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ゾンビ対策委員会

作者: 月立淳水

 すずめが集団で舞い降りては、親子連れたちの食べこぼしだの春の陽気で這い出てきた小虫だのをついばんでいる。桜が終わった木々は鮮やかな緑の葉を芽吹かせ、その合間から柔らかな午前の陽光をこぼす。

 子供たちの笑い声が絶えないこの良く整備されたこの市民公園には、また別の面がある。

 公園の一角は常緑樹が覆い茂り昼間でも暗くじめじめしたエリアになっており、そこにはダンボールハウスや、どこで拾ったのか小洒落たテントだのが集まる浮浪者街となっているのだ。

 夜になると起きだしてゴミ集めなどをし、糊口をしのぐ浮浪者も多い。多くのダンボールハウスで、人が寝ている気配がする。

 まだ早朝は冷え込むことも多い。多くのものが何重にも段ボールを重ね掛けしているのが見える。


 そのうちの一つのダンボールが、ムクリと持ち上がる。


 髪がぼさぼさで、半分が顔にかかり、もう半分は抜け落ちて肩に乗った男性らしき人物の影。らしき、と言うのも、もはやその男女がほとんど判別できないからだ。

 顔は土色で輪郭は崩れ、茶色く汚れた服もそのもとの色彩をとどめない。目は虚ろで、どこを見つめているともどこも見つめてないとも分からない。

 ずるっ、という音とともに全身がダンボールから出てくると、そのおぞましい全身があらわになった。両腕はあちこちが何かに喰われて穴だらけだし、両足には細長い虫がはいずっている。皮膚は総じてこげ茶色に近い色で、開いた穴からは体液が流れ出ている。

 それは、囲ったダンボールを踏み壊して、歩き始めた。歩く速度は、遅い。両足を引きずるように、一歩一歩、前に進む。歩いた後に、茶色いしみが長く残る。

 すぐ近くの別のダンボールハウスでも、動きがある。勿体つけずにぬっと頭を突き出したのは、やはり髪はぼさぼさだが、小汚くも生気ある還暦前後の男性。朝寝を邪魔された憤りを隠そうともせず、鼻息荒く周囲を見回し、そして、それを見た。

 とたんに、声も出さずに後じさり、自分の作ったダンボールの壁を背中で押しつぶす。あうあう、と小さな声を漏らすと、一目散に掛けていった。

 木陰から、その異形の人影が暗闇を引きずって出てくると、公園の空気が一変した。

 すずめたちが、一斉に飛び立ち、空の向こうに消えていった。

 散歩中の犬が吠え立てる。

 気づいた若い女性が、悲鳴をあげた。隣にいた男性が、叫ぶ。

「ゾ、ゾンビだっ!」

 その声は、公園中の耳目を集めた。

「ゾンビだ出たぞ!」

「ゾンビがいるらしい」

「どこだ、ゾンビは!」

「110番――」

「警察はだめだ! 誰か連絡先! ゾンビ対策委員会!」

 のどかな公園は一瞬で緊張と怒声のあふれる戦場となった――。


  ***


 20XX年。それは突然訪れた。

 ゾンビ、と後に呼ばれる怪物が現れたのだ。

 その発覚は、東南アジアで発生した大水害。ある山奥の村が土砂に飲み込まれ、二百人近くいた村人は、そのほとんどが生き埋めになってしまった。


 そして、”出た”のである。


 二百体近い死体が、ある晩、一斉に地表に這い出てきた。その半分は、すでに腐乱が始まりかけていた。それらが、行方不明者捜索のために敷かれていた消防のキャンプ地を襲ったのである。

 まさかそれが”生ける屍”だなどとは想像もしない消防隊員たちである。大怪我をした人が助けを求めてきているのだと考え、手をとって招き入れた。その隊員らに、”それ”らは問答無用に噛み付いたのである。

 二十人ほどいた隊員たちは、二百体の生ける屍に襲われ押しつぶされ、体中に噛み付かれた。命からがらふもとまでたどり着けた隊員はわずか四名。残りは襲われたその場所で命を落とし、――生ける屍として、ふもとに下りてきた。

 大規模な警官による武装対策部隊が編成され、ゾンビ――彼らはすでにそれらをゾンビと呼ぶことに違和感を持たなかった――を食い止めるべく、ふもとの村でバリケードを作った。

