1話・たき火の音
とても長い夢を見ていた。そんな気がした。
とても、とても、長い夢。
──誰かの声を聞いた気がした。
言い聞かせるような声だった。
優しくも厳しく、そして温かな声だった。
──誰かの声を聞いた気がした。
何かを願い、祈るような声だった。
紡がれるその声は、微かに震えていた。
──誰かの声を聞いた気がした。
非難する声だった。怒りに震え、我を忘れ、罵詈雑言を吐いている。
その罵声は、私に向けられていた。
その時、私は何を感じていたのだろうか。
悲壮ではなかった。怒りではなかった。
そうだ、あの時の感情の名前を私は知っている。
あれは、──憐れみ、だった。
◯●◯
ぱちぱちと、心地の良い音が聞こえた。
それが薪の弾ける音だと、遅れて気づく。
冷たい風が頬を撫で、湿った土の匂いがした。どうやら、屋外にいるらしい。
ゆっくり目を開けると、濃紺の星空が視界に広がった。
視界の端の火のゆらめきに惹かれて、音のする方へ顔を向ける。
すると、たき火の中に枯れ木を投げ入れる少女の姿が目に入った。
湿った土の上で屈み込み、火に息を吹きかけていた。
ボロ布のような服を纏った、白髪の少女。
整った顔立ちをしていて、月明かりを受けた白髪は淡く輝いていた。
(綺麗な顔だなぁ。私なんかと違って──あれ?)
視線をたき火に向けたまま、私の動きに気づいたのだろうか、彼女はこちらに声をかけてきた。
「ひー、起きたの? いつもより早いね。そんな早起きをしたひーに申し訳ないけど、バッドニュースがございますっ」
彼女は、私の方に勢いよく振り向き、力強くたき火を指さした。
「今焼いてるお肉でストック切れです! また調達しないといけません! 」
戯けるように、よよよと泣き真似をする少女。
彼女が指を差したたき火の中には、薄く切られた肉が錆びた金網の上で焼かれていた。少し離れた位置には、2枚の薄いパンが置かれている。
私は、「あの〜」と愛想笑いを浮かべながら彼女に声をかけた。
「ん、どうしたの? いつもなら肉がなくなったら、ひー意味もなく泣きわめくじゃん」
(そうなんだ。私って、そんなワガママな奴だったのか…… )
「嘘だけど」
「嘘かい!」
思わず叫んでしまった。
私としたことが、はしたない、はしたない。
気を取り直して、おそるおそる手を挙げながら尋ねた。
「ここは、その……どこなんでしょうか?」
「え? どこって、そりゃあ──」
意図がうまく伝わらなかったことを察して、慌てて言葉を続けた。
「そ、そうではなくてですね。その、あなたは、誰なんでしょうか? いや、そもそも……」
──私は誰なんですか。
そんな陳腐な言葉が、私の口から漏れ出た。
□■□
「え〜っと、つまりは何? 私は記憶喪失なんですって言いたいわけ? 」
「ま、まぁ、そうなりますね、へへへ」
「何笑ってんの? 」
「よく分かんないけど、ごめんなさい! 」
私が、自分の置かれている状況を伝えると、目の前の少女は露骨に態度を変えた。
彼女が言うには、どうやら私はヒナタという名前らしい。そして、彼女の名前はハルだと教えてくれた。
ほんの数分前までは、私に親しげに話しかけていた彼女はどこへやら、なんだかツンツンしていた。
「ね、ねぇ? 一応確認なんだけど、ハルって──」
「呼び捨てやめて。ちゃんorさんで。と言うか、記憶失ってるなら実質初対面なんじゃないの? ちょっと気安くない?」
「ごめんなさい! 距離感が分からなくて……」
「──チッ」
(舌打ちやめてよ! )
思わず心の中で叫んでしまった。
おかしい、ついさっきまで私のことを、"ひー"とあだ名で呼んでいたはずなのに。
かなり親しい仲だったのかな、と思って、気を遣って呼び捨てをしたのに、失敗だったみたいだ。
何も分からない私は、心が折れそうだった。
「アンタ、本当に何も覚えてないの? 昨日何食べたとか、何をしたとか」
「……ごめんね。本当に何も覚えていなくて」
「…………そう」
ハルちゃんは、視線を落とすと大きくため息をついた。
「……一応、確認なんだけど、ふざけてるわけじゃないんだよね? 」
ぽつりと、そんな言葉が聞こえた。
