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【第一巻発売中】弱小世界の英雄叙事詩(オラトリオ)  作者: 銀髪卿
第九章 聖女解放戦線フリエント
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苛虐の運命、逃れること能わず

 選んだ道を、間違いだったと思ったことはない。

 けれど、これが正しい道だと盲信したこともない。


 進む以外に、選択肢はなかった。


 多くのものを取りこぼした。

 両手いっぱいの大切なものたちが、救おうと足掻くほど、砂粒のように指の隙間から流れ落ちていった。


 始まりにいたのは、無力で現実を知らない少年だった。それは盲目的に明日を信じていた。不確定な未来、それでも彼女が隣にいると疑わなかった、無邪気で愚かな男だった。

 その果てに得たのは、取り返しのつかない後悔の数々と、たった一つ残してくれた約束。


 だから、自ら『英雄』を名乗った。もう二度と、取りこぼすことがないように。

 取りこぼした命にさえも、その生涯に意味があったのだと、誰かに伝えるために。


 覚悟と矜持をもって、あの日、剣を掲げた。


 その選択が、間違いなんかじゃないと。

 俺に託してくれた彼女たちの想いが、応えようとした俺の歩みが、正しいものだと証明するために。


 だから、証明し続けなくちゃいけない。

 誓剣の騎士エトラヴァルトは、願いを守る戦士であると。

 弱小世界の英雄は、向こう見ずな約束で駆け抜けた愚者であると。

 その道の果てに、あの丘に辿り着くのだと——この身の全てで証明するのだ。



◆◆◆



 ——そう、君は背負ってしまう。


 そんな空耳を、エトラヴァルトが感じた刹那。


 ——だから、畳み掛けるならここだよ。


 雲を切り裂く彗星の如き白い軌跡が、直上からエトラヴァルトを急襲した。


 『四封世界』フリエント南端、灰色の石塔——『アルシアの塔』の健在をエトラヴァルトとジゼルの二名が確認し、しばらく経ってからの開戦だった。


 まるで予知していたかのように迎撃に動いた誓剣と激突したのは、アルビノの竜爪。

 完全にいなされて散らされた衝撃に砂漠の大地に亀裂が走る。


「お前——」


 落着地点の中心にいながら一切のダメージを負わない神業を披露したエトラヴァルトは、襲撃者の正体を認めて両目を眇めた。


「イルルネメア……⁉︎」


 聖女の鎖とジークリオンの竜鱗によって拘束されていたはずの《融和竜》の強襲。

 それはエトラヴァルトにいくつかの可能性をよぎらせ、同時に、そのいずれも思考を続けることができない灼熱が胸の奥から発生した。


(また、イルルが……!)


 一度目よりは軽減された、しかし中々耐え難い、魂を焼くような痛み。


「——ジゼル!」


 もしも、を考慮してシンシアとの繋がりを薄めていて良かったと安堵するエトは、少し離れた場所で天秤を構えたジゼルに叫ぶ。


()()に連絡を! 合流を最優先に!」

「任されたよ」


 暫定的にジークリオンとアルトが敵ではないと踏んだエトの言葉を受け、ジゼルが念話を開く。


 それは、極めて迅速な対応だった。


 イルルネメアとの再遭遇からわずか数秒、()()を放棄。敵の戦力の大多数が巨体であることを踏まえ、あえて合流することで竜の動きを制限するという目論みに至ったのは、繰り返してきた格上との戦闘経験の賜物である。


 ——だが、この場では。


『——緊急連絡です!』

「——緊急連絡だ!」


 重なる報告が、すでに《終末挽歌(ラメント)》のシナリオ通りであることを彼らに知らしめた。



◆◆◆



 白状しよう。

 私……イノリは、一度、エトくんのことを裏切った。

 『幻窮世界』でシーナちゃんの世界に囚われた時、私は、エトくんとの約束よりも目の前の幻想を優先した。

 駄々を捏ねる面倒くさい私を受け入れてくれて、大事な約束をしてくれたのに。童話になぞらえて、髪飾りまでくれたのに。

 私は、彼の信頼を裏切った。


 私はあの瞬間、折れかけていた。 

 記憶の中にある……ううん。記憶のなかにすらない、昔の私が夢見た温かい“家庭”と“世界”に、諦めて身を委ねようとした。


 私は、自分を一生許せない。

 エトくんを裏切ったことも、兄ぃと、お姉ちゃんを諦めようとしたことも。


 だから、今度こそちゃんと戦うと決めた。

 彼の守りたいものを、私も一緒に守るんだって。

 もう二度と、私の大切な家族を諦めないって。

 ——そう、誓っていた。



◆◆◆



 エトラヴァルトと《融和竜》の会敵から少し遡り、場所は東部。


(う、動きづらい……!)


