目覚めを叫ぶ英雄戦歌④
——『幻窮異界』リプルレーゲン・大穴最深部。
「ここは……?」
エステラのふとした呟きは、靴音と共によく反響した。
長い長い螺旋階段を降りた先にあったのは、地上の光が殆ど届かない薄暗い広間。
中央にポツンと小さな椅子だけが鎮座するその場所で、エステラと紅蓮は慎重に周囲を見回した。
「ここは、『幻窮異界』の最奥です。有り体に言うと、異界主の座す空間になります」
シンシアは靴音を響かせて椅子へと向かい、そこに置かれていた指輪を手に取った。
「私のわがままを、聞いていただきありがとうございます」
抑揚のない感謝の声に、警戒を強めていた紅蓮たちの視線は自然とシンシアに向けられる。
探るような二人の視線を受けてもシンシアは動じず、そっと椅子に腰を下ろして、右の小指に指輪を嵌めた。
その様は、まるで処刑を待つ罪人のようだった。
「紅蓮さん、遊園地は……ローラーコースターはどうでしたか?」
「…………」
シンシアからの不意の問いかけに、紅蓮は思わず目を伏せる。幼少の記憶を抉る一言に、紅蓮は舌打ちをした。
「今のお前に、言うことなんてねえよ」
「……そうですか。少し、残念です」
本当に、ほんの少しだけ寂しそうにシンシアは瞼を閉じた。しかし、それも一瞬のこと。
すぐに、諦観に満ちた穏やかな表情を浮かべた。
「質問にはすべて答えます。要求も、全て呑みます。どうか……」
シンシアは首元の鎖のようなチョーカーに触れ、祈るように呟いた。
「どうか、私を終わらせてください」
◆◆◆
「それじゃあ認識のすり合わせからいこうか」
紅蓮が問答無用でそっぽを向いてしまったため、尋問の担当は必然的にエステラになった。
彼の強情な態度に「全く」と肩を落とすエステラだったが、その心中は察するに余りある。だから、それ以上何かを追求することはなかった。
「まず、キミはこの異界の異界主なんだね?」
「そうです」
シンシアは自分の首元の鎖と右目に触れる。
「どうやってなったのかは私にもわかりません。ただ、鎖を通してこの右目から異界へとエネルギーが流れ込んでいることだけは確かです」
「右目から、異界に?」
「はい。『幻窮世界』に異界はありませんでした。でも、異界がどういったものなのかは資料として知っていました。私の在り方は異界の心臓部と見て間違いないと思います」
「ふうん……?」
エステラは思わず首を傾げる。シンシアの説明が常識の逆を行っていたからだ。
通常、魔物は異界から魔力供給を経て活動する。それは異界主も同様だ。にも関わらず、シンシアと異界の関係はその逆。シンシアから、異界へとエネルギーが行き渡っているのだと言う。
「妙な話だね。いや……」
シンシアの協力的な態度を鑑みるに、嘘をついている様子はないとエステラは断ずる。
「異界の心臓部って考え方なら、そもそもこっちの方が健全ではあるのかな? 成り立ちからして他の異界とは違うみたいだね」
まあ動力部は不健全だけど、と小さく吐き捨てて、エステラは次の問いを投げる。
「どうやって私たちの認識を欺いていたの?」
「私自身は何もしていません。皆さんが勝手に勘違いするようになっていたんです」
「……? どういうことかな?」
要領を得ないシンシアの答えにエステラは再び疑問の声を上げた。
「認識の誤謬はキミの力ではないと?」
「『幻窮世界』は元々、神秘の維持のために他世界との間に“認識の壁”を作っていました。異界になった際に、それが私の特技と……“ちょっと思い込ませる”力と混ざった結果、そういった認識の差異が生まれたのだと思います」
