鷺娘
◇序の舞
ねえ、お前様。本当はね、お前様が小さい頃を知っているの。
武州のお屋敷に餅花を飾っていたでしょう。豊作祈願の神事では、冬の田んぼに連れて行ってもらったでしょう。
雪が降り積もる中、頬を赤くして手を繋いで嬉しそうに笑って。
あの頃からお前様は綺麗な顔立ちをしていて、とても可愛らしかった。
◇一幕目
最初に川縁で見かけた時、私は白鷺でもいるのかと思ったのだ。
だが、よく見れば傾げた傘に積もる雪と、口元の紅。
何故、鳥と見間違えたのだろう。
人だとわかった私は、慌ててその娘を川縁から引き戻した。あんな所にずっといたら凍えてしまう。
引き戻した私が何だってあんな所に、と問い詰めようとした途端、娘はくたりと崩れ落ちた。
凍るような指先なのに体が熱い。熱が上がっているのか。
ああ、このまま見過ごすなどできやしないじゃないか。私は娘を背負い家へと急ぐ。
足を急がせながら、私は娘の体の調子よりも、美しさが気になっていることに戸惑っていた。
◇二幕目
「おお、目が覚めたかい。熱も少し下がったようだね」
男の人の声がした。
「ここは……」
あたしはぼんやりと霞のかかった頭で、見慣れない場所を見回した。
「私の家さ。私以外は世話をしてくれる婆さんだけだから、気を楽にしてゆっくりするといい」
男の人は、あたしの額に乗せた手拭いを冷たい水につけて絞ると、もう一度額に乗せた。
「昨夜あんたを見かけた時は驚いたよ。あんな寒い中、川っ縁にいるなんて」
「川……?」
「何か事情があるのだろうけど、体は大事にしなくてはいけないよ。お父つぁんやおっ母さんも心配しているだろうに」
あたしにはもう心配してくれるような人はいない。
そう言うと、男の人は顔を曇らせて黙ってしまった。
「すまない。それなら、良くなるまでここに居るといい」
「でもこれ以上、ご迷惑をかけるわけには……」
「かまわないさ。これも何かの縁だ。さっきも言ったが、私は独り身だし、気兼ねするような人はいないからね」
まだ頭も体もよく動かない。少し躊躇ったけれど、あたしはその言葉に甘えることにした。
彼はほっと息を吐くと、美しい顔で柔らかく笑う。
「とにかくもう少し休むといい。何かあったら声をかけておくれ」
あたしが頷くと、彼は桶を手に部屋を出ていった。
天井に視線を戻す。
何か、忘れているような気がするけれど、何を忘れているのかも思い出せない。
そのうち、またうとうとと眠くなってくる。
もういい、考えるのは止そう、考えるのは……
__________
「……ですから、もう少しお休みに……」
「……」
声が小さく聞こえた。
襖がそっと開けられる。
「あら。旦那様、目を覚まされたようですよ」
「そうか」
二人が枕元に座る。
具合はどうだい、と男の人があたしの額に手を当てた。
「うん、熱も下がったようだね」
「おかげ様で楽になりました。すみません、ご迷惑おかけしてしまいました。すぐお暇しますので」
起きようとしたけれど、体に力が入らない。
「ああ、まだ起きるのは無理だよ。横になっていなさい」
「……はい」
「昨夜も言ったが、ここは私と、このお江婆さんしかいないから、気兼ねせずに良くなるまでゆっくりしていなさい」
「そうですよ。旦那様の言う通りです。ちゃんと元気にならないと」
二人の優しさがありがたい。見ず知らずのあたしに、こんなによくしてくれて。
「はい、ありがとうございます」
「私は菊之丞というんだ。あんたの名を教えてもらってもいいかい」
「あたしは……」
名前……何だっただろう。名前もそうだが、あたしはどこから来た何者なんだろう。
戸惑いは不安に変わる。不安が、涙になって溢れ出た。
あたしが思い出せないと言うと、菊之丞様は驚いて目を見開いた。慌てて手拭いを絞ると、あたしの目元を拭う。
「泣くのはおよし。私がついていてあげるからね。記憶というのは、何かの拍子に戻ることがあるそうだから、きっと少しずつでも思い出せるさ」
