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生き残った男爵軍の受難はまだ終わらない。
敗北の屈辱に顔を青ざめさせ、疲れた肉体に鞭打ちながら、十日に及ぶ撤退を続けアトルーに帰還した彼らが見たものは、固く閉ざされた城門であった。
「何をしに戻ってきた? まさか帰れば何か良いことがあるとでも思っていたのか?」
城門の上から、冷然たる声が投げかけられる。
毅然と城壁に立った女。
風になびく深紅の髪と、美々しい白銀の胸鎧のコントラストが目を奪う。
新領主たるアリーシア・アトルワ男爵の騎士、ニア卿であった。
もちろんそんな人物は、討伐軍の者たちの知識にはない。
「貴殿は何者か! 私は魔法騎士サイルゥ! 討伐軍の副将を勤める者だ!」
壮年の男性が進み出て大音声で誰何する。
敗軍の将とは思えぬほど堂々とした口ぶりだったが、赤毛の女騎士は唇を歪めた。
同色の瞳に浮かぶのは憫笑。
「討伐軍だと? 貴様らは自らの公称すら知らぬようだな。貴様らは討伐軍ではない。賊軍だ」
「なんだと?」
怒気を孕ませるサイルゥに、さっと右手を振るニア。
城壁の上におびただしい数の兵が現れた。
手にした弓に矢をつがえた状態で。
歩み寄った副官から布告文を女騎士が受け取る。
「ひとつ、アトルワ男爵家はアリーシア・アトルワが継承する。
ひとつ、ドバ村およびその周辺地域の発した陳情は、これを是とし、いかなる処罰をもおこなわない。
ひとつ、新領主は、旧領主の不明と失政を領民すべてに深く陳謝し、より公平で開かれた領政を目指す」
朗々と読み上げ、蒼白となったサイルゥに詔書を投げ落とした。
空中のそれを、むしり取るように掴み、魔法騎士が目を通す。
理解が絶望へと変わってゆく。
詔書に捺された男爵家の公印。
偽造されたものでも、でっちあげられたものでもない。
公式決定である。
もう、泣こうが喚こうが覆らない。
背けば逆賊。
「理解したか?」
「…………」
頭上からかかる声をにらみ返すサイルゥ。
眼光だけで人を殺せそうなほどだ。
だが、沈黙は敗北宣言と同義である。
「卿には選択権がある。原隊に復帰して沙汰を待つか」
言葉とは裏腹に提示される選択肢は一つだけ。
もう一つは、口にするまでもないから。
なんというあざとさか。
原隊に復帰するということは、何食わぬ顔をしろ、という意味だ。
今回の討伐も、その敗戦も、すべて前男爵と現場指揮官の責任にする。これで生者は誰も傷つかない。
死人は文句を言わない。
「政治を壟断するか……女が……」
憎々しげな呟きは、音波になるには小さすぎた。
表情を消し、鞘ごと外した剣を捨てる。
「良い判断だ。卿はきっと長生きできる」
城壁の上、赤毛の女が笑みを浮かべた。
だが、赤い瞳がまったく笑っていないことに気付いた者は、存在しなかった。
権力を掌握したアリーシアたちは、べつに遊んでいたわけではない。
討伐軍が進発した十日後には、新領主の名で様々な政策が打ち出されている。
とにもかくにもスピード勝負だった。
行くのに十日。準備に三日。戦うのに一日。帰るのに十日。
その計算からいけば、アリーシアに与えられた時間は二十四日しかないのである。
その間に完全にアトルーを手中に収めなくては、勝算などゼロになってしまう。
もちろん北斗たちが勝利することを前提として。
タイムスケジュールはぎりぎり。
簡単には引き返せないタイミングでクーデターを起こし、完璧に成功させたら、すぐに民心を安定させる。
一方で、開明的な政策を次々と謳い、旧体制との違いを明確にすることによって味方を増やす。
政策の実効性は後回し。
この際は絵に描いた餅で充分なのである。ようは、その餅が旨そうに見えるか否か、という点がなによりも大切なのだ。
当然、既得権をもつ連中は反発する。
それを黙らせるための武力だ。
