―月待ち桜シリーズ― 八瀬桜《はせざくら》
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遠く、人里はなれた深い山に…獣道の先、木々に囲まれた小さな庵があった。
何時から…其処に在ったのか、誰が其処に住まうのか。
山の獣ですら、とうに忘れてしまうほど…ひっそりと静かな佇まいであった。
簡素な其の庵の中に、床を敷き、横になる、今まさに其の生涯を閉じようとする、年老いた僧侶が一人……。
其の枕元にちょこんと…それでも綺麗に正座をして座る小さな愛らしい童の頭を……優しげに、愛しげに撫でてやっている。
「よしよし、ええこじゃ……ええこじゃな」
童は愛らしい顔に笑み一つ浮かべず、老僧の上に頭を伏せ、顔を横にして耳を彼の胸に当てる。
そうして老人の弱い鼓動に耳を澄ます。
とくん、とくんと聞こえて来る命の音が、頭を撫でる彼の指先と同じように童の心を撫でる。
童はまるで、紅葉の小さな葉のような愛らしい手を、聞こえて来る鼓動にあわせて、とん、とん、と軽く叩いて桜貝のような小さなお口から鈴のような声で刻む。
「とん、とん、よしよし……。じーじ、よしよし」
小さく聞こえるあどけない声に、老人は目を細める。
静かな夜に、鈴虫が鳴き、木々の葉が風にそよぐ。
「良い夜じゃ、こんな夜であった……」
童が当てている耳を変えて、顔を老人の方へと向ける。
彼を見るつぶらな瞳は、蒼いほどの白の中に、大きな黒い玉……。まるで…都で見た黒曜石の様に濡れて輝いている。
「良く似ておる……。あれも、そんな瞳をしていた……」
じっと童を見つめる、此の年老いた僧の瞳の奥にどんな想いが揺れ動いたのか、童にはまだそれを推し量る事は出来ない。
老人はふと視線を天井にやると、童の頭に置いた手は其のままに、ゆっくりと…静かに語り始めた。
「聞きなさい…いいや、聞いておくれ。爺はもう長くは無い。お前には話しておかなければならない……。今のお前にどれ程の事が理解できようか……。
だが…それでも聞いておくれ。
わしの命の灯火が…そろそろ消えようとしている今だからこそな――
――あれは…あの時はわしも未熟であった……。
いや、未熟は今も変わらぬか……。
縁あって此の庵を守る事にはなったわしじゃが……。
長年の修行を積もうとも…まだまだ都の栄華を時折思い起こしては、我が運命を呪うたものじゃ。
業の深さをつくづく思い知っての。
此の山奥で、寂しうて、せつのうて、木切れで仏像を何体も彫り続け、経を唱えては眠る…そんな毎日であった……。
先の神無月、今宵のように静かな夜じゃった。
急にざわざわとした風が吹いたかと思うと、慌てた風に『もうし、もうし』と、庵の戸を叩く音がしおった。
そのような夜中、このような山奥で、戸を叩く者などおる筈もない。
悪鬼羅刹の類であろうかと危ぶんでは見たが……もとより、侘しい隠居暮らし。
盗られる物とて命の他には何も無い……。
己の身を儚んでいたわしは…それでも恐る恐る戸をあけてやった。
するりと、二つの影が入り込んだ。
一人は烏帽子姿の若い男…それともう一人は美しい薄絹の水干を被った白拍子姿の女子であった。
女子は憔悴してぐったりとしておった。
男はわしの腕に女子を渡すと――
『徳の高いお坊様とお見受けいたします。すぐに戻ります、それまでどうか此れを御守りくださいませ。後生です。どうかお情けを、決して…ご迷惑をお掛けしません』
そう言って再び夜の闇の中へと走り去っていってしまった。
呆気にとられて、しばしその場に佇んでしまったが、腕の中の女が呻く声に我にかえった。
ひとまず履物を脱がし、自分が先ほどまで横になっていた物ではあったが、床に寝かせ枕元に明かりをやって女子の顔を覗いてみた。
わしは…仏に仕える身でありながら久方ぶりに見る女性の……いや、それよりも何よりも、見た事の無いほどの其の美貌に見惚れてしまった……。
ごくりと飲んだ生唾の音に、己を恥じたものじゃ……。
だが其れほどまでに美しかった。
輝くばかりの白く若い肌に、整った目鼻立ち。
眉根を寄せて伏せられた睫毛の奥の瞳は、如何程のものか……。
麗しく官能的な唇は、蜜を持つ花の様に艶かしかった。わしの心に…どす黒い煩悩が蠢いた……。
其の淫らな思いが、わしは恐ろしかった……。
