外伝1 ~愛しき日々~
耳が痛くなるような静寂。
曇天。
見渡す限りの草原。
気配を探る、などという器用な芸当は互いにできない。ゆえに、すべての行動は予測に基づいたものだ。
魔力反応。
虚空にふくれあがる魔術構成を見て、少年はゆっくりと後退して岩陰に隠れる。
餓狼を思わせる疾走が迫る。
木属性の単体攻撃魔法か。
少年に焦りはない。当てずっぽうの遠距離砲撃など、数歩下がってうずくまるだけで副次的な衝撃波からも逃げ切ることができる。
破壊された岩がもうもうたる土煙を上げる。
それに紛れて別の岩陰へ。
「焦れてきたね……」
つぶやき。
戦闘開始から三十分近くが経過している。進展のない展開に、そろそろ焦りを憶えてもおかしくはない。
魔法戦闘の基本は前衛たちによって作られた安全地帯からの砲撃だ。
人間には一日に使える魔法の数に限りがあるため、盤上遊戯のような定石というものが生まれてくる。
剣士にように破れかぶれの一撃が運良く決まったり、盗賊のように直感で不意打ちを回避したりなどということは、限りなくゼロに近い。
様子見というのは前衛の仕事なのだ。
「それでも牽制攻撃を撃ち込む。早めに決着を付けたいよね。僕もだけど」
口の橋に浮かぶ微笑。
「導かれいでよ 我が心に灯す光」
早口で詠唱し掌に生まれた構成を投げ放つ。
「疾く走れ───雷線!」
雷光が宙を駈け魔法の発生源へと伸びる。
が、それは不意に軌道を変えて、目標地点の上空で旋回を始めた。
反応はない。
当然だ。
こんな小細工に引っかかるほど甘い相手ではないことは最初から承知している。
だからこれは布石。
すぐさま別の岩陰に移動して、見えたものに微笑を浮かべる。
「意思もて舞え魔竜の牙」
こちらが先手。待つ必要などない。
「貫け──竜牙!」
地面から生えた円錐形の石筍が、光に照らされてできた影へと喰らいつく。
二十歳にもならぬ若造が魔導師に推されたとき、当然のように周囲は猛烈な反対をした。
如何に魔術協会の創始者の愛弟子とはいえ、否、だからこそ特例など認められない。
「べつにひいきで推挙したわけじゃない、と、私がいくら言っても無駄だったよ。堅苦しいったらないね」
肩をすくめる男。
それでもごくわずかに嬉しそうに見えるのは、彼の作り上げた魔術協会が、設立理念たる厳正中立を頑なに守っているからだろう。
どこの国にも肩入れしない。
どこの国の干渉も受けない。
そう定めたのはオリフィック・フウザー自身である。
くすんだ金髪を持つ痩身。涼やかな目元には、ごくわずかに老いが浮かび始めている。
大陸南西部を統一して王国をうち立て、魔法の悪用防止と一般への普及を狙って魔術協会を設立し、都市国家や部族が勝手に取り立てていた通行税を全廃し、民たちに安定と平和と繁栄をもたらした男。
人々は尊敬と信頼をこめて呼んだ。
稀代の大魔法使い、と。
もちろん、彼の治績は独力によって成されたものではない。
多くの仲間や部下たちによって支えられ、後押しされたからこその偉業である。
聖賢王フウザーの元に集った綺羅星のごとき人材集団。
アルベルト・ロスカンドロスもそのひとりである。
幼くして解放軍に身を投じた小麦色の髪の少年は、フウザーを師父と仰ぎ、彼の征旗を誇らしく掲げてきた。
方針の違いから、長年の友たちがフウザーの元から去った後も。
「僕は称号なんかいりませんけどね? 先生」
少年が苦笑する。
国王の執務室である。
「だめだめ。アルには才能があるんだから、もっと欲を出さないと。それに」
「それに、なんです?」
「ただの魔法使いより、魔導師の方が他人様のおぼえもめでたいってもんだよ。たとえばイロウナト侯とかにね」
片目をつむって見せる大魔法使い。
みるみるうちにアルベルトの顔が赤く染まっていった。
十七歳になる少年には、恋仲の女性がいる。
ジェニファ・イロウナトという固有名詞をもった。
ただ、ファミリーネームの方にちょっと問題があって、かつては王国北東部に勢力を誇っていた部族の長の名なのである。
フウザーに膝を屈し、ルーンの貴族に叙せられたわけだが、さすがに一介の魔法使いが求婚するには相手がでかすぎる。
「しししし知ってたんですか!? 先生!?」
「付き合っていること? 知られていないと思っているのは、たぶんコーヴに二人しかいないと思うよ」
「うそぉん……」
少年が絶望の表情を浮かべた。
じつに面白そうに愛弟子の百面相を眺めていた国王が言葉を紡ぐ。
