『幻窮■界』リプルレーゲン
〈贋作〉工房での宝石加工体験を終えた俺と紅蓮は、民宿〈浮世〉で最終日に備えて休んでいた。
二人揃って布団の上に寝転がり天井の木目に視線を這わせ、ぼんやりとこの六日間を追想する。
「明日で最終日だなー」
「そーだなー」
「色々やったなー」
「楽しかったなー」
「結構疲れたなー」
「遊ぶのって体力いるなー」
「…………」
「…………」
俺は、チラリと紅蓮を見た。
紅蓮も同じように俺を見ていた。
「なあ、紅蓮」
「どうしたよ、エト」
「…………調査、進んだか?」
「…………進んでねえなあ!」
二人揃って顔面を真っ青に染めた。
「俺ら六日間遊んで過ごしただけじゃねえか!?」
「結局世界の実情なに一つ掴めてねえ!!」
「目が覚めた後のイノリたちになんで言えやいいんだよ!」
「殺される!エステラの奴に氷漬けにされる……!」
男二人で観光楽しんで散財してましたー、なんて馬鹿正直に言えるはずもない。
「幻窮がなんで生きてんのかとか、あの大穴なんなんだとか、お前の意味深な対応とか! なんもわかってねえ!!」
「あ゙あ゙〜! 大口叩いた割になんもわかってねえ! あとで絶対テトラの奴に煽られる〜〜!!」
テトラって誰だよ。
大変気になるがそんなことを聞く余裕は今の俺にはない。
俺は紅蓮と顔を見合わせて、明日の算段を練る。
「紅蓮。とりあえず明日、大穴に行ってみよう。座標は割り出してる」
「だな。辿り着けなかったらそういう結界があるって認識できる。あとは……エルリックの野郎だ」
紅蓮の表情がにわかに厳しくなった。
「俺の欺瞞も、エトの妨害電波も通じねえ。明らかおかしい」
「俺としては手を出したくないんだが。俺、幻窮を守る側だからさ」
「つまりアレか。アイツに手ェ出すってなったらまずはお前と戦りあうってことか」
「そうなる」
俺と紅蓮の間に険悪な雰囲気が漂い、ぶつかり合った視線が火花を散らした。
「エト、俺に借りがあんだろ。手ェ出すなって言えば納得できるか?」
「無理だ。今の俺は『海淵世界』の代表者の一人だからな」
「……なら仕方ねえか」
紅蓮は、静かに殺気を収めた。
「エルリックについてはひとまず後回しにしてやる。この世界の実情把握を最優先——それでいいな?」
「ああ、それでいい」
俺たちはあえて、その先についてなにも語らなかった。
『海淵世界』の代表者と、【救世の徒】の幹部。
本来、互いに決して相容れない存在であり、俺たちはどんな道を歩いても、必ずぶつかり合うことになる。
だからこそ、互いに等しい利益を得られる時点までしか話さない。
それより先は、多分、敵同士だ。
裏切り、不意打ちなんてものはなく。全てが正当化される敵対関係になるだけだ。
「それじゃあエト、明日までよろしく頼むぜ」
「こちらこそ。明日までよろしくな」
俺たちは協力と離別の約束を同時に取り付け、明日に向けて眠りについた。
◆◆◆
「——シア。シンシア! 起きるっしょ、シンシア!」
よく通る声が少女の名前を呼んで、同時に強く体を揺さぶった。
「……んひぃ。あと、三時間だけお願いします……ぐぅ」
「図々しすぎるっしょ! いいからとっとと起きる!!」
「びゃっ!?」
心地よい微睡みに身を任せていた少女は、乱暴にシーツを引っぺがされたことで空中散歩。
見事に地面に激突して意識を覚醒させた。
「い、いだだだだ……なにするんですかティルティ〜」
シンシアと呼ばれた少女は寝癖で跳ねまくる流水色の髪に手櫛を入れながら、自分がティルティと呼んだ女を恨みがましい様子で睨んだ。
「なにすんだー、じゃないっしょ! もう八時過ぎてるっしょ!」
「うえ〜、まだ眠いのに〜」
「まったく……」
しょぼしょぼと空かない瞼で大あくびをかますシンシアに、ティルティと呼ばれた女は、腕を組み毅然とした表情で言い放つ。
「今起きないと朝飯ぬきっしょ」
「やだ〜! 起きます!」
朝食を逃すのは耐えられないと、シンシアはヨボヨボと起きあがり部屋を出た。
「ネグリジェのまま部屋からでたらだめっしょ! きがえるっしょ!」
「ティルティは厳しいです〜」
「普通のことっしょ!」
シンシアが暮らすのは、十三人が共同で住むシェアハウスだ。
全員が多忙の身。殆どの場合、シンシアとティルティエッタの二人暮らしだ。しかし、今日に関しては、一人。
シンシアより先に共用のリビングでモーニングティーを嗜む先客がいた。
「おや。遅いお目覚めだね、シンシア」
その女は何からなにまでハート尽くしだった。
ヘアピン、ボタン、チョーカー、服の柄、ズボンのポケットの形、靴のロゴ……ありとあらゆるものがハート形で構成されている奇怪な女。
