10
かつん、というかすかな音が聞こえた。
気がした。
アトルワ男爵マジョルカの寝室前に控えていた兵士たち。
そのうちのひとりが、読んでいた書類から顔を上げる。
もうひとりは、席に座ったままこくりこくりと舟を漕いでいた。
渋面を作りつつも、起こすべきが否か逡巡する。
何か音が聞こえたような気がする、という理由だけで揺り起こすのは、さすがに可哀想だ。
そもそも夜番が居眠りというのは言語道断なのだが、そこまできっちりとルールが守られているわけではない。
よく見ると、ごくわずかに扉が開いている。
男爵の寝室ではなく、廊下に通じる方の扉だ。
ちゃんと閉めていなかったのだろう。それが何かの拍子で開いた。
脳内で勝手に推理を構築して席を立つ兵士。
伸びをしながら扉に近づく。
扉を閉める前に、一応は廊下を確認しようと思ったのだ。
まったく無警戒のまま扉を開く。
ロウソクの明かりのみとはいえ、光源のある前室から真っ暗な廊下を見たため目が慣れない。
薄ぼんやりとした白いものが赤い絨毯の敷かれた床にある。
裸の女が廊下に倒れている、と、脳が認識するまで一瞬の時差が生じた。
驚愕に見開かれる瞳。
それは、すぐに光を失った。
背後に忍び寄ったなにかに口を塞がれたまま、頸椎を貫かれて絶命したからである。
シンの仕業だ。
その間に、ユウが部屋へと侵入してもう一人の兵士の息の根を止める。
わずか数秒の出来事。
あまりにも鮮やかな手並みだ。
満足げな顔で立ちあがったナナが、ふたたび手早く黒装束をまとった。
じっと見つめる北斗。
スケベ心からではない。
裸になる必要はあったのかとか、どうしてそんなに楽しそうなのかとか、問い質したいことが山ほどあったのだ。
だが、もちろん今は声を出せないし、質問している時間もない。
頭を振って埒もない思考を追い出す。
まだ作戦は半分も終わってはいない。
ここからが本番なのである。
天蓋つきの豪華な寝台。
マジョルカという名を持つ壮年の貴族は、ごくかすかな魔力を感じて半身を起こした。
そして目にしたのは、音もなく開いてゆく扉である。
侵入者。
警戒信号が全身を駆け巡り、男爵の脳細胞は完全に覚醒する。
大声で誰何したりしない。
そんなことをすれば、賊どもは焦ってマジョルカを害そうとするだろう。
貴族たる我が身が平民ごときに後れを取る道理はないが、かすかではあるが魔力を感じたのも事実。
戦闘は避けた方が無難だろう。
少なくとも魔法騎士たちが駆けつけてくるまで。
「彼の者たちに安らかな眠りを。誘眠」
枕元の杖を引き寄せ、魔法を放つ。
足元から噴き出した催眠ガスが侵入者どもを包み、眠りへと誘……。
「ない」
たった一言で、弾かれたようにガスがとまった。
もちろん北斗である。
「このガスは何かいってみろ。クロロホルムか? 自然界にある物質じゃねえ。どうやって化合した? 答えてみろよ」
意味不明な言葉。
それにより霧散してしまう魔法。
吸引麻酔薬として知られるが、たとえばドラマなどで用いられるように、ハンカチに含ませて相手の口に当てたところで眠ったりしない。
揮発してしまうからだ。
実験などで使う場合でも、密閉した容器にマウスを入れ、その内部をゆっくりと麻酔薬で満たしてゆく、という方法が取られる。
こんな密閉もされていない広い場所で、しかも瞬時に人間を眠らせるほどの量の睡眠ガスなど、どうやったって調達できない。
作り方自体が、塩酸とクロロメタンを五百度で加熱するというもので、素人が簡単に作り出せるものではないのである。
唖然とする男爵。
彼が最後に目にしたものは、床を蹴って迫り来る獣人たちと、剣のように伸びた爪だった。
四方八方から貫かれ、切り裂かれ、断末魔を残すことなく息絶える。
「うん。見事な屁理屈バリアだったね。ホクト」
「だから屁理屈バリアっていうなって」
