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Ⅰ 旧市街アカデミー、石炭


Ⅰ 旧市街アカデミー ⅲ 石炭


 教卓に両手をついて、少し乗り出すようにし、講師はもう一声を、教室全体にかけた。

 

「講義を始める前に、出席者の確認を行いたい。誰か、手伝いのボランティアを頼みます」


 夜の学舎内であるのに、黒い大きなサングラスをかけている。顎や口周りに短くヒゲを生やして、中年の様子に見せている男性のミネラリス、彼がこの講義の講師だ。


「アムレートゥムを、入館時にセルに映さなかった者は、帰りに映していってください。それとは別に、私は、読み上げでの出席を取りたい」


 市民のI.D.の役割をしている黄金の指輪、アムレートゥムを、建物に入る時に入り口に設置してある透明な『媒体結晶』、セルに映し、データを読み込ませて入場者情報を管理をする。それは公営の自由アカデミー、即ち、無料で誰でも講義を聴くことができる、この旧市街アカデミーだけでなく、様々な施設で浸透しているデータ管理の方法だ。

 講師は、しかし、今も手の中で透過して輝いている、講師用の薄いセルとは別に、柔らかそうな大きな紙の束を小脇に抱えて持っていた。彼はそれを教壇に置いて銀色のペンシルを取り出し、誰かが前に出てくるのを待った。


「私、行ってくる」


 錫はベンチと机の隙間に、立ち上がりきれないままに立ち上がる。


「ん? じゃ俺も行く。けど、なんであの人、自分で読まねぇの?」


 紫翡翠は、自分が先に出なければ錫も通路に出られないという事情をすぐに見て取り、先に通路へ出てから振り返る。そして尋ねた。


「教授は、目が、その」


 錫は言い澱み、階段教室の通路を先に立って降り始める。紫翡翠は今日、初めてこの講座に来たので、講師のことを知らないのだろう。


「あ、センセー! 俺ら読みますから!」


 錫の後ろから、全く物怖じしない独特の悪声を、突風のような大声で投げて、紫翡翠も教室を降りる。


「…。ありがとう」


 誰が来るのか、誰の声か、と探るような間のあと、講師は、はすかいに彼らの方を見る仕草をし、少し壇上を開けた。


「あっ」


 紫翡翠が短い声を上げたのは、それから数十秒ほど経ってからだった。講師が手にしたセルを差し出し、今日の受講者データを呼び出して読み上げるようにと、錫に伝えている時だった。

 講師の黒い大きなサングラスの斜めから、彼の顔を初めて垣間見れば、紫翡翠のように、思わず声を上げる者もないではないだろう。


 がっしりとした彼の顔は、短いヒゲも大きなサングラスも似合って、渋く整っているのだが、その目は無かった。眼窩はぽっかりとした空洞で、闇がそこに溜まっている。


「センセー、じゃあ、全く見えないんですか」


 錫が予想もしなかったことには、紫翡翠は驚きを取り繕いもせず、講師に話しかけた。


「石炭、だ」


 講師は自分の鉱物の質と名を同時に告げて、見えない目を覆うグラスを、紫翡翠の方へ向けた。


「そうだ。初めからずっと見えないが、私は『文字が読める』のでね」


 少し皮肉な、静かな口調で石炭は言って、さあ、と錫を促した。


「月長石。ニッケル。煙水晶。」


 錫が名を読み上げ始める。出席者は声を出して返事をし、講師に出席を伝える。


「こうして、人の声を耳で聴いて、自分の手で書き留めるのが、一番『わかる』のだ」


 石炭は独り言に近い小声で、紫翡翠に告げる。


「すみませーん。聞こえにくいんだけど」


 講義室の後ろの方で、誰かが叫んだ。錫の声は、確かに、声量が足りず、響きも悪い。それは、狭く区切られた博物室、『奇想の小部屋』では充分、端々に届くものだが、アカデミーの大教室では力不足だった。そのことが自分でもよくわかって、読み上げる声が一拍、止まってしまった錫から、


「よっし、俺が呼ぼう!」


 と宣言し、紫翡翠はセルをそっと取り上げた。


「さぁ! デカイ声出すぜ! お前らもデカイ声で答えろよ!」


 よく通る際立った声が、つむじ風のように暴れる。


「これはこれは。ロックか」


 石炭が苦笑まじりに呟くのが、錫の耳に聞こえた。


「はい?」


 それは、彼は、岩石、ロックの性質のミネラリスではあるけれど。錫が分からずに聞き返すも、石炭は、


「もう少し、ゆっくりと読んでくれ。書き写すのが間に合わない」


 と紫翡翠に注文をつけ、錫には柔らかい紙の束を渡して、一枚ずつ寄越し、また、書き込み済みのものは別に束ねるように頼んだ。そして自らは、銀筆で新しい紙に、小さな凹みをつけ始めた。


