第一部:封印されし英雄
第一章:死罪城の亡霊
死罪城と呼ばれるその場所に、夜は存在しない。
地の底よりも深く掘られた獄舎には窓がなく、天の光も月影も届かない。
かわりに、四六時中、蝋燭と油火の明かりが揺れている。
赤く、低く、まるで生き物の目玉のように。
照らされる壁は石と血にまみれ、鉄の格子は人の指の骨で削られている。
囚人たちの呻きは風のように続き、床には染みついた吐瀉と尿の臭いが這い回る。
ここは、生者が死を待つ牢ではない。
ここは、すでに死んだ者が、生きてしまっている場所だ。
俺の名はアルヴィン・フォルテナ。
かつて、帝国の英雄と呼ばれた男。
今は、ここで腐った布に身を包み、干からびた麦粥とネズミの糞の味を見分けながら生き延びている。
死ぬには惜しい。だが、生きるにはもう充分過ぎた。
十五年前に死んだ者が、今さら何を背負えるというのか。
「おう、“英雄閣下”。今日の朝飯は当たりだぞ。芋の皮が三枚も入ってやがる」
向かいの牢から、がらがら声が飛んできた。
ヴァリオという男だ。死罪囚で、元は街道の強盗団の頭だったという。
鼻が潰れているのは、かつて自分の子分を斧で殴り殺された復讐の結果らしい。
「ありがたく食えよ。俺の分はくれてやる。どうせ、今日は胃の調子が悪い」
「お前の胃は最初から腐ってるだろ」
そう返しても、ヴァリオはにやにやと笑う。
それがここの日常だ。
誰もが生きていて、誰もが死んでいる。
俺のように、“過去を殺しきれない者たち”だけが、こうして呼吸をしている。
死罪城に収監される者のほとんどは、すでに死んだも同然だ。
処刑が執行されるのは月に一度。各地から運び込まれた貴族の反逆者、軍の規律違反者、政治犯、そして俺のような“かつて役立った者”が順番に消えていく。
だが中には、俺のように“例外”として長くここに幽閉される者もいる。
理由は簡単だ。殺すには惜しいが、生かすには邪魔だ。
口を塞ぎ、名を奪い、誰にも知られずに処理する。それが帝国のやり方だった。
だから、俺は死ねない。
望んでも、まだ死なせてもらえない。
鉄格子越しにヴァリオが声をかけてくる。
「おい、英雄。今日の看守、あの女だったぜ」
その一言で、俺は軽く眉を動かす。
「またか」
「お前のこと、未練でもあるんじゃねぇの? なあ、フォルテナ閣下。あれか、かつての部下とか?」
余計な詮索には答えない。
答えたところで、真実には届かないだろうし、届いてもヴァリオのような男には意味がない。
だが、確かに今日の“交代”があの女――グレタ・ラインベルグであるなら、少しは意味のある日になるかもしれなかった。
♦♦♦
夕刻、食事の片づけが終わった頃、鉄格子の前に重たい足音が響く。
灯りが近づき、やがて俺の檻の前に立ったのは、長身の女騎士だった。
銀髪を後ろで一つに束ね、磨かれた鎧ではなく、鉄と革の簡素な制服を身に着けている。
視線を合わせることなく、無言のまま鍵を取り出す。
「起きているな、フォルテナ」
俺はベッドの藁の上から体を起こした。
「お前が来るとは、珍しい」
「偶然だ」
「偶然にしては、三回連続だな。偶然が続けば、それはもう“計画”だ」
グレタはわずかに視線をずらしたが、言葉は返さない。
無言のまま檻の扉を開け、足元に紙を置いた。
一見、ただの古びた紙片。だが、蝋封がされている。
その印章には、確かに見覚えがあった。
――皇女、アメリア・ルシエナ・マルディナスのものだ。
「……これは?」
「知らない。私は届けに来ただけだ。中身は見るなと命じられている」
グレタは短く告げると、再び無言で扉を閉め、施錠し直す。
足音を残して去っていく彼女の背に、俺は問いかけた。
「まだ、俺を信じているのか?」
一瞬だけ、足が止まった。
だがグレタは振り返らず、ただ短く答えた。
「信じてなどいない。ただ――見限っていないだけだ」
蝋封を剥がし、紙を開いた。
文字は細く、だが乱れていなかった。
皇女アメリアの筆跡は、昔と変わらない。几帳面で、冷たく美しい。
アルヴィンへ。
帝国は、再びあなたを必要としている。
それが私の意思かどうかは、ここには記さない。
だが、敵は目前に迫っている。
あなたがこのまま朽ち果てるなら、それも選択だろう。
だが、もし――
「まだ、剣を抜ける」と思うなら。
近く、“扉”を開く者が行くだろう。
その者の声に、耳を傾けてほしい。
アメリア・ルシエナ・マルディナス
俺は手紙を燃やすことなく、ゆっくりと折り畳んで布の下に隠した。
言葉の意味は、すぐに理解できた。
アメリアは、俺を戦場に戻す気だ。
十五年前、皇帝の命に背いた俺を、“また利用する”つもりなのだ。
正義のため?