 友とは呼べずとも過去に競い合った冒険者であるハルファ一行の存在は、確実にイノリの行動力を削いでいた。


(もう《終末挽歌(ラメント)》相手にはバレてるんだろうけど、あまり下手に騒げないからなあ……)


 そもそも、冒険者イノリも〈歌姫〉シンシアも本来ここにはいない戦力だ。

 馬鹿正直に『実はフリエントは《終末挽歌(ラメント)》に掌握されていてとても危険な状態です!』なんて言えるはずもない。しかも同行者は|指名手配犯や〈異界侵蝕〉たち《とんでもなくヤバい奴ら》、あとなんかよくわからない鎧なのだ。


(というか、このメンバーでの行動事態が伏せられてるしやっぱり言えないよね!?)


 身バレはすなわち今後の作戦行動どころか様々な政治的事情に支障をきたしかねないことを、イノリは朧げだが理解していた。


(失敗したなあ。かといって目を離すのも危険だし……)


 〈異界侵蝕〉ではないから、金級冒険者ではないから。そう言って警戒を解く道理はどこにもない。

 かの『悠久世界』と『海淵世界』の戦争にて、全くの無名だったストラが〈異界侵蝕〉であるフィラレンテに対して下剋上を仕掛けたように、()()次第で趨勢はいくらでもひっくり返るのだ。


(外の警戒はこのままシンシアさんに任せるしかないかなあ……)

(——と、考えていそうな表情ですね、イノリさん)


 打ち合わせ通り外の監視を請け負うシンシアは、横目にぼんやりと捉えるイノリの表情から、そのおおよその心情を察する。


(エトも言ってましたけど、こう見るとイノリさん、本当にわかりやすい表情してますね)


 コロコロと変化する様はなかなか面白く、根っこの正直な人間性が垣間見えるようでシンシアはバレない程度に笑みを浮かべた。

 しかし、すぐに表情筋を律して気を引き締める。


(《英雄叙事(オラトリオ)》との繋がりは維持されてる。つまり、エトの方に異変はないということ。懸念があるとすれば遠方のジークリオンとあの鎧ですね)


 しっかり殺されかけたことのあるシンシアとしては可能な限り作戦を共にしたくない相手だ。

 しかし、だからこそ戦力としては信用できるし、エトがいいと言うのであれば彼女はノーという気はなかった。それはそれとして複雑ではあるが。


(ひとまずは大鎌を持つ男の報告待ち、ですね)


