学校での半日
水面を境にして水中を睡眠中、海上を目覚めだとすると、渓汰の体は水面の近くを浮き上がったり沈んだりを繰り返していた。
起きなければいけないのにまだ眠っていたい。
そんな状況の中、渓汰は自分の体の異変に気づいた。
ーー体が動かない
どれだけ体に命令しても、自分の手足はびくとも動かなかった。動かそうとしても動かない、頭と体が切り離されているかのような感覚。
異変は不安に変化して、渓汰は目を開いた。
渓汰の目に写ったのは何処かの天井、そして、
「……何しているんですか?智恵子伯母さん」
「伯母さんだなんて嫌だな~、学校では智恵子先生って呼んでくださいよ~。あ、でも渓汰君ならお母さんって呼んでも良いですよ~。何って看病ですよ~渓汰君が朝ここに運ばれてきてから、もうお昼休みになるのに~まだ起きないから近くで見てたの~」
渓汰は教室で倒れてから、駿に運ばれて保健室のベットに横になっていた。目覚めるともう四時間目の終わり頃でもうすぐ昼休み、という時間だった。
渓汰の目の前には、というよりベットで横になっている渓汰の上には、この学校の保健教諭であり、渓汰の母親の姉、つまり渓汰の伯母さんである里田智恵子が渓汰の手足を押さえる形で乗っていた。
ふわふわしている長い茶髪に、大きなたれ目。柔らかそうな唇。母性を感じさせる豊満な胸。それでいてすらっとした体。
服装は保健教諭らしく白衣。前を開いていて、中には淡い色のセーターと黒いスカート。胸がセーターを押し上げている。
渓汰の母親の姉なので、年齢は四十歳を越えているはずなのに、見た目は四十歳に全くみえない。
智恵子先生がこの学校の保健教諭になった初めの頃、保健室には美人の先生を見るために沢山の人で溢れていたが、仮病の人に対しては本気で怒るので段々と訪れる人が減っていた。
渓汰の両親が死んだとき、周りの親戚が遺産目当てで渓汰に取り繕うとするなか、数少ない優しい親戚の中で一番渓汰のことを心配していた。初めは一緒に暮らそうと、渓汰を引き取ろうとしたが、渓汰が一人で暮らすことを主張したため、たまに家に行って様子を見るなど、遠くから心配している。
渓汰も伯母さんということもあり、信頼はしているが口調が軽くて行動が大胆なのでとても心配している。
「わかりましたから、そろそろ退いてくれませんか?里田先生」
「もう~渓汰君つれないな~。でも、そういうところも良いかも~。目覚めことだし体調は大丈夫~?」
「はい。おかげさまでもう元気です」
智恵子先生が渓汰の上から離れ、渓汰は体を起こす。体を軽く動かしてみるがなにも違和感は無かった。むしろ、普段より体調が良くなっているとさえ思った。
そもそも、渓汰には倒れた原因がわからなかった。
いや、心当たりは一つあるのだが、倒れるまで違和感は無かった。
自分の体の確認をしている渓汰を智恵子先生は心配そうな顔で見ていた。
そうしていると、四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴る。
「ほら、もうお昼休みだから~保健室から出ていって~って言うところだけど~お昼休みが終わるまでここにいていいよ~行き違いになったら困るからね~」
「ありがとうございます。でも、行き違いってどういうことですか?」
「もうすぐ来るんじゃないかな~」
智恵子先生の行った意味を渓汰が考えていると、保健室の扉が勢いよく開いた。
ベットと入口がカーテンで塞がれて見えないため、誰が来たのか渓汰にはわからない。全力で走ってきたのか、荒い息使いが聞こえる。
「先生!目を覚ましましたか?」
「さっき目を覚ましたら所よ~ほら、そこに居るわ~」
保健室に来たのは、夏帆だった。
夏帆と智恵子先生の主語の無い会話は通じて、夏帆は渓汰の居るベットにやって来た。そして、ものすごい剣幕で渓汰に迫る。
「本当に大丈夫なの?さっきもそう言ってたけど、大丈夫じゃ無かったじゃない!」
「今度こそは大丈夫だよ。ほら、この通り」
渓汰は自分が大丈夫だということを示す為に、右手を体の前で動かす。
改めて動かしてみても、痛みも何も感じ無かった。
すると、夏帆はその手を両手で掴み、慈しむように抱き締めた。
「ちょっと!夏帆?」
「……ほんとに心配したんだよ」
「……ごめん」
今にも泣きそうな顔で言われては、渓汰は何もできない。心配かけた自分が悪いのだ。ただ謝るしか無かった。
