1
風に草の匂いが混じっている。
東京では、もうあまり感じなくなった匂いだ。
学生服姿の赤羽北斗は、大きく伸びをして肺一杯に空気を入れた。
「酸素濃度は二〇.九パーセント。素晴らしい」
タワゴトをほざく。
人間には肺に入った空気を分析する機能など備わっていない。
ともあれ、とくに息苦しさは感じないので、地球とそう異なる環境ではないのだろう。
「さてと、どうするかな」
身体の各所に異常がないことを確認しながら、呟いてみる。
車にはねられた形跡は、まったく残っていない。
それ自体はありがたいことではあるが、地球ではない世界とやらで、徒手空拳というのもずいぶんと心許ない話だ。
制服の尻ポケットに手を突っ込んで財布を確認する。
先日、小遣いをもらったばかりなので、中には伊藤博文が三人ほどは生存しているはずだ。
「あ、ダメだ。日本じゃないならお金も違うだろ。普通」
厄介な問題である。
貨幣が違うということは、当然のように他のモノだって異なっているだろう。
生活風習とか、言葉とか。
「いきなり野垂れ死ぬ結末しか見えてこないな」
なかなかに心楽しい未来図だが、なぜか深刻な気分にはなれなかった。
どうせ一度は死んだ身だ。
一度が二度になったところで、さしたる違いはないだろう。
腹を括った者の強み。
ゆっくりと状況を確認してゆく。
青空と太陽。
果てなく連なる緑の波濤は、草原を揺らす風によって作られたもの。
北も南も判らないが、遠くに黒煙が見える。
「工場でもあんのかな?」
軽く首をかしげながら歩き出す。
これといった目的もないため、まずは人のいそうな場所を目指すことにしたのである。
人がいれば、何らかの情報が得られるだろうし、草原でぼけーっと突っ立っているよりはマシだろう。
途中で休憩をはさみつつ、歩くこと小一時間。
そろそろ飲み物が欲しくなったあたりで、どうやら集落らしきものが見えてきた。
「こいつは……」
日本の農村も真っ青なくらいど田舎だ。
文字通り集落である。
町や村などという立派なものではない。
目視で確認できる総戸数は二十あるかないか。
生活基盤がどうなっているのかと問いたいくらいである。
やがて、律動的な歩調で進む北斗の目前にあらわれたのは、細い木を組んで作られた粗末な柵と、同様の粗末な門のようなもの。
おそらくはこれが入口だろう。
少しだけ呼吸を整えてから門をくぐる。
すると、どういう仕組みなのか、からんからんと乾いた音が鳴った。
「ドアベルみたいなもんか?」
良く判らないまま立ち止まる。
来客を報せるシステム的なものならば、無断でずかずかと進むのは失敬だろう。
ややあって、集落の奥の方から人影が近づいてくる。
粗末な衣服を身にまとった男と、さらに粗末な衣服を身にまとった女だ。
木戸番だろうか。
それにしては身なりが悪すぎるような気もする。
が、北斗が気にしたのはそこではない。
そう。服などどうでも良いのだ。
それ以上におかしいものが、彼らの頭の上に付いていたのである。
三角形の耳が二つ。
猫の頭についている、アレだ。
よく見ると尻尾のようなものも服の間から出ており、ぴょこぴょこと揺れている。
北斗の知る限り、こんな人間はいない。
しかも、あきらかに作り物っぽくないのだ。
酸欠の金魚みたいにぱくぱくと口を開閉する。
その様子に驚いたのは、集落の男女である。
軽く顔を見合わせてから、女の方が柔和な口調で話しかける。
「あの? 旅の御方?」
「うわぁぁぁぁっ!? 化け猫ぉぉぉっ!?」
謎の絶叫を発して飛びさがった少年が、頭をしたたかに柵に打ち付けた。
響き渡る景気の良い音。
「Q~~~」
あえなく気を失ってしまう北斗であった。
乾いて埃っぽい街並みと、夕闇の迫る空。
部活動を終え、高校からの帰路である。
