやく見つけたあの人の噂。その噂を追いかけて僕はこの店に辿り着いた。
教授達には僕ら全員が止められていた。奴に関わるにはまだ未熟だと。本当のプロになってから会いに行けと。
まずは、あれと並び立てるくらいのプロになれと。
でも僕は我慢が出来なかった。玉砕覚悟で会いに行き、予想通りに落とされて。
それでも諦めずに足掻き続けた。
友達はみんなプロになって今も必死に頑張っている。あの日からみんな空気が変わった。
プロにも色々ある。三流のプロも居れば、超一流のプロもいる。
僕らは『その先』を知ったのだ。
僕は無謀にもトライして何とか指先が引っ掛かっただけ。慢心は出来ない。
キャバレー『十六夜』で、あの人の側に居られる。でも、まだなにも始まってすらいない。
僕の腕は未熟。
これからが本当の意味での僕の人生が始まるのだと思っている。
目が怖いカグヤさんも一流の歌手。今の僕から見ても天上人だ。
とりあえず友達全員に『彼』とカグヤさんと僕が映ったスリーショット写真を送っておいた。
『就職できましたー』
と一言添えて。
すぐに呼び出されてみんなから吊し上げにあったが悔いはない。みんな超怖かった。
教授達も勢揃いして、すごい吊し上げにあったが後悔はない。全員が超怖かった!
でも僕は負けないよ。
僕は『十六夜』の『無月』
まだまだ自力では輝いていない未熟者。それでも諦めることはしたくない。
あの輝きに魅せられて僕は彼に惹かれたのだ。
いつかママ先生の元に『恋人』として彼を連れていくその日まで。
僕は決して諦めない。
今回の感想。
なげーよ。