あたしが小さく頷くと、菊之丞様もほうっと息を吐いた。
「名は……そうだな、咲というのはどうだい」
「さき……」
「ああ。かまわなければ、そう呼んでいいかな」
「はい」
名前を貰ったことで、あたしは少しだけ自分が形を成したような気がした。菊之丞様もようやく笑った、と笑顔になる。
「では、お咲。もう少しお休み。まずは体の疲れを癒すことだよ」
__________
翌朝、あたしが起きた時には、菊之丞様はもう起きていて出かける支度を終えていた。
「おはよう。今朝はどうだい」
「はい、もうだいぶよくなりました。ありがとうございました」
「私はこれから市村座に行かなくちゃならない。身の回りの事は、お江婆さんに頼んであるからゆっくりしていなさい」
ちょうどそこへお江さんが食事を運んできてくれた。
「さあさあ、今度は少しでも食べないとね」
あたしがそれに手をつけたのを見た菊之丞様は、安心したようにうんうんと頷く。
着物の色も柄も、あの人にとても良く似合っている。
何をしている人なんだろう。行くと言っていたのはどこだろう。なんであたしを助けてくれたんだろう。
なんで、あの人を見ると胸が熱くなるんだろう。
あたしには、わからないことばっかりだ。
菊之丞様が出かけた後、あたしはお江さんに彼のことを聞いてみた。
「あの、菊之丞様が言っていた、市村座というのはなんですか」
「お芝居を見せる所ですよ。なんたって旦那様は、今、江戸で人気の若女形、二代目瀬川菊之丞なんですからね」
お江さんは誇らしげに胸をはる。
そして、それからしばらくは、菊之丞様の素晴らしさをさんざ聞かされることになった。
やれ、菊之丞様の櫛はこれだの、茶の葉はこれをお使いだの、この舞台の時は何を食べただの。着物の柄までが流行りになるのだそうだ。
あの美しい顔で優しくされたら女子はみんな靡くだろうに、好いたお人はいないとくる。
江戸中の女子は我こそと、だれもが夢中になっているのだ、とお江さんは言った。
「ですから、あなたを抱えてお戻りになられた時は、心底驚きましたよ」
ああ見えて旦那様、そういうところはからきしなんだから、とお江さんは笑う。
そういうところというのがよくわからなかったけれど、お江さんが、菊之丞様のことが大好きで大事に思っていることはよくわかった。
「さあさ、もう少したくさん食べてくださいな。たんと食べて元気にならなくちゃねえ」
あたしはお江さんの言葉に頷いて粥を口に運んだ。
◇三幕目
しばらくすると、あたしは食も普通に戻り、少しは動けるようになった。
そうなると、寝てばかりいるのが申し訳なくなる。何かできることはないか、とお江さんに話してみた。
「無理なさらなくていいんですよ。あなたは旦那様のお客様なんですから」
「でも、もうだいぶ良くなりましたから」
「そうねえ、そろそろ寝てばかりも良くないかもしれないし」
それならとお江さんは、ぽんと両手を合わせた。
「旦那様に届け物をお願いできますか」
「菊之丞様に……ええと、市村座へ届ければ良いのですか」
「ええ。木戸番に私からだと言えば通してくれますから、旦那様にこれを届けてくださいな」
「わかりました」
あたしは、お江さんに道順を聞いて市村座へ向かった。
近くだし、すぐに櫓が見えたから迷うことはなかった。看板やら幟やらもたくさんあったし、何よりも菊之丞様の錦絵が飾ってあったから、迷うはずもなかったのだ。
「あの、木戸番さんって方はどなたですか」
市村座の前で掃き掃除をしている人に声をかけた。
「へ?」
「木戸番さんって方に聞けとお江さんから……」
「ああ! なんでえ、何事かと思ったわ」
その人は、あっはっはと笑ってあたしを手招きする。
「あのな、木戸番てえのは仕事のことさ。オイラは寅吉ってんだ」
何か勘違いをしてたらしい。顔が熱い。
寅吉さんは辺りを見回してから、菊さんに用があるのかいと小さな声で言った。あたしもつられて声が小さくなる。
