二人だけの勉強会と変化の始まり
体育教師のありがたいお話が終わり、教室で昼飯を食べた後、午後の授業の開始のチャイムが鳴り、先生がこれから始まる部活動勧誘についての注意事項を言い終えた。
教室から部員として勧誘する立場の生徒が出ていって、教室内の人口密度が低くなった頃、渓太は机に片腕を伸ばしもう片腕は伸ばした腕の肘の辺りを掴んで枕の代わりにして、体をだらっと預けて寝そべり、窓越しに外を眺めていた。
グラウンドは昼休みの間に準備が終わっていたのか、色々な場所にテントが立てられ、人がせわしなく動いている。
渓太の目の前の椅子には、椅子の背中に腕と頭をのせて、ボーッと渓太を眺めている駿がいた。
「観に行かないの?」
渓太の耳に夏帆の声が聞こえた。
モゾモゾと首を動かして反対側を向く。
「今はちょっと休憩」
「……休憩って、さっきまで昼休みだったじゃない」
「ほら、体力テストで疲れちゃってね」
「そうだそうだー」
渓太は疲れていることをアピールするためによりだらっと机に体を預ける。
「それは日頃から運動しないからでしょ」
「そうだそうだー」
生活習慣病の原因を突きつける夏帆とそれに同調する駿。
渓太は顔を少し上げ、駿をにらむ。
「……駿はどっちの味方なのさ」
「俺は、二人の味方さ」
その答えを聞いて渓太の視線は柔らかくなった。
二人は互いの友情を確かめるように視線を交わしあう。
夏帆はなにしてんのよと言わんばかりに肩を竦めた。
「二人はすることがないからそうしててもいいけど、何か見に行ったら?部活がしたくるかもしれないよ」
「俺はバイトが忙しいから」
「俺は……なんとなく?」
夏帆の問いに渓太は曖昧に答える。
母親の手助けをするためにバイトをしている駿と違って、渓太は部活ができない理由は無い。去年は一人だったし、生活資金も十分にあったからバイトをしなくても良かった。それでも何かしらの部活動に入らなかったのは、単にピンとくる部活動がなかったからである。
今はユリがいて、どうすれば良いかわからない以上、部活動に入るわけにいかなかった。
その事を二人に伝えるわけにもいかず、曖昧に答えるしかなかった。
そんな曖昧な渓太に夏帆はイラッとした。自然と口調がきつくなる。
「何?その曖昧な言い方」
「なんとなくはなんとなくだよ。したいと思わないというか、ビンと来ないというか。……というか何怒ってるの?」
急に変わった夏帆の態度に、つい渓太はその理由を聞いてしまう。
「怒ってない!」
「怒こってるって」
「怒ってない!」
「怒ってるよ」
是か非かを押し付けあう二人。
駿は触らぬ神に祟りなし、というようにそのやり取りを見守っていた。
「もう知らない!部活をやるやらないとか勝手にすれば?私は美術部の手伝いに行くから。じゃあね!」
ドシドシと大きく足音を立てて教室を出ていく夏帆。
二人のやり取りを見守っていた駿が口を開く。
「勝者、深海渓太!」
「うぇーい」
渓太は机に伸ばしていた左腕を天に掲げる。すぐに腕をおろした。はぁとため息をつく。視線は夏帆の出ていった入り口を見ている。
「……後で謝らなきゃな」
「悪いと思った原因は?」
「俺が男だから」
「なんだそりゃ」
男女で喧嘩したときは問答無用で男の方が謝るべきである。それがどちらが悪かったとしても。というのを渓太はテレビで見た気がする。
「やっぱり曖昧だったからかな」
夏帆も何?その曖昧な言い方と言っていた。去年の渓太であれば百パーセント本心だったがも知れないが、今はユリという二人には伝えられない理由がある。二人を巻き込むわけにはいかなかった。どうしても曖昧か完全な嘘の言葉しか伝えられない。
「でもはっきりと言えないんだろ?」
言外に、何か言えない事情があるんだろ?という言葉が渓太の元に飛んでくる。反射的に渓太はビクッとしてしまった。
駿は渓太のその行動を肯定と捉えて言葉を続けた。
「何年一緒にいると思ってんだ、普段と違うとこなんてすぐにわかるぞ」
「まだ一年じゃん」
「時間は関係ねーよ、量より質だ」
