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総大将逃亡。
そんな事態に陥って勝利した軍など、ただのひとつも存在しない。
もちろんアキリウ子爵軍だけが例外ということはない。
アキリウ子爵がわずかな手勢を率いて逃走を始めたとの報告を受け、アリーシアは指揮座から立ちあがった。
「好機です。降伏勧告を」
凛とした声が響く。
それは瞬く間に前線へと伝播してゆく。
もちろんアリーシアは人道によって降伏勧告を命じたわけではない。
味方の士気を上げ、敵の士気を挫くためだ。
ようするに降伏勧告を出すだけの余裕が、バドス・アトルワ連合軍に生まれたというアピールである。
総大将が逃げたという事実との相乗効果によって、アキリウ軍の将兵の勇気は潰えた。
戦場の各所で、兵士たちが剣を投げ捨て、両手を挙げる。
中には再起を図って逃亡を選択する者たちもいた。
その背に爪を振るおうとしたナナを、北斗が押し止める。
「逃がしてやろうぜ」
「いいの? すぐまた攻めてこない?」
「そんときはそんとき」
血まみれになった剣を、北斗も投げ捨てる。
最初に使っていた剣は折れてしまった。敵兵から奪ったり、そのへんに落ちていたのを拾ったりして、これは四本目である。
失った剣の数に倍する命を彼は奪った。
戦争だ。
判っている。
そして殺し合うことが正義でないのも、充分に判っている。
勝敗が決したなら、これ以上血を流し合う必要はどこにもない。
そう考えたのは北斗だけではないのだろう。
響いていた剣戟は、徐々に収まりつつある。
「ホクト」
背後から声がかかる。
シズリスだ。
振り返った少年は、返り血に染まった年長の盟友の姿に呆れた。
「ひどい格好だな」
「それはお互いさまだ。お疲れさん」
残念ながら、北斗も他人をとやかくいえる格好はしていない。
血と汗と埃で、全身どろどろだ。
「ああ。さすがに疲れたよ。最初は肝が冷えたしな」
「それもお互いさまだ。で、アリーシア姫に紹介はしてくれるんだろう?」
シズリスとしては当然の要求である。
彼は王国の意向に背いてまでアトルワに味方したのだ。
助かったよ、ありがとう、では済まない。
シズリスの寝返りに対して、アトルワ家は充分に報いなくてはならないのである。
そしてそれは後日のことにするわけにいかない。
今この場で、将兵たちの目の前で、アリーシアは謝意を示す必要がある。
頷いた北斗。
ナナとシズリスをともなって歩き出す。
まだ完全に戦いが終わったわけではないが、すでに掃討戦に移行しつつあるため、シズリスが細々とした指示出しをするような場面はない。
本陣へと歩を進める彼らの背後で、戦が終末を迎えようとしていた。
「シズリス卿。此度の骨折り、感謝に堪えません」
指揮座から立ちあがり、歩み寄ってきた男に優雅な一礼をみせるアリーシア。
「お初にお目にかかる。アリーシア姫」
シズリスも騎士の礼を返す。
返り血でどろどろであったため、姫の手の甲に口づけはしなかった。
「汚い姿で申し訳ない」
「勇者の証ではございませんか」
艶やかな笑みで簡易椅子を勧める。
戦場であるとはいえ、さすがに立ったまま交渉というわけにもいかないのだ。
もっとも、ここで決めなくてはいけないことはほとんどない。条件等についてはすでに合意を得ているため。
戦勝後、アキリウ子爵領はバドスとアトルワ両家によって分割統治される。
配分は五十対五十。
どちらの家も、一挙に支配域が二倍以上に広がる。
ただ、まだアキリウ子爵の首級をあげたわけでもないし、郡都には幾ばくかの残存兵力があるだろう。
この時点で取り分の話をするのはいささか早計というか、取らぬ狸の皮算用というものだ。
「ところでな。アリーシア姫。俺たちがもらう報酬なんだが」
だからシズリスが切り出したとき、ややアリーシアは面食らった。
「なんでしょうか」
戸惑いを、表情にも声にも出さずに問う。
「子爵領の半分って話だったが、変更してもらいたい」
「……半分では不足ですか?」