「はい、お江さんから言付かってきたので、お渡ししたいものがあるのですが」
「あんたは?」
「あ! はい……咲、といいます」
「じゃあ、悪いけど裏へ回ってくんねえか。なんせ江戸中の注目の的だろ? こっからじゃ目立つんでな」
道の向こうを指差して寅吉さんは中へ引っ込んだ。
あたしが教えてもらった通りに裏へ回ると、待つ程もなく戻ってくる。どういうわけか、引きつった顔であたしを手招きすると声を潜めた。
「あんた菊さんに何かしたのか? すげえ剣幕で早く呼んでこい、って言われたんだが」
あたしは驚いて首を振った。どうしよう、何か菊之丞様を怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。
あたしは、兎に角と急かされ、恐る恐る中へ入った。
「菊さん、お連れしましたよ」
「入んなさい」
もしかしたら叱られるかもしれない、そう思ったら足が進まない。
せめて寅吉さんが一緒に部屋へ入ってくれるといいのに。あたしは寅吉さんをぎゅうぎゅうと押した。寅吉さんも同じことを考えていたようで、部屋の前で押し合いになる。
「何をやっているんだい」
そうやって狭い通路でじたばたしていると、羽二重をつけた菊之丞様が、呆れたように顔を出す。
「うわあ!」
「うわあじゃないよ、寅。何してるんだい? 取って食いやしないよ」
「すいません、お嬢さんをお連れしたんでオイラは失礼します」
「ありがとう」
小遣いだよ、と菊之丞様が小さな包みを握らせると寅吉さんはニカッと笑って、じゃあな、とあたしに手を振った。
ああ、行ってしまう。
お入り、と部屋へ通されて菊之丞様の前に座る。
菊之丞様の声が固い。やっぱり怒っているんだろうか。
「さて、何でここに来たのか話してくれるかな」
「お江さんから言付かってこれを届けに……あの……すみません、いけなかったでしょうか」
あたしが謝ると、菊之丞様は苦笑いをしながら受け取った。
「もう休んでいなくて良いのかい?」
「はい。まだ調子は戻っていないのですが、少しは動かないといけないと思って」
「無理はしないように」
「はい、すみません」
私は嬉しいんだけど、という菊之丞様の呟きは、あたしの心に留めておいていいだろうか。
「ちょうど茶を飲もうとしていたんだ。良かったら、お咲も一緒にどうだい」
お江さんの届け物はお茶菓子だった。
菊之丞様はお茶を口に運びながら、あたしがお菓子を頬張るのを、にこにこ笑って見ている。
「あの、菊之丞様は召し上がらないんですか」
「私は幕が引けてからいただくよ」
「えっ!? あの、す、すみません。あたしだけ手をつけてしまって……んむっ……」
食べかけのお菓子を急いで食べようとして、むせてしまった。あたしの背をさすりながら菊之丞様が笑う。
「いや、かえって落ち着いたよ。出番の前はこれでもかなり緊張する性質なのだけど、今日はいい芝居ができそうだ」
そう言って彼は舞台化粧を始めた。顔を白く塗って紅を引く。衣装や鬘をつけていくと、どんどん女の人になっていく。
綺麗な女の人は、目を見開いたままのあたしを振り返り、袖で見ていてと可愛いらしく笑った。
あたしは舞台袖の隅で、彼女の生きる姿をぼうっと見ていた。
◇四幕目
「……咲……お咲?」
「……」
「これ、お咲」
「……き、菊之丞様?」
化粧を落とした菊之丞様があたしを揺する。
「どうしたんだい、ぼうっとして。大丈夫かい?」
「あの……あまりに素敵だったので。菊之丞様が人気だっていうのわかります。本当に綺麗で切なくて」
まだ半分ぼうっとしていて、気持ちが言葉にしきれない。何とか拙い言葉で伝えると、菊之丞様はありがとうと顔をほころばせた。
ああ、その嬉しそうな顔も花が咲いたように綺麗だ。まだ舞台の余韻が心に残っていて、あたしも胸が熱くなる。
「でも今日の出来はお咲のおかげだよ。お前が来てくれたおかげで、落ち着いて舞台に立てたのだから。これなら毎日来てもらおうかねえ」