「最初と違うこと言ってるし」
「気にするな。つまりだ、それ以上に長くて濃い時間をお前と過ごしている高崎は俺以上にお前の変化に気づくってことだ」
渓太は後悔した。
夏帆は自分の事を心配してくれていた。
それに対して自分は嘘を含んだ言葉や曖昧な態度て夏帆を傷つけていたのだと。
ユリやシャドウの事で頭が一杯になりすぎて回りが見えていなかった。
少し回りに目を向けてみると自分の事を見てくれている人がいる事に気付けた。
渓太は体を起こして駿と向き合う。
駿は、なにも知らない女の子が見たら一瞬で恋に落ちてしまうような、そんな笑顔だった。
「で、何を隠してんだ?思春期?」
駿はシリアスな空気を壊しにかかった。
「違うって」
渓太はすぐに否定する。そして、少しの間考えて口を開いた。
「ごめん、今は何も言えない。でもいつになるかわからないけど、全部が終わったらちゃんと伝えるから、それまで待ってもらえるかな?」
今は伝えられないけど、その理由も言えないけど、信じて待っていて欲しい。何も聞かないで、何も詮索しないで待っていて欲しい。全部が終わったら全部言うから。
一言一言に思いを込めて、ゆっくりと真摯に渓太は駿に伝えた。
駿は真顔で少し考える素振りをみせて、
「わかった」
と一言だけ言った。
渓太は体から力を抜いた。
言ってない言葉もたくさんあったから、本当に伝わったかどうか判らない。
それでも駿を信じようと思ったのだ。
「じゃあ、その時に俺に伝えるのは結婚報告だな」
駿はちょっと真面目な顔をしてそう言った。
「……それは駿の方じゃないかな?」
渓太も真剣な表情で伝える。
「じゃあ、ちょっくら法律でも変えてきますか」
駿もキリッとした表情で応える。
お互いが真剣な表情のまま、無言になる。
やがて、二人の中に笑いが込み上げてきて二人とも笑い合った。
◇◇◇
「法律の改定については置いといて、これからどうする?」
ひとしきり笑い合った後、駿が話を切り出した。
「もう少し休憩する。美術部の発表までまだ時間があるでしょ」
渓太はまた机に伏せた。
部活動紹介は一種の祭りみたいなものだ。
会場は、校内の様々な所で準備がされていて、新入生が歩き回って、自分の入りたい部活動を見つける。
その中でも、体育館が一番人が集まる会場である。
体育館ではタイムテーブルに沿って様々な部活動が何かしらの催し物を見せる。
歩き回って疲れた人や部活動に入る気が無く時間潰しのために来る人など、迷ったら体育館に行けば大丈夫というような感じで人が集まる。
夏帆が手伝っている美術部は普段の部活の様子を見せると、渓太が夏帆から聞いていた。
別に注目している部活動があるわけでもなく、ただ夏帆が関わっている物を見に行こうと思っただけである。
そして、後で夏帆にちゃんと謝らなければいけない。全部を言うことは出来ないけれど、気持ちを伝えなければいけないと渓太は決めた。
今、休んでいるのは伝える勇気を体から集めるためだ。
渓太は目を瞑る。
夏帆になんて言おうか考える。なんか恥ずかしいなと思いながら言う台詞を決めていく。
長い間一緒に居たから言わなくても判るというのは間違いだった。
普段と違うとか、何か変だなという違和感に気付ける事が既に凄いことなのだろう。
人の気持ちなんて完全に理解することは出来ない。
自分だって、夏帆の考えていることを完全に理解なんて出来ない。
そんな当たり前な事を忘れていた。
だからこそ、気持ちを伝えなければいけない。
やっと夏帆に伝える言葉が決まった。それは駿の時と変わらなかった。
目を瞑っていても頭は動かしていたので、これから本当に休もうと渓太は頭を動かすのをやめた。
教室の中は渓太と駿の二人しかいなくて、空きっぱなしのドアから空気が入れ替わる。
外の活気付いた沢山の声は閉められている窓を容易く通り越し教室へと響く。
外で動いてる春の風はその存在を主張するように窓を叩いた。
動かすことをやめた渓太の頭は、シャットダウンの機能も停止していて周りの音が入り込んでくる。