「とはいえ、私としても手ぶらでは帰ってこれないからね。条件を引っ張り出してきた」
アルベルトの魔導師昇進についてである。
「……どんな条件です?」
壮絶に嫌な予感を抱きながら問うアルベルト。
「リルガンテと模擬戦。良い勝負できたらアルに魔導師の実力があるってことで」
にやりと笑うフウザー。
にっこりと表記したいところだが、どう見ても満場一致でにやりだろう。
「リルガンテ導師って大魔法使いじゃないですかっ!?」
少年の絶叫が王宮に木霊した。
岩陰から転がり出た大魔法使いを横目に、アルベルトが自分の立ち位置を変える。
すでに少なからぬ傷を負っているリルガンテは、焦燥をにじませて遮蔽に身を収めた。
チャンスだ。
だが、ここで調子に乗って攻めかかれば、かえって罠にはまる可能性がある。
「我が干渉は 万物を支配する──浮舟」
慎重に威力増強の補助魔法をキャストし、上空に逃がしておいたホーミングレーザーを降下させる。
瞬間、投げつけられた石と光魔法が衝突し、互いに消滅した。
「くっ」
本能的に危機を察して身をかがめるアルベルト。
一瞬前まで顔があった場所を魔力の矢が突き抜けてゆく。
焼き切られた小麦の髪が数本、宙に舞った。
「これは……」
脇下に冷や汗を感じながら魔術構成を見る。
魔力の糸を紡いだ誘導型の攻撃魔法。さしずめ魔力蜂といったところか。
大気中を走る魔力の糸に杖を伸ばす。
「破っ!」
無詠唱で撃ち出された魔力がラインを断ち切り、アルベルトの左後方の地面を穿つ。
うまくいった。
だが、何度もは防げない。
ならば一気に勝負を決めるのみ!
「導かれいでよ 我が心に灯す光 疾く走れ──」
迷いのない高速詠唱。
だがそれを瞬間的に放棄する。
「断絶の陣 不可侵なるは 天意の衣──神鎧!」
防御魔法を展開した。
同時に目前に現れたのは魔力の塊、次の瞬間それは弾け、無数の小さな矢が飛散する。
見えた。
小さな弾丸ひとつひとつが、すべてリルガンテとつながっているのを。
「これをすべて操るというのか……っ!?」
一発の威力はたいしたことはないだろうが、それでも大魔法使いの魔法威力だ。直撃すれば数発で死に至る。
まるで蜂の大群。
編隊を組んだ群れが、二つに分かれ、四つに分かれ、物陰を蹂躙し始める。
ラインがつながっている以上、ひとつでも当たればそこに攻撃が集中しかねない。
次々と破壊されてゆく岩。
選択肢はどんどん少なくなってゆく。
「どうする……?」
空転するアルベルトの思考をあざ笑うかのように、左側から一群が接近する。
「くっ! 弾けろっ!!」
地面にたたたきつけるように魔法を放つ。
巻き上がった土が殺人蜂の群を飲み込み、破壊の咆吼をまき散らす。
高速ビートを刻むドラムのような衝撃がアルベルトの身体を圧倒する。
意識が飛びそうになる。
だが、攻撃はこれで終わりではない。
ターゲットを発見した残りの群れが殺到する。
「意思持て舞え 魔竜の牙 貫け──」
上と左右。
集まってくる魔力のラインを見定めて力を放つ。
「竜牙!」
わずか一メートルの距離で土柱が蜂の群れへと飛び込み、
「ブレイクっ!!」
大爆発。
身を投げるようにして地面に伏せ、耳を押さえたアルベルトの上に衝撃が降り注いだ。
このタイミングで死んだふりをして相手に勝利を確信させる、というペテンもある。
「ペテン以前に、本当に気を失いそうだ……」
おもわず失笑してしまう。
相手は大魔法使いの称号をいただく男だ。
甘く見ていたつもりは毛頭ないが、やはり戦慄を禁じ得ない。
既製の魔術で戦う自分と、オリジナルの魔術を次々と使ってくるリルガンテ。
才能の差だろうか。経験の差だろうか。
簡単に埋められるものではない。
「けど、絶対勝つって約束しちゃったから。ここでギブアップはできないですよね。先生」
この場にいない師父に語りかけ、詠唱を始める。
「魔力の白翼よ 我が身に宿れ──天翼」
身を伏したまま高速飛行魔法。
浮力を感じる前に、次の魔法をつなぐ。
「大空に我は汝の姿を描く 紫の神よ我に伏し 万条の魔手を解き放たん 哮り狂え──神雷!!」
彼の持つ最大の魔法は、だが、攻撃のためではない。
天空から降り注ぐ無数の雷が大地を打ち、もうもうたる土煙をあげる。
少年は飛ぶ。
一寸先も見えない塵埃のなか。息を止めて必死に衝撃に耐えながら。
視界を奪う。
互いの。
勝利への布石。
高速飛行状態を維持したまま、何とか首をひねって呼吸を確保。
「我 其を探り すべてを我が目に──魔力感知」
いた!