 それまでは、無理に盤面を掻き回す必要はないだろう。

 シンシアがそう結論付けると同時に、店の扉についたベルが鳴って来店を告げた。


 少女たちが動かずとも、世界は、破滅へと向かって進んでいる。


「ふむ。どうやら()()()を引いたようだのう」


 白髪頭の、腰が曲がった老爺。

 しかし灰色の眼差しには理知的な光がある、老獪さを感じさせる不敵な表情。

 不思議とよく通る声に店内の視線が集中し——


「んなっ……!」


 シンシアのオーロラ色の双眸が、老人が右腕に抱える“本”を認めて見開かれた。


「同じ場所に欠片が二つ……ほっほっ。長生きしてみるものだわ」

「なんでここに——⁉︎」

「えっ?」


 驚愕。しかし、肉体は無意識に動き出す。

 正面に座るイノリのとぼけた声すら聞くのを待たず、シンシアの肉体がその場からかき消える。

 刹那、店の入り口が轟音と共に吹き飛んだ。


 悲鳴、そして混乱。


「なんだ⁉︎」

「今、とんでもねえ気配が——!」


 同じ店で四方山話に興じていたグロンゾやハルファたちは当然その異変に気付き、木っ端微塵に開放的となった入り口を振り返る。


 轟轟と土煙が立ち上る。複数の視線が見守る先で、動く。

 シンシアが振り抜いた刀と、老人が左手で操った王笏の激突が砂塵を吹き飛ばした。


「挨拶にしては……ちと乱暴すぎやしないかのう?」

「敵に礼儀は不要でしょう——〈旅人〉ロードウィル!」


 シンシアの抉るような蹴りが〈異界侵蝕〉ロードウィル・ジオレインズの肉体を上空へ吹き飛ばす。


「ほっほっ、左様か」


 不意の一撃ながら、無傷。老爺は極小の防御結界でこれを受け止めていた。

 更に、風を纏い追従したシンシアの袈裟斬りを、余裕をもって王笏で受け止める。


「噂に聞く神秘の概念。なかなかに厄介ですな」

「馬鹿力……!」


 枯れ枝のような細腕にあるまじき怪力で刀を受け止めながら、ロードウィルは右手で本を開く。


「《残界断章(バルカローレ)》」


 《英雄叙事(オラトリオ)》、《終末挽歌(ラメント)》に次ぐ三冊目が開放され、淡い、破けた(ページ)の数々が舞い散った。


「まずは小手調べかのう?——『断章遊戯(ロード)雷歌(トニトルス)


 破れた紙片が無数の魔法陣を描き、シンシアを取り囲むように幾条もの青い雷撃が空を駆ける。

 少女を閉じ込める雷の檻。しかし、


「——『駒鳥の空』」


 一言、圧壊。

 出現した自在の重力圏が、魔法陣を形成する紙片を雷もろとも破壊した。

 上空、オーロラ色の眼光が、殺意を宿して老爺を睨みつける。凡人ならそれだけで失神してしまうほどの殺気を一身に受ける老爺は、しかし飄々としていた。


「有無を言わさず押し潰そうとは、おっかないのう」

「——シンシアさん!」


 戦場となった空の真下、地上からイノリの声が届いた。

 シンシアは振り向かず、左手を振って無事を伝える。


「私が相手をします! イノリさんはエトに連絡を!」

「もうしてるよ!」


 右耳に手を当てるイノリの表情は険しい。


「してるけど繋がらない! なんか邪魔されてる!」

「——っ! わかりました!」


 当然対策はしているだろうと予測はしていたシンシアだが、奥歯を噛み締めずにはいられなかった。


(やられた! エトが私との接続を最小にするのを、見抜かれていた!)


 小世界イルナの遭遇戦は《終末挽歌(ラメント)》が仕掛けたもの。ならば、当然顛末は知られている。

 知っているならば、有事に備えて熱暴走(リスク)を最小に抑えるエトの行動を《終末挽歌(ラメント)》が予見するのは不可能ではない。


◆◆◆


 ——さらに、これは《終末挽歌(ラメント)》にとって望外の幸運ではあったが。エトラヴァルトの感知能力は現在、万全とは程遠かった。

 なぜならイルルの暴走によるダメージは、エトの直感にこそ最もダメージを与えていたのだから。



 司書イルルは、《英雄叙事(オラトリオ)》の継承者ではない。ならば、彼女は何者か?

 答えは、司書という肩書きにある。

 イルルという少女は、歴代の継承者とは……()()()()()()とは明確に立場が違う。彼女は司書。つまり、()()()()()である。

 司書イルルは、《英雄叙事(オラトリオ)》を構成する核の一端を担う……()()()()()()()()()()()()()()である。


 魂の残滓と記録を用いて肉体を置換する、馬鹿げた能力を有するエトラヴァルトとて、内側にある()()()()()の、それも激しい怒りの感情に晒されては無事ではいられない。

 エトラヴァルトが魂に負ったダメージは大きく、中でも、様々な事象を極めて敏感に感じ取る“直感”の領域は、苛烈な怒りによって甚大な被害を被ったのだ。


 よって今のエトラヴァルトは、《英雄叙事(オラトリオ)》を通して繋がるシンシアの状態把握すら本人が知らぬままに不可能であった。


◆◆◆


(繋いだままなら、念話を邪魔されても直接、意思疎通が取れたのに……!)


 エトの現状を把握していないシンシアは、悔やんでも仕方がないとわかっていてもリスクを取るべきだったと自戒せずにはいられない。

 フリエントは《終末挽歌(ラメント)》のホームグラウンド。ならば、シンシアたちの誰にも気づかれないように様々な結界を作り出すなど造作もないと予測できたはずだった。

 たとえば、極めて隠密性に優れた通信や念話の妨害に特化した結界など。


「知らず知らずのうちに、焦りで視野が狭くなっていましたね……!」


 苦渋を浮かべるシンシアに、ロードウィルが雷撃と共に老獪に笑いかける。


「後悔に足を止めるとは未熟だのう?」

「止めてませんよ。私は——」


 先ほどより激しい雷の包囲網。しかし、シンシアは動じず、オーロラの瞳は覚悟を決している。


「後悔も、力にできると教えてもらいましたから。『贋作(ミメシス)——」


 揺さぶりに動じず、シンシアは胸に輝く青い首飾りに触れた。


「——断章遊戯(ロード)雷歌(トニトルス)』!」



◆◆◆



 陽が傾き始めた夕焼け空を、二人の放った青い雷が真昼の青空みたいに染め上げる。


(また、後手に回ってる……)


