第五
主力戦列同士の砲撃は、すでに極限へ達していた。
距離――二万六千メートル。
海面には無数の水柱が立ち、砲煙が低く流れている。
その中で、日本海軍主力戦艦群はなお整然とした戦列を維持していた。
大破した 陸奥 を除き、主力はほぼ健在だった。
播磨艦橋。
栗田健男中将は双眼鏡を握りしめていた。
視界の先。
煙と炎の中に、アメリカ戦列が見える。
だが、その動きは明らかに鈍っていた。
副官が報告する。
「敵先頭艦、炎上継続!」
栗田は低く言った。
「沈むな」
砲術長が叫ぶ。
「距離二万六千!」
「弾着良好!」
栗田は短く命じた。
「播磨、越後」
「同一目標」
「撃て」
次の瞬間――海が再び裂けた。
四十六cm砲斉射。
合計十八門。
一・五トンの砲弾が空を裂いて飛ぶ。
その弾道は、ほぼ同一線上に収束していた。
狙うは一隻。
炎上するサウスダコタ級戦艦。
砲弾は弧を描き、
そして――落ちた。
一発。
艦首に命中。
巨大な爆発。
二発。
中央部。
装甲を貫いた砲弾が内部で炸裂。
黒煙が噴き上がる。
後部砲塔基部。
次の瞬間。
異変が起きた。
艦体中央が膨れ上がる。
一瞬の静寂。
そして――大爆発。
轟音が海を揺らす。
巨大な火炎柱が空へ吹き上がる。
観測員が叫んだ。
「弾薬庫誘爆!」
戦艦の中央が吹き飛ぶ。
艦体が真っ二つに割れるように崩れた。
爆風が周囲の海を押し広げる。
巨大な水の壁が立ち上がった。
その戦艦は数分も持たなかった。
ゆっくりと、しかし確実に沈んでいく。
アメリカ戦列に――再び空白が生まれた。
播磨艦橋。
副官が息を呑む。
「……沈みます」
栗田は静かに言った。
「確認しろ」
観測員が叫ぶ。
「敵戦艦、沈没!」
その瞬間。
艦橋にわずかな歓声が上がった。
だが栗田は表情を変えなかった。
「次だ」
その一言だけだった。
だが戦局は確実に動いていた。
サウスダコタ級。
その一隻が完全に失われた。
さらに他の艦も損傷を受けている。
その後方、大和。
砲術長が叫ぶ。
「目標、第二戦艦!」
山本の旗艦は冷静に砲撃を続けていた。
四十三cm砲が火を吹く。
その砲弾がノースカロライナ級へ落ちる。
命中。
爆炎。
さらに武蔵、信濃、紀伊。
四隻の砲撃が連続して命中弾を叩き込む。
アメリカ戦列は明らかに崩れ始めていた。
その頃。
アメリカ艦隊司令部。
提督の顔は険しかった。
参謀が叫ぶ。
「サウスダコタ級一隻喪失!」
「他艦も損傷多数!」
提督は歯を食いしばる。
「距離は?」
「二万五千!」
提督は即座に判断した。
「……まだ遠い」
そして叫んだ。
「前進を維持しろ!」
「距離を詰める!」
それは覚悟だった。
遠距離では勝てない。
ならば――接近戦。
巨大戦艦同士の、真正面からの殴り合い。
その決断が下された。
その頃。
連合艦隊旗艦大和。
参謀が報告する。
「敵戦列、接近を継続!」
山本はゆっくりと頷いた。
「来るか」
そして静かに言った。
「いいだろう」
その目は鋭かった。
「受けて立つ」
巨大戦艦同士の砲撃戦は、ついに次の段階へ進もうとしていた。
サウスダコタ級一隻が轟沈し、アメリカ戦列には大きな空白が生まれている。
だが――
戦いは終わらなかった。
その空白の後方。
黒煙の向こうから、新たな艦影が現れる。
低いシルエット。
重厚な艦体。
速度は遅い。
だが確実に前進してくる。
アメリカ旧式戦艦群。
七隻。
その艦橋で、老提督が静かに前を見ていた。
参謀が叫ぶ。
「前方、敵主力戦艦群!」
提督は短く言った。