「じ、じゃあ、私は職員室で~お昼御飯食べて来るね~。出ていくときは~ちゃんと扉を閉めてね~」
二人の変な雰囲気を感じ取ったのか、そそくさと保健室を出ていく智恵子先生。教諭の机の上に弁当箱らしきものがあるが、きっとお昼御飯ではないのだろう。
二人きりになってしまった保健室、夏帆は渓汰の手を抱き締めたまま動かない、夏帆の目は少し赤くなりながらも渓汰を見つめている。
渓汰も何も言うことが出来ず、夏帆を見つめている……のだが、全神経を右手に集中させていた。
現在、渓汰の右手は夏帆に抱き締められている。つまり、制服の上から夏帆の胸に当たっている。少し沈む様な柔らかさと共に熱が伝わってくる。
幸い、夏帆はこの状況を理解していない。
こんな状況で少しでも右手を動かしてしまえば、即座に"変態"というレッテルを張られてしまうだろう。渓汰には何も原因は無いのに。あるとしたら倒れてしまったことだ。
そんなことにならないために、右手を動かさないように維持していた。何か変化が起こることを期待して。
そして変化はすぐに起きた。
ガラガラ、と音を立てて扉が開いたのだ。
「……え、……あ、ごめんなさい!」
音によって現在の状況を理解した夏帆は顔を真っ赤にして渓汰の手を離した。
「渓汰、生きてるかー?」
聞こえてきたのは駿の声。心配しているのか心配していないのか判らない、そんな軽い問いかけ。
「生きてるよ」
渓汰も軽い返事を返す。
場所がわかったのか、足音が近づいてくる。
「よう、売店で飯買ってきた。食べようぜ」
そう言って、ビニール袋を見せてくる駿。
「ありがとう。里田先生もここで食べて良いって言ってたから、ここで食べよう」
「じゃあ私、教室にある弁当箱をとってくるね」
夏帆はここから逃げるように、急いで出ていった。
「なんかあったのか?」
駿は夏帆の異変に気付いたのか、渓汰に問い掛ける。
「いや、何もなかったよ」
渓汰はそう言うしか無かった。
「一応三人分買ってきたんだけどな。俺はそんなに要らないし。渓汰、二人分食べるか?」
「うん。ありがたく貰っておくよ。朝食べてないから、もうお腹すいてるんだよね」
「……お前もしかして、倒れたのはそのせいか?」
「……そうかもしれない」
実際の原因はそうでは無いのだか、朝の出来事を説明出来るわけも無く、一応あてはまっていたので、そういうことにした。
ほらよ、とビニールから取り出したメロンパンとクリームパンを投げる。渓汰はあぶなげなく受け取る。
「後でちゃんとお金は返すよ」
「気にするな。これはお前の退院祝いだ」
わざわざ買ってきてもらったからその分のお金は返そうとしたが、駿に適当な言い訳で拒否されたので、次の機会に恩を返そうと渓汰は心に決めた。
「まあ、飲み物は無いけどな」
「それはここの物を使わせて貰うよ」
智恵子先生が普段保健室で昼食を捕っているせいか、保健室には沢山の備品がある。お湯の入ったポット、急須、ティーカップが四つ、沢山の種類の茶葉等。
先生はお昼休みが終わるまでここに居て良いと言っていたから、ここにあるものも使って良いのだろう。駄目なら謝ればいい。渓汰はそう考えた。
渓汰は今日の昼食がパンということで紅茶の茶葉を取り出した。紅茶を入れていれば、そのうち夏帆が帰ってくるだろうと予想して。
渓汰は独り暮らしが長いので、ある程度のことはできる。紅茶をいれることも出来た。
「もう食べてる?」
三つのティーカップに紅茶をいれ終えた時、夏帆が弁当箱と水筒を持って保健室に帰ってきた。
気まずい雰囲気は既に無く、いつもの夏帆に戻っていた。
「いや、まだ食べてないよ。駿が飲み物を買ってなかったから紅茶を入れてた。夏帆も飲む?」
「うん、飲む」
「じゃあ、そこに座っていて」
渓汰が指したのは長机。四つのパイプ椅子が置いてあって、その一つに駿が座っている。
駿はまだ食べないのか、渓汰が紅茶を持ってくるのを待っていた。
そして夏帆は駿の向かい合わせ、駿から見て斜めに座る。夏帆もまだ食べてはいけないと思ったのか、渓汰を待っていた。
渓汰はティーカップをトレーに乗せて運ぶ。
紅茶を配り、渓汰が座ったのは最も近かった椅子。横には駿、向かいには夏帆が座っている。
「いただきます」
手を合わせ、皆でそう言ってそれぞれ食べ始めた。
渓汰はメロンパンの包みを開け一口頬張ると、口の中に美味しさが広がり、お腹が空いていたこともあり、食が止まらない。あっという間にメロンパンを食べ終えた。
そして、すぐクリームパンも食べ始める。