 拳銃の一斉射撃にも関わらず、生ける屍は、じりじりと村の入り口に近づき、バリケードに取り付いた。その攻防は、世界中に映像として中継されていた。

 関節や骨など、体重を支えている重要な部位に弾丸が命中しない限り、ゾンビの行進は止まらない。それはまさにホラーの世界のゾンビそのものであり、警官の多くは恐慌状態を起こして逃げ出してしまった。

 期せずして、対処法が分かった。半ばやけくそとなった警官が、バリケードに燃料を撒き、火を放ったのだ。ゾンビは特に苦しみもだえるようなことも無く、淡々と炎に巻かれてはどさりどさりと倒れていった。小さな村を襲った災禍は、こうして終焉を迎えた。

 問題は、命からがら逃げ帰った四人の消防隊員にあった。彼らはその後治療を受け、噛まれた傷や押しつぶされて折れた骨が癒えれば、それと言った所見も残っておらず、その後を特に監視されることも無かった。

 そんな彼らが、ゾンビの原因を再び撒き散らしたのである。

 さまざまな偶然が重なり、ゾンビの原因は世界中にばら撒かれ、どの国でも毎日ゾンビ事件の一つや二つは必ず起こるほどになっている。世界的な災厄となったのだ。


  ***


 新島冴子は、ゾンビ対策委員会の、いわば生みの親である。

 その立ち上げに関わる時、彼女は二十五歳という若さであった。

 生物学、生理学を主な専攻とする博士課程にあった。

 彼女は、ゾンビ研究が何年もの間、遅々として進まなかったある年に研究を始め、それが寄生虫によるものであると仮説を立てた。

 多くの仮説の中でほとんど偶然に正解を言い当てていたことが、結果として彼女のキャリアを決定した。


 新島らの手により、ゾンビ化する原因は、ある種の寄生虫であることが判明した。

 その寄生虫は、生前から人間に寄生する。宿主が生きている間は、さしたる悪事も行わない。ただひっそりと、人間の全身にごく細い配管をめぐらせ、独自の循環系を確立するのみである。

 ゾンビ原虫と名づけられたこの寄生虫は、雌雄同体であり、単独で生殖を行う。卵は細菌ほどの大きさで、人間の血液内に放出される。当然、免疫系がこれに応答するわけだが、尖兵たるマクロファージが、ころりとだまされてしまう。卵を飲み込んだマクロファージの中で、卵はしたたかに分解されずに生き残り、マクロファージと半ば一体化してしまうのだ。そうすることによってマクロファージの手厚い保護を受けることになる。

 これは、免疫細胞に巣食ってたくみに免疫を逃れるHIVに似ているが、その本質はまるで違う。何しろ、卵が住み着いたマクロファージは、卵を守るためにとにかく長生きする。そうなるようにマクロファージが改造されるのだ。卵を宿した宿主の免疫系はむしろ強化され、めったなことでは風邪も引かなくなるのらしい。

 抗体の更新が促進されることにより、アレルギーや自己免疫疾患の一部にも罹りにくくなり、すでに罹っていればその症状が緩和されるとまで言われているが、ここまで効能が行き過ぎてくると似非科学に近いことは認めざるを得ない。

 このように、感染しても特に害悪は無い。唯一の問題は、宿主の死亡後である。

 宿主の循環器が停止するとゾンビ原虫は直ちに活動を開始し、自らの細い配管を使って死体の全身に栄養を送り始める。不要な組織を分解して栄養とし血管や筋肉の自己保存が再開され、配管に沿ってめぐらされた偽神経の信号で、筋肉がゾンビ原虫の指示に従って動き始める。血管は生前のように全身に血液をめぐらせ始める。

 そうして、ゆっくりとではあるが、死体はまるで生きているかのように動き始める。生ける屍の一丁上がりというわけだ。

 こうしてゾンビとなった死体を操り、次の宿主に卵を送り込む――つまり噛みつかせることになる。そのためには視神経や嗅覚も使っていると考えられているが、メカニズムはまだ解明されていない。何らかの方法で適合する宿主、すなわち生きた人間を識別していることだけは確かなようである。


