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たいていの人間は水中で呼吸する能力を有していない。
もちろんイスカもだ。
そりゃあ、頑張れば一分やそこらは息を止めていられるが、その一分間で事態が改善する見込みはゼロである。
どうしたものか。
悩むイスカの目前に何かが近づいてきた。
お湯の中。
薄い湯衣から伸びる白く美しい足。
ゆらゆらと揺れる衣。
見えそうで見えないデルタ地帯。
「ぶおはっ!?」
ざっばーんと水面に飛び出す。
「おおー でてきたー」
「な、な、な……」
目を白黒させる中年男に、ナナがにっこりと笑う。
「いやあ。なんでもぐってるのかなーと」
お湯に濡れた衣がすけすけだ。
「お嬢ちゃん……無警戒に男に近づいちゃいけねぇよ……彼氏さんもご立腹だ……」
顔を背けながら注意するイスカ。
視界の隅では、北斗が肩をすくめていた。
諦めきった表情は、彼氏と言われたことに対してか、ナナの行動に対してなのかは、もちろん黒の百騎長には判らない。
「ここ混浴だよ。おじちゃん」
「だとしても、だ」
離れようとするイスカ。
回り込むナナ。
中年の域に達していたってイスカは男である。視線はどうしてもナナの豊かな胸へと行ってしまう。
薄い湯衣を透かして、ツインピークスがワガママな自己主張をしている。
「なんで潜ってたのー?」
「流行ってるんだよ。潜水」
てきとーなことをいったりして。
軽く息を吐いて混乱を追い払う。
どんな運命の悪戯か知らないが、奇貨として考えよう。
アトルワの密偵を務めていた男女。
女王は、聖賢の姫君の飛耳長目となれるほどの人物だと推測していた。人数は半分だが、為人を知るのも悪くない。
「観光かい? お嬢ちゃん」
キャットピープルの少女に問いかける。
「いちおー仕事。わたしたちは巡察使だからねー」
身体も情報もとくに隠すつもりはないのか、あっけらかんと応えが返ってきた。
「巡察使?」
「アリーシア姫の代理人として、民草の声を聞くって仕事さ」
体を洗い終えた少年が湯舟に入ってくる。
いきなり湯舟に飛び込んできた少女とはえらい違いである。
「おおう……おえらいさんじゃねえか……じゃなかった。じゃないですか。これは失礼を……」
頭を下げるイスカ。
ぱたぱたと北斗が手を振った。
「やめてくれよおっちゃん。年上の人に頭なんか下げられたら、こっちの立つ瀬がないってもんだ。ただの青二才だよ。俺らは」
笑いながら自己紹介する少年少女。
このときはじめて、イスカは魔法使い殺しと剣の舞姫の顔と名前を一致させた。
視認できない範囲で息を呑む。
アリーシア姫の腹心中の腹心。
旧アトルワ軍を一撃で粉砕し、アキリウ軍をも撃滅した勇者。
同盟者バドス男爵は、自らが受け取る報酬をすべて返上してもウィザードキラーを幕僚に欲しいと望み、対したアリーシア姫は彼を差し出すくらいならば自分が人質になると応えたという。
ルーンナイトの後継者。
獣神キリの末裔。
そんな人間が密偵を務めていたというのか。
やはりアルテミシアの読みは正しかった。
王都で仕掛けなくて正解である。
ウィザードキラーとソードダンサー。一緒にいたもうふたりも、おそらくはひとかどの人物だろう。
もし戦闘になっていたら、最終的には数で勝てたとしても、ルーン側にも相当の損害が出ていただろう。
「俺はカイ。旅の冒険者だよ」
「つーことは、おっちゃんも観光?」
「もってな……さっき仕事だって言ってなかったか?」
「建前建前。俺はもともとこの国の人間じゃなくてな。タイモールに温泉があるって聞いて、どうしても入ってみたくてよ」
「それで良いのか巡察使……」
「ちゃんと仕事もするって。民の声を聞いたりとかな?」
「なんだその取って付けたような言い訳……」
中年の顔に苦笑が浮かんだ。