「その様子だと、本当に大丈夫そうね」
渓汰の食べっぷりを自分もお弁当を食べながら見ていた夏帆はその様子に安心する。
「まあ、空腹で倒れてたみたいだからな」
「……そうなの?」
「そうらしい」
当たらずとも遠からずな事の原因を聞いてしまった夏帆は、はぁ、とため息をつく。
そうこうしているうちに、渓汰は二つ目のパンも食べ終わった。紅茶をすすり、一息つく。
「ご馳走さまでした」
そう言って二人を見ると、二人はまだ食べ終わっていなかった。
「あれ?二人とも食べるの遅いね」
「渓汰が食べるのが速いのよ」
「ああ、速すぎる」
「ははは、美味しかったからね」
食べている所を見られていたのか、弱冠恥ずかしくなる渓汰。
その時、渓汰のお腹が鳴った。
今さっき、パンを二つ食べたのにも関わらず。
渓汰の顔は赤みを増していく。
保健室に静寂が響く。
「渓汰、私のお弁当食べる?」
そんな静寂を打ち破ったのは夏帆の提案だった。
「……え、いいの?」
「うん、いいよ。私もこんなに食べられないし。それにほら、お腹がすいていると、午後の授業に身が入らないから」
「高崎もそう言っているし、貰っておけ」
「……そういうことなら、少し貰うよ」
渓汰はしぶしぶ、弁当に手を伸ばす。
手に取ったのは形の整った美味しそうな卵焼き。それを一口で食べる。
「……美味しい?」
真剣な表情で渓汰に聞く夏帆。
渓汰は卵焼きを食べ終え、夏帆の方を向いて、
「美味しい」
一言そう言った。
夏帆は嬉しいような、安心したような、そんな表情になった。
それから、渓汰はまた夏帆から色々おかずを貰っては食べていた。
◇◇◇
昼休みも終わり、教室へ帰る渓汰たち。
教室へ帰ると、渓汰の姿を確認したクラスメイトが、渓汰に向けて心配の声や安堵の声、そしてほんの少しの妬みがかけられた。
渓汰一人に対しては心配するのに、夏帆が絡むと渓汰を妬む。不思議なクラスメイトたちである。
因みに、駿と渓汰が二人でいるときは、一部のクラスメイトが盛り上がることもある。主に女子生徒。
体調も回復して授業を受ける渓汰。お昼御飯を食べた後の授業は少し眠くなっていることもあり、あっという間に時間が過ぎていく。
そして、五時間目、六時間目、掃除時間、ホームルームと時間が過ぎていき、
「明日は全校生徒で体力テストがあるから、体操服を忘れるなよ。じゃあ、終わり」
「起立!礼!」
「「「さようなら」」」
「はい、さようなら」
ホームルームも終わり放課後になった。用事があるのか急いで教室を出ていく生徒。少し友達と話をするのか教室に残る生徒。それぞれが色んな行動を起こす。
渓汰が帰ろうと教科書類を鞄に入れていると、夏帆がやって来た。
「渓汰、一緒に帰らない?」
「うん、帰ろう。駿はどうかな?」
お互いに用事が無いときは大抵一緒に帰っている。
渓汰と夏帆の家は学校から同じ方向にあり、お互いの家も近かった。
駿の家は二人の家と少し離れているが、渓汰たちと一緒に帰っても遠回りにはならないため都合が合うときは一緒に帰っている。
駿はまだ帰る準備が終わっていないのか椅子に座っていたので、駿の所へ行こうとした時、
「夏帆お姉様~~!」
教室の外から夏帆を呼ぶ声が聞こえたと思ったら、教室の扉が勢いよく開かれた。
入ってきたのは、赤色の眼鏡をかけたショートカットの女の子。入ってくる否や夏帆に抱きついた。
「お姉様!美歌ずっとお姉様のことを心配してたんですよ!朝、教室にいるお姉様を見たとき、お姉様はそわそわしていて、美歌は心配で心配で声をかけられなくて……、昼休みに来てみれば、教室にいないし……。でも!今来てみると、いつもの夏帆お姉様に戻っていて、美歌とても嬉しかったです!」
そう捲し立て、笑顔になっている少女の名前は相澤美歌。
渓汰たちの一つ下、高校一年生。
二週間前に入学したばかりなのに、夏帆ととても親しくなっているのは、二人が同じ中学校だった、という訳ではない。
二週間前の入学式の日、渓汰たちが帰っている時、新一年生となった美歌が追いかけてきて、
「一目惚れしました。美歌のモデルになってください」
と、夏帆に告白したのだ。
押しまくる美歌の態度に、夏帆が了承してしまった。それから、学校では毎日と言っていいほど夏帆に会いにきている。
そしていつの間にか、夏帆のことをお姉様呼ばわりしていた。
そんな美歌に夏帆は驚きを通り越して、呆れていた。
