幻窮回帰行⑥
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◆◆◆
「シンシアちゃん、この星の外にはなにがあると思う?」
ハーヴィーの〈駒鳥〉遊園地が開業するおよそ一年前の夜のこと。
シンシアは半年ぶりに調査から帰ってきた“秘纏十二使徒”の一人、〈星宿〉オフェリアからそんな質問を受けた。
「星の外、ですか……?」
使徒十三人が住むシェアハウスの裏手。〈浮世〉ヤウラスの趣味で作られた露天風呂で羽を伸ばしていたシンシアは、こてん、と首を傾げた。
「正確には世界の外側、かなー? この“偽りの空”の向こう側に何があるのか」
オフェリアは天文学者だった。
そして彼女の肩書きはこの星において異端の一言に尽きる。世界同士の争い、目を離せばその一瞬の隙を突かれて全てが終わってしまうかもしれない環境。
そんな場所で、オフェリアは地平ではなく空を見上げていた。
「あ、やばやば。こんな言い方したらプリシラちゃんが拗ねちゃう。うーん、“天幕”って表現ならいいかな?」
「えっと、オフェリア?」
「んー、んんー、隔ててるって意味なら合ってるけど伝わりにくいかも……あっ、ごめんシンシアちゃん」
質問したにも関わらず、解答をほっといて思索に没頭していたオフェリアが恥ずかしそうに頬を掻いた。
朱に染まった肌は果たして羞恥から来たものか、長風呂で火照ったのか。
「どう? 答え出た?」
「そう、ですね……私たちと同じような星がある、とか」
「うふふ! 良いわねそれ、ロマンがあるわ!」
オフェリアは偽りの空とも、天幕とも言った。
シンシアにはその意味がわからない。何故なら露天風呂から見上げる天には月が座し、透き通る夜空に星が散りばめられている。
だからシンシアは思う。見える星々、そのどこか一つには、自分たちと同じように営む命が宿る星があるんじゃないかと。
「そっかー、私たちと同じようにかー。それは良いわねー」
つま先でぱちゃぱちゃと湯を蹴り上げ、オフェリアは無意識に右手を月へと伸ばす。
「ってことは、向こう側からも私たちが見えるようになる日が来るかもってことよねー」
「もう見てるかもしれませんね」
「うふふ! そうね、そうかも!」
ちょっとだけ気になる言い回しではあったけど、シンシアはオフェリアとそのロマンを共有するのが楽しかった。
「聞いてもいいですか? オフェリアってどうして天文学者? というものになったんですか?」
「んー、んんんんんんー!」
シンシアの質問に、突然オフェリアは顰めっ面をして唸り声を上げる。
「え、あっ……ダメだったらいいんです! 忘れてください!」
「あ、ちゃうちゃう! そうじゃないのシンシアちゃん! ちょっとね、こう……どう伝えるのがいいか迷っちゃって」
オフェリアは嫌じゃないと訂正しつつ、やはり伝え方に戸惑っているのか変わらず呻き声を上げていた。
中々豪快に唸るものだから、威嚇しているようにも見えるかもしれない。
「んんんんー、んー、そうね。憧れてた子がいるのよね」
呻き声が止み、オフェリアは空を見上げながらそう呟いた。
「私の憧れってより、その子の憧れ? 空に憧れてたのよねー」
「空に、ですか?」
「そーそー。彼女の……ティアの言葉を借りるとアレね。『自分には届かないものだから』って」
◆◆◆
それは、遠い遠い昔の話。
シンシアが生まれる遥か前のお話で、オフェリアにとっても記憶の底に埋もれてしまいそうなほどの記憶。
再生される記録から3000年前……現代から数えて5000年前の物語。
使徒がまだ、クラインとオフェリアの二人しか居なかった頃の出会い。
一人の顔を隠した青年がいた。
一人の心優しくおてんばな聖女がいた。
そんな二人と楽しそうに笑う赤肌の鬼人がいた。
今なお色褪せない記憶は、オフェリアが自らの銘を〈星宿〉と定めたきっかけ。
——『この身はただ、見上げることしかできませんから』
鎖に繋がれた聖女はそう告げた。