わしは手に持った明かりを枕元に置くと、水を浸した布で山で汚れた顔を拭ってやり、そして其の傍らに座り、一晩中経を読んだ。
翌朝、目を覚ました女子の開かれた瞳は、予想以上に美しかった……。
未熟なわしは、色々と問いかけた。
だがしかし…其の美しい女の心は、まるで童子。
にこにこと嬉しそうに微笑んではおったが、何一つ応えはしなかった。己の名すら……。
日がな一日様子を見ていてわしは想った。
このように無邪気な心を持つ者であったが、其の外見の怪しいまでの美しさに心を捕らわれ、あのような邪念を生むとは……。
今思えば孫といってもおかしくは無い若い女子に此の爺めがの……。
何と浅ましい己であったことか…と。
わしは女子にもうじき咲く柊という名をつけて呼ぶことにした。
己の邪気をはらってくれるように願いを込めて、其の名を呼ぶことにした。そして幼い童子のように世話をしてやった……。
それから数日、女子はすっかりと元気を取り戻し、日々を童子のように過ごすかと思えば…気まぐれにわしの手伝いをして過ごした。
何も解らぬというのでは、置いて行った男のことも解らぬだろうとわしは考えたのじゃが……。
時折、あの夜以来、庵を取り巻くように突然生え出し茂った竹薮の笹を…、嬉しそうに触っては…『はせ』とか『やせ』と呼びながらうっとりと目を瞑っておった。
恐らく、男の名であろうかとも考えたが、柊との日々の楽しさに…さほど気になることがなくなっていた。
七日も過ぎようという頃、気づくと柊の腹が少しずつふくらんできているようにも思えた。
湯を沸かし、湯浴みをさせようとした時に、柊自身がそっと腹を庇うようなしぐさをした。
そして嬉しそうにわしに向かって、『やや』『ややこ』と微笑んで見せた……。
其の時、わしの心に湧き上がった感情は、嫉妬ではなかった。
なぜだかわしは、其れを喜んだ……。
そしてそっと其の白い腹に触れて『そうか、ややこか。ややこがおるのか。よかったのぉ』と柊に微笑んだ。
其れを聞いて柊はいっそう笑い、はしゃいではわしに湯をかけた――
――幸福であった……。
永遠に此の時が続けば良いと思った……。
其の夜、床についた柊の寝顔を見ながら、赤子はきっと自分の手で立派に育てよう、三人で暮らそうと決意した。
ところが…、柊の腹のふくらみ具合が妙に早すぎた。
日毎夜毎に腹はふくれ、みるみる臨月ではあろうかと思えるほど…大きゅうなった……。
そうして其れと同じくして、柊は日毎に憔悴してゆくではないか……。
わしは…腹の赤子の事よりも、痩せ衰えていく女の身を案じた。
寂しく暮らしていた日々をもう二度と…味わいたくはなかった。
それ以上に柊は、わしにとって掛け替えのない存在になっておったのじゃ……。
柊を失う事に怯えたわしは…久方ぶりに里へと赴き産婆を連れて庵へと急いだ。
年老いた坊主が産婆を探すという事自体が、なにやら胡散臭かったのであろうか。
それとも都より流れてきた噂のせいであったのか。産婆はついてくるのをしきりに渋りおってな……。
丁度、其の年其の頃に、次代の帝の世継ぎ騒ぎが起こり…たくさんの血が流れ…魑魅魍魎が都を飛び回ったと……。
おろかな権力争いが恐ろしい鬼や妖怪の名を借りて、このように遠く寂れた村里までも聞こえていたようじゃった……。
嫌がる産婆を…何とか説き伏せて連れ戻ってはみたものの…どうしたことか行きなれた山道を迷ってしまう……。
此の辺りにあるはずの獣道も、その辺りにあろうはずの庵の姿も、まるで…見えない壁によってふさがれたかのように辿りつけなかった……。
日も暮れかかり…産婆がとうとう、物の怪の仕業ではと言い出しおった。
女の腹のふくれが早い事もきっと其の仕業であるに違いないとな……。
そして…遂に一人で山道を帰っていってしまいおった……。
途方にくれたわしが柊の名を呼ぶと…竹薮の中から見慣れた白い細腕が、にょっきりと差し出された。
柊の腕だと確信したわしは…咄嗟にそれを掴んだ。そこをいきなりぐいと藪へ引き込まれると、なんということか…一瞬でわが庵の前へと出たのじゃ。
夢のような出来事に驚いたわしは…小さな呻き声を聞いて、腕をつかんでいた柊が額に脂汗を流し、苦しんでいるのにようやく気づいた。
みると…白い両の足に真っ赤な血が…紅い筋を伝わせておった……。