それでも元気の良い後輩が出来たことが嬉しいのか、なにかと付き合ってあげていた。
「美歌。私は大丈夫だよ、気にしないで」
「夏帆お姉様が気にしなくても、私は気にします。それはそうと、美術室に行きませんか?いえ、行きましょう!では深海先輩、夏帆お姉様をお借りします」
「……そういうことらしい」
そう言って夏帆を連れていこうとする美歌。
夏帆も馴れているのか、されるがままになっている。そして、途中で夏帆は思い出す。
「ちょっとまって!渓汰、これ福永君に返しておいて」
渡してきたのは、朝、夏帆が没収した駿のスマートフォン。
「わかった。じゃあ夏帆。また明日」
「ええ、また明日」
美歌は夏帆を連れて美術室に向かった。
夏帆は美歌に告白された次の日から、モデルの役割をするために美術室に顔を出している。一度美歌に入部を進められたが、夏帆は絵を描くのが上手くない、という理由で断った。
夏帆たちが美術室に行った後、渓汰は考えていた。
「何でわざわざ俺に許可をとろうとするんだ?」
放課後、夏帆を連れていくたび美歌に「お借りします」と言われていた。
幼馴染みで一緒にいることが多いからといって自分に許可を取りに来るのはどういうことか、そんなことを考えていた。答えは出ないが。
「そこまで言われて気づかないとは……」
「どういうこと?」
「じゃあ聞くが、お前は好きな人はいるか?」
「駿や夏帆が好きだよ」
好きな友達について真面目に答える渓汰。はぁ、と駿はため息をついて質問を訂正する。
「そういうことじゃなくて、異性として好きな人はいるのかって言うことだよ」
「うーん、いないな。考えたことも無かったよ。駿はどう……あっ!」
渓汰は話の流れで聞こうとしたが、途中でこの質問は不味いと思い慌てて口を閉じる。が、もう遅かった。
駿は目をぎらぎらさせ、口は今すぐ言いたいというようにむずむずしていた。そして口が開く。
「俺か?俺が好きな人は優しくて母性があり、毎日一生懸命頑張っていて忙しい中時おり見せる笑顔が俺の心を癒してくれるそんな人が好きだ!」
生き生きと息継ぎもせず話す駿。
「……つまり?」
「涼子さんだ!」
「うん、知ってた」
涼子さんとは駿の母親のことである。つまり、駿は母親のことが異性として好きなのだ。普段、冷静な雰囲気を漂わせているのに、母親の事となると生き生きとしている。それだけ涼子さんのことが好きなのが分かる。
駿が渓汰にそう言ったとき渓汰は、そんなやつもいる、と思って駿の事を否定しなかったからか、それ以来とても仲良くなった。
駿が母親を異性として好き、ということは学校ではあまり知られていない。聞かれないから言わないのか、言っている時に聞いていないのか判らないが。駿に好意を寄せている女性は多いが、この事を知ったらどう思うのだろうか。
因みに、前に渓汰は駿に「母親と結婚するのか?」と聞いたことがあるが、「しない。法律でも出来ないしな」と、駿は答えた。母親に負担をかけたくないのだ。駿は常に母親を第一に考えて行動している。
ごほん、と駿は咳払いをした。
「まあ、そういうことだ」
「どういうことだよ」
「これ以上は教えないけどな。面白いから」
そう言って何やら楽しんでいる様子の駿。
「なんだよそれ。あ、これ夏帆から」
「おお、さんきゅー」
駿は、渓汰から受け取ったスマートフォンを鞄に入れる。
「一緒に帰らない?」
「悪い、今日は今からバイトがあるんだ」
「そうなんだ。じゃあまた明日」
「おう!また明日」
駿はバイトに行くために教室を出ていった。
桜貫高校では、生徒のアルバイトは禁止されてない。内容によっては指導を受けることもある。小遣い稼ぎ等でアルバイトをする生徒が多い中、駿は家庭を支えるためにアルバイトをしていた。
駿の家庭は、駿と母親の二人で生活している。駿が物心着いたときには、既に父親の姿はなく、母親が一人で育ててきた。中学までなら義務教育なのであまりお金がかからなかったが、高校に入ればそうではない。駿は中卒で働きこうとしていたが、母親が反対して今に至る。成績が優秀なのも奨学金を得るためで、少しでもお金を稼ごうと週に三、四回アルバイトをしている。というのが、前に渓汰が駿に聞いた話だ。
「よし、帰るか」
夏帆は美術室、駿はアルバイトに行ってしまったため、渓汰は一人で帰ることになった。
そうして、家に帰るために教室を出た。
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