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第1話

太陽はもう姿を隠したのに未練がましく地平線を茜色に染めようとしてる。それを夜の気配を含む濃紺の空が押さえ込んでいた。

見慣れた空をわざわざこんな風に小説めいた表現をするのは俺が望んでいるからだ。この思考が俺を救ってくれる物語の、小説の一行目になってくれと。

けれど、これもきっと没になるんだろう。

何百回とこんなことを考えたが1度たりとも俺を救ってくれる誰かが現れもしなければ、世界が滅んだりして俺の物語が大きく変わることもなかった。

あったのは救われたいと願いながらただ酒を飲んでは寝るだけのどうしようもない日々だけだった。今日もきっとその繰り返しだ。

俺は今日もウイスキーの瓶片手に海へと向かう。寝起きの体には重く感じるこの瓶は現実に俺を引き止める重りのようでより一層煩わしい。

蓋を開けてそのままラッパ飲みで胃に流し込んでいく。

喉が焼けるように熱く起きてから何も入れてない胃はキリキリと痛んで顔を顰める。

そうしながらゆたゆた歩く内に気がつけばもう堤防まで来ていた。

太陽と、夜の気配を含んだ空の勝負はもう終わっていて、どちらが勝ったかは言うまでもない。

階段を登り堤防の上をまた酒を飲みながらのそのそ歩く。

すぐ先すら見通せなくなった夜の海を眺めながら堤防を歩く内に、俺を現実に留めようとする重りは軽くなっていてその分だけ意識は浮上してくる。

ウイスキーをまた1口呷りながら視線を前の方に戻すと、目の前に白いセーラー服と膝上まである紺のスカートを着た少女がいた。

思わず体がびくりと跳ねる。

露骨に驚いてしまったと恥ずかしく思っていると海の方を向く少女は上半身を捻りこちらを向く。

黒の髪がなびき目が合う。かわいらしく優しい顔をしていた。色白の肌が薄暗い中で白のセーラー服と一緒に浮いている。

ウイスキーの瓶を片手にこんなところを歩いているのと、先ほど露骨に驚いた恥ずかしさや気まずさもあってすぐに目を逸らすのと同時に少女が微笑んで言う。

「私、先生のファンなんです」

逸らした目を下に向けたまま目を見開いてしまう。なんとか動揺を抑えようとするが出来てるか分からない。

先生

そう呼ばれるのはいつぶりだろうか。

数年前まで長く俺の本を担当してくれていた編集の望月さんに呼ばれて以来か。

酒で回らない頭はそんな無駄なことを考えてからやっと動きだしたように次々と疑問が湧き出る。

なぜ俺が小説家だと知ってる?俺は顔を出したりはしていないのに。

なぜ俺がここにいるのがわかった?友人はおらず、仕事の連絡だってないのに。

色々と聞きたいこともあるがなんとか口を動かし平静を装う。

「その歳で俺の作品のファンなんて珍しいな」

そう、俺の作品のほとんどが問題を抱えた男を少女が救うようなそんな話ばかりだ。過去への後悔や問題を抱える人間が自らを慰めるためのような作品。

まだこれからに希望を持てる歳の人間が読むのは稀なように思う。

少女は微笑んで

「先生の、ファンなんです」

わざとらしく区切って言う。反射的に聞いてしまう。

「俺の?」

「はい。先生の、あなた自身のファンです」

意味がわからなかった。作品のファンではなくこんなくたびれた男のファンとはどういうことだろうか。

「いや…まずどうして俺が小説家だと…それに…」

頭の中に溢れる疑問がまとまらずに言葉になっていくが言い切る前に

「細かいことは内緒です。物語は謎が多い方が楽しいですから」

意味の分からない、答えになってない答えだった。

しかし、あまりにもピンポイントに俺の核心を突くような言葉だった。

「……そう…だな」

問い質すべきだった。なぜ俺の居場所を知ってるのか、なぜ俺の顔を知っているのか、など知らなくては俺に不都合が起こり得ることが多すぎる。

けれど、俺は狂おしいまでに物語を求めていた。何年も、ずっと。

だから彼女が物語のためだと言うのなら溢れんばかりの疑問は何も聞かないことにした。

「隣、よろしいですか?」

「ああ…」

少女が俺の隣に立つ。並んで立っているだけなのは気まずく歩を進めた。

少女も俺の歩調に合わせ隣を歩く。

一度暗くなり始めたら早いことで、もうすっかり俺達は濃紺の気配に包まれていて正面を向く彼女の表情はうかがい知れない。

「何も聞かないんですか?」

彼女が言う。

「君が内緒だと言ったんだろう」

彼女はくすりと笑ってから

「はい。けど本当になにも聞いてこないとは思わなかったので」

それはそうだ。普通ならあんなことを言われたからといって、はいそうですかとはならない。

けれど、俺は普通ではなかった。普通は納得しないような理由に納得してしまうような、普通ではない考えを抱いていた。それだけだ。

だが、俺にとって何より大事なこと。これだけは聞きたいことがあった。

「それなら一つ聞いていいか」

「はい」

彼女がはいと言ったのを聞いてから少し間をおいて言う。

「この物語はどんな物語なんだ?」

彼女は言った。謎が多いほうが物語は面白いと。なら彼女は考えてるのだ、今、この瞬間を物語だと。

彼女は少しの沈黙のあと、こちらを向く。顔を向けられるとこの暗さでも顔が見える。こちらを見てるようで見ていない、どこか遠くを見ているようだった。彼女はゆっくりと確認するみたいに言った。

「救いの、物語でしょうか」


ああ…俺の何百回目かもわからない今日のあの語り出しは、没にならないかもしれない。


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