「どうして、そんな無意味なことを……」
「いや、アンタならやりかねないからさ」
そう言って、ハルちゃんは私の顔をじっと見つめる。
その目には、疑うような色があった。
だけど、それだけではなかった。
「本当に、あたしのことも覚えてないんだよね」
黙って頷くと、彼女は視線を逸らした。
「──なんで、また……」
その言葉が、妙に寂しく聞こえた。
そんな彼女の姿を見ていると、言葉にできない罪悪感が込み上げてくる。
何を言えばいいのだろうか、そんなことを考えていた私に、彼女はたき火で焼いていた肉をパンで挟んで渡してきた。
口元に持っていくと、食欲を刺激する香ばしい匂いが鼻腔をくすぐり、反射的にかぶりつく。
野菜が欲しくないといえば嘘になるが、これだけでも充分過ぎる。
「これって何のお肉なの? 美味しいね」
「確か鹿だったかな? 前に狩りした群れの子だよー」
「……狩り?」
聞き流しかけた言葉に引っかかった。
「ハルちゃんは、狩りとかするの?」
「え? 」
今度は、彼女が困惑したような声を漏らした。
「アンタ、いつからいつまでの記憶がないの?」
「いつからって言われても……」
少し考えるが何も思い出せない。
自分の名前も、年齢も、誕生日も、家族のことも、何もかもが分からなかった。
唸りながら考え込んでいると、気付かない内にかなり考え込んでいたようで、「もういいよ」というハルちゃんの諦めたような声で現実に戻ってくる。
「じゃあさ、あたしのこととか、今の状況についてはどう思う? 」
「ハルちゃんのことと、今の状況……ですか? 」
彼女はサンドイッチを咥えながら頷いた。
(そんなこと言われてもなぁ……)
改めてハルちゃんのことを眺めながら、周りの景色にも目をやる。
そこで、一つの可能性が思い浮かんだ。
「もしかして、私たちって、実は遭難してたり、サバイバル中だったりしますか? けっこう緊急事態な感じだったり? 」
一瞬、呆けたような表情をしたが、ハルちゃんは納得したように膝を打った。
「そういうことね」
「え、何が?」
理解が追いついていない私を横目で見ながら、彼女は勢いよく立ち上がった。
そして、私にサンダルを履くように言うと、手を差し伸べてきた。
「ついてきて。凄いもの見せてあげる」
私がその手を取ると、彼女は力強く握って私を引っ張り、そのまま走り出した。
気がつくと周囲の景色が徐々に明るくなってきていた。
どうやら私が目覚めたのは早朝だったらしい。
陽が昇れば暖かくなるかと思ったが、逆だった。朝露のせいか、肌寒さが一層強く感じられる。
まだ薄暗い中、私はハルちゃんに引っ張られて山の中を駆けていた。
「ちょ、ちょっと待ってよ。このサンダルぶかぶかすぎない? そんなに早く走れないよ」
「あんたがそのサンダルを選んだんでしょ!」
そう言って、こちらを振り返りもせず、ぐいぐいと私を引っ張るハルちゃん。
記憶を失う前の自分を呪いながら、転ばないように、サンダルが脱げないように、必死で彼女についていく。
「もうそろそろ見えるかな」
どれほどの距離を走っただろうか。
ハルちゃんが突然立ち止まった。
引っ張られていた私は勢いが止まらず、前のめりに倒れそうになったが、彼女に支えられてなんとか耐えた。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
そう言うと彼女は手を離し、奥の方を指さした。
「もう少し奥に行ったら見えると思うよ」
そう言って、先に進む彼女。追いつこうと、小走りで後を追う。
獣道を通っていると思っていたが、進むにつれて人工的な道であることが分かった。
足元の砂利が周囲のものと異なり、朽ちてはいるが木製の柵のようなものもちらほら見えた。
やがて、コンクリート打ち放しの建造物が目の前に現れた。
展望台か何かだろうか。横の錆びた階段から屋上に上がれそうだ。
ハルちゃんはすでに屋上にいたので、私も急いで階段に足をかけた。
途端に、ガタンと大きな音を立てて、階段の床が抜けた。
まだ一段目だったからよかったものの、もっと高いところだったらと思うと、顔が青ざめた。
「大丈夫ー? その階段、かなり錆びてるから、走ったら床が抜けて死ぬよ?」