帝国のため?
それとも――あの日、何もかもを見捨てた俺への罰か。
何にせよ、アメリアらしい言い回しだった。
選択肢を与えたように見せて、実際は“逃げ道を封じる”言葉だ。
「……扉、か」
どの扉を開けるのか。
死罪城の扉か、それとも……俺自身の、心の奥底にある“呪い”の扉か。
♦♦♦
夜が明けても、ここに夜明けは来ない。
だが、外界では“ある出来事”が起きていたらしい。
地下の騒がしさ、看守たちの怒号、鎖の音が普段より早い。
ヴァリオがぼそりと呟いた。
「……また処刑日か。早いな。今月、もう二度目だぞ?」
「処刑対象が増えたんだろう。反乱が起きたか、誰かの粛清かだ」
囚人たちはそれ以上何も言わない。
言葉にすれば、次に自分が吊るされる気がしているのだ。
死罪城では“話題”すら慎重にしなければ、命が縮まる。
♦♦♦
三日後。
看守の交代時刻に、再び“あの女”が現れた。
グレタ・ラインベルグ。
かつて、俺の副官であり、帝国軍の最精鋭部隊《黒竜騎士団》の一人だった女。
「アルヴィン」
「また来たのか。偶然が過ぎるな」
「命令だ。上からの」
「“上”というのは、皇女殿下か?」
「……それ以上は言えない」
グレタは、錠前に手をかけたまま立ち止まった。
「扉を開ける」
「ようやく、か」
「選ぶのはお前だ。開けた先に何があるか、私は知らない」
グレタは鍵を回し、重たい音と共に扉が開いた。
外の空気が、俺の顔に触れた瞬間、思わず咳き込む。
血の臭いがしない。
それだけで、この獄舎と外界の違いが分かる。
俺は立ち上がり、足を踏み出す。
ゆっくりと。まだ、剣を持たない足取りで。
俺は階段を登る。
地底から地上へ、ただそれだけの移動だというのに、足元の石は妙に滑る。
感覚が死んでいる。筋肉が硬直し、血がうまく巡らない。
十五年分の鎖が、足に絡みついているような感覚。
最後の扉が開いたとき、目に入ったのは――
空だった。
鈍く濁った灰色の空。帝都の空気は汚れている。
死罪城の塔の上から見える風景は、かつて俺が眺めていたものと、何一つ変わっていなかった。
変わらない。
あれほど多くの犠牲と、決断と、裏切りがあったというのに。
帝都は、未だに“あの頃のまま”を演じている。
「久しぶりね、アルヴィン」
その声に、背を向けたまま答える。
「皇女殿下。こんな場所まで直々にお越しとは……それほど、お急ぎですか?」
「急いでいるわ。あなたが死ぬ前に、話さなければならないことがあるから」
「皮肉だな。俺はもうとっくに死んだ。ここで腐った麦粥を食っている亡霊だ」
「でも――あなたの剣は、まだ錆びていない」
アメリア・ルシエナ・マルディナス。
現皇帝マルディナス四世の一人娘にして、“表向きは”政治に関与しない帝室の影の存在。
だが実際には、帝国西部の実権を握り、暗黙のうちに“次の王座”の最有力候補となっている。
銀の髪を巻き上げたその姿は、十五年前と変わらない。
いや、変わってしまったのは俺の方か。
彼女の瞳に宿る“痛み”が、俺の目には見えてしまう。
「あなたに頼みたいのは、ただ一つ。
もう一度、“戦って”ほしい」
「拒否する」
即答した。
一切の迷いなく。