『やや…やや』と、苦しそうに呻く柊を抱えて、慌てて床へと寝かしてから、わしは湯を沸かし赤子を取り出す準備を始めた。
『物の怪』…という、言葉が一瞬頭に浮かんだが、小さな呻き声から獣の咆哮のように変わる柊の声に、次第にわしの頭の中は真っ白になっていった。
『大丈夫だ、助ける。きっと助ける。ややもお前もきっと助けるぞ』何度も何度も繰り返し、声をかけながら準備を整えると、舌を噛まぬように…りきみやすいよう布を噛ませ、足を開かせた。
『よし、よう我慢したっ。 さぁ、いきめ』とわしは声をかけた。
あの時……。
がっちりと布を銜え、全身汗まみれになって己が体内より命を産み出ださんとする柊は…此の上もなく強く美しい…獣のようであった……。
わしもまた…汗まみれになって声をかけながら柊を励ましたものじゃ。
だが見えてきたのは小さな二つの足……。
逆子であった……。
逆子であっても、産婆であればきっと上手く取り出すことも出来たのであろう。だがわしにその知識はなかった……。
わしはただただ…柊を励まし声をかけ、手伝う事しかできなかった。
よりいっそうの力を込めて柊は生命を生み出す使命と戦っていた。
母になる女性とは此れほどまでに強いものであったか……。
一晩中汗と泪と咆哮の中で、明け方を迎えると…柊はとうとう赤子を押し出した。
しかし…母の胎内より産み落とされた赤子は産声を上げることがなかった。へその緒を落とし、母の胸に抱かせても泣く事はなかった。
無情な運命にわしは泣いた……。
だが其の時、あれ程の大役を終えたばかりの柊が、おもむろに起き上がると赤子を掴んで土間へと投げ落とした。
わしはあれ程…度肝をつぶした事は無い……。
其の瞬間、赤子が大きくなき声をあげた。
朝もやを吹き飛ばすかのように元気な産声をあげて泣く赤子を…土間より拾い上げ、わしが産湯を使わせてもう一度そっと……柊の胸へと抱かせた。
柊は横になったまま愛しそうに我が子を胸に抱いて…其の傍らへと寝かせた。
其れがお前じゃ……。
お前の母は…柊は穏やかで、慈愛に満ちた菩薩のような姿であったよ……。
そして優しく…優しく撫でておった……お前の頭の小さな其の…角をな――。
柊はそのまま二度と、床より起き上がることは無かった……。そっと消え入るように、亡くのうてしまった……」
じっと老人の顔を見つめて話を聞いていた童は、そっと…自分の頭にある小さな二つの、角を触る。だがすぐにまた手を下ろして今度は、老人の胸をさすってやる。
「優しい子に育ったのぉ……」
老人の瞳に泪が浮かび其のまま頬を伝わって枕を濡らす……。小さな小さな指が、其れをそっと拭う……。
「お前と暮らした日々も…楽しかった……。生まれた後のお前の育ちも驚くように早い。
あれからようやく一年だというのに、お前はその倍もはよう育っておるで……。
きっとお前と…わしらの時の流れは違う(ちごう)ているのだな……。
お前の父は人知を超えた存在なのやも知れぬ……。
其れを物の怪と呼ぶか、何と呼ぶかわしにとっては…どうでも良いことじゃ。
きっとあの竹薮も…お前の父が妻と我が子を守るために、術を施したものであろう。
もしや…瞬時にわしの寿命も見て取ったやも知れぬ。
腹の中でも、生まれた後でも、少しでもお前が無事に育つよう…何かの術を施したのやも知れぬのう。それともそういう種であるのか……。
なんにせよ…お前の父は、お前とお前の母を決して…粗末に思うておったのでは無いようじゃ。のう、そこなおひと……」
老人が声をかけると…土間の片隅がぼうっと明るく光った。
童がそちらを見やると、其処には霞のように朧ではあるが人の姿がゆらゆらと佇んでいる。
水干を被った若く凛々(りり)しい青年の姿をしているが、其の頭上にはすらりと美しい二本の角を誇っている。
童は身を起こしてじっと見つめている…。
すると其の若い鬼はにっこりと慈愛に満ちた微笑を浮かべる。
「其の姿…今更思えば柊……そなたの妻の『やせ・はせ』という呼びかけは、八瀬童子の事であったのか…八瀬とは鬼の血を引くものと聞いておったが。
都の大捕り物で逃げていた身であったのか? いや、もうよい。其れも過ぎた事じゃ……。