次第に微睡んできてもう少しで夢の世界へと飛び立とうとしていた時、ふと渓太の頭の中に午前の授業の終わり際に見た周防さんの表情が写し出された。
それを元手に色々と思い出される。
自分と駿に向けた、ぎこちなく笑った表情。言葉。そして彼女の視線の先にいる人物。その人物の視線の先。
一度回り始めた思考は簡単には止まってくれない。
渓太は目が覚めてしまった。
「駿。起きてる?」
「起きてるぞ。どうした?」
動く気配がしなかったので駿は寝ているのではないかと渓太は思って聞いてみたが返事はすぐに帰ってきた。
渓太は体を動かさずに話を続ける。
「もしもの話なんだけど、自分に好きな人がいて、でも好きな人に自分じゃない好きな人が居たらどうするべきだと思う?」
「誰の話なんだ?」
「もしもの話だよ」
駿は何かを探るように聞いてきたが、渓太は答えない。少しすると観念したのか駿は話し始めた。
「それは、諦めるか諦めないかの二択じゃないのか?自分の好きな人の幸せを願って身を退くのか、自分を好きになってもらえるように努力をするか」
「……そうだよね。俺も同じような考え」
二人の考えは同じだった。というより大抵の人がこう答えるのではないだろうか。
「で、何が聞きたかったんだ」
「なんとなく思っただけだよ」
相変わらずの渓太の曖昧な返事に駿はこれ以上聞くことをやめた。
やはり自分が出来ることは無いのだろうと渓太は思った。
見てしまった。周防さんが夏帆と相澤さんをみている時の表情を。
聞いてしまった。周防さんの相澤さんに対する感情を。
知ってしまったら、手助けしてあげたいと思う。例え出会ったばかりでも力になってあげたいと思う。
ただ今回の場合は本人がどうにかしないといけない。周りがどう言おうと本人の気持ちはそう簡単には変わらない。
渓太はなにも出来ないと結論を出した。
そして、ガバッと体を起こす。
駿は顔を右に向け、外の景色を見ていた。
「そろそろ時間だし、体育館に行こう」
「ん。わかった」
簡単な返事と共に駿は立ち上がる。そして、眠気を吹き飛ばすように体を伸ばした。
渓太も立ち上がり、二人で体育館に向けて移動を始めた。
◇◇◇
二人は校舎から体育館に繋がる通路を通って、体育館の扉をそっと開けた。
なるべく中に空気が入り込まないようにすっと中に入るとそっと静かに扉を閉める。
体育館の中は渓太が想像していたよりも静かで、体育館の奥、演台がおかれているステージの手前に発表する為の広い仮設のステージが作られていて遠くからでも見えるように少し高くなっていた。
そこから少しの間を開け、沢山のパイプ椅子が規則正しく並べられている。
まだ人が来ていないのか、後ろ半分のパイプ椅子は空席だった。
渓太たちは、空いてる席の中で一番前からひとつ後ろの真ん中の席に座る。
仮設のステージでは野球部が紹介を行っていた。
既に基本的な説明は終わっているのか、ステージの上に四人がバットを構え、少し離れたところにいる五人目が「いっぽーん!」と号令を掛けると、一人づつ同じ内容で大きな声を上げ、思い切りバットを降っていた。スイングする度にブンッ!と風を切る音が聞こえる。それは四者連続ホームランが打てそうな勢いだった。
「恥ずかしいだろうなぁ」
渓太はふと口から言葉がでる。
野球部の声以外に大きな声は聞こえず、見ている生徒が友達同士で会話している声がちらほら聴こえる程度だ。
あそこに自分が居たら恥ずかしすぎて死ぬ…と思うと野球部は凄いなと渓太は思った。
「練習にはなるだろ。甲子園なんてこれの何百倍も観客がいるんだぞ。ここで実力が出せないなら試合でも上手くいかんだろ」
「……甲子園よりもまず県大会を勝たないと行けないけどね」
駿の言った大きな理想に対して渓太は現実を言う。
ここで部員を集めて地方大会に出られますようにと渓太は適当に何かに祈った。
定められた時間が終わり、野球部の紹介メンバーが観客に向けて挨拶すると、バラバラな拍手を背にステージの後ろへ消えていった。
