あまみうつし
鏡を見る。
鏡の中には「君」の顔がある。
鏡を見る。
鏡の中の君を見つめる「僕」がいる。
「僕」は、昨日大事に作っておいたチョコレートを取り出し、「君」の口に含めた。
口中に沁み入る砂糖の甘味と鼻奥をくすぐるココアの香り。美味しい、のだと思う。
「僕」はそう思ったけど、「君」はどう思うのかな。
去年の2月14日。バレンタインデーは「僕」の街をデコレーションに彩らせていて、「僕」はにぎやかな町を横目に高校へ向かっていた。
「おはよー!もー先行っちゃうなんて酷いじゃーん!」
リズミカルな足音と聞きなれた明るい声が後ろから響く。このときの「僕」は認めたがらなかっただろうけど、「君」に話しかけられる度舞い上がっていたと思う。
「おはよ。だって、遅刻しそうだったし」
「だったら私と一緒に遅刻してよー!幼馴染でしょー!」
「んな無茶苦茶な……」
肩の力を抜いて呆れ顔になる「僕」。「君」は、まだ「君」のものである顔を不満げに膨らませた。
「この薄情者めっ。はぁ、それはもういいや。それよりさ、明日は何の日だか知ってる?」
「知ってるよ、チョコをリア充を恨む日だろ」
「違いますーバレンタインですー。なんでそんな僻んでんのさもー」
「だって、お前とお母さん以外にもらえた試しないし」
目を逸らしながら言う。たぶん赤面してはなかったと思うけど、今から考えてみるとあんまり自信は無い。
そんな「僕」の顔を「君」は覗き込んだ。
「あのねー、私にもらえてる時点で喜んでよ。これでも結構他の男子には好評なのにさ」
「義理じゃん。嬉しいといえば嬉しいけど、やっぱり本命が欲しいよ」
「ゼータク言わないのっ、今年は義理もあげないことにするよ?」
「それは勘弁」
慌てた「僕」の顔に気を良くしたのか、「君」はいたずらっぽく微笑む。
「じょーだんだよじょーだん!ちゃんとあげるから安心しなって!」
「ほんと頼むよ、0個は悲惨だからさ」
「任せときなー!今年のは期待してくれていいからね!」
「うん、頼んだよ」
そんなことをぺらぺらと喋りながら歩いていたら、校門の前にもう着いていた。
「僕」と「君」とが通っていた高校は進学クラスと普通クラスに分かれていて、それぞれ新校舎と旧校舎に分かれて勉強することになっている。
進学クラスの「僕」と普通クラスの「君」とは、ここで別々の教室に向かうことになる。
「もうこんなとこか。じゃ、明日のチョコ楽しみにしてるから」
「はいはい。首長くして待ってるんだよー!」
「分かった分かった」
苦笑しながら「君」を見送ると、「君」はくるりと背を向けて、古びた白いコンクリートの校舎へと消えていった。
それを見届けて、「僕」も真新しい校舎の中に足を踏み入れた。
放課後。夕暮れのオレンジとひんやりした空気、真っ赤な「君」の顔がやけに印象に残っている。
「……受け取って、下さい」
赤い包装紙に黄色いリボンでラッピングされたそれは、義理と呼ぶには手が込みすぎているように見えて。
冗談めかす様子もなく、いつになくしおらしい「君」の姿は、僕の思考を期待と緊張で焼け付かせた。
「ひょっとして」
「そう取ってもらって大丈夫だよっ」
早口の「君」に遮られ、期待は確信と歓喜に変わった。
その後何を話したのか、具体的には覚えていない。
ただ、その時の記憶が人生の中で一番輝いてみえることは確かだった。「僕」も「君」も、あんなに嬉しそうにしてたのは他に記憶が無い。
これからのことを話しあって、笑いあって。話し合った事は結局本当のことにはならなかったけど、幸せな記憶。
次に思い出したのは、今の「僕」が始まった時のことだった。
「……あ、れ」
「っ!目が、目が覚めたのねッ!大丈夫!?私がわかる!?」
白い天井、白い明かり。かすかに漂う薬の匂いと規則正しい機械音。
そして脇にはおばさんこと、「君」のお母さん。まるで状況が分からなかった。
どういうべきか分からず視線をさまよわせていると、おばさんは「僕」の顔を覗き込んで心配そうな顔をする。そうこうするうち、僕はなんとなく病院にいるのであろうことは察しがついてきていた。
だが、どうしておばさんが「僕」を心配するのかが分からない。普通お母さんがここにいるべきじゃないのか?
「ちょっと待っててね、今先生読んでくるから」
待って、状況を説明して――言おうと思った頃には病室を出ていってしまっていた。
おばさんはそのまま白い引き戸を開けていってしまったけど、すぐ医者を連れて帰って来た。そうこうするうちに検査の話が始まる。医者に促されるままに服をめくる。めくると……
ベージュのブラジャーに包まれた、Bカップくらいの胸と、白く透き通る女の子の身体があった。
事態が理解できず取り乱した「僕」を抑えながら、医者は初めてなにがあったのかを教えてくれた。
「僕」と「君」は事故に遭ったんだ。
泥酔した男の運転する車が、歩道を歩いていた「僕」と「君」に突っ込んできていたこと。
いち早く気付いた「僕」が「君」をかばって、その時死んでしまったこと。
「君」は無事とは行かなかったけど、命に別状は無く、目を覚ますのを待っていたこと。
今は3月3日、事故が起こってから3日経っていること。
意味が分からなかった。
なら今こうして考えている「僕」はなんだ?