右前方。距離は十五メートル。
ぐっと軌道を変える。
傍らを魔力光がすぎ、マントを焦がす。
敵も黙って見ていない。
再び生み出された光の蜂どもが土煙を食い荒らしてゆく。
アルベルトの顔から、腕から、腹から、足から血がしぶく。
「ぐぅぅぅっ!」
鬼の形相で歯を食いしばり、耐える。
数秒にもみたぬ時間。
上も下も右も左も判らなくなりそうな状況の中、アルベルトが最後に選んだ術式は、
「我が望まぬは ここに存るを認めず 消えよ──解呪!」
晴れてゆく土煙。
困惑の表情を浮かべる大魔法使いと目があった。
戸惑って当然だ。
この状況で敵の防御魔法を打ち消したところで、いったい何の意味がある?
一瞬の思考停止の後、リルガンテはアルベルトの狙いを察した。
そして、その一瞬こそ、少年が欲していたものだ。
ぐんぐんスピードを上げてゆく。
迎撃ため、光蜂どもが集まってくる。
回避も防御もできるタイミングではない。
ゆえに、
「回避も防御もしないっ!!」
両手に杖を構えたアルベルトが、流星となって大魔法使いに激突した。
無茶苦茶である。
高速でぶつかられると痛い。
魔導師に推挙される者の飛行速度なら、投石機などにも等しいだろう。
あまりにも当然で、だが誰も真っ当に考えない事実を悪用した、防御魔法をまとっての突撃。
その瞬間、観戦していたオリフィック・フウザーは腹を抱えて大爆笑し、魔術協会の幹部たちは唖然とするばかりだった。
接近された魔法使いに為すすべがないのだから、自分が戦士に、むしろ剣になれば良い。
プライドが高く、汗まみれ泥まみれの作業を鼻で笑う魔法使いにはできないことだ。
スマートさなど欠片もない実益オンリー。
勝利のためなら、どんな努力も惜しまない。
「いやいや。お見事だよ。アル」
手を叩きながら褒めちぎるフウザー。
もしこれが、魔法使い同士の戦いであったなら、勝利していたのはリルガンテの方であったろう。
無数の魔力弾を同時にコントロールするなど、稀代の大魔法使いでも不可能だ。
しかし勝ったのはアルベルトの方だった。
魔法使いでありながら、魔法使いとしての勝利にこだわらなかったゆえに。
「……先生……僕は強くなりましたか……」
地面に大の字になったアルベルトが呟く。
勝利したとはいえ、彼のダメージも大きい。
身体中、あちこちから血が流れているし、腕とかも変な方向に曲がっている。
リルガンテが気絶していなければ、どう考えても彼の方が敗者だ。
「先生の弟子として、恥ずかしくないですか……?」
「アルが恥ずかしい弟子だったことなんか、ただの一度もないよ。私の自慢の弟子さ」
ぐっとフウザーが手を伸ばし、少年の右手を掴んだ。
ゆっくりと起こされてゆく身体。
雲が切れ晴れ間が覗く。
なぜだか、空の青さが目にしみた。