滅亡惨禍③
——かつて、人は宇宙を目指していた。
頭上の夜空に浮かぶ無数の天体一つ一つに夢を馳せ、いつかこの大地を飛び立ち世界の枠組みを広げていくことを願った。
「——と、昔は私みたいな人がたくさん居たんだって」
「その話を聞くのは何度目になるかな」
「うふふ! 何度だっていいでしょ?」
「そうだね、何度聞いてもいい話だ」
〈星宿〉オフェリアと〈王冠〉クライン。
最も古き友であり、最も古き使徒の二人。
星を落とす誓いを立てた女と、冠を戴く者が現れることを待ち望んだ女。
三千年来の旧友である二人は、閉園後、人気のない遊園地のステージ前で歓談に興じる。
取り留めのない話に花を咲かせる二人だったが、その表情にはやはり緊張が見て取れる。
——なにせ、魔物の軍勢はすぐそこにまで迫っている。情報統制ももはや意味をなさないほどに。
「まさか海を凍らせてくるとは予想外だった。私は無意識に魔物を侮っていたらしい」
いつもの調子で肩をすくめるクラインだったが、隠しきれない焦燥が横顔に滲んでいた。
「『幽境世界』が呑まれたことと関係ある?」
「あるだろうね。異界の成り立ちを踏まえれば当然の帰結だ。唯一予想外なのは反映の速度かな」
他世界と『幻窮世界』を阻む“寄る辺無き大海”によって妨害されると見込まれていた魔物の侵攻は、海を凍らせることができる魔物の出現によって脆くも崩れ去った。
最前線だけで100万を軽く超える悪夢のような軍勢の行進は止まることを知らず。
あと二日もすれば『幻窮世界』に牙を剥くだろう。
「ん? 数は予想の範囲内だったの?」
「ギリギリ上限値かな。正直外れて欲しかった」
「珍しく弱気なことを言うのね」
長い付き合いの中で片手で足りるほどしか弱音を言ってこなかったクラインが見せる険しい表情に、オフェリアは珍しいものを見れた感慨と同時に自分たちが置かれている状況のどうしようもなさを悟った。
「弱音の一つや二つ、吐きたくもなるさ。私たちが突破されたその時が『幻窮世界』の敗北だよ、オフェリア」
「んー、んんー。軍の戦力は」
「無理だ。シンシアが“覚醒”したとしても、勝ちの未来は万に一つもない」
「即答……そんなに魔物が強く?」
「違うよオフェリア。魔物が強くなるんじゃない。私たちが弱くなるのさ」
クラインは自分の拳をギュッと握った。
「オフェリア、私たちが使う力の源泉は“神秘”だ。神秘は、秘することでこそ輝く。世界の真実を暴く魔物との相性は最悪だ」
「……ああ。長いこと、忘れてたわね」
「『幻窮世界』の内部で戦うなら勝ちの目はある。でも、中に入れた時点で市民はまず間違いなく皆殺しにされる」
結論から言って、クラインたちには「世界の外での迎撃」以外の選択肢がなかった。
彼女たちの目的は生き残ることではなく守ること。守護者の責務を果たす上で、『幻窮世界』に生きる人々の生存は最低条件なのだから。
「要するに出たとこ勝負ってことだね」
「だから『一緒に死んでくれ』なんていったのね。貴女らしくないとは思ったけど」
オフェリアの納得から、二人は同時に沈黙した。
示し合わせたわけではない。ただ大氾濫という事象は二人にとってあまりにも因縁深いものゆえに、必然的に過去を思い起こしていたのだ。
——その、出会いの縁と共に。
「数奇なものだね、オフェリア。私たちの分岐点には、また大氾濫が関わってくるんだから」
「うわ、確かに」
うへえ、と冗談めかしてオフェリアが笑う。だが、すぐに表情を引き締めた。
「ところでクライン、聞いてもいい?」
「私に答えられることならね」
「貴女はなんで、十三使徒を集めたの?」
それは根源的な問いかけ。
十三使徒はクラインの独断と偏見によって集められた集団であり、設立の経緯は未だに明かされていない。
“秘纏の使徒”たちは『幻窮世界』の守護者であるという公の事実以外、使徒たちでも知らないのだ。
「私と貴女、二人での旅に“使徒”の枠組みはなかった。けれど、貴女はあの日を境に人を集めるようになった。何度も唸って考えてみたけど、結局は聞くのが一番早いと思ったから聞くわ。なんで?」
「…………」
クラインは無言のまま一歩、舞台へ近づいた。
瞳の裏に思い起こすのは、人々を熱狂させるシンシアのワンマンステージ。観る者すべてを魅了する、みんなのための、たった一人の舞台。
「——約束を」
その声色は、儚く。
普段の自信気で、謙遜しながらも不遜な態度を貫く彼女とはかけ離れていた。
「約束や、想いを。誓いや、願いを。“心”という生命が有する最大の神秘から生み出される最も大きな感情を、取りこぼしたくなかったのさ」