「君」はどこに行った?どういう理屈でこんな事が起こりえる?
実は担がれてるんじゃないのか?ドッキリ大成功とか?でもおっぱいには確かに感覚が通って……
後から後から頭を疑問が覆い尽くし、しばらくは何も手につかなかった。おばさんには申し訳なかったけど、それだけこの状況は意味不明なのもので。
リハビリはおろか食事も喉を通らず、何をすべきなのかすら考えても答えが出ない。あまりに非現実的な状況に圧倒されて何も考えられなかった。
でも何もしなくても時間は過ぎた。
クラスメイトの見舞いがあって、「僕」のお母さんに泣かれて、おばさんに励まされて、訳も分からないうちに涙が出てきて。
そんな事が続くうちに、ようやく「僕」が「君」の中に入ってしまったということの実感は湧いてきた。
そう思った日に鏡を見ると、「僕」の食事拒否のせいでやつれてしまった「君」の体があった。
活発に笑っていた顔は頬骨が少し見えるほど細くなっていて、腕も目に見えて痩せていた。痛々しい、という印象が脳裏を走る。
その時、「僕」のせいでこうなったんだと思った時、「僕」はちゃんとしなきゃいけないんだと、この体になって初めて思った。
リハビリを始めたのも「君」として振る舞い始めたのもそこからだから、再出発の始点だとも言えるかもしれない。
「君」がどこに行ったのかは分からないけど、もし帰って来たときの為にこの体は大事にしなきゃいけないんだ。
それからはあっという間に日々が過ぎていった。何せ女の子の生活なんてほとんど知識も無かったから覚える事も多かったし、
学校に戻ってからは勉強の遅れも取り戻さないといけない。「君」の友達と付き合えるよう気を配る必要もあった。
最初の1,2ヶ月はトラブルも多かったけど、半年も経つ頃には「僕」はすっかり「君」としての生活を送ることができていた。
「僕」の体にいたころは外から眺めているだけだった「君」と友達とのやり取りを当事者にとして行うのはなんだか不思議な心地だったけど、
形だけでも振舞えていることは、なんだか「君」が学校の中に戻ってきたような気がして少し嬉しかった。
錯覚でしかなかったのかもしれないとしても。
状況が落ち着いてくると、「僕」は「君」の行方が気になって仕方なくなってきた。
「僕」が「君」の体にいることを知覚する度、片割れである「君」のことが気になって仕方なくなる。
「僕」がこの体に入ったのなら、「君」は入れ替わりに――
そこから先は考えたくなかった。その可能性だけは否定したくて、「僕」は縋るように違う可能性を頭の中で模索した。
実は今もこの体の中に眠ってるんじゃないかと、僕はそう思っている。だって双方向にそんなとんでもない事が起こるより、一方向の方がまだ起こりそうじゃないか。きっとそうだ。
でもそれを裏付けるものは何も無くて、ただ根拠の無い希望的観測と、もう一つの結論への忌避感だけで練り固められた結論だった。
そんなあやふやな考えだったけど、鏡を見るたび、少しだけ信じてみる気持ちになった。鏡の中の「君」は確かに昔の「君」で、そこに「君」がいると思わせてくれた。
たとえ、この姿は「僕」の努力の産物なのだとどこかで思っていたとしても。
初めてそう思ってからは「僕」は鏡の中の「君」に触れるのが日課になった。
そして、今年、3月14日。記憶の中に残り続けた、去年のバレンタインデーに似た装いの街。
ふとショーウィンドウの向こうのチョコが目に入る。そういえば、去年はホワイトデーのチョコを渡せなかったんだっけ。
ウィンドウに映った「君」の顔は、どことなく寂しそうに見えて。
気付けば店に入っていた。
チョコは初めて作ったけど、そんなに難しくは無かった。溶かして冷やして固めれば終わり。
白い小奇麗な箱を用意して、チョコを収め、赤い包装紙で包み、黄色いリボンでラッピング。
気付けばあの時受け取ったチョコに似た装いになったのは、何の因果なのだろう。
チョコを持って、自室の大鏡の前に立つ。手にチョコを抱えた君の姿。唇を真一文字に引き結んだ、厳かにも見える表情。
するすると結んだばかりのリボンを解き、チョコを取り出す。そして鏡の中に目をやりながら、チョコに手を伸ばす。
「君」の白い指が、茶色のチョコに絡む。緊張に満ちた顔の「君」が、それを見つめる。
チョコを少しずつ持ち上げ、口元に運ぶ。口の前まで持ってきて鏡を見る。「君」の目が食い入るように鏡とチョコを見ている。
目が合ったように思って……目が合えばいいなと思いながら、チョコを「僕」の、「君」の口に放り込み。
口の中の甘みが「君」に伝わる事を願いながら、チョコを味わう「君」の顔を見つめた。
お粗末様でした。
最初と最後のシーンを演出したくて書き出したのですが、実力不足を痛感するばかりです。
完成しただけ良しとすべきでしょうか。