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街一番の宿とかいっても、ごく普通の酒場兼宿屋だった。
当たり前だ。
小さな宿場町に、迎賓館みたいな宿屋が建っていたら、そっちの方が驚きである。
「部屋も普通、食事も普通。出される酒まで普通ときている。特筆すべき点がなさすぎて、まるでそれが特徴のようだな」
微苦笑をたたえながら木製のカップで果実酒をのむセラフィン。
ごくわずかに木の香りがする。
せめて陶器を使えよと同行者たちは顔をしかめたが、あんがい彼女はこの匂いが嫌いではない。
森に生きるエルフなので。
「普通だとは、まったく思わないけどね」
ティアロットだ。
こちらははっきりと苦笑している。
視線はフードをとったセラフィンとナナへ。
旅をする女性たちはフードとマントで顔も身体も隠し、性別すら判らなくしてしまうものだ。
女だと知れて、得をすることなどほとんどないから。
まして亜人や獣人ならば、なおさらである。
それが常識。
しかしひっくり返った。
女将に案内されて入ったこの店には、いたのである。
エルフも猫人も、それどころか狼人やドワーフまで。
男も女もフードすらかぶらず、顔をさらしている。
「この店が特殊なのか、この街がそうなのか、あるいはイロウナト自体が特別なのか。わけがわからないよ」
さして美味しいわけでも、かといって不味いわけでもない腸詰めを口に運び、紅の魔女が肩をすくめた。
「昔は当たり前の光景だったさ。酒場に行けば、亜人もいたし獣人もいた。君たちは見たこともないだろうが、有翼人たちだって見かけたものだよ」
わずかに頬を染めたエルフの言葉。
強い酒を飲んでいるわけではないが、すこし酔いが回ったのだろうか。
目元に懐旧の靄がたゆたっていた。
お見合い、などにはならない。
アルテミシアが是といえば是だし、否といえば否だ。
リリエンクローン公爵家の三男、ルシアンとの婚姻のことである。
専制君主の意志はすべての法の上に屹立する。
その日、父親に伴われて王宮を訪れた茶色い髪の少年の表情は、屠殺場に引き立てられる家畜のそれと変わらなかった。
豪奢な赤い絨毯に片膝をつき、じっと頭を垂れて待つ。
女王陛下の入来を。
謁見の間。
ここに通されたということは、私的な面会ではなく、公的な会見という意味だ。
やがて式部官が美声を披露し、女王の到着を告げる。
背後で扉の開く音。
足音が移動してゆく。
もちろんルシアンの視線は床に固定されたままだ。
身体を動かす許可は、まだ出ていない。
「リリエンクローン公子ルシアン殿。陛下の思し召しである。おもてをあげられよ」
次に聞こえた声は式部官のものではなかった。
おそらくは、制服の宰相こと、国務大臣シルヴァ卿。
女王アルテミシアの腹心であり、おもに政略面で彼女を支える逸材だ。
平民の下級官吏あがりで、大臣という顕職に就いた後も、官吏の制服をまとっている。
実直で飾らない人柄が王都の民たちにも愛されているという。
脳裏で再確認しながら、ルシアンが顔をあげる。
そして固まった。
目の前に顔があったから。
氷水晶の瞳が、じっと彼の顔を覗き込んでいる。
状況を理解するのに、一拍の時が必要だった。
「うわぁぁぁぁっ!?」
理解は驚愕に直結し、少年が尻餅をつく。
わりと当然の反応である。
視線を上げたら女王陛下の顔が目の前にありました。
驚くなという方がどうかしているだろう。
「びっくりした?」
悪戯っぽく小首をかしげるアルテミシア。
視線を巡らせば、隣で跪いていた父も、玉座の横に立つ国務大臣も大笑いしている。
どうやら一杯食わされたらしい。
全員が共犯者というわけだ。
「……陛下、お戯れにもほどがございましょう」
居住まいを正し、ルシアンがアルテミシアをたしなめる。
ふ、と、救世の女王が笑った。
「騙されたとしって、恥じ入りもせず、激昂もせず、注意する方にいくんだ。なかなか面白いね。君」
完全に恥を掻かされたこの状況。相手は女王。
