Ⅱ コフレ旧市街、風信子鉱
Ⅱ コフレ旧市街 ⅳ 風信子鉱
暗い道は、来た時とは違う細い路地だった上に、ジルコンは別の方角へ向けて歩いているように思えた。とはいえ、錫にはどちらへ向かえば、胡桃化石の店のある通りへ戻れるのか、すぐに判断がつかない。来たことのない場所だったし、暗くて、心当たりのあるなしにかかわらず、目印になるような看板や建物を見分けることが難しい。
「あー、大丈夫」
錫の心配を悟った様子で、風信子鉱が小声で言う。
「この先で曲がったら、元の小道の外周に出るから、そしたらどの通りにいるか、わかるはず」
その言葉通り、そっと二人で曲がった角からは、間引かれた街灯の明かりがいくつか見えて、すぐに道がわかった。遠回りしたというわけでもなく、ライブハウス『共鳴ケイヴ』はすぐそこといってもよかった。ほっとした錫に、
「そう、ケイヴにこんな近いから。警ら隊も、そっからすぐに来るかもしんない。だから見つかんないように帰んないと、…?」
再び緊張が高まるようなことを言いかけて、風信子鉱は言葉を切り、なんだ? という様子で足を止め、ズボンの後ろポケットに手をやった。
「待って、なんか、仲間から情報来たかも」
錫に囁きながら、無音で振動する『媒体結晶』、セルを掴み出し、すぐにメッセージを確認し始める。途端、
「あっ…! クッソ、マジか! …やりやがった、ちっくしょー…!」
ぐっと表情が歪んで、思わず吐き捨てた言葉がひどく乱暴になった。
「何があったんです?」
錫が思わず言葉をかけると、痛みでも堪えているような顔のまま、彼は錫を見た。顔を下から照らすほのかなセルの画面をすぐに消したが、消える前のわずかなライトで見えた目は、ヒヤシンスの紫の虹彩をしており、一瞬、非常に美しい透明感で輝いた。
「ジェードが、…紫翡翠が連れて行かれたらしい」
風信子鉱は平板な声で言って、足を止めたその場所から、一番近い建物の壁にふらりと寄って、そのまま動けなくなったようにもたれかかってしまった。
「えっ?」
錫は短く聞き返すのを抑えきれなかったが、「どういうこと」という間抜けな言葉は飲み込んだ。どうもこうも、連れて行かれたのだ、パトロールに。さっき。
耳をすましても、どんな乗り物の音も、最も静かなアエロ・モビルの飛行音さえも、聞こえては来なかった。それほど素早く、彼らは目当ての獲物、紫翡翠だけを拿捕して引き上げたのだろう。
「アンチモニーの言う通りだった。クッソ。俺達の誰を狙ってんのか、全員かどうかもはっきりしないもんだから、バラバラで逃げたらリスク分散できるかと思ってたけど、甘かった」
錫に言うともなく、だが黙っていられないのだろう、風信子鉱は呟く。アンチモニー、と耳にとらえ、あの、長い髪を黒銀に光らせて冷静な指示をしていた輝安鉱のことだ、と錫は思う。
「ごめん、錫。俺達、君のことまで巻き込んで」
どう言うことかと彼を注視する錫に、影の中で色までは見えない彼の目の光が見え、風信子鉱が自分を見たことを錫は知る。
「アカデミーで、一緒に逃げ出したろ。あの後、警ら隊が君んとこへ来なかった?」
風信子鉱の言葉に、
「来た」
と錫は答え、どういうことかと先を待つ。
「あれも、危険の分散の一つだったんだ。みんな、アカデミーの玄関でアムレートゥム、『お守り』をかざして、I.D.パスで入るだろ」
自分の右手の細長い薬指をかざし、風信子鉱は話す。魚の形にデザインされた彼の黄金のアムレートゥムには、彼の瞳とは違い、どうやら明るい色のジルコンが入っているようだ。全体が、暗がりの中でも薄い色の輝きを返す。
「I.D.で入っておきながら、I.D.で出て行かなかったミネラリスのこと、警ら隊はすぐ追跡できるんだ。だからパトロールの奴ら、アカデミーの玄関は見張ってなかっただろ?」
風信子鉱の言葉に、錫は、外周の見回りと館内への搜索に別れ、誰も玄関に残さずに行ってしまった警ら隊の様子を思い出して、頷く。
「堂々と玄関から出て、家に帰るようなお利口さんは、すぐに追跡する必要もないからさ。その気になったら、いつだって、捕まえられるもの」
風信子鉱は皮肉げに言って、それから肩を落とした。
「だから俺達は、自分達じゃアムレートゥムかざして入るのをなるべく避けるし…、アカデミーの実績集計には悪いけど」