わしは何より、この身が朽ちてこの童一人…生きながらえるものか不安であった。こうして父であるそなたが迎えにきてくれたのじゃ…安心して死ぬるというものよ」
老人の言葉に…もう一度陽炎のような鬼は、其の姿を明るく…光らせた。
「童には名をつけておらぬ。名は大切な物。名によって童をここに縛りとうはなかった……。
だが、良い子じゃ……優しく…美しい。母によう似ておる……。
この子を頼む…とはおかしな物言いじゃな…。そうだ、返そう。
そなたの子じゃ。さぁ、行くが良い、お前の父じゃ」
そう言って童を促す……。
童は肩を押されるが、頭を振っていやいやをすると…老人の胸に再びすがりつく。
朧な姿ではあるが、父である鬼は、両の腕を静かに伸ばし、声はなくとも其の目の中で、此方へおいでと、童に語りかける。
「困った子じゃ…。爺はもう死ぬ…。お前が一人になってしまう…。これこれ……」
話す言葉もだんだんと細く消え入ると、童の頭を撫でていた老人の手が…そっと止まり、静かに力尽きた……。
童は其の手をとって自分の頭に置く。だがやはり落ちるその手をまた…掴んで小さな頭に乗せる。
爺、爺と…呼ぶ童の目に映る老人の姿が…滲み出る涙でゆらゆらとゆらめく。
何度乗せても落ちる…大きな皺だらけの手に、ふっくらとした白い頬を当ててはみるが…其の手はもう二度と優しく撫でさすってはくれなかった。
小さな両手で動かない身体を何度も揺さぶる。
『おきて、おきて』と震える声でねだってみせる。
朧な鬼は、なぜかそれ以上…童に近寄る事ができなかった。
死んでいった老僧の徳が、童を包んでいたのだ。
嘆き悲しむ幼い我が子に、何をする事もできぬ切なさに…鬼も涙を流す。
そこで…もう一度強く光って、子の気を引くと、死んだ老僧の姿を映し借りて、庵の外へと誘った。
月明かりの中…滑るように其の姿が庵を出て、庭の中央に止まる。
童はいつものように優しく微笑む…爺の姿に誘われて、泪でいっぱいの目を小さな手で擦りながら、裸足のままで外へと出てゆく。
外には月の光。そして哀しい虫の声の響く中、老僧の姿のままで鬼の父は天を仰ぐ。
両腕を空へと翳し(かざし)聞こえぬ声で一心に祈る。
すると…すらりとした其の両の腕より新緑の葉が芽吹き、枝が伸び…其の枝からは小さな薄桃色の蕾が生まれ、ぽつり、ぽつりと…やがて其れは連鎖の如く一斉に花開き…しかしすぐに散りながら吹雪のように舞踊る。
静かな秋の夜…狂い咲く月下の見事な桜吹雪に、童は大きく眼を見開いて見惚れる。
子を想う鬼の父は、そうしてそのまま其の美しい姿を…一本の桜の木へと化生させた。
其の時、月光よりも明るく温かな光が…庵の中より輝いたかと思うと、横たわっていた老僧の亡骸は、青白い光の筋となって庵より飛び出で、そのまま桜の中へと消えていった。
煌く光と…舞い散る桜の其の中で、鬼の童は…目の前の桜の幹に、養い、慈しみ育んでくれた老僧の姿を見た。
変わらずに微笑み自分を見つめくれている姿を……。
鬼の子は嬉しそうに両手を伸ばして…駆け寄りしがみつく。もう二度と離さぬぞと、離れぬぞと…その姿に甘える。
木の肌より伝わる温かく…懐かしい温もりに癒されて、此の世にたった一人残された鬼の子は…何時しかすやすやと眠りにつく……。
桜の木の幹に寄りかかり…木の根に護られて眠る小さな小さな鬼の子に…乱れ咲く桜の花びらが、静かにそっと……降り積もってゆく。
こうして…桜に護られし鬼が棲む庵は…山の中、ひっそりと…其の姿を隠した。
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【登場人物】
年老いた僧侶:都で栄華を極めたものではあったが、今は人里離れた庵に一人で住み修行に明け暮れた寂しい毎日を過ごしていた。突然の来訪者に戸惑いながらも受け入れる。徳の高い僧侶である。
女 :ある夜男に連れられて庵にやってくる。言葉も片言で振る舞いも考えも小さな子供のように思える。僧侶に柊(柊と名づけられる。
男 :ある夜女を連れて庵にやってきて女を置いて何処加へ去ってしまう。正体は鬼である。(八瀬童子とは鬼の末裔とされている一族の呼称。)
童 :女が産んだ子供。
イラストは、ニコニコ動画で活動されている、あきらめるPさんに描いていただきました。
ありがとうございました(*・ω・)*_ _))ペコリン