そして、次は美術部の紹介とそのための準備のために少し待って下さいというアナウンスが聞こえてくると、観客の話し声が大きくなったと渓太は感じた。
その間も美術部の部員がステージの準備でせわしなく動いている。その中の夏帆の姿は無かった。
「夏帆、見当たらないね」
「裏方で色々と作業をしてるんじゃないか?」
夏帆の姿を探しても見つけられなかった。
そして、いつの間にか準備は終わっていた。
ステージの中心には一つの白い椅子。パイプ椅子が置かれている方を正面とすると、そこから15度時計回りにまわして置かれている。ダイニングチェアに分類されるそれは、白いバラの花と蔓が縦横無尽に伸びて背もたれを作っている。まるで不思議の国から持ってきたような椅子だった。
椅子から右側に少し離れたところには、イーゼルとそこに乗せられたキャンバスと木製の椅子。イーゼルは白い椅子に向けられて置かれていた。
再度アナウンスが始まり、美術部の紹介が始まることが伝えられた。
ステージの上に二人の姿が現れる。
片方は渓太の知らない女性だった。黒く肩まである長い髪はスラッとまっすぐ延びていて、黒いフレームの奥から覗く力強い瞳は、揺れること無く真っ直ぐ一点だけを見つめている。
ブレザーの胸ポケットに付けられているピンの色は赤だったので三年生、そしてマイクを持っているからおそらく部長なのだろうと渓太は考えた。
もう一人は美歌だった。
大勢の人前に出るのは恥ずかしいのか、下を向いてプルプルと震えている。
もしかすると相澤さんがモデルで、部長さんが説明しながら絵を描くのかな?と渓太は考えた。
部長と思われる女性はマイクを口に近付け、口を開いた。
「こんにちは美術部です。部長の片栗光美です。本日は普段の部活の様子を見てもらおうかと思い、準備しました。今から行うのは、見たものをありのままに描く、写生を行います。描いてくれるのは新入生であり、新入部員である、相澤美歌さんです」
「よ、よろしくお願いします」
部長に紹介された美歌はぎこちない挨拶をして、お辞儀をした。
そして、描くために木製の椅子に座った。
美歌の手には絵を書くために必要なパレットや筆は無く、黒色のマジックを持っていた。
画家が描き始める準備を終えているのに、描くためのモデルが居ない。
観客が、もしかして椅子をモデルに描くのでは?思い始めたその時。
体育館の照明が半分ほど無くなり、会場が暗くなった。
何事かとざわめく観客。
「これは演出です」とアナウンスがされると。
何が始まるのかという期待でまたざわめきだした。
やがてざわめきが消え、体育館が静寂に包まれた。
すると、コツ、コツ、コツとゆっくりとした足音がステージの方から聞こえてくる。
パッと天井のスポットライトがステージ後方の観客からは見えない階段の辺りを照らす。
足音はゆっくりと同じリズムを刻み、ステージに姿を現した。
その瞬間、体育館の中の空気が止まった。
現れたのは、夏帆である。
夏帆が着ているのはオフホワイトでプリンセスラインのウエディングドレス。
立体感のあるレースとフラワーモチーフを組み合わせた女性らしさが表れていて、キラキラと輝きを放つスパンチュールがアクセントとなり存在感のある華やかな印象になっている。
スカートはふんだんにホースヘアーを効かせることで立体的に可愛く仕上がり、風に揺れるフレア感を出している。
胸元には様々な色で作られたブーケを両手で持ち、白で統一された服装に明るい色を与えていた。
髪型は普段のポニーテールとは違い、ゆるりと巻いた髪をサイドダウンスタイルにしている。
頭の後ろ半分をおおうレースがやわらかな帽子をかぶっているように見えるのが特徴のジュリエットベールは、歩く度になびいていて、そのシンプルさゆえに髪型と相まって大人びた印象を与えている。
表情は固く、真剣な眼差しで真っ直ぐ先を見つめている。
静かでゆっくりでそして力強い。鋭い氷柱のような綺麗で触れる物を傷付けるその美しさに会場の誰もが声を出すことが出来なかった。
声を出すことは許されない。そんな空気に観客は呼吸すらもためらう。