「分かっている」
そして命じる。
「全速前進」
副官が息を呑む。
「敵は十八インチ級戦艦を含みます!」
提督は振り返らなかった。
「だからどうした」
低く、だが強い声だった。
「戦艦は逃げるためにあるのではない」
その一言で、すべてが決まった。
「突撃する」
その命令は全艦へ伝えられた。
旧式戦艦七隻。
その速度は二十ノット前後。
だが進路は変わらない。
真正面から、日本主力戦艦隊へ向かっていく。
距離――二万五千メートル。
連合艦隊旗艦 大和。
参謀が叫ぶ。
「敵旧式戦艦群、突入!」
山本五十六は静かにそれを見ていた。
そして一言だけ言った。
「……来たか」
参謀が問う。
「迎撃しますか」
山本は即答した。
「当然だ」
そして命じる。
「主力戦艦、全目標変更」
「旧式戦艦群を迎撃」
命令は即座に伝わる。
十一隻の戦艦が、一斉に砲塔を旋回させた。
その砲口が――突撃してくる七隻へ向けられる。
播磨艦橋。
栗田健男が低く言った。
「正面から来るか」
副官が言う。
「距離、二万四千!」
栗田は静かに頷いた。
「ならば」
その目が鋭くなる。
「沈めるだけだ」
「撃て」
その瞬間。
日本主力戦艦十一隻の一斉射。
轟音。
衝撃波。
海が震えた。
巨大砲弾の雨が旧式戦艦群へ降り注ぐ。
だが――アメリカ戦艦は止まらない。
砲弾が落ちる。
巨大水柱。
爆発。
一隻の艦首が吹き飛ぶ。
別の艦の甲板が炎に包まれる。
それでも進む。
提督が叫ぶ。
「撃て!」
旧式戦艦七隻。
その主砲が一斉に火を吹いた。
旧式とはいえ、数は揃っている。
砲弾が日本戦列へ向かう。
距離――二万メートル。
ここからは違う。
命中率が跳ね上がる。
次の瞬間。
一発の砲弾が三河の中央部に命中。
爆発。
火炎。
続いてもう一発。
艦橋付近に直撃。
黒煙が上がる。
さらに。
尾張。
水線近くに命中。
浸水が始まる。
そして――決定的な一撃。
複数の砲弾が集中した。
三河。
中央部。
弾薬庫付近。
次の瞬間。
巨大爆発。
艦体が内側から裂ける。
炎が吹き上がる。
観測員が叫ぶ。
「三河、被弾多数!」
だがその直後。
「……爆発!」
三河の艦体が折れるように沈み始めた。
日本戦艦。
初の撃沈。
播磨艦橋。
副官が声を失う。
「……三河沈没」
栗田は目を細めた。
「……見事だ」
敵を称えた。
だが戦いは終わらない。
距離はさらに縮む。
一万八千メートル。
この距離では、もはや回避は意味を持たない。
撃てば当たる。
当たれば壊れる。
大和の主砲が火を吹く。
四十六cm砲弾が直撃。
旧式戦艦の一隻が大きく傾く。
武蔵の砲撃。
さらに一隻に命中。
爆炎。
炎上。
だがアメリカ艦隊も撃ち続ける。
その執念は凄まじかった。
長門、艦橋付近に命中、大破。
薩摩、砲塔損傷。
大隈、火災発生。
戦列は維持している。
だが損害は増えていく。
そしてついに――距離一万五千メートル。
完全な近距離戦。
砲弾はほぼ必中。
その中で、アメリカ旧式戦艦の一隻が沈み始めた。
次の一隻も炎上。
だがその代償は大きい。
日本戦艦もまた、大破、中破が相次いでいた。
戦場はもはや統制を失いかけていた。
その時。
大和艦橋。
参謀が叫ぶ。
「敵旧式戦艦、壊滅寸前!」
「しかし我が方も損害増大!」
山本五十六は静かに目を閉じた。
そして開く。
決断の時だった。
「……よし」
ゆっくりと口を開く。
「戦闘終了」
参謀が息を呑む。
山本は続けた。
「これ以上は消耗戦だ」
「艦隊を保て」