  ***


 それから4年。

 ゾンビ対策委員会の実態は、新島が望んでいたものとは、いくつかの点で大きくかけ離れてしまった。

 ゾンビは研究すべき対象から対策すべき対象へと変化し、新島は瞬く間に委員会の幹部に祭り上げられて実質的な研究活動の手段を奪われた。

 そして、もっとも重大で決定的な点は、委員会自身が対ゾンビに限った武装警察の様相を帯びたことだ。

 もともとはゾンビ原虫の生態をつまびらかにし有効で安全な対策を確立・推進することを目的としていた。火炎放射器でゾンビを焼き払うことを志向していたわけでもなければそんな権限を持つつもりさえなかった。が、結果として、同委員会の支部のある多くの国で、対ゾンビ武力の保有と行使がほぼ無制限に認められるにいたった。ゾンビは、世界をそこまで混乱させるのに十分な脅威だったのだ。

「新島さん、国内でゾンビが出たそうですね」

 そう言ったのは、新島の部下の一人、小坂哲司。大学を出てすぐに新島の立ち上げたゾンビ対策委員会に参加した若者だ。背丈は百八十を超えちょっと面長がちだが左右対称な顔立ちと短く整えられた真っ黒の髪は、彼をハンサムボーイと呼ぶに十分な特徴と言えただろう。

 振り返った新島は、まだ二十九歳。化粧っ気は無いが眉の下は彫りが深く、厚い唇の華やかな顔立ちで、肩甲骨まで伸びた栗色のストレートヘアもまぶしい。

「そうね、北区の青柳公園ですって」

 新島がぼんやりと顔を向けている窓は開け放たれていて、春の柔らかい風がブラインドを何度も揺すっている。カシャンカシャン、と繰り返す音と、ノートパソコンの小さなファンの音だけが、室内に響く。

「僕が行きましょうか」

「いいえ、報告書の準備をしてて」

 新島が指示すると、小坂は、少しぷくっと頬を膨らませた。

「いつになったら僕は現場に出られるんですか。現場を見ないと報告も何も」

「現場なんてどこも同じよ」

 彼女の言う『現場』とは、こうだ。

 委員会の下部組織である【タスクフォース】が非接触型のプローブでゾンビ原虫の有無を確認し、確認でき次第火炎放射器で焼き払う。

 最も注意すべきは、偽陽性と飛び火による火災。

 これだけ。

 ゾンビそのものには何も脅威が無い。世界がどう感じていようとも、脅威が無いことは事実だ。

 一方の小坂は、それでは納得しない。ゾンビ発生の最初のニュース、あの凄惨な中継映像を見て誰もがゾンビ対策などという貧乏くじを嫌がる中、あえて志願したのだから、納得できないのも無理はない。ゾンビは善良な市民に対するこの上ない脅威であり、より効果的で迅速な処理方法を【我々が】立案しなければならないと考えている。

「それにしても貧乏くじね。いまや腫れ物扱いのこの調査室付きなんて」

 新島はため息をつきながら小坂に流し目を送ったが、

「創設者の新島さんの下で得るものの方が大きいと僕は思っています」

 と、小坂はいつものように鼻を膨らませた。

 ゾンビ対策委員会の花形はもはやタスクフォースだ。『実体としてフィールドに出現したゾンビに対する対策立案と武力行使』については全権限が委員長からタスクフォースに移管されている。タスクフォースは世界中で独自に作戦行動が可能な、子供の夢見る戦隊ヒーローのような存在だ。

 それに対して、創設者でありながらも委員長どころか委員の席さえも得ず、個人名を関した『新島調査室』の室長の椅子に座っている新島。ゾンビ対策委員会を志す者たちの多くからは個人崇拝の対象となっている上になまじゾンビ理論の提唱者として世間からも英雄的に扱われるだけに、組織の規律の面では厄介者に過ぎない。それでも、ゾンビ事件に関する純学術的な調査やそれに伴う事務仕事も多いため、時には小坂のように新たに配属される者もある。

「ま、小坂君をこの部屋で埋もれたままにするつもりは無いから、安心して」

 言いながら、新島は先月に国内で起きた499件のゾンビ事件の調査進捗ファイルを小坂のPCに投げ、進捗チェックの仕事を任せた。


  ***


 転機が訪れたのはそれから2年近くもたった頃だった。

 相変わらず新島の部下として調査室に勤めていた小坂のもとに、驚くべきレポートが送られてきたのだった。

 そのレポートを要約すると、『某国でゾンビ原虫の母子感染が確認された』というものだった。

 半信半疑の小坂に対し、新島は得心顔でうなずいて見せた。

「ようやくね」

 その言葉に、小坂は首を傾げる。

 ようやく?