アリーシアの視線が険を帯びる。
たしかにバドス男爵軍は、「我らも良く戦った」と主張できるだけの戦果をあげている。
開戦当初から最前線にあり、最後まで戦い続けた。
あとから現れて美味しいところをさらったのではなく、ずっと最も危険な位置を死守した。
具体的な数字はまだ報告がきていないが、戦死者も百はくだらないだろう。
分配のつり上げを要求したとしても何ら不思議ではない。
「いや。領地も金もいらない」
しかしシズリスの言葉は、アリーシアの予測を超えていた。
むしろ予想の斜め上をかっ飛んでいた。
「ホクト卿を譲り受けたい」
「は?」
「へ?」
思わず間の抜けた声を出してしまうアリーシアと北斗。
一瞬、シズリスが何を言っているのか理解できなかった。
そして理解は少年の驚倒と少女の渋面を産んだ。
「まてまてまてっ! なんでそんな話になるんだよっ!?」
混乱の小鳩を頭上に舞わせたまま北斗が訊ねるのを、アリーシアが右手を挙げて制した。
ちらりと視線を北斗に投げるのは、自分に任せろという意味である。
「シズリス卿。ホクトは妾の盟友であり、我が片翼ともいえる存在であり、獣人たちとの橋渡し役でもあります。それを御身はご存じかと思いましたが」
「もちろん熟知している」
「それを知って、なお彼を欲しますか?」
「然り。俺が受け取る報酬をすべて差し出しても」
無茶苦茶である。
当初の約定でいえば、シズリスが受け取るのはアキリウ子爵領の半分と、奪い取った賠償金の半額。
単に土地だけ考えても、男爵たちのもっている領地とほぼ同等の広さである。
それと北斗が等価だとシズリスは言っているのだ。
過大評価も度が過ぎる。
何か言おうとする北斗より先に、アリーシアが口を開いた。
「我が友たるホクトの価値は、そんなに安くありませんわ」
「だよな。ではこちらも条件をかえよう。このあとのアキリウの平定は俺たちだけでやってもいい。その上で半分をアトルワに献上する」
ここから先の平定戦でアリーシアたちは指一本動かさなくても、子爵領の半分を手に入れることができる、という意味である。
戦費も戦力も、すべてバドスが負担する。
破格の条件というより、濡れ手に粟というべきだろう。
だがアリーシアは頷かなかった。
むしろ、全然足りないと首を振る。
「ぐぬぬ……では、くれとはいわん。貸してくれ。与力として」
「期間によりますわ」
「二年」
「その条件では三ヶ月が限度ですわ」
「一年」
「半年」
「乗ったっ!」
「お前らいい加減にしろっ! 俺はものじゃねえぞっ!!」
なにやら後ろ暗い取引をしているアリーシアとシズリスを、北斗がきしゃーと威嚇した。
ちなみにこのやりとりは叙事詩として、広く流布してゆくこととなる。
吟遊詩人たちの手により多少の脚色をされて。
魔法使い殺しの才を認めたバドス男爵が、自らの全財産と引き替えに彼を求め、やはりその才を惜しんだアトルワ男爵は、彼を差し出すくらいなら自分が人質になると切り返す。
そして魔法使い殺しは、そこまで自分を評価する二人の意気に感じ、断金の友情を誓った。
民たちに愛される叙事詩の一節である。
もちろんその中には、アリーシアとシズリスが北斗に拳骨を落とされたシーンは描かれていない。
現実と伝説の差違はともかくとして、北斗は客将としてバドス男爵の元へと出向することとなった。
従者のナナを伴って。
アトルワとしては、じつのところアキリウ平定戦に兵を出す余力がない。
アリーシアの治世は未だ安定しておらず、風向き次第でどう変わるか判らない。
郡都アトルーをあまり長期に渡って留守にしておくのは幾重にもまずいのである。
いまはむしろ内政にチカラを注ぎたい時期だ。
その意味では、シズリスの提案は魅力的でもあった。
アリーシアが勿体つけてみせたのは、政治的な駆け引きというものであろう。
「荷馬車に乗せられて売られていく仔牛の気分ってのが、俺は良く判ったよ」
一九六六年に公共放送の番組で流れていた歌をもじった、とある少年のぼやきも、当然のように伝説には記載されていない。