その命令は全艦へ伝えられた。
戦闘停止。
巨大戦艦群がゆっくりと砲撃を止める。
そこには、沈みゆく艦・燃え続ける艦、煙を上げて離脱する艦。
無数の戦艦が残されていた。
史上最大の戦艦決戦は――ここで終わった。
つい先ほどまで、世界最大の砲撃戦が繰り広げられていた海は、嘘のように静まり返りつつあった。
砲声は止み、空を覆っていた黒煙だけが、ゆっくりと風に流れていく。
海面には、まだ戦いの痕跡が残っていた。
炎を上げる艦。
横倒しになりかけた艦。
沈みゆく艦影。
日本戦艦 三河 の艦尾が、ゆっくりと海中へ消えていく。
その周囲には、油と破片が広がっていた。
遠くでは、アメリカ旧式戦艦の一隻が同じように沈みつつあった。
巨大な鋼鉄の塊が、静かに海へ還っていく。
だが、砲撃はもうない。
すべては終わったのだ。
連合艦隊旗艦 大和 の艦橋。
山本五十六は、沈みゆく戦場を見つめていた。
参謀が静かに報告する。
「各艦、戦闘停止を確認」
「損害報告、集約中」
山本は何も言わず、ただ頷いた。
その表情に、勝利の高揚はなかった。
あるのは――計算と、重みだった。
しばらくして、彼はゆっくり口を開いた。
「……艦隊反転」
参謀が顔を上げる。
「反転、ですか」
山本は頷いた。
「これ以上の戦闘は不要だ」
「戦力を保つ」
それがすべてだった。
信号が送られる。
連合艦隊の各戦艦が、ゆっくりと舵を切り始めた。
そして大破した陸奥もまた、速度を落としながら隊列の後方で反転する。
損傷した艦体から煙が上がる。
だが沈まない。
それぞれが、生き残っていた。
播磨艦橋。
栗田健男中将は、戦場を振り返った。
かつて敵だった艦影。
今はただ、煙の中にぼんやりと浮かんでいる。
副官が言った。
「追撃は……」
栗田は首を振った。
「不要だ」
短い言葉だった。
だが、その意味は明確だった。
「これ以上撃てば、こちらも沈む」
静かな現実だった。
副官は黙って頷いた。
栗田は最後にもう一度、海を見た。
そして小さく呟いた。
「よく戦った」
それは敵にも、味方にも向けた言葉だった。
その頃。
アメリカ艦隊。
損傷した戦艦群が、ゆっくりと進路を変えていた。
アイオワ。
上部構造物は焼け焦げ、主砲は沈黙している。
ミズーリ。
煙突から黒煙を吐きながら、低速で航行。
ニュージャージー。
ウィスコンシン。
損傷を抱えながらも、戦列を維持していた。
そして後方には、旧式戦艦の残存艦。
その数は減っていた。
提督は艦橋で静かに立っていた。
参謀が言う。
「敵艦隊、反転を確認」
提督はゆっくりと頷いた。
「……こちらもだ」
誰も反対しなかった。
追撃する力は、もうどちらにも残っていなかった。
命令が下る。
「艦隊、離脱」
アメリカ戦艦群もまた、静かに進路を変える。
互いに背を向ける。
かつては敵として撃ち合った艦同士が、今はただ、距離を取るだけの存在となった。
海の上に残るのは、煙と炎と、沈黙。
史上最大の戦艦決戦は、勝敗を明確に決めることなく終わった。
だが。誰もが理解していた。
これは引き分けではない。
限界だった。
それぞれが持てるすべてを出し尽くし、
それ以上は失うだけだった。
山本五十六は静かに海図を見つめていた。
そして小さく言った。
「これでいい」
参謀が問い返すことはなかった。
その言葉の意味を、誰もが理解していたからだ。
戦艦の時代が生んだ、最大の戦い。
その結末は――静かな退却。
そして海は再び、何もなかったかのように、ただ広がっていた。