もし打算的な貴族であれば、参った参ったと一緒になって笑うだろう。
あるいは剛直な武人であれば、席を立って出て行ってしまうかもしれない。
ルシアンはどちらでもなかった。
正面から悪戯をたしなめた。
さすがは信義の人ラズリット・リリエンクローンの息子といったところか。
やはり凡庸からはほど遠い。
「本音を引っ張り出すにはさ。怒らせるか笑わせるかびっくりさせるか、とにかく理性の仮面を引っぺがさないと判らないからね」
そういって、また顔を近づける。
今度はルシアンもさがらず、正面から見つめ返した。
青とこげ茶の瞳から放たれた視線が、不可視の火花をあげて絡み合う。
一触即発の危機を孕んだ睨み合いにも似て。
「それにさ。いちおう花婿候補なんだし、近くで顔を見たいじゃない」
「陛下が容姿に価値を置くお方だとは、寡聞にして知りませんでしたが」
冗談めかしたやりとりだが、ほとんど鍔迫り合いだ。
胆力のあるラズリットやシルヴァはともかく、側仕えの文官などは胃のあたりを撫でている。
年頃の男女とは、まったく思えない雰囲気である。
「私と一緒に、未来、作る気ある?」
「どのような未来かによります」
「だから才能を隠してたの?」
「それは陛下も同じかと」
かつてアルテミシアは力無き王であった。
ゆえにその才能も能力も隠していた。
才走ったところを不用意に見せれば、暗殺される可能性があったからだ。
やや事情は異なるがルシアンも同じである。
彼には兄が二人いる。
どちらも有能な人材で、人望もある。
だからこそ、ルシアンは自分の才能を隠していた。もし彼の能力が兄たちを凌駕していると知られれば、容易に家が割れる。
彼を後継者に仕立てようとする輩が現れるから。
公爵家の地位や財産というのは、争いを生むほどに豊かなのである。
「僕は、無為徒食のままに、芸もない三男として終わるつもりでした」
「それはそれで羨ましい人生だとは思うけどね」
「放っておいてくれたりとかは」
「すると思う?」
「ですよね……そんな気はしました。僕に何をお望みです?」
「いきなり結婚しろとかは言わないわ。いまは子作りとかしてる余裕はないし。まずは私の補佐をして」
「それはシルヴァ卿の仕事では?」
「彼一人じゃ大変なのよ。過労で倒れちゃうわ」
「ふむ……そういうことでしたら、無能非才の身ですが」
見つめ合ったまま、なにを話しているのかといえば、まったく睦言ではなかった。
ただの家臣登用である。
色気もへったくれもない。
うおっほんと、ラズリットが大きく咳払いする。
「陛下。まことに僭越ながら、お見合いというのはもう少し真面目にやるべきかと」
宿場町での逗留は、長期間には及ばなかった。
イロウナトとアンバーの内情を探るのが目的の視察行である。
ひとつの街に腰を落ち着けていては調査にならない。
一泊しただけで、北斗たちは出立する。
「けどまあ、わけわかんないことだらけだね」
ねじくれた杖をつきながら歩くティアロット。
肉の重圧から解放され、一安心といったところだ。
明敏な彼女をして、状況が整理できない。
ごく普通に繁栄する宿場町。女性や亜人がフードもかぶっていない酒場。破壊された関所。
それらは等号で結びつかないのである。
「現実問題として、領主が死んでたら、もう少し混乱すると思うんだけどな」
「まあね。統治機能は失われていないと見るべきだと思うよ。ホクトさん」
北斗の言葉に頷く。
しかし、そうなると逆に判らないことも出てくるのだ。
「どうしてアルベルトは、イロウナトを襲わなかったのだろうな」
腕を組むセラフィン。
まさに、それこそが判らない部分の最たるもの。
宿場町の様子から推理すると、イロウナトは襲われていない、という結論に達してしまうのである。
「まー 大きな街で情報を集めるしかないんじゃない? 考えたって判らないよ」
ナナが言い、軽い足取りで街道を進む。
苦笑する男女。
彼女のストレートさは、いつだって救いだと思いながら。




