敗れざる者
うつぼ小屋と呼ばれる古い海小屋は、小倉港の西、小次郎が毎朝散歩する浜の少し先にある。海中なら如何にもうつぼが好みそうな岩の間に建ち、地元の漁師が古くなった網や桶などを収めておくあばら家だ。
漁の終る昼過ぎには立ち寄る者が減り、小雨の日の夕刻ともなると、辺りは静まり返っている。
ようやく雨が上がり、小屋の前まで歩いて来た小次郎は、雲間から差す夕日に目を細めた。
暮れ六つの鐘が彼方から響く。
静かに佇み、澄んだ音に耳を澄ます内、お浜を連れた二人の男が小屋から現れた。
林で対した時の黒装束と違い、今は町人風の軽装でお浜へ短刀を突き付けている。その鋭く、せわしない目の運びは忍び特有のものだ。
「おい……そちらの望み通り、ここまで足を運んだんじゃ。お浜の猿ぐつわを取ってくれんか」
敢えて呑気な声音で話しかけてみる。
忍び二名は虚を突かれ、狼狽して顔を見合わせた。
「この娘、キリシタンゆえ舌を噛む恐れは無いが、口を開くと煩うて叶わん」
「罰が当たるだの、悔い改めよだのと、説教臭く我らへ言いおる」
世間知らずで恐れを知らない。ある意味、神がかりの娘に、捕らえた側も苦労したらしい。見た所、意外に若い出で立ちで、隠密としての経験も大した事は無さそうだ。
そんな拙さを裏付ける忍び達の愚痴に小次郎は苦笑し、
「……ま、その気持ちは判らんでもないが、声を聴かせてくれても良かろう」
穏やかに促すと、一人が渋々、猿ぐつわを取った。
「ご主人様っ」
弾ける勢いで、お浜が叫ぶ。
助けを求めるのでは無く、逃げろと警告する訳でも無く、只、駆けつけた主の顔を見てほっとしたらしい。唇を噛み、大きな瞳にこぼれそうな涙を堪えている。
「心安ぅ待っておれ。すぐ助けてつかわすからの」
お浜へ微笑み、小次郎が備前長船の柄へ手を掛けた時、小屋の扉が開き、岩の如き体躯の武士が姿を見せた。
「ほう、三人目も出おったな」
「天下無双の巌流とやら、如何な傑物かと楽しみにしておった。しかし出会うて見れば痩せこけた老犬一匹。その派手好みの猩々緋、俺には爺ぃのちゃんちゃんこに見えるぞ」
両手を交差させ、大刀と脇差を同時に抜き放つ。
こちらは三十代半ばと言う所だろうか。お浜を抱えたままの部下と比べ、身にまとう殺気が一味違う。
「老いぼれ、恥ずかしゅうないか、その年で若い女子にうつつを抜かすなど」
あからさまな挑発を、小次郎は飄々と受け流して見せた。
「どうこうする気は更々無いが、いなくなっても困るわい。その娘、言わば鞘の様なもんじゃで」
「……鞘、だと」
「お浜といると、何故か気が休まりおる。わしという錆びた剣の収め所、浪々の果てに帰る場が見つかりそうに思えてのう」
小次郎の笑みに誘われ、振りかぶった刃が襲う。
それは極めて独特、且つ危険な太刀捌きであった。時間差をつけ、二刀がほぼ同じ軌道で振われる。一方を受け止めても追撃は避けがたい。
連撃の勢いに腰が引けようものなら、一気に猪突する恐るべき剛剣だが、
「やはり、武蔵ではない」
ぼそりと呟く声が小次郎の口から洩れた。
雑木林の薄闇ではなく、この鮮やかな夕陽の下であれば見間違う余地も無い。
昨日、雨の田原町で背中へ突き刺さった眼差し、全身を貫く強烈な気迫に、目の前の武士は遠く及ばないのだ。
「柳生にも二刀を使う亜流、心眼流があると聞く。どうやら、お主が使う剣はそれじゃのう」
「……だったら、どうした」
「お主、武蔵を装ってわしに近づいた後、殺しても構わぬと上役に言われたのであろう。お浜をさらい、脅す相手は最早、わしではない。おそらく我が殿、細川忠興殿」
「ふふ、江戸におわす次の小倉藩主・忠利様が、キリシタン弾圧に及び腰でな。今一つ腹が座っておらん」
「母御がガラシャ殿じゃ。無理もあるまい」
「となると、忠興がご執心の娘を餌にし、操り、汚れ仕事を父の代で終わらせておくのが上策……違うか?」
柳生の男は嘲る口調で吐き捨てた。
実はこの時期、各地のキリシタン大名が次々と教えを捨て、掌を返す勢いで苛烈な弾圧へ走る例が多発している。
それぞれの藩に何があったか、有吉内膳も懸念していたのだが、幕府の謀略が背景なのは間違いあるまい。
新たな藩主が禁教を唱えるより、これまで奨励してきた者達に裏切られる方が信者の衝撃は大きく、教えを捨てさせる効果も高い。禁教の流れを加速する為、手段を選ばない幕府の姿勢が強く感じられた。
他国からの介入、侵略へと至る道筋を警戒する余りに取った苦肉の策なのだろうが……
言葉を交わす間、倍する剣戟が二人の間で閃いた。
徐々に技量と経験の差が物を言い、二刀流の側が圧倒され始めた時、小次郎を目がけて続けざまに石礫が飛ぶ。
仲間の劣勢を悟り、後詰の二人が加勢したのだ。たかが礫と言えど、忍びが放つ場合の威力は侮れない。
小次郎が防戦一方になると、今度はお浜が動いた。礫を握る忍びの腕に飛びつき、命懸けで噛みついて、主を助けようと奮闘する。
「お浜、止せっ」
少女へ短刀を振り上げる忍びに気付き、小次郎は叫んだ。
その瞬間、物陰で何かが蠢く。
いや、蠢いたかと思えば、跳躍し、お浜の方へと疾走する。
その速さ、鬼か、魔物か。
目にも止まらぬ身のこなしで黒い影……編笠を被った精悍な武士が、腰の刀と脇差を同時に一閃させる。
柳生心眼流とも一味違う二刀の妙により、お浜が悲鳴を上げる間も無く、二人の忍びは血飛沫を上げた。
刹那、黒い影と視線が交わり、その強烈な眼光に小次郎は思う。
そうか……こ奴がまことの……
巌流の道場へ押しかけ、門弟をあしらう騒ぎを起こして見せたのは、やはり武蔵本人に違いない。
暗躍する隠密の動きを知り、試合に水を差さないよう牽制しつつ、同時に小次郎へ警告したのではないか?