生命が寝静まる夜。
命の鼓動が薄れ、潰えた筈の亡骸の侵攻が始まる刻。
聖女は石造りの狭い部屋の中央で世界に祈りを捧げていた。それこそが彼女の役割であり、それだけが存在証明だから、と。
——『ティアの体はこの地に縛られていますし、ここを離れることをティアも望みません。だけど、その上で憧れるのです』
——『ティアの手が届かない未知の星海。この身に宿る“世界の欠片”を……“概念”を持ってしても決して縛れないアルトくんのお心のように。ティアはあの星々に憧れているのです』
そんな彼女に、ふと。
オフェリアは『触ってみたくはないか』と尋ねた。
尋ねた理由は、正直よくわかっていなかった。ただ、異邦の地でできた友人のどこか諦めを孕んだような告白に、きっと抵抗したかったのだろうとオフェリアは後に思う。
——『触って……? そう、ですね。実際に触れることができるのなら、正直とても触ってみたいです。撫で回してみたいです。あ、匂いも嗅いでみたい……あれ? そもそも触れるような形があるのでしょうか!?』
オフェリアの問いかけは聖女にとって予想外だったが、だからこそ聖女は自分の内側から湧き上がる好奇心に目を輝かせた。
どんな肌触りなのでしょうと想像して子供のようにはしゃぐ友人を前に、オフェリアはその時、道を決めた。
——『それじゃ、私が堕としてあげるわ』
なんでもない風に、自然と口をついて出た。
——『おと……え? リアが?』
自分をリアと呼ぶ友人の懐疑的な声に、オフェリアは大袈裟に頷いてみせた。
——『そーそー! ティアが空に昇れないって言うなら、私がいつか星を堕としてあなたの前に持ってきてあげる!』
——『で、できるのですか?』
——『できるじゃなくてやるの! ね、ティアだってあの朴念仁振り向かせようとしてるんだから!』
——『ほ、星を堕とすのと同じくらい難しいと思っているんですね、リアは……』
——『あれぇ!? 励ましたつもりだったんだけど!?』
その日、オフェリアは自らの道を決めた。
〈星宿〉を名乗った原点。それはあまりにもくだらない荒唐無稽な大言壮語。
できるとは思えなくて、信じることも難しくて。
でも、夜と大地、そして屍の巣窟に囚われる友人を前に。いつか彼女に“解放”の瞬間が訪れた時、それくらいにビッグなサプライズがあったって良いじゃないか——なんて、オフェリアは思うのだ。
◆◆◆
「——そんな、子供じみた理由なの」
露天風呂の中央で空を見上げるオフェリアの横顔は懐かしさと愛おしさを讃えている。
「そうだったんですね」
「そうだったんですよ……うふふ!」
シンシアの言葉を繰り返すように肯定したオフェリアが我慢できずに笑みを溢した。
「そんなこんなで私は天文学者になったの。それであちこち歩き回って……まあ、アレね。私たちの見ている空が本物の空ではないと結論付けた」
「えっと……?」
やはり、オフェリアは今頭上に輝く星々を、月を本物ではないと言う。それがシンシアにはよくわからなくて、首を傾げるしかできなかった。
「私たちの世界は、世界ごとに断絶している。隣り合ってて、ぶつかり合っててもその向こう側を見ることはできない。——空も、同様なんだよ」
「空も……」
「そーそー。今はそれだけ覚えていたら良いかな」
「オフェリアは、その本物の空を目指しているんですか?」
「そうだよ? それがティアとの約束だからね」
衝動的なものだったとしても、オフェリアは自らの銘を〈星宿〉と定めた。
それは使徒ととしての自分が生涯をかけて生きる道だ。
異邦の地でできた友人が“星に宿した”期待だ。
「うーん! 長風呂しすぎたかな、少しのぼせちゃった」
立ち上がったオフェリアが勢いよく伸びをする。
すらりと伸びる蠱惑的な肢体と調和を取るよう膨らんだ形のいい胸元に、シンシアは思わず目が奪われて、次に自分の慎ましい胸を見下ろした。
「ぶくぶくぶくぶく……」
敗北を感じて、シンシアは湯船に口をつけて恨み言を漏らした。