アメリアの目がわずかに揺れる。
「答えを聞いてから話すのが、あなたの流儀だったかしら?」
「話すまでもない。あの戦で、俺は何を得た? 何を救えた? ……何を、殺した?」
吐き捨てるように言う。
アメリアが息を飲む音が、風の中に消えていく。
「俺の剣は、もう二度と抜かない。あれは……あの時に、折れた」
「それでも、今の帝国にはあなたが必要なの」
「帝国か。誰のために? マルディナス四世のために? あなたの野心のために?」
アメリアの目に、はっきりとした怒りが宿った。
「いいえ。……生き残った者たちのためよ。
あなたが守ろうとした人々の、“残骸”を私は見てきた。
誰も彼もが、あなたの不在に慣れて、諦めて、今も耐えてる。
それを黙って見ているだけのあなたが、本当に“死んだ”のなら……私はこんな手紙、書きはしない!」
しばしの沈黙。
俺はアメリアの目を見た。
あの日、帝国の命令を拒絶し、部下を死なせ、自分の意志を貫いた。
その結果が、十五年の幽閉と、仲間の粛清。
アメリアだけが、あの戦の“結末”を生き延びて、こうして俺の前に立っている。
「……お前は、俺を赦していないな」
「赦していない。けれど、必要としている」
アメリアはゆっくりと、一歩だけ近づく。
「このまま、誰にも知られず死ぬの? 何の意味も遺さず?」
俺は答えなかった。
いや――答えられなかった。
だが、ひとつだけ分かったことがある。
この女は、嘘をついていない。
かつて、帝国の未来にさえ絶望していたあの少女が、
今、俺の目の前で“最後の希望”を託そうとしている。
……その目を、裏切るのか。
♦♦♦
俺は結局、何も答えなかった。
アメリアの言葉に心を動かされたか?
それは確かだ。
だが、心を動かされただけで、十五年前に失ったものは戻らない。
決断というものは、常に“何かを殺す”行為だ。
そして俺は、すでに多くを殺しすぎた。
地上の空気をわずかに吸っただけで、俺の身体は熱を帯びていた。
まるで、再び戦場の血に呼ばれているようだった。
だが俺は、扉を戻る。
“生”のある場所ではなく、“死”の方へ。
それが、今の俺にできる唯一の選択だった。
♦♦♦
死罪城の地下に戻されたその日、ヴァリオが口を開いた。
「……なんか変だな」
「何がだ」
「さっき、看守がやたらと急いでた。“下の階層”の鍵を全部点検してた。あれは……普通じゃねえ」
「処刑か?」
「いや、逆だ。誰かが、逃げる気だ」
死罪城に収監される者で、“逃げる”ことを口にする者などいない。
ここは地底の牢だ。地上に出るには七つの封鎖扉を抜け、五人以上の看守を出し抜き、最後に門番の“巨鉄”を倒さねばならない。
つまり、脱獄は不可能。
だから、誰もそんなことは考えない。
だが、それでも――
“誰か”が、動いている。
♦♦♦
その夜、俺の部屋の隣――かつて処刑待ちの独房とされていた部屋から、低い呻き声が聞こえた。
ただの寝言か、それとも狂気の発作か。
最初は誰も気に留めなかった。
だが、それが二晩続き、三晩目には言葉になっていた。
「……燃える……灰になれ……血を……燃やせ……アルヴィン……アルヴィン……」
俺の名を呼ぶ声。
誰だ。何者だ?