「なるほど、力自体はキミにゆかりのあるものだけど、今はその手綱を握ってない。この考えでいい?」
「少なくとも、私の認識では」
「わかった、キミの言葉を信じるよ。検証する時間はないからね」
ひとつひとつ、エステラは順調に疑問を潰していく。
どんな些細なことであっても疑問を残しはしないという強い意思がそこにはあった。
「……うん。それじゃあ一番大きな問題を聞こうか」
そして、彼女はこの異界最大の疑問を尋ねる。
「ここは、どうして同じ時間を繰り返しているのかな?」
「…………」
その質問は予想外だと……正解には、エステラから来るのは想定していなかったと、シンシアは少しだけ驚いたように目を上げた。
「記憶があるんですか?」
「いや、憎たらしいことに私にはない。エトラヴァルトからの情報共有だよ」
「……貴女たちは、対立関係にあるのでは?」
「組織としては、ね。それ以前に、私はある程度エトラヴァルトという人間は信頼に足る相手だって思ってるから。あと、元教え子の言葉は信じてあげないとね」
シンシアからすれば不思議な関係だった。彼女の視点では、エステラたちとエトラヴァルトは利害関係に基づく共同戦線を組んだだけの敵同士だ。だが、どうにもそれだけではないらしいことがエステラの発言から窺えた。
「質問に答えてもらうよ、シンシア」
「……貴女の言うとおりです。この異界は、同じ時間を繰り返しています」
「…………。いざ口にされると、うん。驚きが勝るね」
エトラヴァルトの推測を信じていたとはいえ、異界主の口からの肯定はそれなりに大きな衝撃をエステラにもたらした。知らぬ存ぜぬを突き通す紅蓮すらも、その背中には驚きの感情が滲んでいた。
「どうやって繰り返しているの?」
「わかりません。この異界は、誕生した時から七日の輪廻を繰り返していました。彼らが……」
シンシアは息を詰まらせ、くしゃりと表情を歪める。昏い瞳は悔恨と寂寥で、悲痛に満ちていた。
「秘纏十二使徒だけがいない、『幻窮世界』最後の七日間を」
「……異界で動いている人たちは魔物かな?」
「——ッ。違います、彼らは……残響のようなものです」
目を伏せ、首を振って。
シンシアは声を震わせながらエステラ問いに答える。
「大氾濫に殺された時、死んだことを認識できなかった人たちの魂の写し絵……それが、彼らです」
「……!」
「私が、巻き込んだんです」
それは、二千年越しの罪の告解だった。
死を認識することすら叶わず蹂躙された人々への懺悔だった。
「クラインたちが命を賭けて守ろうとした人たちの最期をも貶めて……私は今日まで生きてきたんです」
「…………そう」
エステラはかける言葉を持っていなかった。
シンシアはあくまで今回の任務対象だ。彼女が有する無限の欠片を奪取し、同時にこの先の障害になりうる『幻窮世界』を滅ぼすのがエステラたちの役割。
しかしそれでも、シンシアに降りかかった出来事は察するに余りある。
慰めの言葉をかける立場ではないし、かける気もエステラにはなかったが……その上で、彼女の中には言葉が出てこなかった。
「それじゃあもうひとつ質問。エトが輪廻の中で記憶を持ち越したのはキミの意図?」
「——偶然です。私にとってもイレギュラーな出来事でした。ですが……」
シンシアは上を見上げ、汚泥に汚れたように褪せた流水色の髪の隙間から微かな光を追った。
「彼は《英雄叙事》に選ばれた。私とは違い、信念を持って継承し、その心を証明している。異界の法則に囚われないのも、不思議ではありませんでした」
「正体を見破られたのは——」
「それも偶然です。本当に、驚きました」