だとすると、田原町で感じた眼光の主、そして、雑木林で小柄を投げてきたのも武蔵という事になる。
思わぬ援軍だ。そして武蔵と小次郎、強者同士の気迫が響き合い、考えるより先、無意識に体が反応した。
柳生の男が放つ渾身の一撃をかわしざま、八双の構えに転じ、右袈裟から返す刀で一気に斬り上げる。
秘剣・燕返し。
三尺二寸もの長い剣が作る独自の間合いと、絶え間なき習練が生んだ切っ先の鋭さが一撃で敵の命脈を断ち切った。
微動だにしない柳生の男を見下ろし、小次郎は己の勝利を噛み締める。
しかし、安堵も喜びも無い。小倉に来て以来、余人の眼に触れさせなかった切り札を小次郎は使い、事も有ろうに一番見せるべきではない相手へ晒したのだ。
柳生の先兵、忍びどもの死を確認した時には、黒い影は既に姿を消していた。
恐怖に足が竦んだまま、ふらふらとお浜が近づいてくる。
この時、小次郎は内心、強い危機感を覚えていた。戦う前に相手を知り、戦術を組み立てるは兵法の基本。一方的に試合の切り札を対戦相手へ晒してしまった以上、劣勢は否めない。
幼子の様に泣きじゃくるお浜を抱きしめ、髪を撫でてやりながら、小次郎は迫り来る脅威の足音を聞く。
慶長17年(1612年)4月13日。
想像した以上に狭く、殺風景な小島の上で、小次郎は試合の準備を整え、武蔵の到着を待っていた。
定めた刻限はとうに過ぎ、見聞役の長岡佐渡、有吉内膳は苛立っていたが、小次郎だけは穏やかに微笑んでいる。
今日は良き日じゃ。
空は青く澄み、心地よい潮風が頬を撫でておる。身命を賭すに、これ程の良き日が他にあろうか。
そして、ふと波打ち際に近づく気配を感じた。山吹色の袖無しを着込み、鉢金入りの鉢巻をして、握っているのは木刀……いや、船の櫓を削ったものだ。
その長さ、四尺一寸。
小次郎は小さく呻いた。
左様、その長さよ。我が燕返しの間合いを紙一重で避け、戻り際を打ち込むに、その尺が尤も適しておる。
知り得た敵の知識を生かし、二刀流を捨てて、勝つべくして勝つか。
それは、長年夢見、恐れてきた運命の現し身と言えた。己を打ち破りうる者として、小次郎が密かに思い描く幻影の姿と、正確に重なっている。
避けられぬ運命が刻一刻、迫る。
小次郎は呼吸を整え、物干し竿を抜いて、鞘を足元へ落とした。
「惜しや、小次郎」
地の底から響く低い声である。但し、その言葉は小次郎が望んていた会話の内容と程遠い。
「御身は既に敗れておる。我に勝ち、生き延びるのなら、何故に鞘を投げ捨てた?」
鞘、と聞いて、自ずと小次郎の胸に浮かんだのはお浜の、あのあどけない笑顔だ。
いずれ、わしも行く。
そう言って、他のキリシタンと共に脱出するイスパニアの船へ乗せた時、あいつは涙を見せなかった。
信じておるのだ、わしの勝利を。今頃、遠き海の彼方より、この浜の方角を見ておるやも知れぬ。
負けられぬ。
いやさ、運命になど負けてたまるか。
苦境にこそ燃え上がる反骨の魂へ火が付き、滾る。
ふふっ、楽しいのう、武蔵、お主の御蔭じゃ。
佐々木小次郎は、備前長船の切っ先を緩やかに持ち上げ、生涯かけて磨き抜く唯一の切り札、燕返しの構えに入った。
歴史を扱う難しさを実感しながら、何とか書き終える事ができました。
読んで頂き、ありがとうございます。
明日からSFジャンルで、怪獣、リアルロボット、スーパーロボットが入り乱れる昭和風ホームドラマの長編を書き始めたいと思っています。
我ながら、なんのこっちゃ、と言う感じですけど、時間を掛けてプロットを練ってきました。そちらも楽しんで頂けると嬉しいです。