オフェリアを振り返ったクラインは、オーロラ色の瞳を揺らして目を細める。
吹いた風が新緑色の髪を揺らした。
クラインは髪を抑えることもせずに過去の後悔を噛み締める。
「たった一人を守るために、命と尊厳、未来の全てを擲った子がいた」
自分には止める覚悟がなかった。
「たった一人を救えず、己の無力を嘆く人がいた」
崩れ落ちる彼を前に、何も尽くせない自分を嫌悪した。
「世界に憤り、“使命”を嘲弄し、“我儘”に生きるという“使命”に身をやつした男がいた」
きっと今も……未来でも。彼は我儘に生きるだろう。彼の友が、その使命を終わらせんと立ち塞がるその時まで。
「目の前で願いが散っていく、そんなバッドエンドはもう御免だよ。君もそうだろう? オフェリア」
「悩んで唸るまでもない問いね」
古き友の即答にクラインは微笑む。
「私はアルトのような英雄じゃない。だから集めたんだ、私にない理想を持つ者を。私にない感情を抱える者を。私にない才能を持つ者を。もう二度と取りこぼさないために」
誰かが理想とする未来を守るために。使徒が望む自分を手に入れられるように。
「私は英雄じゃない。けれど、君たちは英雄だ。だからどうか、共に戦ってほしい。〈星宿〉のオフェリア——星に焦がれた英雄、私の親友よ」
「もちろん! クラインの頼みならいくらでも聞いてあげる!」
「…………うん。ありがとう」
友の澱みない肯定の返事に、クラインは小さく微笑んだ。
「共に生き延びて、また、シンシアのステージを観にこよう」
◆◆◆
エトラヴァルトがイルルによって強制的に記録の閲覧へ誘われた頃。
「ここは……大穴か?」
「はい。ここから私の空間に……異界主の間へと繋がっています」
紅蓮の質問をシンシアは抑揚のない声で肯定した。
シンシアの案内によって紅蓮たちが辿り着いたのは、観覧車の上からでこそ見渡すことができたがついぞ自力では辿り着けなかった異界中央の大穴。
「自分のテリトリーに引き込むつもり? 話を聞くために、こっちが素直に応じると思う?」
警戒心を強めるエステラに、シンシアは空虚な瞳を向けた。
「異界主は例外なく鎖で繋がれています。私を完全に殺すには、最下層でなくてはいけないんです。抵抗の気はありません」
底の見えない大穴の下へと続く、壁を這う石畳の螺旋階段を、シンシアはゆっくりと降り始める。
「紅蓮さん。貴方が去った後の『幻窮世界』の末路をお話しします」
「…………。行くぞエステラ」
「紅蓮、大丈夫かい?」
エステラの質問に紅蓮は答えない。代わりに、シンシアがその言葉遣いに既視感を覚えた。
「エステラさんは、クラインと口調が似ていますね」
「——。あの人は、本当に死んだんだね」
その返答は、肯定でも否定でもなく。ただ、受け止めきれていなかった事実の再確認だった。
まさか死ぬとは思っていなかった、そんな心の声が聞こえてくるようなエステラの発言に、シンシアの肩が小刻みに震える。
「……はい。クラインは、帰ってきませんでした」
声音に宿る癒しようがない寂寞と後悔に、紅蓮とエステラは自然と口を閉ざした。
警戒するだけ無駄だと悟ったようにエステラは魔法の待機を解除し、紅蓮はポケットに手を突っ込み黙ってシンシアの後を追う。
「……何があった。何が、アンタを変えた」
記憶の中にいるシンシアは輝いていた。
ステージの上で、宙に舞う汗すら輝かせる桁違いのスター性を発揮していた。
それが今は、みすぼらしい衣服を纏い、生きながらに死んでいるような表情を浮かべている。
「なんでアンタは、〈覚者〉なんて名乗ってやがる」
「私に何かを名乗る資格はありません。その呼び方は、以前にここを訪れた“旅人”を名乗る人が私をそう呼んでいた、それだけです」
「…………滅ぼしたのか、アンタが。本当に」
シンシアは振り向かなかった。
ただ、暗闇に染まったような瞳で虚ろに前だけを見て階段を下ってゆく。
「滅びゆく時、私は何もできなかった」
それは、少女の懺悔の始まりだった。
◆◆◆
「待機…………?」
崩壊の日。
シンシアはクラインから告げられた言葉が理解できずにいた。
「なんで……なんで、私だけ」
いよいよ目と鼻の先に迫った大氾濫の大軍勢。“秘纏十二使徒”は死闘を前にシェアハウスに集い、そこでクラインが代表してシンシアに待機を命じた。
「嫌ですクライン! 私も戦います! 戦わせてください!」
シンシアは瞳を見開いて瞳孔を震わせ、流水色の髪を振り乱してクラインの二の腕を握る。
「私が弱いからですか? 未だに“神名”を名乗れないからですか!? ——嫌です! みんなにだけ押し付けるなんて私は嫌です!!」