体育館の中に響くのは、夏帆のゆっくりと堂々と歩く時に出る足音だけ。
夏帆はドレスの裾を踏まないようにゆっくりと歩いていく。
やがて椅子の前に来ると、その場でぎこちなく一回転した後、椅子に座る。
ふぅと息を吐き、表情が少し柔らかくなった。
そして、ようやく体育館の中の時間が動き出した。
観客の生徒たちが声を上げる。
凄いやら、綺麗やら、サイコーやら、男女問わず盛り上がっていた。
その声を聞いた夏帆は恥ずかしさから顔を赤らめる。それがまた観客の声を大きくしていた。
「静かにしてください」
美術部部長の注意がマイクを通じて体育館に響くと、声は小さくなったが、ざわざわとしている。
美術部部長はこれ以上静かになることはないと感じて話を続る。
「美歌さんに描いてもらうモデルの方です。服装は演劇部の方々に作成していただきました。それでは美歌さんよろしくお願いします」
説明が終わると、待ってましたというように美歌はマジックのキャップを勢いよく開け、キャンバスに描き始めた。迷い無く黒い線を伸ばしていく。
普段の騒がしい感じはなく、声を上げることすらも描くことに気持ちを持っていっていた。
ただ、興奮は止めることができず、呼吸は荒く、体を動かしながら描いていた。
観客の視線はモデルの夏帆へと集中していて、美歌の変な動作に気づかない。
美術部の人たちは、普段の美歌の様子を知っていたので、相変わらずだなと美歌を見守っていた。
渓太は夏帆がステージに現れたときからずっと夏帆から視線が外せないでいた。
普段の明るい印象とは真逆の静かでおしとやかで大人びた感じになぜか戸惑う。
ボーッと夏帆を見ていると、隣でパシャりと音がした。音で我に帰り、隣を見るとスマートフォンのカメラを自分に向けている駿がいた。
「見惚れてたから写真撮ったぞ」
駿はスマートフォンを裏返して、画面を渓太に見せた。
スマートフォンに写っていたのは口を中途半端に空けて呆けている自分の姿。
こんな顔になるまで夏帆を見ていたのかと自分に驚く。
それだけ綺麗だったのだ。
「見とれていたよ」
周りが騒がしいから、自分の声は聞こえないだろうと自然に本心が口から漏れた。
駿にははっきりと聞こえていたようで、そうか、と一言だけ言った。
渓太が駿から夏帆の方へと戻すと、顔を動かさずに目だけをさまよわせていた夏帆も目があった。
夏帆は目があった瞬間、顔を真っ赤にする。がすぐに何かを思い出したのか、少し怒った表情をする。
観客が表情の変化にまた黄色い声を上げる。
夏帆を描いている美歌は身を奮わせて、描くスピードが格段に上がった。
渓太は夏帆の怒った表情で、さっきまで喧嘩をしていた事を思い出す。
顔の前で両手をあわせ、ごめんと口を動かして体を前に傾けた。
三秒ほど心のなかで数えて体を上げた。
そして、夏帆を見つめる。
夏帆は、少しの間怒ったままの表情だったが、諦めか呆れか、仕方ないなというような表情になったと思ったら、すぐに笑みを浮かべる。
スポットライトで照らされた夏帆が渓太に向けた笑顔。それは夏に咲く向日葵のように明るかった。
また、会場が盛り上がる。
渓太の前に座っていた男子は、きっと俺に向かって笑ってくれたんだと周りに自慢する始末である。
「キャ~~!」
夏帆の笑顔を見て、我慢できなかったのか美歌が声を上げた。
急に声を上げた美歌にビックリしてみんな静かになる。
空気の変わりように、やってしまったと後悔していたが、色々と耐えていた物を巻き散らかすように開き直った。
「もう我慢できません!もう一枚キャンバスを下さい!なんなら時間がかかってもいいので、絵の具と筆で描かせてください!こんなマジックなんかじゃお姉さまの魅了を一%も出すことが出来ませんわ!あの表情を描かなくては美歌が生きてる意味なんて無いです!あの表情を描くために今まで練習してきたんですよ!きっと!」
美歌は早口で捲し立てる。
観客はその勢いに完全に押されていた。
美術部部長が美歌をなだめる。
そのおかげで美歌は落ち着いた。
