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物陰から飛び出す北斗。
愚かな行動であるとの自覚はある。
ナナもドバも、とくに恩義のある人ではない。
少し言葉を交わしただけで、通りすがりといっても良い程度の関係しかないのだから。
だが、関係がないからといって見捨てるには、少年の体内を流れる血潮の温度は高すぎるようだ。
地球で猫を助けたときと同じ。
理屈ではない。論理ではない。
危機に瀕しているなにかがいるなら、飛び込まずにはいられない。
それが北斗である。
「やめろてめえらぁぁぁ!!」
大声を上げて突進する。
「人間? 逃亡奴隷でもかくまっていたか。罪状がひとつ増えたな。ドバ」
「……いまさらだ」
蒼白な顔色ながら、村長の手からも爪が伸びた。
腹を括る。
難癖をつけて村を滅ぼそうとした連中だ。彼がただの旅人で、偶然この村にいただけと主張したところで意味がない。
ドバに選べる選択肢は、おとなしく娘たちを人身御供に差し出して媚びを売るか、逆らって殺されるしかないのだ。
ゆえに、どちらも選ばない。
「御身を打ち倒し、生きる道を選ばせていただく!」
叩きつける言葉とともに襲いかかる。
もうひとりの護衛が、正面に立ちはだかり、長剣で爪を受けだ。
二、三合も斬り結ぶと、たちまちのうちにドバは劣勢に追い込まれてゆく。
ナナも同様だ。
キャットピープルは剣のように鋭い爪と、強靱なバネを持っているが、ただそれだけ。
どれほどの能力も鍛え上げられなくては宝の持ち腐れというものだろう。
彼の護衛たちは正規の訓練を受けているし、なによりも踏んでいる場数が違うのだ。
ずぶの素人に後れをとる道理がない。
鼻で笑う男爵公子。
「勇ましく挑んだ割には弱いねぇ。ドバちゃん。悔しい悔しい」
「いい加減にしろよてめえ……」
怒りの炎を瞳に宿し、北斗が瀟洒な若者の前に立つ。
互いに徒手空拳。
「なんだお前。まだいたのか」
侮蔑の言葉とともに男爵公子が右手を伸ばすと、指先に炎が生まれた。
唇が蠢き、謎の呪を紡ぐ。
北斗の目が驚愕に見開かれた。
生まれてはじめて目にする魔法である。
「骨も残さず焼き尽くしてやるよ。火焔球!」
ソフトボール大の火の玉が北斗に迫る。
じっと動かない少年。
哀れな逃亡奴隷は恐怖に怯えて動けない、と、男爵公子は思った。
だが、
「なんでその火は燃えてんだよ」
ぼそりと北斗が発したのは、悲鳴でも絶叫でもなかった。
まるで場にそぐわない問いかけである。
たったそれだけで、ファイアボールが動きを止めた。
「火が燃えるには可燃物が必要だ。そんなもん、どこにあんだよ」
そして次の一言で、嘘のように消滅する。
「なっ!?」
今度は男爵公子の目が見開かれる番だった。
いまこの逃亡奴隷はなにをした?