 それはどういう意味だ?

 まるで新島女史が恐るべき母子感染というゾンビ原虫パンデミックの新たな局面を待っていたかのよう――

「まっ……予想してたんですか?」

 待っていたのか、と聞きかけて、小坂はあわてて言い換えた。

「予想、と言うよりは、単純な推論よ。ゾンビ事件で接触の機会があった人よりも明らかに感染が多い、噛まれる以外の感染経路があったことは間違いないわ。性行為などの体液交換が疑われてはいたけれど……」

「ゾンビ事件を起こしていた感染者が、生まれたときからキャリアだったと言うことですか? だとするといくらなんでも計算が合いません」

「そう。だから、ゾンビ原虫は、今になって目に見える『ゾンビ化事件』を起こしているけれども、もっと前からひそかに広がっていた――と、考えるべきね」

 新島は笑顔を崩さずに飄々と言ってのけた。

「それが接触の無い感染者同士でタイミングを合わせてゾンビ化するように? ゾンビ化の信号が遠隔作用を持ったものとでも?」

 最近、個々のゾンビ化事件のあらましやその感染経路などについて小坂はたびたび新島に論戦を仕掛ける。新島はそれを楽しく思い、小坂の人生を無駄遣いしているかも知れないという負い目を感じながらも、彼を調査室に留め置いていた。

「そういう可能性を排除はできないわ。まだゾンビ原虫の生態は分からないことだらけだもの。何しろ、現れた端から焼き払うんですからね」

 皮肉めいた新島の言葉に、小坂も思わず苦笑する。当初この組織を志したときに抱いた『脅威としてのゾンビとの戦い』という彼の意気は、すっかり新島に毒されて、いや、毒抜きされてしまっている。せっかくの標本を焼いてしまうなんてもったいない、と口に上らせることさえ、最近はある。

「なんにせよ、調査室にある標本とデータだけでは全く不足ですね、その仮説を検証するには」

「気長に、やりましょ」

 新島は、小坂の言葉にうなずき、窓の外に目をやった。


  ***


 新島は嘘をついていた。

 ゾンビ原虫に得体の知れない遠隔作用?

 あるわけが無い。

 そんなばかばかしいものよりも、もっともらしい説明はいくらでもある。

 そうと知りながら、彼女が公言しなかったことが山ほどある。

 ゾンビ原虫の感染拡大の一端を性的接触が担っていることは確かだ。

 だが、それと同じかそれ以上に、医療行為、輸血や血液製剤が役割を果たしている、と新島は確信していた。

 そう、かつての肝炎ウィルスの蔓延のように。

 ゾンビ原虫の卵はたくみに姿を隠しているため、顕微鏡での視認でしか検出できない。唯一、『発病』してゾンビ原虫の組織が体内に散らばってから分子マーカーで検出可能になるのみ。卵の状態のゾンビ原虫が各種の検査をすり抜けて輸血されてしまう可能性は十分にあった。

 同様に、蚊などの吸血生物が媒介している可能性も高い。

 何しろ検出できないものだから、媒介している可能性があったとしてもそれを証明するに至らない。

 委員会を実質的に牛耳る武官たちは、そうした事例の有無をつぶさに調べることよりは、ゾンビ対策の武力強化に予算をつぎ込むことを選んだ。

 委員会自身があえて知らずにいることは、そうした可能性が存在することそのものから市民の意識を逸らしてしまう。だから、調査を求める声もあがらない。その一方で世界各地で分かりやすい武功を挙げる武官たちは喝采され、さらに力を持つ。