 シンシアさんとロードウィルの戦いを見上げながら、私は店にいた人たちの避難を優先させていた。


「急いで屋根のないところへ! なるべくここから離れて!」


 本当はすぐにでも参戦しに行くべきだけど、同時に、ここの人たちを死なせちゃいけないとも思う。

 ジークリオンは、いざって時は切り捨てろって言っていた。エトくんやシンシアさんも頷いてはいたけど、心ではきっと納得していない。

 ——ううん、二人は言い訳。私が、納得してほしくないと思っているだけ。


「大丈夫だよ! 地上に落ちてくる雷は私が()()()から! 立ち止まらずに、振り返らないで!」


 エトくんは英雄だ。シンシアさんも、《英雄叙事(オラトリオ)》に認められるくらい立派な志を持っている。

 そんな二人に、私は『犠牲は必要だった』と割り切ってほしくない。だから、手の届く範囲のみんなを守るべきだと思うのだ。だから——


「——ハルファくん! グロンゾさん!」


 だから、手段は選んでいられない。


「えっ……はぁっ⁉︎」

「お前さん……イノリか⁉︎ なんでここに⁉︎」


 突然名前を呼ばれた二人は私の顔を見て目玉をひん剥いて驚いていた。ハルファくんなんかは、犬歯を剥き出しに口をあんぐり開けている。

 というか、グロンゾさん私の名前一発で出てきたの凄くない?


「ややこしいから説明全部はぶくね! 街の人の避難誘導お願い! ここ、今から戦場になる!」

「「もうなってるだろ!」」

「もっと酷くなるの!」


 息ぴったりの突っ込みは、二人がパーティーを解散していても仲良しだという証拠。解散の原因を知っている私は少し嬉しくなったけど……そんなことに浸っている場合じゃない。


「今から私も上の戦いに参加する! 戦場が西に行くように誘導するから、二人はみんなを東に……世界の外にまで逃がして!」

「待て待て省くな! いきなりどうなってんだよ⁉︎」


 私の訴えに、けれどハルファくんが混乱したように矢継ぎ早に質問を重ねる。


「戦ってんのは誰だ⁉︎ てかなんでお前がいる⁉︎ あいつは……エトラヴァルトは来てんのか⁉︎」

「ごめん! 本当に説明してる暇なくて——!」


 もう隠しようがないけど、これは一応秘密裏の強襲作戦。【救世の徒】と組んでいる以上、私たちやエトくんがここにいる事実や理由は可能な限り隠さなきゃいけない。

 仕方ない。仕方ないけど——もどかしい。


「だあ〜〜〜〜〜仕方ねえ! あとできっちり説明してもらうからな!」


 けれど、ハルファくんは色々飲み込んで承諾してくれた。昔のイメージでは食い下がってくると思ってたけど……彼は、とても成長したんだと思う。きっと、私と違って。


「——っ! ごめん、ありがとう!」

「ふんっ! 悔しいけど実績はそっちが上だからな、従ってやる!」


 私がお礼を言うと、ハルファくんは鼻を鳴らして声を張り上げた。


「お前ら! 民間人を逃がすぞ!」

「「「「おう!」」」」


 新しい仲間らしい三人とグロンゾさんを加えて、五人はすぐに避難誘導を始める。

 その最中、ハルファくんが私を振り返った。


「あとひとつ、エトラヴァルトに言っとけ! ぜってー追いついてやるからな!」

「わかった、伝えとく!」


 力強く頷くと、ハルファくんはもう一度鼻を鳴らして避難誘導を再開する。

 面倒な時に見つけちゃったと思ってたけど助けられた。今度、ちゃんとお礼をしなくちゃね。


「さて——」


 憂いを絶った私は激戦の空を見上げる。

 もう当たり前のように空を走るシンシアさんに突っ込むのはこの際野暮。

 私の視線は、王笏を持つロードウィルの左手の手袋に注がれる。


(あれが結界の核、だね)


 実はこうして避難誘導している間に、私はシンシアさんから念話を受け取っていた。

 あの結界は隠密性に優れて長距離の交信を妨害できる反面、ごく近距離での念話の妨害には向いていないことがわかったらしい。

 そして、核はあの手袋。確かに下手な場所に隠すより、強い人が持っておくほうが安全で理に適っている。けど——


(私なら、壊せる)


