界隈信者のエゴイズム
ある界隈において、「信者」とは過ぎたファンの成れの果てであり、同時に自己の見解が常に最も正しいと傲る独善者、あるいは独裁者である。
このような理論は、対象を肯定するファンの秩序において、本質的には同じ秩序にある信者のみを責め立てるものだという認識を生み、到底理解し得ないこともあるかもしれない。しかし、本来の「秩序」とはある界隈においてファン、アンチ、企業など様々な構成員が相互に関わって成り立つ総体としての秩序であり、ファンの秩序とはその一部に過ぎないのである。
であるならば、ファンの秩序をもって総体の秩序を乱す信者とは、個人の見解を全体の見解として絶対化するエゴイストであることも理解していただけるであろう。
まず、大前提としてこの世に存在しうる全ての事象には必ず迎合と批判、言い換えるなら肯定と否定が存在する。つまり、事象というものは二元性を生み出す一種の媒体であり、肯定も否定も生まれるべくして生まれてくるのである。このような二元性は、形は違えど古代ギリシャの時代から唱えられてきた。
この二元性を一元性として纏めてしまうのが信者である。では、何故信者はこのような過ちを犯すのか。それは恐らく、無知から来る不一致への畏怖、そして無闇な優劣の決定ではなかろうか。
オーストラリアにおける白豪主義、ドイツにおけるユダヤ迫害、日本におけるえた・ひにんなど多くの歴史的差別問題はその畏怖と決定に起因する。この全ては畏怖故の異端排除であり、こうだからこちらが優れていて、こうだからあちらが劣っているという間違った認識に基づいている。
だが、差別問題が見直される現代社会においては、その認識が風潮としては未だに残っていても、少なくともそういった問題は減りつつある。無知が周知となり、不一致は多様性として受諾されたのである。フェミニズムの機運が高まったのもこのためだ。
信者はこの人類の進化から学ばなければならない。アンチを異端として排除するのではなく、見解の相違として受け止める。どうしても、受け止められないのであれば無視をする。無視もできないのであれば、自身の過敏性を見直してみる。こうした試行錯誤を重ねていくことで、相互の妥協点が生まれるに至り、そこに初めて総体としての「秩序」が安住するのだ。
もちろん、相互というからにはアンチも信者をただ責めるのではなく、心の未熟な信者に成長する機会を与えてやらねければならない。成長する機会を持たない信者は永遠に信者であり、永遠にアンチを批判してくるのだから、責め続けるメリットは全くの皆無である。
さて、アンチの秩序において、こうした信者がアンチを批判するの偽善であるという見解が存在している。なるほど、確かに望まれない善とは「偽善」以外の何物でもなく、これを行うのは自己満足である。しかし、その「偽善」が結果的にその人にとって「善」に映るというのならそれは「善」として認められるだろう。
そして、これに対して、ファンの秩序では「やらない善よりやる偽善」という言葉が振りかざされることがある。なるひど、確かに「偽善」が「善」となる可能性があるなら「偽善」を積極的に行っていくのも手である。しかし、その「偽善」は意味で成すものでなければならない。例えば、アンチに直接批判しにいくというのは意味のない偽善であり、本人にその思いが届くことは決してない。このような偽善はもはや、独善である。
しかも、この独善はあらゆる批判を誹謗中傷と断言し、そこに誹謗中傷を伴うこともある。これもまた、信者が多様性を認めず、一面的な視点ばかりに囚われている証拠である。批判にも是正の批判、率直な批判、無根の批判など様々な種類がある。これらの多様性を無視し、「誹謗中傷」として一括りにしてしまうのはいかがなものだろうか。
これだけでも十分目に余るものがあるが、そこに誹謗中傷を伴う時、その者は本当の意味でエゴイストとなる。なぜなら、こうなった人間は他者の批判を「誹謗中傷」と見ることはあっても、自己の批判を「誹謗中傷」として認めることは決してないからである。たとえ、その他者の批判が本当に誹謗中傷であったとしても、それを同じ誹謗中傷で返してしまっては本末転倒だという根本的な問題である。
このような思想は、権力によって国家を支配せんとする独裁主義の思想に近い。いや、そういった人間自体が独裁主義者であると言っても過言ではないだろう。
そのような危険で身勝手極まりない思想が生まれてしまうのも、やはり信者の根強いエゴイズムの影響である。ファンにとっても、アンチにとっても、ないし企業にとっても、そのエゴイズムを取り除いていくことこそが、安定した「秩序」を常に保つ唯一の方法である。
我々は独善的で独裁的な信者の存在を、それに伴う「秩序」の乱れを野放しにしてはならない。ただ責める、ただ庇うだけでは何の意味も成さず、信者は一向に増え続け、秩序は荒廃していくばかりなのだ。