俺の記憶にある限り、あの独房には誰もいないはずだった。
だが翌朝、グレタが顔を見せたとき、俺は問うた。
「隣の牢、誰か入れたのか?」
グレタはわずかに目を伏せる。
「……皇女殿下の命だ。名前は伏せられていた。特別収監者として、一時的に」
「“あれ”は、人間か?」
しばしの沈黙。
「……それを、確かめてほしいの」
♦♦♦
その夜、俺は再び声を聞いた。
今度は、明確な言葉だった。
「……アルヴィン・フォルテナ。裏切り者。英雄。……災厄」
声は、金属を削るような、濁った響きをしていた。
「十五年、お前の名を呪い続けた。お前が殺した者たちの声を、俺は覚えている。
だが、今。……俺はお前の剣を、求める」
俺は立ち上がる。
鉄格子の向こう、闇の中にうっすらと人影があった。
目だけが、蝋燭の火に照らされていた。
そして、その目は――
かつて俺が戦場で殺した男の“弟”のものと、同じだった。
♦♦♦
その声には、呪いと祈りの両方があった。
隣の独房に収監された“何者か”。
名も知らぬその囚人は、俺の過去を知っていた。
憎しみだけではない。“何か”を知っている眼だった。
それは、単なる復讐者の目ではなかった。
「……お前は、誰だ?」
俺が問うと、彼は笑ったような気がした。
「俺は、お前が殺した者の一人……ではない。
だが、あの戦で家族を焼かれ、帝に見捨てられた。
俺は、“あの日の罪”で生まれたものだ」
独房の中で、その囚人は座ったまま、呟くように言った。
「お前の剣が、俺たちを地獄に投げた。
だが、同時にお前の剣があったからこそ、“この世界の嘘”を見抜けた者もいる」
しばしの沈黙が流れる。
俺は、自分の心臓がわずかに高鳴っているのを感じた。
「……言いたいことは何だ?」
「――もう一度、戦え。お前が“何を斬るべきか”を知っているなら。
俺はお前の刃になってもいい。
復讐でも、赦しでもない。ただ、終わらせるために」
彼の声は静かだった。
だが、確かに“生きていた”。
死罪城で久しく聞かなかった音だった。
自分以外の誰かが、“戦う覚悟を持っている声”だった。
俺は無意識に、右の手のひらを見た。
指は細くなり、筋は浮き、皮膚は荒れていた。
だが――この手は、まだ“何かを握れる”。
かつて、剣を抜いたときの痛みを、俺は思い出す。
剣を抜くということは、誰かの命を奪うということだった。
だが今――もしかしたら、それは“誰かを守ること”でもあるのかもしれない。
♦♦♦
翌朝。
看守が食事を運んできたとき、俺は尋ねた。
「隣の囚人は、名を言ったか?」
看守は訝しげに眉をひそめた。
「……さあな。何を聞いても黙っている。ただ、収監前に皇女殿下がこう言ったらしい」
「これは、お前に贈る“剣”だ」と。
その言葉を聞いたとき、俺は少しだけ、笑った。
あの女は、やはり変わっていない。
俺の背を押すのではなく、“自分が引き金になる”のを知っている。
だからこそ、彼女は――信じられる。
♦♦♦
その夜、俺は灯りのない独房の中で、密かに呟いた。
「……剣を抜くのは、まだ早い。だが――鞘は、外しておくか」
誰もいない闇の中で、自分の声がわずかに響く。
隣の牢から、くぐもった声が返ってきた。
「それでいい。始まりは、そこからだ」
♦♦♦
こうして、“死んだはずの英雄”の心臓が、再び脈を打ち始めた。
帝国の底で、血と鉄にまみれた亡霊が、
もう一度、世界に問おうとしている。
――お前たちは、俺の剣を“本当に”欲しているのか?