役に立てたことが嬉しくて心が飛び跳ねた。また胸が熱くなる。
「今日はもうあがるから一緒に帰ろう。もう少し待っておいで」
「はい」
いつまでも静まらない心の音を聞きながら、あたしは菊之丞様の帰り支度を待った。
少し寄り道をしよう、と言って菊之丞様は神社に足を向ける。そこで、神様に今日の出来の報告とお礼をと、手を打って頭を下げた。
「御籤でも引いてみるかい」
「籤? ですか」
「行く末を占うものだよ。さて、どんなものが出るかな……ほら大吉だ。これは幸先がいいねえ」
そして、あたしが引いた御籤に書いてあったのは
「……凶」
あたし達は顔を見合わせて呆然としてしまった。
「ああ、でもご覧。良き人と出会うっていうのは私達のことじゃないかい? お告げの通りに身を慎めば、良いことがあるっていうことだろう。悪い運は枝に結んで持ち帰らなければ大丈夫さ」
早口で言うと菊之丞様は枝に御籤を結んでくれて、これで大丈夫と笑いながら振り返る。
あたしも笑ってそうですねと言ったけれど、御籤の最後の言葉が心に棘のように刺さっていた。
◇五幕目
それからの菊之丞様は、あたしに小さな手荷物を持たせて出かけるようになった。
菊之丞様は舞台の成功のためだったかも知れないけれど、あたしはとにかく一緒にいられるのが嬉しかった。
化粧をして女の人になっていく彼は、それは美しかった。
出番の前に、お守りのようにあたしの手をぎゅっと握るのが愛しかった。
舞台に立つ彼が誇らしかった。
ふとした時に見せる優しさがたまらなく欲しかった。
笑った顔も困った顔も、全部あたしのものにしたくなった。
誰にも渡したくないと思い始めてしまった。
もう、止められなかった。
あたしと入れ替わるように、体調を崩してしまったお江さんが早めに休んだ夜。
ふと触れた指先を離したくなくて。
握った手の温かさを離したくなくて。
抱かれた胸の広さ。心の臓から聞こえる鼓動の確かさ。腕の力強さ。唇の熱さ。
何もかもを離したくなくて、あたしは彼を受け入れた。
狂おしいほどに幸せだった。
お前様の穏やかな寝顔が好きだった。
おはようと横で笑ったお前様が、愛しかった。
何を泣いてるんだい、と不思議そうに言うお前様が哀しかった。
でも、もうここには居られない。
あたしは自分が何者なのかを、思い出してしまったから。
餅花を飾っていた小さかったお前様に、もう一度会いたいと思ったあたしが浅はかだったのか。
あの時のように姿を見ていられるだけでも良かったのに、お前様に触れたいと思ったあたしが浅ましかったのか。
衆生、焦熱、大叫喚……いずれにせよあたしの行く先は決まっている。
畜生の身で、人を好きになってしまったのだから。
◇六幕目
“獄卒四方に群りて 鉄杖振り上げ くろがねの 牙噛み鳴らし ぼっ立てぼっ立て”
“二六時中がその間 くるりくるり 追ひ廻り追ひ廻り 遂に此身はひしひしひし”
“憐みたまへ 我が憂身 語るも涙なりけらし”
謡いに合わせ菊之丞が踊る。白い着物姿はまるで鷺が雪中に飛ぶようだ。
激しさを増す雪嵐の中、禁忌を犯した苦しさと好いた男への愛おしさで、舞い踊り舞い続けそのまま力尽きていく。
息絶えるその様を、菊之丞は紙吹雪の散る中、静かに踊り終えた。
◇終幕
二代目瀬川菊之丞は宝暦十二年の初演の後、二度と鷺娘を踊ることはなかったという。
その理由を知る者はもういない。
舞踊
作中の「序の舞」「終幕」なんかは話の区切りに使っただけです。本気にしてはいけません。
「嫁入り前の町娘が浮気をして地獄に堕ちる」という解釈もあり
「人生は謳歌できるよ、化かされたって本人が楽しいなら良いじゃないか。道を誤っていようが、願いはいつか叶うもんだ」というパロディあり
妖怪「鷺娘」なんてのもあり
人間に恋して地獄に落ちるだけじゃなく色々やってます。
二代目瀬川菊之丞の錦絵が残っています。当時のファッションリーダーってやつでしたから。