 『人類 v.s. モンスター』という映画のような構図。

 市民が求めたものは、それだった。

 新島が待っていたのは、その構図を崩す事態の発生だった。

  ***


 母子感染。生まれながらにゾンビ化のくびきを課せられたものたち。その数は指数関数的に増えていった。

 何千ドルという実費がかかる精密検査を受ける市民が増え、報告数はさらに加速した。

 事実が報道されると、パニックは静かに広がった。誰もが、隣人がゾンビ原虫のキャリアかもしれない、と疑心暗鬼になった。

 死後家族を襲うゾンビとなる、生まれついてのモンスターなのだ。

 ゾンビ原虫の成長を抑制する新薬も開発されたが、生前から臨終にかけて効果的に投与できる人は限られていた。

 大きな事故や災害が起こると死体がゾンビとなって救助隊を襲う光景は、見慣れたものとなりつつあった。

 そんな中、ゾンビ対策委員会の創設者が立ち上がるというニュースが世界中を駆け巡った。

 ニュースの発信源は、創設者たる新島自身である。

 委員会の老人たちはそろって顔をしかめたが、世論をねじ伏せることはできなかった。

 世界は、救世主を待っていたのである。


  ***


「ゾンビになるのは、悪いことですか?」

 新島の第一声。

「いいじゃないですか、ゾンビになっても。お年を召して亡くなった方は、ゾンビになる体力も無いですから静かな最期を迎えます。不幸な事故で亡くなった方は、ゾンビになることも多いでしょう。でも、突然世を去りつつある故人が、かりそめにでも動き家族に縋る姿、美しいと思いますけど」

 あまりの暴言に、誰もが唖然とした。

「噛まれたら痛いです。いっせいに噛まれれば大怪我です。でも、そういうものだと最初から分かっていれば、やりようがあるじゃないですか」

 講演の仔細について何も説明を受けていなかった小坂も、開いた口がふさがらない。

「瑣末なことです。どうでもいいことです。それよりも大切なことを、今日皆さんにお伝えしたいのです」

 ゾンビ対策の権威として神格化し信仰さえされていた新島女史が、これほどまでにぶっきらぼうで雑な物言いをするやんちゃな30代だということを初めて知った人のほうが多かった。非日本語圏にも同時通訳で伝えられているが、彼女のこの投げやりな口調まで伝わっているだろうか?

 新島は、勿体をつけるように肩をすくめて見せ、マイクに拾われるようにため息をついた。そして――

「人類は、進化しました」

 会見会場に、どより、とざわめきが起こった。

「はるか昔、我々の遠い祖先がミトコンドリアを取り込んで一足飛びの進化をしたように、我々も、我々の細胞に新たな組織を取り込んで進化したんです」

「ゾンビ化することの何が進化か? そんな声もあるでしょう。でも考えてみてください。ゾンビ原虫は、人間の全身の活動をまかなうほどの『第二の循環系』を体内に構築できます。その過程で、傷ついた循環系の修復さえ施します。もし、ね、死ぬ前にゾンビ原虫の能力を発揮させることができたら、ほら、不老不死ですよ。ごめんなさい、不老不死は言いすぎね、でも、相当に寿命は延ばせますよ。人間の寿命がどんどん伸びて、より高齢でもその蓄えられた知識や知恵で社会に貢献できるようになっている今、一番の課題は、生物としての設計寿命です。細胞がエラーを起こしてもそれを排除できない、循環系がさび付いて梗塞・出血を起こす、自己免疫の不具合で自分の身体を蝕む……もともと、ここまで長生きする前提ではないのに、知性と文明により急激に寿命が伸ばされた結果です。人類は今、ミトコンドリアのときと同じような、一足飛びの進化を求めているのです」

「ゾンビ原虫は、その問題を全部片付けます。人間は、生物としての寿命を克服し、『真の精神の寿命』まで社会に貢献し続けられるんです。社会を構成する生物としてこの変化は明確に進化と定義づけてよいと考えます」

「今は過渡期。だから、ゾンビ化という副作用が伴います。きっとミトコンドリアもそうだったでしょう。取り込まれておとなしくしているはずも無い。宿主が死ぬや否や細胞を食い荒らし外にまで悪さをしたに違いありません。でもそれも、細胞に取り込まれたまま母から子へ受け継がれていく中で、徐々におとなしくなっていったんです」

「ゾンビ原虫が母子感染したことは、ついに人類がゾンビ原虫を取り込んだ進化の次のステージの入り口に立ったということです。卵を宿した免疫細胞が母子間を移動したとは考えにくいですから、受精卵、すべての細胞の幹となる細胞に、ミトコンドリアと同じようにゾンビ原虫の卵が住みついていた、と考えられます。そう、新しい生物を身体に取り込んで進化した次世代の人類、それが、母子感染の『被害』に遭った皆さんの本当の姿なのです」


  ***


「驚きました。確かに新島さんのおっしゃるとおり……今、人類は、進化しようとしてるんですね!」

 講演終了後、控え室で、興奮の小坂。が、新島女史は、憂い顔でため息をついた。

「馬鹿、ね」

 その後に言葉が付け加えられることは、なかった。





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