「——わかった。これで質問は全部だよ」
大きく頷いたシンシアは、今一度、右小指の指輪を撫でた。
〈贋作〉プリシラが削り出した宝石の輝きは褪せず、形を確かめる指先の荒れ具合とは正反対に、指輪には汚れひとつない。それだけで持ち主がどれほど大切に扱ってきたのかわかるほどに綺麗だった。
「素直に協力してくれてありがとう。約束通り、キミの要求を呑むよ」
それは事実上の殺害宣言。死を望むシンシアに、エステラは望む最期を提供すると言ったのだ。
「ありがとうございます」
「……」
抑揚のない声、けれども確かに安堵を感じさせる感謝の言葉にエステラは何を思ったか少しの間、閉口した。
「紅蓮、キミはこれでいいの?」
「どーでもいい」
投げやりな回答。
「滅びた理由も、世界の正体も見えた。……もう未練なんざねえよ」
紅蓮はシンシアを一瞥し、そのみすぼらしい姿を目に焼き付ける。
「……いや、一つだけあったな。〈覚者〉、あんたが死んだら、この異界はどうなる? 第二第三の、あんたみてえな異界主が出てくるのか?」
「……恐らく、それはないと思います」
右目に触れて、シンシアは首を横に振った。
「ここは、右目を核に私の記憶を再現しています。なので、貴方たちが右目を回収すれば消滅します」
「あんたの残響は生まれねえってわけか。……それなら、まあいいか」
異界が滅びるというケースは過去、その異界が存在する世界の滅亡と進退を共にした以外に存在しない。
しかし、この『幻窮異界』は成立の過程から他の異界とは異なるゆえに、存在する条件もまた特殊だった。
「エステラ、呼ぶぞ」
「そうだね。終わらせよう」
背を向けたまま、紅蓮の真紅の瞳が暗闇を照らすように爛々と輝く。
吸血鬼の全身から、鮮血色の魄導が滴るように滲み出る。空間に浸透する魄導は、男が抱える“概念”を持って世界の理を改竄する。
「『現実を裂きて流れる虚構よ、あり得ざる血路をここに』」
紅蓮が右手をかざした先で、何もないはずの空間が裂ける。
空間の連続性を穿ち、繋がるはずのない二つの地点を繋げる“虚空”を生み出した。
「……神秘のような力を使うんですね」
「…………」
「確かに、似ているね」
沈黙を貫く紅蓮に変わって、エステラがシンシアの呟きに答える。
「神秘も概念も、源流を辿れば同じ力だからね。力の核がどこにあるのかの違いだよ」
虚空の向こう側に広がるのは、本来繋がるはずのない遠く離れた世界の景色。
届くはずのない風と匂い、温度、湿度。瓦礫の山と化した廃墟と、天を覆う分厚い黒雲。
そしてその奥に聳える、雲に阻まれた天を貫く、極彩色の結晶塔。
「あれは……」
「私たち【救世の徒】の本拠地だよ。こことは遠く離れているけどね」
「喋りすぎだぞエステラ」
「そうでもないよ、この子には知る権利がある。だって——」
苛立たしそうに声にドスを効かせた紅蓮にも怯まず、エステラは少し冷えた声を出した。
「この子の話では、『幻窮世界』は滅亡惨禍で滅びた。つまり、《終末挽歌》の策謀にやられたってこと。——少しでも道が違えば、私たちは肩を並べて戦えたはずなんだから」
「それは、どういう……」
「さあね。サービスはここまでだよ」
エステラが肩をすくめたその時、虚空の向こう側から重厚な足音が響いた。
瞬間、紅蓮とエステラの両名が虚空の脇に退く。エステラは軽く頭を下げ、紅蓮に至っては片膝をついた。
「——そう堅苦しい出迎えは要らんだろう。同じ作戦を共にする同士なのだから」
虚空の向こう側から出ずる者、それは確かに人の形をしていた。
「そうはいかねえよ。俺らの都合で呼び出してんだから」