頭上からそんな声が聞こえてきた。
先に言いなさいよ。
おそるおそる一段ずつ慎重に足をかけ、展望台の屋上にたどり着くまでかなり時間がかかった。
「遅かったね」
「生きるか死ぬかの状況だったんだから、これくらい時間かけても許してよ」
「裏側にコンクリートの丈夫な階段があったよ。あたしはそっちを使った」
「先に言って!? 」
一瞬、本当に殴ってやろうかと思ったが、けらけらと笑う彼女の顔を見ると、怒るに怒れなかった。
ハルちゃんはすっと私の背後に回り、両手で私の目を覆って目隠しをした。
「な、なに!? 」
「いーから、いーから」
そう言うと、彼女は後ろから私を押してどこかへ移動させた。
数歩進んだところで立ち止まり、私の肩に顔を乗せて耳元で囁く。
「あんたさ、学校について記憶はある?」
「うーん、通ってたような気はするけど、どこのどんな学校に通ってたかは思い出せないな」
「……そっか。ならさ、今日、学校はあると思う?」
「え、何それ? どういう意味?」
「いーから答えて」
彼女に促されて、少し考える。
質問の意図は分からないが、現状、私たちは学校に行けない状態だということは何となく分かる。
つまり、他の人たち、世間一般の日常を送っている人たちについての質問だろうか。
なら、答えは──
「普通にあるんじゃないの? 土日や休日とかじゃなければ」
「なるほどね……」
弱々しい声が返ってきた。
何か間違ったことを言ってしまったのだろうか。
私が焦っているのを彼女が知ってか知らずか、目隠しが解かれ、眩しい光が目に入ってきた。
おそるおそる目を開ける。
そして、私は見た。
「…………え?」
言葉を失った。
眼前に広がるのは、荒廃した世界だった。
倒れた高層ビル。朽ち果てた車。崩れた家屋。
遠くで風が唸り、崩れたコンクリートの埃っぽい匂いが漂う。
人類の栄華は消え失せ、殺風景な光景がどこまでも続いている。
大勢の人々が生活していたであろう街に、文明の輝きは感じられない。
色鮮やかだったはずの世界は、無彩色に塗りつぶされていた。
「……なに、これ? 」
これは、まるで──
そうだ。かつて似た光景を見たことがある。
実際に見たわけではない、ただ知っていた。
遠い世界の、遠い過去の話だと、そう思っていた。
──戦争、という単語が脳裏をよぎった。
「やっぱり、そうなんだね」
ハルちゃんは納得したように呟いた。
私の前に進み出て、荒廃した世界を背景に語りだす。
「君は5年前に起こった事件と、その後に起こった戦争を覚えてないんだね」
「戦争が、あったの? 」
ハルちゃんは自嘲するかのように笑い、背後に視線を向けた。
「あれは戦争とは呼べないものだったよ。他国の大義名分のためにそう呼ばれているだけ。何もできない無抵抗な人々の平穏を終わらせたあの戦争は、──虐殺と言った方が正しいかもね」
何も言えずにいる私を見て、彼女は何を思ったのだろうか。無理に笑顔を浮かべて両手を広げる。
「さっきは意地悪なことを聞いちゃったね、──この国はね、とっくの前に滅んでいるんだ」
目の前の少女は、細い声でそう続けた。
「……原因は?」
「話すと長くなるから、また後で教えるけどね、簡単に言うと他の国のために犠牲にさせられたんだよ」
何が何だか分からなかった。
混乱する頭を落ち着かせようと、一度目を閉じた。
すると、誰かの声が聞こえた気がした。
言い聞かせるような声だった。優しくも厳しく、そして温かな声だった。
──君が導くんだ。君の大切な人を守るために。だから、……すまない。後は任せた、と。
記憶に無い声だった。
だけど不思議と使命感が湧いてきた。
「私は、何を忘れているんだ……」
「しょうがないよ、変に気負う必要はないと思う」
ぽつりと呟いた言葉を、ハルちゃんに聞こえていたらしい。
だけど、私の意図した言葉とは別の意味で捉えてしまったようだ。
彼女はそれに気付かずに話を続ける。
「なんか、思い出がごっそり無くなった感じがするでしょ? あたしはてっきりそういうエピソード記憶に欠陥があるのかと思ってたんだけどね」
エピソード記憶についての知識は残っていた。
