幕間 家出少女の出会い
それは遥か昔のこと。
異界という名前が生まれるよりも前のこと。
変化した世界に興味を持った一人の少女は衝動に任せ、着の身着のままに家を飛び出した。
見たことのない景色、見たことのない人種、見たことのない動物、嗅いだことのない花の香り。
目に映る全てが未知で、神秘に満ちていた。その旅は少女にとって、それはそれは素晴らしいものだった。
赤土の城、鍛治の国、湖の上に建つ町、大樹海、死者を尊ぶ骨鳴りの廃墟、牛頭人の神殿……この他にも、両手の指では収まらない世界たち。
毎日ただ歩くだけで新鮮で、冒険に満ちた日々だった。
「あの日動いたのは正解だったね」
モラトリアムを終わらせたくない、本人はそんな言葉すら知らないで、ただ漠然と大人になっていくのが嫌だったから駆け出した。
そんなただの家出から始まった当てのない旅は、少女に様々な感情を分け与える。
「あの家にいたら、知らずに終わってたんだろうね」
自分の決断未満の衝動は間違っていなかったと肯定するように、少女は前へと足を運んだ。
……家出から1ヶ月経った頃だろうか。
少女は一つの大きな街にたどり着いた。
「これは……うん、大きいな」
そんな月並みな感想しか出てこないことに、少女は未だ足りない人生経験に苦い顔をした。
色と黒の斑点に彩られた灰色の石畳が敷かれた大通り、その脇を固めるように並ぶ木造、煉瓦造り、石造りの建物の数々。
雑多な建築はそれぞれの芸術性を競うようにひしめいていた。
しかし、なによりも目を引くのは大通りの正面突き当たりに建つ巨大なドーム状の建物だった。
石畳と同じ材質の石材と華やかなステンドグラスが円を描く象徴的な建築。
この街が誇る“大図書館”だった。
◆◆◆
「外から見た圧も凄かったが……中に入ると壮観だね」
ツンと鼻にくるインクの匂いと視界を占有する本棚に歓迎された少女は、蔵書数一億冊以上と、なんだかもう桁が違う図書館にただ圧倒された。
「本、というか勉強にはあまりいい思い出がないけど……うん、これは胸躍る」
「——すまん、そこの君」
何日だって時間を潰せそうだ、と柄にもないことを少女が考えていると、誰かが少女の肩を叩いた。
「うん、なんだい……ってうわあ!?」
「楽しんでるところ悪い、入館手続きは済んだか?」
「ふ、不審者!?」
「違う違う! ああいや、この見た目じゃ確かにそうなんだが!」
ビビり散らかす少女に声をかけたのは、図書館職員のものと思わしき制服を着た、少女視点、多分男。
少女が多分と断定できないのも、不審者と誤解したのも……その職員が、頭を青い布でぐるぐる巻きにしているからだった。
露出しているのは、多分白っぽい髪の毛先と灰色の瞳のみ。鼻も口も耳も何もかもを布で覆っている様は、司書の制服を着ているせいで余計に不審者じみていた。
「驚かせてすまない。俺はえ……と、あれだ、司書だ。名前はアルト」
「役職を言い淀むのは部外者の私からしても怪しさしかないのだが……」
「そういうわけじゃないんだが……いや、そう聞こえるよな。まあ、とりあえずだ。入館には手続きが必要だから、ちょっと受付まで来てくれ」
そう言って「こっちこっち」と手招きをする司書を自称する覆面男のアルト。
あまりにも怪しい、誘拐の一場面とも捉えられる光景に、さしもの少女もついていくのを躊躇った。
「ダメだ、完全に信用失ってる……」
どうしたものか、とアルトは少女の前で途方に暮れる。
「——オイ、どこで油を売ってやがるんですか」
「痛ぁっ!?」
その頭にズビシ、と鋭いチョップが落ちた。
痛みに悶絶するアルトの横に、シュタッと華麗に着地する小柄な女性。
「今、2階から落ちてきてなかったかい……?」
少女の困惑の声は拾われなかった。
チョップの主、藍色の布地に金の刺繍を施したローブを頭から被った女性の翡翠色のジト目がアルトに突き刺さる。
「頼んだ仕事放り出してナンパとはいい度胸してやがりますね」
「ちがっ、違うってイルル! そこの子が受付すり抜けちゃってんだよ!」
「ああ、そういうことでいやがりましたか。で? だったらなんで立ち尽くしてやがったんです?」
「不審者扱いされて信用失ったんだよ」
「その風貌から考えられる妥当な末路じゃねえですか。通報されなかっただけマシだと考えやがれください」
今月に入って既に三回通報を受け、三回とも対応する羽目になったイルルの睨みにアルトは思いっきり顔を逸らした。
少女を置き去りに漫才のような掛け合いをする二人。
仲良いなあ、なんて呆然とその一幕を見ていると、不意に少女へと矛先が向いた。
「で、そこの家出少女。名前は?」
「私? クラインだけど……って、え!? 私家出したなんて言ったかい!?」
「図書館司書はなんでもお見通し」
「いや限度があるだあいたたたたたたたた!?」
驚く少女……クラインに雑な返事を、ツッコミを入れたアルトの脛を連続で蹴りながら、イルルは周囲に視線を這わせる。
「ああ、いやがりました。おーい、ちょっとこっち来やがれくださーい!」
「——僕を呼んだ?」
イルルに呼ばれ、そこに三人目の司書がやって来る。
白髪の、柔和な笑みを浮かべる男だった。
「呼びやがりました。アルトが女引っ掛けたから後処理しやがれください」
「言い方ァ! 入館手続き済んでないんだよこの子!」
「ああ、そういうこと。お嬢さん、受付はこっちだ」
「あ、はい」
とても仲の良い三人だなあ、と。最早話題の原点が自分であることを忘れたクラインは、男の手招きに従って受付へと向かう。
「ああ、それと——」
移動の前、白髪の男はアルトとイルルを振り返った。
「二人とも、図書館ではお静かに」
「「はい、すみません」」
なんとなく、力関係が見える一幕だった。
「騒がしくてすまないね」
「そんなこと……賑やかなのは構わないよ」
「配慮痛み入るね。そうだ、自己紹介をしておこう」
男は一度足を止め、振り返ってクラインと目を合わせた。
「僕はグレイ。図書館司書のグレイだ」
それは、とある昔話の一幕。
『魔本世界』アインツリベル……あらゆる世界の中で、一番最初の犠牲となる世界の、滅亡三日前の物語である。