「紅蓮のわがままと、私の相性の悪さがなければ手を煩わせることはなかったからね」
身につけるのは腰巻きひとつ。
それは、全身を輝かしい鱗で覆っている。
それは、背中に力強い一対の翼を持っている。
それは、腰から全てを薙ぎ払う尾を生やしている。
「確かに、本来の役割とは異なるな。ではありがたく受け取っておこう。それに、こういう歓迎は気分がいいからな」
自ら輝きを放つ、宝石を編み込んだように美しい長髪。
精悍な顔つきと鍛え抜かれた肉体、幾重にも刻まれた傷跡は苛烈な戦いを生き抜いた証明であり力の表れである。
「初めましてだ、異界主シンシアよ。俺様の名はジークリオン・エルツ・ヴァールハイト。この星に生きる、最後の竜だ」
◆◆◆
「ジークリオン……〈盟主〉ジークリオンですか?」
「そうだ。俺様個人は〈竜人〉、あるいは〈竜主〉を推しているのだがな。どうにも周りは俺様を〈盟主〉と呼びたがるらしい」
やれやれと肩をすくめるジークリオンの背後で虚空の穴が閉じる。仕事を終えた紅蓮は、すぐさまシンシアに背を向け、声も聞きたくないとばかりに目を閉じた。
それでも耳を塞がないのは、仕事は必ず果たすというプライドか。
「ところで、二千年も引きこもっていた割に俺様のことを知っているとは情報通だな、異界主」
「……貴方のことは、以前クラインから聞いたことがありました。自らの証明のために、同胞を一人残らず殺した変わり者だと」
「なるほど、情報源として確かだな」
納得したように頷いたジークリオンは、シンシアの口から語られたそれらを一切合切肯定した。
「その通り。愚鈍な同胞は全て我が手で殺し尽くし、悉くを異界に叩き落とした。死してなお生に執着するとは、我が同胞ながら浅ましく度し難いものだ」
蔑みを持った視線でここではないどこかを見ていたジークリオンだったが、次いでシンシアにも冷めた視線を向ける。
「貴様も死から逃れんと、浅ましくしがみついているらしい」
「……はい。ですので、どうか終わらせてください」
「ふん。自分で死ぬ勇気もないか……弱いな」
ジークリオンは精悍な顔つきの中に嫌悪を滲ませながら右手の爪を立てた。
「俺様は弱者が嫌いだ。ここで言う弱き者とは心根の話も含まれる。貴様は異界主として強大な力を持っているだろうが、弱い。そして、俺様は弱者をいたぶる行為もまた嫌いだ」
指の関節から幾重にも音を発し、気分が悪いと口元を歪める。冷めた声の中に、度し難い怒りの炎がちらついた。
「強者とは誇り高く、気高くあるべきだ。ゆえに俺様は同胞を殺した。弱者をいたぶり、いたずらに力を誇示する唾棄すべき愚物だったからだ。……俺様は今、悪しき同胞と同じことをしようとしている。怒りで臓腑が煮え繰り返りそうだ」
「…………」
「だが、それでも俺様は貴様を殺そう。エステラは無限の欠片とは相性が悪い。紅蓮も、過去を想えばこの態度も不思議ではない。そしてなにより、友のために作戦は完遂させねばならない。ゆえに、全てを飲み込み貴様にこの鉤爪を突き立てよう」
人の手から、竜の鉤爪へ。
極彩色の魄導が浸透し、鉤爪は宝石のような輝きを放つ。
「その右目、我が友のために返して貰おう」
右目へと伸ばされる腕に、シンシアは動かない。
諦観に染まった瞳は僅かに震えることもなく、ただずっと、審判の時を待っている。
◆◆◆
——嗚呼。ようやく終わる。おしまいにできる。
迫り来る竜の鉤爪を前に、シンシアが感じたのは安堵だった。
何もできずに泣き叫んだあの日から、少女はずっと後悔に囚われてきた。
何もできなかったくせに、願いだけは自分勝手に叫び続けて。自分のわがままで世界を、死んだ人たちすら巻き込んで。異界にしてまで、自分の心を慰めるための箱庭を生み出した。