「答えてみろよ。インチキ野郎。どうやってその火を出したんだよ」
下目使いに睨め付けながら、ずんずんと北斗が近づいてゆく。
乳白色の空間。
巫女装束をまとった女性の唇が半月を刻む。
「それが汝のチカラじゃ、北斗。汝の言霊はツルギとなり、彼の地の理をも両断するじゃろう」
聴く者とてない呟きが紡がれてゆく。
漆黒の瞳が映すのは平穏か、騒動か。
「どちらでもかまわぬ。楽しむが良い」
一度、言葉を切る。
少しだけ考える素振り。
「言の葉の剣、と言いたいところじゃが、汝は嫌がりそうじゃの。対魔法論理結界とでもしておくか。世界を遊べ。北斗や」
秀麗な顔に、花がほころぶような笑みが浮かんだ。
拳を握り、近寄ってくる少年。
男爵公子の顔に、得体のしれないものへの恐怖が浮かぶ。
「なんだお前は! なんなんだ!」
魔法を打ち消した。
そんな馬鹿な話、聞いたこともない。
「訊いてんのは、こっちだよ!」
唸りをあげて振るわれる右拳。
まともに顔面に受け、鼻血と前歯を撒き散らしながら男爵公子が吹き飛び、地面と接吻を交わす。
それきりぴくりとも動かない。
ちょっと痛かったのか、北斗が右手を振った。
剣道部所属であるため、拳での攻撃にはあまり得手ではないのだ。
なにしろ、手加減の度合いが判らないので。
彼がいた日本は一九七二年。
普通に不良番長とか女番長とかが実在していた時代である。
ケンカのひとつもできなくては生き残れない。
「なにパンチ一発でのびてんだよ。質問に答えやがれ」
男爵公子の襟首を掴んで引き起こす。
驚いたのは護衛たちである。
彼ら自身が勝利したとしても、護衛対象が無事でなくては意味がない。
慌てて男爵公子の元へと駆け戻ろうとする。
絵に描いたような悪手だった。
ドバにしてもナナにしても、そんな好機をみすみす見逃すほど甘くない。
無防備な背中に襲いかかり、鋭利な爪で存分に切り裂く。
噴水のように吹き上がる血しぶき。
倒れ込む護衛どもに目もくれず、獣人が疾走する。
左右から。
北斗によって釣り起こされた男爵公子の身体を、剣のような爪が貫いた。
一瞬の出来事。
苦悶の表情を浮かべ、びくびくと痙攣していた男の身体が弛緩する。
「殺した……のか?」
かすれた声で言った北斗が、男爵公子から手を離した。
鼻が潰れ、前歯の欠けた死体が転がる。
大きく息を吸い、吐き出した。
判っている。
ここは日本ではない。
命はずっと軽いし、それ以上に、殺さなければ殺されるという状況だった。
それでもなお声がかすれてしまったのは、彼が平和な時代からやってきたからである。
ひとつ頭を振って感傷を追い払う。
殴り倒したからといって、それで萎縮する相手ではない。
命を助けて逃してやったら、次はもっと多くの兵隊を連れてやってくるだろう。
その程度のことは日本人の北斗でもよく判る。
ヤクザや愚連隊などと同じだから。
「もう後戻りできないわね」
直接には応えず、ナナが髪をかきあげた。
美人と称しても大過ない顔は、返り血に染まっている。
「若い衆を集めなさい。ナナ。まずは死体を埋めて事態の発覚を遅らせる」
ドバが娘に命じた。
先ほどまでのぼへーっとした様子とは別人のようだ。
「わかったわ」
ひとつ頷き、ナナが駈けてゆく。
「ホクト。君は逃げなさい」
まだ間に合う。
男爵公子もその護衛も殺した今、北斗の存在は誰にも知られていない。
すぐに村を離れれば、関係者だとは思われないだろう。
事実、彼は無関係な人間で、巻き込まれただけなのだが、このままとどまると、その言い訳も難しくなってしまう。
「まさかだろ。男が一度出した財布を引っ込められるかよ」
無関係は承知、門外漢は承知で出しゃばったのだ。
「江戸っ子だぜ? しゃしゃり出るのも勝手なら、それでズッコケんのも勝手ってもんだ」
言い放って、北斗がにやりと笑う。
自己責任、という言葉が最も適当だろうか。
こんなはずじゃあなかったと泣き喚くくらいなら、最初から手など出さないのである。
「肝が太いな。ホクト」
「あんたもね。ドバ」
男たちが笑みを交わす。
一蓮托生だ。
ドバに退路はすでになく、ホクトは自らの手で退路を断つ。
ある意味で、度しがたい男どもであった。
やがて、村の若衆たちが姿を現し、死体を片づけ始める。
丁寧に。
血痕すら残すことなく。
この村に男爵公子などこなかった。しばらくはそれで押し通すため。
作業の邪魔にならぬよう、また、汚れた身体を清めるために移動するドバと北斗。すぐにナナも後を追う。
向かったのは、もちろん村長たるドバの家だ。
「ねえホクト。どうやって魔法を防いだの?」
家に入ると、開口一番にナナが訊ねる。
彼女ならずとも気になるところではあろう。
沐浴用のお湯を用意しながら、ドバの耳もこちらを向いている。
対する北斗の回答は、あまりまっとうとはいえなかった。
「魔法ってなんだよ? あのインチキのことか?」