「え、それ、どうやって読むんだ?」


 紫翡翠がセルから目を上げて振り返り、点呼を止め、石炭に尋ねる。

 石炭の操る銀筆はインクを出さず、紙に引っ掻いた跡をつけるのみだ。錫が預かっている書き込み済みの紙も白いままだ。凹んだ筆跡の跡は、よく見れば繊維に凹みが定着して、少し光るような薄黒さを残しているが、錫達には、文字として読み取ることは困難だ。


「こうすれば、読める」


 石炭は紫翡翠の疑問に答えて、片手の指先を、書き終えた文字の上に乗せ、少しなぞるようにしてみせたが、それ以上の説明はせず、


「さあ、気を散らさずに出席確認を頼む」


 と彼を促し、教室にいるミネラリスの名を、全て紙に書き取った。


「こうして、書いておくことが、私には把握に役立つ。ありがとう。錫と、紫翡翠のロック」


 最後に、石炭はそう言いながら、二人の名を紙に書き取り、預けていた紙の束を錫から受け取った。


「そうそう、知りたがりのロック」


 教壇を降りて席へ戻りかける紫翡翠の背後から、石炭が呼んだ。その手は、紙束の中から新たに取り出した、墨で書かれた古文書を差し上げる。


「私は、こういうものも読めるのだよ」


 流れる模様のような黒い文字に、彼は指を走らせ、古典の物語の一節を、深い声で朗読し始めた。これが、彼の専門であり、講義なのだった。階段教室のあちらこちらから、ほうっ、と陶酔のため息が花びらのように舞った。

 錫は、席へと戻る階段の中途で釘付けになって立ち止まった紫翡翠の肩に、顔をぶつけそうになった。紫翡翠は、ゆっくりと、教壇の方へと振り向いた。そして


「すげぇ。来てよかった」


 と、響く声ではっきりと言った。石炭は教卓の向こうで、白い歯を見せて笑った。


 古い言葉の流暢な読み上げと、その難解な意味を丁寧に解説する講義は、穏やかに進んだ。石炭の朗読と解説を、携帯型のセルに打ち込んだり、音声録音の機能を使って記録したりする者もいたし、何もしないでひたすら耳を傾けている者もいる。

 錫はノートに鉛筆でメモを取り、書くことで要点を把握しながら、思い出す時のきっかけづくりをした。紫翡翠は大判の紙片を机に広げ、よれたペンケースからボールペンを二、三本も出してはいたが、手は早い段階ですっかり止まっていて、口を半開きにして講師の方を見ながら、ひたすら熱心に聞いていた。


「この部分は、人間がまだ『鉱物人間』、ミネラリスになる前の、有機質で寿命の短い、頑丈さの少ない人間であったということを、よく想像して読まなければ、わかりづらいのではないかと思う」


 石炭の説明に、紫翡翠が少し身を乗り出して頷いている、それを気配で捉えつつ、錫がノートに幾語か書きつけた時、


「なぁ、俺さ、キュレーターの人に、コレ、訊きたかったんだよ。今度、教えてくれないか」


 紫翡翠がこちらへ、ぐっと身体を傾けて、耳打ちしてきた。


「これって?」


 錫が見ると、彼は、目を教壇へやったまま、


「人間の話。てか、ミネラリスの話。あのさ、なんで俺達は…」


 ひそめられた声を聞き取ろうと、錫が耳をそばだてたその時、急に、チリチリと鈴が鳴る音や、カエルの鳴き声のような音、鳥のさえずりに似た音などが、重なり合って教室のあちらこちらから響いた。


「セルが」


 錫のカバンからも、小さな振動音とともに、警告を発するピヨピヨという音が、小さく漏れ聞こえる。ミネラリス達が持っている『媒体結晶』、セルが、一斉に鳴り響き始めたのだ。


「あれ、警報」

「なんだ?」


 みんな、それぞれに自分のセルを取り出し、情報を得ようとした。石炭も、ブザー音を発しているアカデミー支給の板状のセルを持ち上げ、視力で読み取ることはできないので、音声での読み上げ機能を使った。女声の音域に調整された、感情のない合成音が大きく、淡々と流れる。


『戒厳令が布告されました。シティにいるミネラリスは、直ちに帰宅し、自宅に待機するようにしてください。繰り返し、お知らせします。戒厳令が布告されました』


 ミネラリス達はざわめき、腰を浮かせ、互いに顔を見合わせた。

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