少し、やましげな様子で、しかし風信子鉱ははっきり言い切る。
「でもジェードは多分、そんな用心忘れて、時間ギリギリに来て、みんなと同じように普通に入っちゃったんだろうなって思ったよ」
紫翡翠がそうやって、迷い込むようにアカデミーへ入場する様子は、錫にも、なんとなく想像できて、頷いてしまう。風信子鉱はその様子を見ながらも、特に反応はせず、息を継いだ。
「だから、逃げる時は、俺達の他にも、一人でも多く巻き込んで、玄関以外から出て帰る人間を増やして、I.D.のチェックで怪しんだ別人に、警ら隊が付いてくことを狙った」
「…じゃあ、私は囮にされた、ってこと?」
錫が考え当たって訊ねると、肯定がわりに、ごめん、と風信子鉱はもう一度言った。
「君だけじゃなく、俺やカルセドニーは、逃げるぞ、ってなった時に、すぐに適当に、教室にいたやつとか館内で帰りかけてるやつらに『摘発があるらしいぞ』って言って、煽って逃げさせたりもしたんだけど、ジェードが君を連れてきちゃったから」
決めたのは君の見てた通り、指示を出してた輝安鉱だけど、と彼は続ける。
「もう、一番ヤバいジェードと関わり合いになってしまったんだから、このままリスク分散に協力してもらおう、って、あいつ、アンチモニーは冷静に考えたんだ。結構、そういうやつなんだ」
半ば批判し、それでいて擁護する口調で風信子鉱は言って、ほんの少し、微笑みに近いものを浮かべたようだった。
「合理的で、自分も含めて、なんでも突き放して見てるところがあってさ。それがあいつの毒、みたいな。危険があるならなるべく全員でリスク分担して、そしたら各自の助かる率が上がるだろ、みたいな」
仲間の、金属的性質の有毒性に冗談のように言及し、風信子鉱はふう、と息を吐いた。
「んー、けど、こんなの、ジェードが知ってたら絶対、怒って喧嘩になってたな」
彼らに利用されたのかというショックと、しかし輝安鉱の冷静で非情な判断にも、ある種、感慨を覚え、混乱した錫に、風信子鉱の言葉がジワリと浸みてくる。改めて彼を見ると、彼も、建物にもたれていた肩をようやく起こして、視線を返した。
「あの時は咄嗟で、しかもあいつには初めての場所だから、どう逃げるかとか、全部アンチモニーに指示出しを任せて信用して動いてたけど」
風信子鉱はまた、微かな笑みを浮かべる。
「あいつ、ジェードは、危険があるなら全員で分担して助かる率を上げる、とかじゃなく、なんとかして全員、安全に助かるのを目指す、みたいな」
笑みの気配と、その言葉に、ふっと、錫の中の強張りが緩む。
「まー、本人はわかってないのかも知んないけど、理想主義でさ…」
風信子鉱は照れたように、顔を伏せて、完全に体を立て直した。
「ヒーロー気質っていうか、うーん、そんなんだから、アンチモニーとかも、俺達も、あいつ俺達よりほんと、ある意味バカだなって思うんだけど、そこに惹かれるっていうか、…そう」
独り言のように締めくくって、風信子鉱は錫をチラッと見やり、気配で「行こう」と示して、建物の影を選んでそっと歩き出す。
「だから、当局に連れて行かれたのは、ほんと、ヤバいんじゃないかと思う。連れてかれる理由がわかんないんだけど、だから余計に」
そうだった、彼は連れて行かれたのだ。
『摘発』、それは『潜在的犯罪容疑者』として拘束されることを意味する。大抵の市民はすぐに、『身の潔白が証明された』として日常に帰ってくるのだが、そうでない場合はどうなるのか…。
「基本、市庁舎の塔に勾留されるんだって話だけど、なんとかして取り返す方法を、俺達は考えるよ」
心配しないで、またすぐに、共鳴ライブができるようにするから、と風信子鉱は、しかし自分でも、その言葉に対する充分な確信の強さを出せずに、錫に言った。
「また、ステージ、聴きにきてくれな。きっとジェードも喜ぶよ。…アンチモニーも、カルセドニーも、クロスも、俺も」
錫が、ここで、と送ってくれた礼とともに告げると、彼は片手を差し出した。錫はその手を握る。
「気をつけて」
風信子鉱が言った。
「あなたも。…あの、…ライブ、すごく良かった」
錫が言うと、風信子鉱は手を離す前の一瞬、ぎゅっと手を握り返して、はっきりと笑った。