その後美術部部長がどこかに合図をだす。
するとスポットライトが消え、体育館の明かりが元に戻る。
ステージの後ろからぞろぞろと美術部の部員がそれぞれ作品を持って、夏帆を中心にして左右に並ぶ。
美歌も自分が今書いたキャンバスを手に持って夏帆の隣に並んだ。
観客に見せられた作品はそれぞれ、色とりどりの風景や人物の絵が描かれていた。
素人目には判らないが、どれも素晴らしい作品だと渓太は思った。
美歌が描いた夏帆の絵は、黒い線で統一されているが太さは場所によって使い分けられていて、ここに色を塗ったら今見えている夏帆の姿と同じものが出来るのではないかと期待できるほど再現されていた。
美術部部長は端から顔を出すと、マイクを口に近づけた。
「いかがだったでしょうか?今、相澤さんにしてもらったのは活動のひとつです。ほかには、自分で自由に場所を決めて風景を描くことをしています。美術部の特徴は自由ということです。描きたいものを描きたいだけ描く。上手いも下手も関係ありません。興味を持った方はぜひ美術部に来て下さい」
美術部部長が話し終えると、ステージに立っていた部員がよろしくお願いしますと声をあわせて言った。
「改めて、協力して下さったモデルの方、素晴らしい衣装を用意して下さった演劇部の方々、ありがとうございました」
お礼の中で呼ばれた夏帆はお辞儀をする。
「それでは美術部の発表を終わります」
終わりを告げると、観客席からパラパラと拍手が聞こえた。人口密度に対して拍手の音が小さいのは、夏帆に魅了されて動けなくなっているのか、美歌の暴走に唖然としているのかは判らない。おそらくそのどちらもだろう。
作品を持っていた部員達はステージを降りていく。
美歌は持っていたキャンパスを部長に渡すと、座ったままの夏帆の前に行く。
そして真面目な雰囲気をだして、一緒に踊りませんか?というような感じで夏帆に手を差し出した。
夏帆は笑顔で差し出された手を取り立ち上がる。
観客に向けて一礼をして美歌の誘導の元、ステージをゆっくりと降りていった。
観客席はポカンとした空気が流れていた。
ひとつ前は野球部の暑苦しい空気だったはずなのに、美術部の発表になると、美歌のおどおどした空気に庇護欲がそそられ、その後に現れた夏帆の姿に空気がひんやりとして、見せた笑顔に冬から夏に変わった。と思ったら台風がやって来てすぐに去っていった。
めまぐるしく変わっていった会場に観客の大半はまだ対応できていなかった。
「……凄かったな」
「……うん。…色々とね」
もともとダメージを受けていなかった駿と普段の美歌を知っていたためにダメージの少なかった渓太は美術部の演習や周りの空気を色々含めて感想を口にした。
それからも空気は変わらず、次の部活動の紹介が始まる頃に、元の空気に戻り始めていた。
◇◇◇
周防芳野は午後の体育館での部活動紹介が始まった時からずっと体育館後方の壁に背中を預けて立っていた。
様々な部活動が自身の部活を紹介している間も彼女は身じろぎもせずにずっと立っていた。
表情は真剣なままで何を考えているかはわからない。
彼女に変化が現れたのは、美術部の紹介の時。
美術部部長の隣に立っていた美歌ちゃんの緊張している感じに思わず笑みを浮かべる。
だがその表情もすぐに戻ってしまう。
ステージに新しい人物が現れたためだ、それはウエディングドレスを着た高崎夏帆。美歌ちゃんの好きな人。
少しだけ高崎夏帆を見ていたが、直ぐに美歌ちゃんに視線を合わせる。
観客席のざわめきも黄色い声も頭には響かない。
美歌ちゃんの真剣な表情も笑顔も声も、その奥に隠れている意味は見ない。
やがて、美術部の発表が終わった。
意識しなくても視線は勝手に美歌ちゃんの方へ向く。
美歌ちゃんが高崎夏帆と手を取ってステージを降りていくのが目にはいった。
見ないようにしていたのに、見えないようにしていたのに勝手に写ってしまう。
彼女の表情は変わらない。
彼女が見えなくなっても彼女はずっとその場所を見ていた。
それから午後の時間が終わるまで彼女はその場に立っていた。