「何やってるのシンシアちゃん。流石にのぼせちゃうよ?」
「わかっていますーごぼぼぼぼぼ」
「まったく、せっかくの肌がふやけちゃうわね」
シンシアの嫉妬の目線が自分のどの部位に向いているのかにオフェリアは当然気づいていたが、特に言及はしなかった。
「今日も昨日と変わらない空ね」
そう言い続けて3000年になる。
星の在り方は変わった。
国という言葉が廃れ、世界という区分は細分化され断絶を生んだ。
変わらぬ夜空は停滞の証。
それはまるで、今もなおたった一人で異界の侵略を食い止めるための楔になっている友人への当てつけのようにオフェリアには思えた。
「待っててね、ティア。早く来なさい、アルト」
いつか必ず、その偽りを削ぎ落とすために。
たった一人で冷たい使命に殉じる友人を、暗い暗い地の底から救い出すために。
「お、オフェリア!」
その背中に、躊躇いながらもシンシアは声をかける。
「どしたの? シンシアちゃん」
「えっと、そのー。私、よくわからなかったんですけど、その」
不思議そうに、優しい微笑みを湛えて振り返った夢魔に、シンシアは『むん!』と鼻息荒く胸の前で拳を握った。
「頑張ってください! 私、応援してますから!」
「——。うふふ、当然よ!」
後輩の優しいエールに、オフェリアは歯を見せて笑った。
「あなたの歌があれば、どこまでも頑張れちゃうわね!」
◆◆◆
赤錆びた大地の上で、エトは一人の少女と向き合っていた。
いや、それが少女なのかは果たしてわからない。自分の認識に自信が持てなかった。ただ、この光景は。
空を流れる灰の雲とひび割れた世界の壁。生命の息吹が感じられない死に絶えた大地は、決して幻想などではないと。かつてあった記録なのだと、“記録の概念保有体”であるエトラヴァルトには確信できた。
「——なにもできなかった。私には何も救えなかった」
懺悔が染み渡る。
とうに涙は枯れ果てたと、何度も何度も繰り返したのだろう。乾ききった声音は、繰り返す懺悔に喉が潰れていることをエトに伝えた。
「力も、意思もなく。私には彼らに並び立てる資格はなかった。私はあなた達のような覚悟も願いも持てなかった」
何もない半端者だった。
「私にできるのは、ただ閉じこもるだけだった。でも——」
そこで一度言葉を区切り、エトの目には少女に映るそれは、エトの胸に手を置いた。
温もりを感じない、冷たい手だった。
「それでも、彼らの軌跡を知って欲しかった。きっと、貴方なら伝えて行けるから。私と違う、貴方なら」
その一言を最後に、繋がりが途切れた。
◆◆◆
目覚めると五日目の朝。
輪廻の回数はもう気にしていない。俺が俺でいられるのなら、回数なんて関係ないのだから。
「ああ、やっぱりそうだったんだな」
確信を得て、俺は身を起こして窓の外を見る。
朝日が昇る幻窮の景色を見下ろして、足元で豪快にいびきをかく紅蓮に視線を落とす。
本人曰く朝に弱いとのことだが、俺は体質ではなくただコイツが怠惰なだけだと思っている。
「知って欲しかったんだよな。覚えていて欲しかったんだよな」
夢に見るように懐古した記録。〈星宿〉オフェリアの願いと、それを応援するシンシア。
そして、無常の荒野で枯れた涙を流し続ける者。
蓄積された無数の記録が、直感なんて必要ないほどに俺にたった一つの確信を持たせる。
——そも。
今回の『幻窮世界』リプルレーゲンへの調査の起源はイノリの姉の情報を求めたものではない。
俺たちにとっては最重要と言っても過言ではないが、調査決行の決め手となったのはひとつ。
『幻窮世界』からの救難信号だ。
「——助けて、欲しかったんだよな」
《英雄叙事》が伝える様々な幸せな記録の数々。
賑やかで、穏やかで、優しい世界の記憶。
夢を追う人々の命の軌跡。
その全てが、俺にがなり立てる。
「シンシア・エナ・クランフォール。救難信号を出したのは、お前だったんだな」
繰り返した輪廻の果て——五日目の朝。
俺は初めて、『幻窮世界』の雨を見た。