戦いに行った秘纏十二使徒とは違う。シンシアは、戦うことから逃げた。
人々を魔物から守ることすらせず、あまつさえ身を隠し、一人で逃げて。たった一人、無様に生き残って。
世界を守りたかったのに、その世界を犠牲にして、自分だけが殻に閉じこもってしまった。
——ようやく、償える。
——みんなの元へはいけないけど……もう、疲れた。
瞼に、鉤爪の先が触れた。
◆◆◆
ガタン、と。
椅子が倒れる音が響いた。
「貴様、何をしている?」
「え……?」
怪訝な顔で首をひねったジークリオンの眼下、椅子から転げ落ちたシンシアは地を転がり、逃げるように這いつくばっていた。
「なぜ避けたと聞いている、弱者よ。俺様に狩り未満の蹂躙をさせるつもりか」
「避け……え? わた、し……あれ?」
自分でも何をしたのかわからない様子で、シンシアはひたすら困惑の声を漏らす。
「終わりを求めたのは貴様だろうに」
苛立ちながら詰め寄った竜人は爪を引き絞り、混乱に揺れるシンシアの右目に狙いを定めて突き込んだ。
「きゃあっ!?」
しかし、その一撃すらもシンシアは器用に身を捻って回避した。
強烈な一撃に地面が砕け、大地の塊がシンシアの腹部を強襲し諸共に吹き飛ばす。
「えほっえほっ……あ、あれ……? なんで、私……あれ?」
肉体がいうことを聞かない。死を望んだのに、体は勝手に生存を求める。
自分の不可解な挙動にシンシアは何度も疑問を呟いた。
「妙な悪あがきを……! 俺様の誇りをこれ以上貶めさせてくれるな、異界主!」
「私、避けて……?」
「ああそうだとも。貴様は死を求めたはずだ」
苛立ちながらも、ジークリオンは努めて冷静を保とうとする。
「なぜ避ける?」
「だって、死にたくない」
その言葉は、あまりにも簡単にシンシアの口からこぼれた。
混乱しているのだろう。自分が何を言っているのか理解できていないような風貌だった。それでも、声は大きく、言葉は力強く、生きる意志を感じさせた。
シンシアは両手でゆっくりと体を起こす。
「私、死にたくありません」
「……っ!」
その言葉に、ハッと紅蓮が振り向いた。
「死んだら、終わりですよね」
「そうだ。死は生命体の終わりだ」
シンシアの言葉を、ジークリオンは丁寧に肯定する。
「死んだら、全部忘れちゃいますよね」
「そうだ。死は忘却と同義と言えるだろう」
「私が死んだら……この世界は無くなりますよね」
「そうだ。貴様が死に、俺様が無限の欠片を回収すればこの異界は滅びる」
ジークリオンの肯定は、シンシアに一つの絶対的な事実を突きつける。
「私が、死んだら……『幻窮世界』は……本当に、なくなっちゃう……?」
異界という形でも、確かにそこにあった存在証明。
まやかしだったとしても、外の世界の人々は『幻窮世界』リプルレーゲンがあると知っていた。
紅蓮は“瓜二つ”だと言った。舞台で、かつて見た歌姫のステージを幻視した。そこには、確かに『幻窮世界』があった。
「いつか……本当になにも、なくなって……」
「この星は、そういう運命にある」
「…………や、です」
震える声で、震える足を引きずって、シンシアはジークリオンから逃げるように後ずさる。
「嫌、です……! 私は、まだ……死なない。死にたくない……!!」
楽をしようとしていた。楽になろうとしていた。
楽な道に、逃げようとしていた。
「クラインたちが……! 守ろうとしたのに……! 私は、また! 私だけ、逃げて……逃げようとしてた……!」