 不意を突けるなら、私の魔法は格上相手にも十分通用する。

 私は、左目を覆う眼帯を取り払い……(ひら)く。


 ——魔眼開放。

 目標は、左手の手袋。

 加速対象、自己及び魔法構築。

 減速対象——その他全ての、“世界”。


「いくよ」


 私は一歩踏み込んで——次の瞬間に世界を飛び越えて、ロードウィルの左手を切り刻んだ。


「むっ?」

「ナイスです、イノリさん!」


 シンシアさんの“風”に受け止められた私は、すぐにロードウィルを振り返る。

 遠くを遮っていた嫌な気配が消えていくのを感じる。手袋は、うん。木っ端微塵だね。

 左手は〈異界侵蝕〉らしい馬鹿げた再生力で元どおりになっちゃったけど——————



































         「おねえちゃん」






























◆◆◆



 イノリが何事か呟いた。


「イノリさん……?」


 それはあまりに唐突で、シンシアは思わずロードウィルから視線を切って隣に浮くイノリを見てしまった。


「——ッ⁉︎」


 感情の抜け落ちたイノリの表情に、シンシアの背筋が凍りつく。

 恐怖に似た感情に制御が乱れて風が消える。しかし、イノリは変わらず浮遊して……否、その場に立っていた。


「…………その、薬指」


 見開かれ、色彩を失ったイノリの双眸は、ロードウィルの左手……否、薬指を見ていた。

 その指は、他の枯れ枝のような四本とは違ってとても瑞々しく健康的な指だった。際立つ違和感は、シンシアに気持ち悪いという感情を抱かせる。同時に、奇妙な既視感。


「無限の、欠片……?」


 そこにあると、奇妙な確信を持った。


 だが、視線の先は……正確には、薬指の第二関節の奥。そこに嵌められた、指輪だった。


「その、指輪は」


 片言のイノリを前に、ロードウィルが嗤う。

 老獪さとは違う、ただ、悪辣な笑み。


「指輪は、儂には似合わぬかのう?」

「それは、おねえちゃんに」


 空虚な双眸が、揺れる。


「兄ぃが、あげたものだ」

「え……?」


 兄と、姉。

 イノリが探す二人の存在が仄めかされ、シンシアの心臓が逸る。


「不器用な、兄ぃが……頑張って、夜な夜な加工して」


 震えながら持ち上げた右手で、イノリは自分の胸を握り締める。

 金属の胸当てが、軋みを上げて砕け散った。


「おねえちゃんは、気づかないフリして、見守って」


 鮮やかに。色を取り戻していく記憶の数々。

 反対に、少女の顔から、赤みが消えてゆく。


「……そうだ。おかしいんだ。夢で会ったおねえちゃんには、左目がなかった」


 イノリは左手で、左目を……涙の流れない魔眼を覆う。


「なんで、忘れてたんだろう。なんで、気づかなかったんだろう」

「イノリさん、何を言って……!」


 理解が追いつかないまま、それでもシンシアはまずいと直感していた。このままでは、致命的に何かが破綻すると。


 けれど、止める方法は、もうない。


「お前たちだ」


 呼吸を荒く、イノリは肩で息をする。全身を打ち震わせて、涙を溜める右目でロードウィルを……“世界”を睨みつけた。


「お前たちが、おねえちゃんを……! 私と、兄ぃの……目の前、で…………!」


 腰に差していた“白夜”と“極夜”がふわりと浮き上がり、イノリの左右に滞空する。


「……せ」


 チクタクと魔眼が音を立てる。それはさながら、終末時計の最後の秒針が振り切れるように。


「イノリさん待って! ダメ——!」


 本能で危機を察知したシンシアの声はもう届かない。慌てて手を伸ばすも——秒針が鳴る——そこにもう、イノリはいない。


「かえせ…………おねえちゃん、を……!」


 左手では押さえきれないほどに魔眼が赫く輝やいて。

 世界を置き去りに加速したイノリが、〈旅人〉ロードウィルの背後から後頭部に自分の血が滲む拳を叩きつけた。



「リンネちゃんを返せええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!」

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― 新着の感想 ―
お姉ちゃんまさかの聖人の遺体みたいにバラバラでも能力発揮できる系なのか
 リステルを強襲した三冊目の爺さん、戦場へ。 イノリ、お姉さんであるリンネさんの死を思い出し、暴走。
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