討伐軍の敗残兵たちが帰還するころには、アトルーに居を構える豪商のうち幾人かが不正を暴かれて処断されている。
民草たちは快哉を叫んだ。
暴利を貪る金持ちどもというのは、えらそうな貴族たちと同様に、あるいはそれ以上に憎まれるものである。
まして不正をしていたとなればなおさらだ。
漫然とくすぶっていた不満が方向性を得る。
不正豪商たちの末路は悲惨きわまりないものであった。
ちなみに不正を暴くのに一役買ったのが、市井の冒険者たちである。彼らの中には、戦うこと以外の技能を持つ者が多く存在した。
具体的には、密偵としての技術や、異性を籠絡するためのテクニックである。
彼らを上手く利用し、また、明確な敵を用意してやることで、アリーシアは急速に支配権を確立させてゆく。
「とはいえ、こんなものはただの人気取りなのですけれどね」
執務室で苦笑を浮かべるアトルワ男爵アリーシア。
目の前には報告書の束がある。
「いままでは人気取りすらしなかったからね。それに比べたらずっとマシってもんさ」
背後からかかる声に驚いて振り返ると、クーデターの共犯者が立っていた。
「ニア。ノックくらいしなさいよ……」
「悪い悪い。敗残兵どもが戻ってきたんでね。その報告さ」
「そう。予定通りですわね」
笑みを浮かべるアリーシアだったが、その表情には安堵がある。
北斗たちが敗れていたら、彼女の計画はそこで頓挫してしまうのだ。
「使えそうなのはいたかしら?」
謎の問いかけ。
どういう意味か、と、ニアは聞き返さなかった。
「サイルゥって魔法騎士が、副将をやってたんだってさ」
「もったいなくないかしら? 魔法騎士なのに」
「女が、とかいって悔しそうだったからな。味方に引き入れても、火種になるだけだろうさ」
「そう。それなら仕方ありませんわね」
ごくわずかに苦い顔をするアリーシア。
女性の下風に立つことに忌避感を示す男性は、べつに珍しくない。軽侮される機会には、これからも事欠かないだろう。
ただ、感情を殺して仕事ができるか、その一点のみが問題となる。
面従腹背なのは仕方がないとしても、不満を表面に出されるのは困るのだ。
おそらくお互いにとって。
であれば、さっさと退場してもらった方が良い。
そしてどうせ退場するのであれば、プラスアルファの要素があった方が、より良いのである。
「一本の木も一個の石もどけずに道を作ることなんてできませんわ。判っていたことです」
やや言い訳めいた、あるいは自分に言い聞かせるような言葉。
なにもいわず、ニアが主君の頭に手を置いた。
優しく。
敗残兵どもに遅れること三日。
ついに北斗たちがアトルーへと入城する。
一度目や二度目のような潜入ではない。堂々と隊列を組んでの行進だ。
その数じつに一千二百。
降伏した者たちを幕下に加え、かなりの規模に膨れあがった。ただし、良いことばかりではない。
食わせるものがないのだ。
ドバ村とその周辺の生産力では、二百名の戦闘員を養うのが限界であり、しかも戦時体制という一時的な回し方でかろうじて維持していただけ。
六倍に増えた兵力を支えるなど、とてもとても。
だから、敗残兵を追跡する形でアトルーまで進軍した。
これで城門が閉ざされていたら悲惨なことになっだろう。
もちろんそんなことにはならず、城門は大きく開け放たれ、住民たちが歓呼の声で迎える。
耳が痛くなるほどの歓声だ。
暴虐無道の男爵軍を倒した英雄たち。
という政治宣伝のスパイスが、民衆には充分にふりかけられている。
そんな中、新領主アリーシアと騎士ニアが進み出る。
城内ではなく、城門での出迎え。
これも政治パフォーマンスの一環だ。
対するのはドバと北斗。
反乱軍の首魁と目される二人である。
両者の距離が縮まり、北斗がアリーシアと、ドバがニアと、かたく握手を交わす。
ふたたび爆発する歓声。
水面に波紋が広がるように、それはアトルー全体に伝播していった。