③撤退か撃退か
「全軍撤退する」
「………何だって?」
思わずタイサが聞き返した。
シドリーの命令によって風の結界が解かれ、さらに周囲にいたオークやゴブリン達が、一斉に街の外へと向かって進み出す。
いつの間にか朝霧は晴れており、タイサやエコーの姿は彼らの視界にも入っているにもかかわらず、誰も手を出すどころか、近付くづくこともなかった。
「隊長………これは一体?」
「いや、俺にも分からない」
黒の剣が発する負の圧力で、彼女はタイサに近付けなかったが、魔王軍の動きが罠ではなく、純粋に撤退しているという結論に至る。
ついにタイサ達の前には魔王軍の司令官であるシドリー、唯一人となった。
「黒の魔剣を持つ人間よ」
朝の冷たい風に汚れたメイド服をなびかせ、彼女は静かに、しかし重く言葉を放つ。
「我々は、お前達人間がゲンテと呼ぶ街まで後退する。そこで本国に遣いを出し、指示を請う必要が出た事を伝えておく」
「本国………? 蛮族、いや魔物の国があるのか?」
タイサの問いに、シドリーは表情を作らず静かに、そして小さく頷いた。
彼女の話が続く。
「新たな指示を受けるまで………又はお前達が積極的に攻めてこない限り、我々はこれ以上進軍しない事を私の名において約束する。お前達の指導者にも、そう伝えるがいい」
「………待ってくれ、話が全く見えない。取り敢えず確認するが、戦いそのものが終わった訳ではないんだな?」
再びシドリーが頷く。
「ああ。お前達に対して正しい使い方かどうかは分からないが、あくまで一時休戦という形になる」
つまり、本国とやらの指示によっては再度侵攻する事もある。タイサはそう受け取った。
彼女が体を横に向ける。
「では、さらばだ人間。私が言うのも変だが、その剣は使えば使う程お前を蝕んでいく………まぁ、我々にとってはそちらの方が都合がいいのだが」
そう言い残したシドリーは踵を返し、大通りの傍で半壊した建物の屋根へと飛び移ると、遠くで待っていた獅子と共に、撤退した部隊を追いかけた。
タイサはメイド服が見えなくなるまで待ってから、ようやく体を自由に動かし始める。
震えている黒い剣を騎槍に戻し、留め具を付け直す。そして最後の留め具に手をかけてから柄から手を離し、歪んだ石畳に突き刺した。
そして忌まわしい武器を手から離し、最後に大きく息を吐き出した。
「隊長、大丈夫ですか?」
「ああ」
エコーの声にタイサの反応は淡白だった。黒い剣が納められた事で、周囲の空気は元の状態に戻っているが、彼女は隊長の変容に戸惑うしかできなかった。
瞬間、タイサは自分の両頬を強く叩く。
そしてエコーに体を向けた。
「予想していた終わり方ではなかったが………魔王軍を街から追い出したという点においては、目標を達したと言っても良いのだろうな」
「はい、それで良いと思います。隊長」
腑に落ちていないのは、誰でもないタイサ自身だという事をエコーは理解していた。それでも彼女は、彼の意見を飲み込み、次の行動を静かに待ち続ける。
「取り敢えず、デルと合流して中央の広場に戻ろう」
タイサは騎槍を肩にかけ、頭を二度、三度掻いて誤魔化した。
「了解です」
エコーは歩き始めたタイサの横に体をつけ、彼を支えるように歩み始める。
誰もいない大通り。石畳は所々砕け、先日の戦いから家屋も屋根、扉、窓ガラス、どこを見ても住めるような状態ではなくなっていた。霧が晴れた今、空の青みと無人の街並みの灰色の異なる情景が、二人の眼に訴えかけてくる。
「隊長………覚悟を決めて封印を解いたのに、剣が使えなくて残念でしたね」
「いや、エコー。そこは言わなくていいからな」
タイサは肩を落とした。