震える声で懇願するシンシアを前に、〈王冠〉クラインは首を縦に降らなかった。
「私たちが戦っている時、シンシア。君には市民の心の支えになってほしい」
「支えって……それこそ無理ですよ! 私にはクラインほど求心力がありません! ハーヴィーのような愛想も、ヤウラスのような包容力も……!!」
突如、別れのように告げられた命令。
それはシンシアに衝動のような胸騒ぎを覚えさせた。ただ座して、皆を待つことに耐えられなかった。
「お願いですクライン! 私にも戦う機会を……! みんなに憧れたんです! みんなを尊敬しているんです! みんなと一緒に戦いたいんです!!」
シンシアは歯を食いしばって目尻に涙を溜めて十二人の覚悟を決めた者たちの顔を見る。
「世界が危ないんですよね? だからみんなが戦うんですよね? だったら……だったら私も戦いたい! いつまでも守られてばかりは嫌なんです……! だから、みんな……置いて行かないでくださいっ!!」
戦える。
戦いたい。
戦わなくてはならない。
憧れたクラインに手を取られ、シンシアは13番目の使徒として迎え入れられた。
その期待に応えたい。かっこいいみんなに追いつきたい。肩を並べて共に戦いたい。
そう願って、努力を重ねてきた。
今この瞬間に何もしないことに、シンシアという人間が耐えられるはずがなかった。
「クライン、私は貴女の期待に応えたくて……!!」
「それは違うよ、シンシア」
クラインはシンシアに向けて小さく微笑んだ。
「君は、いつだって私の期待に応え続けているよ」
「そんなの……!」
「嘘じゃない。慰めなんかじゃないよ」
ポン、と。
クラインはシンシアの頭に手を置いて優しく撫でる。
「君の歌声に元気づけられる人がいた。君の踊りに胸を弾ませる人がいた。君の叫びに心を奮い立たせる人がいた。君の心に——確かな輝きを見た私がいた」
髪を漉き、頬に触れて肩を撫でる。
クラインはシンシアの両手を挟み込むように自分の両手で包み込み、体温を通じて想いを伝える。
「私たち使徒の役目は『幻窮世界』の平穏を守ることだ。今この世界には不安が渦巻いている。——シンシア。君だけだよ。今、君だけがこの不安を取り除ける。私たちが戦っているその間、みんなの心をどうか守ってほしい。情けないリーダーですまない。だけどどうか……君を頼らせてくれ、シンシア」
「そん、なの……! そんな、言い方……!」
奥歯を噛み締めて、シンシアは強く首を横に振った。
溜まっていた涙は星のように散って、瞳は真っ直ぐにクラインを見据えた。
「そんな言い方、ずるいですよ。……わかりました。私の声で、みんなの不安を取り除きます!」
「……ありがとう、シンシア」
——ああ、良かった、とクラインは内心で呟いた。
——今日もまた、シンシアは自分の期待に応えてくれたと。
「……それじゃみんな、行こうか」
それは、あまりにも自然に。
少し出かけてくる……それくらい当たり前のような態度で、十二人の守護者たちは戦場へと意識を向ける。
最後、彼らはひとりずつ、自分たちを見送るたった一人の仲間へと言葉を遺す。
〈浮世〉ヤウラスはおっとりと笑う。
「行ってきますね、シンシア」
〈門番〉アルジェは気さくに手を上げた。
「ほな、留守番よろしゅう」
〈贋作〉プリシラは渋々肩をすくめる。
「帰ってきたら、今度は首飾り作ってあげるわ。貴女に似合うやつ、オーダーメイドで」
〈忠義〉エンラは凛々しく拳を胸に当てた。
「貴殿の決断を誇りに思う」
〈応報〉アカリは切れ長の瞳で一瞥を。
「貴女ならできるよ」
〈無尽〉ガルタスは胸を張った。
「作戦は儂にドンと任せい!」
〈災禍〉ルーナは青い顔で拳を握った。
「だ、大丈夫。シンシアは、私ほど不運じゃないから!」
〈祭日〉エイミーは子供のようにはしゃいだ。
「今度お祭りやるから、あとで打ち合わせね!」
〈星宿〉オフェリアは自信たっぷりに不敵な笑みを。
「貴女の応援があるからね。頑張ってくるわ!
〈猟犬〉ティルティエッタは台所を指差した。
「お昼ご飯作っておいたから、冷めないうちに食べるっしょ!」
〈駒鳥〉ハーヴィーはキザにウィンクを残す。
「ステージの要望殺到してるからな。エイミー交えて相談しような!」
〈王冠〉クラインは、シンシアを抱きしめた。
「行ってくるよ、シンシア」
彼らの背中に、シンシアがかける言葉はたった一つだった。
「——みんな、信じています!」
未来の歌姫のエールに背中を押され、秘纏十二使徒は絶死の戦場へと踏み込んだ。
……これが、シンシアが彼らと交わした最後の言葉だった。