手放しの賞賛をくれるナナに、北斗が嫌な顔をした。
もうすこし、もうちょっとで良いから、格好いい名前にして欲しい。
「けど、よくスリープの魔法だって判ったね?」
「そりゃあ、あれだけはっきりと言ってればな」
「あいつが唱えてた魔法言語が判ったの!?」
ナナが目を見張る。
「なにいって……」
言いかけて、はたと北斗は気が付いた。
ナナやドバの言葉だって、本来は判らないはずなのである。それが、彼の耳には普通の日本語として認識される。
魔法言語とやらも、また同じことなのだろう。
「たぶん、世界を渡ったときに、変なチカラを持たされたんだろうな。高次元生命体に。縁を結ぶとかいっていたし」
「文字とかはどうなんだろ?」
「さあ?」
「確かめるのは後刻で良いのではないかな。そろそろ撤収するぞ。ナナ」
少年少女の会話に割り込むドバ。
苦笑混じりに。
のんびりしている時間はない。
夜番の交代が来れば、事態は発覚してしまうのだから。
それまでに、できるだけ距離を稼ぐ。
「それじゃ」
「いこうか」
両側から肩を掴まれる北斗。
もちろんシンとユウである。
往路と同じように、復路もまた彼らの力を借りることになる。
それはまったくかまわないし、とてもとてもありがたいのだが、
「なんか顔が近くないか? おまえたち」
「きのせいだよ。ホクトくん」
「うんうん。べつにどさくさに紛れて、面白いことをしようとか思ってないから」
にやにや笑いの兄弟であった。
絶対に声を出せない状態のときに、くすぐったらどうなるのかなーとか、考えているわけではない。
たぶん。
来た道を逆にたどって、速やかに逃げてゆく一行。
侵入に使った明かり取り窓は、しっかりと施錠しなおしてあげるくらいの親切さだ。
城が騒がしくなり、各所にかがり火がともったのは、北斗たちが城下町を過ぎ、荒野へと踏み出してからのことであった。
「おーおー 騒いでる騒いでる」
振り返り、笑みを浮かべるのはエナ。
ドバの奥さんである。
ほとんどナナとそっくりで、ぶっちゃけ北斗にはあんまり見分けが付かない。
髪型も髪の色も目の色も同じ。
体型もほぼ変わらない。
母娘というより双子の姉妹みたいだ。
これで年齢は三十五だというから、なかなかに侮れないだろう。
そして侮れないといえば、聴覚や気配読みなどの狩りの技能も凄まじい。
三キロ以上も離れた城の様子がわかるのだ。
彼女がいなくては、男爵が起きていることを知らずに北斗たちは突入し、あえなく魔法の餌食となっていたことだろう。
「思ったより遅かったね。予定通り、このまま夜通し駈けて、夜が明けたら服を変えよう」
ドバが決断し、逃走の足を速める仲間たち。
灯火のひとつもない深夜の街道。
夜目の利く獣人たちにとっては、べつに日中の行動と異なるところはないし、前方に何か異変があれば、エナが察知してくれる。
足手まといの北斗は、シンとユウがフォローする。
こうして彼らは、まったく危なげなく目的を遂げ、他の仲間たちが待つジャコバの街にたどり着いた。
ドバの村から南に二日ほどの場所にある、それなりの規模の街である。
要した日数は四日。
変に急ぐこともなく、ごく普通の旅人の体を装って旅を続けた結果だ。
その間、男爵の死はまったく発表されなかった。
「どう読む? ホクト」
仲間たちが根城にしている宿屋に入り、人心地ついた後、ドバが訊ねる。
彼としては、男爵の死はすぐに発表され、犯人探しが始まるだろうと読んでいた。
にもかかわらず、事件から四日も経過しているのに、なんの発表もない。
病死だとすら。
「男爵に死なれると困るってことだろ。だから名目上は生きていてもらわないといけねえ」
「それは何故だ?」
「アトルワ男爵家も、一枚岩じゃないってことさ」
不敵に唇を歪める北斗。
この日、辺境に位置する小さなキャットピープルの集落が、アトルワ家からの離脱を宣言した。