どう考えても、本業の方がついでになっている。
「まあいいけどな……観光旅行できるほど気楽な身分じゃねえよ。飯の種を求めてってとこだな」
「飯の種?」
怪訝そうな顔をする北斗。
タイモール周辺に遺跡とか、そういうのはなかったはずだ。
「ああ。どうもきな臭くなってきたって噂が……こら泳ぐなお嬢ちゃん。他の人の迷惑だろ」
台詞の後半はナナへの注意だ。
開放感からか、なんとこの猫娘はばしゃばしゃ泳ぎはじめやがった。
めんこいものである。
入浴しているご老体たちは、けっこう微笑ましく見守ってくれている。
自由すぎるタイモールであった。
「俺のかわりに注意してくれてありがとう。カイ。あがったら牛乳くらいおごらせてくれ」
「せめてよく冷えたエールにしてくれよ。ホクト。なんで風呂あがりに牛乳なんか飲まないといけないんだ」
「そうか……」
「なんで落ち込むんだよ」
なんだろう。
馬鹿なんだろうか。こいつらは。
「で? なにがきな臭いって?」
「おお? ああ、南のガゾールトが、アトルワにびびって戦の支度をしてるって話さ」
「うげ。まじかよそれ」
「噂だけどな。兵の募集でもしてねえかと思ってなぁ」
両手を広げてみせる。
どうせならアトルワについたほうが実入りが大きそうだと思ってやってきたが、どうにも戦争の気配なんかない。
ガセを掴まされたらしい。
こうなっては長居しても仕方がないが、せめて有名な温泉くらいは浸かってから次の土地を目指そう。
「という事情さ」
苦笑いしながら告げる中年の冒険者であった。
一風呂浴びてさっぱりした北斗とナナ。
温泉から噴き出す高温の湯気で蒸したという野菜をかじりながらタイモールの街を散策する。
「ところでさ。ホクトー」
ほくほくの芋が美味しい。
バターか塩辛をのせて食べたいところだ。
「なんだよ。ナナ」
「さっきのカイっておじちゃん。あれかなり強いよ」
「まあ旅の冒険者だっていってたからな。腕に自信がないとできない仕事だろうし」
「んー そりゃそうなんだけどさ」
微妙な顔で北斗の手から芋をひとつもらう。
一口。
野菜じゃ力が出ない。
肉が食べたい。
世の中は肉だ。
「なんだよ?」
「わたし、リキに負ける気はしないんだけど、カイには勝てる気がしない」
「おいおい……」
冒険者ということで比較したのだろうが、けっこう失礼である。
リキだってかなり強いのだ。
単純な剣の腕なら、北斗と互角かそれ以上である。
それに負ける気がないとか、ナナの自信過剰っぷりにも困ったものだ。
と、そこまで考えて腕を組む。
自信過剰なナナが、勝てないと予測する相手。
「それって無茶苦茶強いんじゃねえか……?」
「うん。わたしとホクトの二人かがりで戦って、ぼろぼろになってなんとかぎりぎり勝てるかなってくらいかなー?」
「うええ。おっかねえなぁ」
流しの冒険者というのは、そこまで強いのか。
できれば戦いたくない相手である。
「で、これはただの勘なんだけど。カイとは戦うことになるような気がする」
「なんで?」
「コーヴで、見かけたような気がするから」
「おいおい……」
ナナの気配読みは鋭い。
ドバ村いちの狩人であるエナには及ばないものの、人間などよりずっと鋭い感覚を持っている。
その彼女が、王都で見かけた気がするというなら、八割から八割五分くらいの確率で同一人物だろう。
もちろん、それだけで敵と断定することはできない。
何十万のも人間のいる街だ。
冒険者がいたって、なんらの不思議もない。
だからナナは勘といったのだ。
「その勘が外れることを祈るぜ」
「じゃあ、これからどうするの?」
「ガゾールトを探るべや。カイが敵かどうかはともかくとして、戦争の噂があるなら確かめておかねーと」
といっても、すぐに移動するわけではない。
一日か二日、タイモールに滞在してこの街の民の声も集めなくてはならないからだ。
それも仕事なのでっ。




