待ち合わせ・笑顔・陽の光
『人は大切なモノを失ってから、そのモノの大切さに気付く』なんて、何かで誰かが言っていた。けど、もしその誰かがそうだとしても、オレもそうだという事はきっとない。多分、ない。オレにはそんな感情ないから。オレに大切なものなんてないから。探そうとしないから。探したって見つかるとは限らない。オレにオレの時間なんてないけど、そんな不毛な行動、時間の無駄。オレの歩いていく道筋に勝手に落ちていてくれないかな・・・。
「待った?」
「待つのは嫌いじゃないから平気よ。」
オレは約束どおり、次の日の昼に昨日と同じ店の前に行った。
オレがそこに着いた時には春霞がすでに待っていた。
「昼間は仕事がないの?」
「あぁ・・・。オレの仕事は夜だけだから、昼は比較的暇なんだ。」
「じゃあ、あたしと一緒ね。」
春霞はとても柔らかく笑った。まるで春に咲く花のような・・・。なんて、名前だったかな・・・?
「そうだな・・・。」
とにかく、それくらい暖かくて優しい感じがした。夜の顔を見てから昼の顔を見ると、とても同一人物だとは思えなかった。
オレと春霞は暫く裏通りをぶらぶらと当てもなく歩き回った。その間にまた、お互いにあたり障りのない会話を交わした。
春霞は仕事の時間までまだあるせいか服装が軽めだった。けばけばしくも地味でもない。けれど、無頓着でもない。色は薄い桃色と黄色で揃えられていて、配色に関して全く知識のないオレでも綺麗だと思えた。昨夜と同じこの場所なのに、この時間帯だけは彼女を年相応の少女に戻してしまうのだろうか?
「オレは、昨日の服より、今の服の方が、綺麗だと思うな。」
春霞はいきおいよく隣に居たオレに顔を向け、満面の笑みで、
「ホントッ!?ありがとう。嬉しいっ!」
と言った。しかし瞬間に顔を変えて、
「でも、褒めてるんなら服じゃなくて、フツー着ているあたしを褒めるんじゃないの?」
と頬を膨らませていた。
「ごめん。オレ、そういうのよく分かんなくて・・・」
「謝んないでよ。・・・そんなにきつかったかな・・・?」
「いいや。冗談だよ。・・・ただ、人を褒めるっていうのあんまりした事がなかっただけ。」
オレは少しだけ口の端を上げて、ニッと笑ってみる。でも、あんまり人を褒めた事がないのは本当。というか一度も。
「・・・・・・」
春霞がオレの顔をじっと覗き込んでくる。
「何?」
オレは春霞に聞いてみる。
「そういう顔していたほうがいいよ。」
「何で?」
「・・・・・若く見えるから。」
「若く・・・ってそんなに老けて見える?」
ちょっとショックだった。オレってそんなに年上ってか老けて見えるのか?
「まぁ、それもあるけど、笑っているほうが安心するの。あたしが。」
「安、心・・・?」
「うんっ!」
春霞はまた幼く笑った。とても無邪気で、全ての言葉に偽りなどないよう・・・。春霞の全てが、真実だと言うような・・・。
「で、なん用だったの?」
春霞は考え事をしていたオレの、肘あたりの服を引きそう話し掛けてきた。
「あ?・・・あぁ・・・。連絡先を聞いていなかった。」
「それだけ?」
「他に何かあったっけ?」
オレは質問に質問を付けて返した。
「なーんだ。あたしに会いに来てくれたんじゃなかったんだ。がっかりぃ〜・・・」
春霞はあからさまに肩をがっくりとうな垂れさせ、ちらっとオレの方に目配せした。
「娼婦みたいな言葉だな。」
・・・何かおかしい。
「これでも娼婦なんだけどっ。」
「キャバ嬢がいいとこだろう?」
・・・何かがいつもと違う。何だろう・・・・。
「ひっどいなぁ。そーゆー言い方。」
春霞はまた頬を膨らませ、あからさまに怒った表情を見せた。けれど心からは怒ってなどいない。
「でも・・・」
春霞はふと、歩みを止め、オレの顔をじっと見つめた。
「でも、以外だな。」
「何が?」
「あたし、紅蓉と一緒にいた時間って殆どないのに、こんなこと言うのおかしいかもしれないけど。・・・紅蓉もそういうこと言うんだなぁ・・・って思って。もっと堅物ってゆーか、あたしがやってる職業とかに興味ないのかと思っていたから。」
「あ・・・・・・」
オレは言葉が見つからなかった。
さっきまで感じていた違和感はこれだったんだ。
自分でも気が付かなかった違和感に、昨日会ったばかりの春霞に見つけられた。
何故か今日は気分が良かった。陽の光もさほど眩しくなくて、足元じゃなく前や春霞の顔を見て歩いていた。なにより、言葉を考えてから発するのではなく、思ったことがそのまま口から出た。感情が言葉や顔に出てしまっていた。
オレは、仕事関係じゃないからか、と考えた。それ以外にオレには考えようがなかった。気分が高揚するなんて感じた事もないのだから解かる筈もない。もし、感じたとしてもその時は違和感すら感じないんだろう。
「そうだ!これあげるよ。」
そう言って春霞は俺の手の平に一枚の厚紙を置いた。よく見るとそれは名刺で、表に燐 春霞と書いてあった。