短くした黒髪と切れ長の瞳をもつ美丈夫と、もう一人が肩を並べて歩く。
北斗と級友だ。
西暦一九七二年の晩夏。
一昨年前くらいから報告されるようになった光化学スモッグは、今日もまた警報が出ていた。
進歩における弊害であろうか。
爆発的に増える自動車と、発展を続ける工業がもたらしたもの。
報告件数は増加の一途をたどり、注意報などの発令日数は翌年の一九七三年には年間三百日に達する。
一年中、発生していない日はない、というくらいの有様である。
「けど、それも人類の科学は乗り越えるさ」
「へいへい」
科学小僧っぷりを発揮して語る北斗と、おざなりな同意をする級友。
いつもの光景だ。
そのとき、けたたましいクラクションが大気を切り裂いた。
猛スピードで走るトラックと、その前方で固まっている猫。
脳が認識するより先に北斗の身体は動いていた。
車道へと飛び出して猫を掬いあげて級友にトス。
次の瞬間、衝撃がきた。
人間を含めた動物には、必ず本能というものが存在する。
たとえば危機が迫ったときの行動などに、それが如実にあらわれるのだ。
人間は、無意識に動く。
仮に避けられなくても、避けようと動く。
ひるがえって、猫というか、猫科の動物の場合は、じっと身を潜めて気配を殺し、危険が去るのを待つ。
これが、猫が車にひかれる最も大きな理由だとされている。
ちなみに自動車教習所では、猫や犬などが車道に飛び出し来た場合は、急ハンドルや急ブレーキで回避することなく、そのままひけと教える。
大事故を誘発するのを防ぐためだ。
猫を避けて歩道に突っ込み、人間をはねてしまったら取り返しがつかない。
急停止して多重玉突き事故になっても同じ。
猫の命と人間の命、少なくとも人間社会においては等価ではないのである。
「なのに、なんで助けちまったかなぁ……」
北斗がぼやく。
薄れゆく意識の中。
猫など毎年何万匹も死んでいる。殺処分されるものだけで六万以上。事故で死ぬ数など、ちょっと数え切れない。
北斗の知らない元号である平成の一年には殺処分される猫の数は三十二万八千匹に達した。
そんなものの為に命を張ってしまった。
「なにやってんだろうな……」
とても寒い。
たぶん、これが死ぬということなのだろう。
似合いもしない英雄的な行動の果てに死ぬ。学校ではやっぱりヒーロー願望があったとか、馬鹿にされることだろう。
ひどい話だが、いまさら悔いても及ばない。
どうやら猫を救うことができたのだけが、せめてものことだろう。
奇妙に穏やかな気持ちで、北斗は意識を手放した。
「そこまで達観するには、汝はまだ若いようじゃがな」
耳道に滑り落ちる声。
どこから?
がばっと身を起こす北斗。
「あ……れ……?」
ひき潰されたはずの腕がある。
おかしな方向に曲がっていたはずの足も、なぜか治っている。
「生きてる……?」
「否じゃ。汝は死んだ。故にその姿は、汝の魂の有り様じゃろう」
「どういうことだ……? むしろあんたは誰だ? どこにいる?」
周囲を見まわしても、なにもない。
ただ乳白色の薄闇が広がっているだけ。
「ふむ。汝らには知覚できぬのであったな。姿が見えぬというのも不便なものじゃの。なれば」
唐突に、目の前に現れる猫。
彼が助けた、あの猫だ。
「汝の最後の記憶から再構成した。最後の最後まで助けた小さきものの事を案じるとは、徳の篤いことよ」
猫が喋った。
思わず北斗が後ずさる。
「怯えずともよい。これは実像ではない故、汝に危害を加えることはできぬ」
もっとも、すでに死んでいる身に危害もへったくれもないだろうが、と、猫が笑う。
「俺は非科学的なモノが大嫌いなんだよ」
仏頂面の少年。
死後の世界とか、猫が喋るとか、勘弁して欲しい。
がりがりと頭をかき回す。
人を食ったような顔で、助けた猫が微笑していた。