追い詰めるような動きを嫌ったのか、はたまたいつでもトドメを刺せるからか。ジークリオンはその場から動かずにシンシアの叫びを聞く。
紅蓮も、エステラも。ジークリオンに任せた以上、彼らは動かない。
「言わなきゃいけないんです……! おかえりって、言わなきゃ……! 帰る場所がなきゃ、言えない……! 私が死んだら、本当に、なくなっちゃう……!!」
とっくの昔に枯れ果てたはずの涙が溢れ出る。
「忘れたくない……! 忘れさせたくない……! クラインたちが生きていたんだって、生きているかもしれないって……!! ここがなくちゃ、本当の本当に、全部終わっちゃう……!!」
泥だらけで這いずって、泣き腫らしながら、それでも逃げようと足掻く。
「みんなが守ろうとした……守ってきたんです……! 私だけが死んで、責任から逃げるなんて……そんなの…………!」
「——これだから、弱者を相手にするのは嫌いだ」
「うぐっ……!?」
目にも止まらぬ速さで動いたジークリオンが左手でシンシアの首を掴み大地に叩きつけた。
「鳴き声も断末魔も聴くに耐えん」
「あっ……かっ…………!? わだ、じは……! まだ…………!!」
「生き延びて、何を成す?」
「わ、がりまぜん……! それ、でも……いぎなぎゃ……!!」
喉を締められ苦しみな喘ぎながら、それでもシンシアは声を震わせた。
「わだじ、まだ……! クライン、だぢの、期待に……ごだ、えて……ないんでず…………!!」
どれだけ多くのものを裏切っても、どれだけ罪を重ねても。
かつて憧れた十二人。そして自分を信じてくれた人々。
彼らの期待にだけは、絶対に応えなくてはならないのだから。
「だがら…………!!」
シンシアは両手でジークリオンの左腕を掴み、力の限り爪を立てた。
「…………訂正しよう、異界主シンシア。貴様は強くはない。だが、決して弱き者ではなかった」
そのささやかな抵抗に、ジークリオンは謝罪と共にシンシアへの評価を改める。目の前の異界主は、最低限、自らの手で葬るに値する存在だと。
三度、爪が引き絞られた。
「敬意を持って、殺させて貰う」
「あっ……ぅぁ…………」
万力に喉を締め上げられ、意識が遠のく。
手に力が入らなくなって、情けなく、両手が胸元に落ちた。
その時、左手が何かに触れた。
「…………ぁ」
それは、“案内人”エルリックを偽っていた時にとある観光客から譲り受け、胸ポケットにしまっていたロケットペンダント。
——寂しくて泣き出しそうな時、これを開けろ。
そう言って渡されたもの。
涙は出ないと思っていたのに、こんなにも溢れていて。
寂しさは、いつだって感じていた。
けれどもペンダントを開けることはできなくて。
鉤爪が突き込まれる直前、シンシアは最後の最後、左手で、ありったけを込めてペンダントを握りしめた。
「——繋がったぞ、クライン」
刹那、銀色の閃光が世界を眩く染め上げた。
甚だしい衝突音が鳴り響き、シンシアは呼吸の自由を取り戻す。
輝きは一瞬。
世界はすぐさま元の暗闇を取り戻し——しかし、シンシアの正面に、一人。
闇を照らす銀の輝きを湛えた青年が立っていた。
「ぁっ……な、なんで……貴方、が……?」
シンシアの疑問に、青年は振り向かず。
星の上にただ一振りの誓剣を構え、不意打ちで吹き飛ばしたにも関わらず無傷な竜人を視界から外さず。その声のみで生存を確かめる。
「なんで——」
「この世界の希望を、繋ぎに来た」
その単純かつ明瞭な回答に、エステラ・クルフロストはやれやれと首を振った。
「まあ、君は間に合うよね。——エトラヴァルト」
一人の迷子の救難信号に、今。
『弱小世界』の英雄が、到着した。