要は今の私のように、"知識" はあるが、思い出が無い。こういったのを、エピソード記憶の喪失というらしい。
皮肉が利き過ぎて、思わず笑ってしまう。
自分だけが何も知らないであろうこの状況に、逃げ去りたい衝動に駆られる。
目的も行く当ても無い。ただ、襲いかかる途方もない無力感を忘れる、何かが必要だった。
思わず顔を下げた私に、ハルちゃんはゆっくりと近づき、大丈夫だよと声をかけてくれる。
「記憶はね、きっと取り戻せる」
優しい声に釣られて、顔を上げた。
慈愛に満ちた表情で、彼女は続ける。
「世の中には、たくさんの記憶を失った人たちの物語があるけれど、大抵は記憶を取り戻してハッピーエンドを迎える。だから、あんたも──いや、ヒナタも大丈夫」
力強く言い、私の手に触れた。
向かい合って、彼女の右手が私の左手を持ち上げる。胸の高さにまでくると、器用に指を絡めて握りしめた。
優しく微笑む彼女の表情は、どこか寂しさを孕んでいた。
「実は、ヒナタの記憶喪失の原因には心当たりがあるし、エピソード記憶の方についてもできることがあるかも知れない」
「え、そうなの?」
「うん、私はね、頭が良いからね」
「えぇ〜 本当に頭が良い人が自分で言うかな? 」
「……事実だからね。私が頭が良いことは、絶対に忘れないでね」
逆の手に触れ、同じように指を絡めるハルちゃん。今度は手を持ち上げず、腰辺りの高さで握り合う。
「エピソード記憶はね、忘れてしまった記憶に関する物事を追体験することで、記憶を取り戻したという事例があるの」
そう言って、不意に手を引かれた。
身体がバランスを崩し、彼女の方へと倒れかける。
「───!」
引き寄せられた私の唇に、ハルちゃんの唇が触れた。
事故かと思い、慌てて離れようとしたが、握りしめた彼女の手がそれを許さない。
ただ唇を重ねる、静かなキス。
少し乾いた唇の感触に一瞬たじろいだが、すぐにその奥の柔らかさに引き込まれた。
喉の奥から静かに熱を感じ、艶めかしい吐息が漏れた。
どれくらいの時間、唇を重ねていただろうか、顔の火照りが限界近くになったタイミングで、私の唇は解放された。
閉じられていた瞳と目が合う。
妖しくゆらめく瞳に、意識が吸い込まれそうになる。
「──あたしにとって、ひーはね、特別な存在だったの……」
「……そ、それは、どういう意味で? 」
「分からないの? 」
そう言うと、私の唇に人差し指を押しつけた。
刹那的に、唇に残った感触が思い返される。
「ドキドキした? 」
「ま、まぁ、そりゃ……」
「あたしもしたよ」
彼女は快活にそう言うと、踊るように私の背中側に回り、抱きついてきた。
そして、再び肩に顎を乗せて、耳元で囁く。
「好きな人との思い出。追体験したら思い出してくれるかなー、って」
「──────」
今、自分自身がどんな顔をしているのか、考えたくなかった。
□■□
「ヒナタとあたしはね、この1年、旅をしていたの」
山を降りながら、ハルちゃんは語った。
「だからさ、その旅路を辿っていったら何か思い出せたりしないかなって」
「なるほどね」
悪くないと思った。
はたから見ても合理的で、可能性のある選択だと思う。
彼女はその場で私の方に振り向くと、手を差し出した。
「改めてになるけど、よろしくねヒナタ」
「うん、こちらこそよろしくねハルちゃん」
その手を握り返し、また歩みを進める。
正直、戸惑いの感情が強い。
記憶喪失の件もそうだが、彼女が私に向けてくれている感情についてもだ。
悪い人ではないことは分かる。キスをされてドキドキもした。
これが恋愛感情だと考える人もいるだろうが、私にはできない。
少なくとも、彼女が私に向けてくれている感情とは不相応な感情だと思う。
けど、それに応えられる努力はしてもいい。
その程度は思っていた。
私と彼女の旅路。その復路。
この旅の果てに私は、記憶を取り戻せるのだろうか。
彼女の気持ちに応えられるのだろうか。
今は何も分からない。
ただ、これから始まる旅に、不安ばかり抱いていても仕方がない。
気持ちを切り替えて、彼女の横顔を見た。
その瞳の奥の感情の名前を、私はまだ知らない。