「それ、あたしの本名。裏に住所と電話番号あと携帯の方の番号もあるから。」
「なんて読むの?オレ、漢字あんまり読めないんだ。」
「りんはるかって読むの。時々、どっちが苗字なのなんて聞かれるんだ。」
りん、はるか。
「じゃあ、時々リンって呼んでもいいんだ。」
「時々ね。でも、そっちの方が好きなんだ。かっこよくて。紅蓉は?」
「オレ?」
オレの・・・本当の名前。なんだろう。オレの本当の名前って・・・。オレには元々名前なんかなくって、オレはマスターが名づけてくれた紅蓉しか知らなくって・・・。
「ごめん。分からない。オレ、オレの本当の名前ってなんだろう・・・。ごめん。本当に分からないんだ。」
「なんで謝るの?」
「なんでだろう・・・でも、オレ、つい最近まで全然記憶が無かったんだ。名前だって最近人に付けてもらったものだし・・・」
「大丈夫、名前の大半は人に付けてもらったものよ?」
春霞は優しくなだめるようにオレに話しかけた。
「あたしのこの春霞って名前も、お母さんに付けてもらったんだ。春の季節に出る霞はどんな季節に出る霞よりも優しいから、そんな春の霞みたいに誰かを優しく包んであげられる人になる様にって付けられたんだって。」
「・・・・・・ごめん。」
「なんで、紅蓉が謝るのよ。」
「家族のこと、思い出させたかと思って・・・。」
「そんなこと・・・・・」
春霞は一瞬申し訳なさそうな顔をしたが、一度目をつむりゆっくりと開いた。そして、
「そんなに気を使わなくていいのよ。そりゃ、家族のことは今でも哀しいし悔しいわ。でも、そのことで紅蓉が気に病むことはないの。だから気にしないで。」
まるで『母親』のようだ。暖かくて優しくて全てを受け入れてくれるような存在。
「じゃあ、あたしもうお店に戻らなくっちゃっ!準備があるんだ。お酒出したり、お料理作ったり。色々忙しいんだよね、下働きも。でも、ご指名してもらえれば接客もやらせてもらえるんだ。だから、早く呼んでね。」
「分かった。考えておくよ。」
「考えておくよ、か。」
「どうした?」
「ううん。なんでも無い!だいじょうぶよ呼ぶときはリンでよんでね。お店では名前、違うんだ。」
「分かった。」
オレはまた少し笑ってみる。
不思議な感覚だった。ほんの少し前までオレの世界は無機的なものばかりで、照らしてくれる太陽は眩しいだけで、届いてくる声はとても少なくて弱くて、目に見える色は真っ赤な血の色か闇の漆黒。そんな世界がオレの全てだった。それが世界の全てだと思っていた。だけど、オレの見ていた世界は本当に小さなモノで、全ての中の一部でしかなかった。暗く湿った悪質な世界しか知らなかった。もっと明るく光りに満ちた世界があったんだ。
「やばっ、あたしそろそろ戻らないと。お店始まっちゃうわ。」
「あ・・・うん・・・」
去ろうとしている春霞の後ろ姿を見ると、また変な感覚になった。
なんだか、もやもやしている。
「あっ、あの・・・さ・・・・」
何故だか、一人で行かせたくない。そんな気持ちになった。
「なに?」
振り返った春霞はまだ柔らかく笑っている。
「店・・・まで、送るよ。」
顔が熱い。熱でもあるみたいだ。
春霞は一瞬、驚いたような表情を見せたが、すぐ後に
「ありがとうっ。うれしい・・・!」
と、見たこともないような飛びきりの笑顔でオレにそう言った。
オレもなんだかとても嬉しかった。顔がほころぶ。
「紅蓉がそんなこと言うなんて思ってなかったからびっくりしちゃった。」
「オレも・・・」
春霞に聞こえるか聞こえないか位の声で、そう言った。
「じゃあ、行きましょうっ。」
春霞はオレの腕を取って、オレは春霞に引かれるように、オレたちは歩いていった。
オレたちは店まで帰る途中、また会う約束を交わした。お互い、無理だったらしょうがないけど、なんて言いつつ。
春霞と分かれた後、今日は解からないことだらけだったなぁ・・・とか思った。でも一つだけ解かったことがあった。オレは多分春霞のことは嫌いじゃない。好き、という言葉は意味が多すぎて解からないけれど、嫌いという言葉は解かりやすい。オレは春霞の事が多分嫌いじゃない。だけど、好きかどうかは解からない。
ただ、あの笑顔は間違いなく好きだ。あの笑顔はとても柔らかくて、どこかが暖かくなる気がした。
オレは一度部屋へ戻り、仕事に出た。感情を殺して。目に光を入れてはいけない。耳を閉ざさなくてはいけない。
今日、一人の男を殺した。銃声が、叫びが、オレの中にやけに響いた。
『人は大切なモノを失ってから、そのモノの大切さに気付く』なんて誰かが言っていた。
大切なモノなんて人それぞれで一概には言えない。けれどそれは、決して無益無害なモノではないはずだ。なにかしら影響があるはずだ。無害なものなら、出来るかぎり避けたい。しかし今生きる人間にそれがわかるはずもない。だから今を、今自分が持っている僅かなモノを大事にしているしかないのだと思った。例えそれが自分のふところで暴走したとしても・・・。