しかし、そんな女の姿を認めた途端、つい先ほどまで眠たげな表情だったシンシアがパッと笑顔を浮かべた。
「——クライン! 帰ってきてたんですね!」
パタパタとスリッパを鳴らしたシンシアが勢い良くクラインに抱きついた。
「おっと。私じゃなかったら倒れていたよ?」
「帰ってくるなら言ってくれればよかったのに!」
「君を驚かせたかったのさ。なにせ、私は心の専門家だからね」
満面の笑みを浮かべるシンシアの頭を撫でたクラインは、朝食を運んできたティルティエッタにも穏やかな笑みを向けた。
「食堂は今日は定休日だったね、ティルティ」
「久しぶりの連休っしょ。とゆーかクライン、“どっきり”と心の専門家って関係ないっしょ?」
「ふふ、そんなことはないとも」
ミステリアスに笑うクラインに、ティルティは『わかんね〜』と匙を投げた。料理人なのに。
「それにしてもシンシア、目の下の隈が濃いね。また夜更かししたのかい?」
「えへへ……。ちょっと曲作りに熱中しちゃって」
「なるほど、君が熱中するほどなんだ。いいものができるんだろう」
クラインは子供のように引っ付くシンシアを引き剥がし隣の椅子に座らせた。
「クライン、今度はいつまでいるんですか?」
「明後日までだね。今回の休みは明日のためにねじ込んだものだから」
「明日……えっ!? もう明日なんですね!?」
「シンシア、熱中し過ぎて忘れてたっしょ……」
クライン、シンシア、ティルティの三人が揃って振り返った先のカレンダーには、一際目立つ花丸印。
このシェアハウスに住む仲間のうちの一人の念願が叶う瞬間が刻まれていた。
シンシアは胸踊ると言わんばかりに体を左右に揺らして笑顔で窓の外の青空を見た。
「楽しみですね! ハーヴィーの〈駒鳥〉遊園地!」
◆◆◆
それが夢ではないと、今の俺にははっきりとわかった。
記録だ。
《英雄叙事》に刻まれた、シンシアという少女の記録。
——であるのならば。
シーナの“夢心界催”で俺が出会ったクラインやハーヴィーは、《英雄叙事》なら抽出された存在であり。
シンシアは、確かにこの記録の中に存在していることになるのだろうか。
「……なんで、継承の放棄なんて」
重たい頭を持ち上げるように、俺はふかふかのベッドから起き上がる。
木製の天井。
常夜灯だけが照らす暗がりの部屋。
時間は深夜なのだろうか? 窓の外は真っ暗闇で、人の気配は感じられなかった。
「は、え——?」
意味がわからない、と。
混乱する俺の思考を。
「——おっ、やっと起きたな寝ぼすけ英雄」
むせ返るような血の匂いが、更なる渾沌へと突き落とす。
「三日も爆睡しやがって、ったく」
「……なにが、どうなって」
「そりゃあ混乱するわな。俺だって驚くぜ、お前の立場なら」
部屋中を満たす殺気に意識を回す余裕なんてなくて。
「冗談だろ、紅蓮……」
「冗談に見えるか?」
椅子に腰掛け足を組み、丸テーブルに肘をついた紅蓮は大きなあくびをした。
「俺が【救世の徒】、〈天穹〉紅蓮・ヴァンデイルだ」
そんなことは、どうでも良くて。
俺は、俺の直感が囁くあまりにも荒唐無稽で出鱈目な。
しかし一本筋の通った答えに愕然とした。
この部屋は、俺がシーナの世界から脱出して目を覚まし、紅蓮と出会った場所だ。
『幻窮世界』での始まりの場所だ。
「そんなことが、本当に……!?」
「そんな驚くことか? お前のことだから、なんだかんだ気づいてると思ってたんだけどな。買いかぶりだったか?」
「紅蓮、お前……」
今の俺と紅蓮では、致命的に食い違う。
「昨日までのこと、覚えてるか?」
「昨日? シーナの夢に俺もいたのか? なら悪いな、影法師と本体は記憶を共有しねえんだ」
記憶が……紅蓮には、六日間の記憶がない——否。
この世界は、俺が経験した六日間が存在しない。
気づいたことで、全身の感覚が鋭敏になる。——否、思考が無意識に排除していた可能性を考慮することで、正解に辿り着く。
きっと、限りなく真実に近い正解に。
「……エトラヴァルト。お前、何に気づいた?」
俺の驚きや困惑が自分たちに起因したものではないことを悟った紅蓮が踏み込んでくるが、今の俺には答える余裕がなかった。
俺は紅蓮を無視して外に出る。
その街並みは、俺の、初日の記憶と全く同じ。
気温、天気、風向き、風速。
道ゆく人たちも、地面の質感も、何もかも。
記録の概念保有体である俺の記憶と、何もかもが一致するのだ。
「マジ、かよ」
この世界は、巻き戻っている。
何をきっかけにしたのかはわからない。それでも、最低でも一週間、巻き戻ったのは事実で。
そんなことは、決して起こり得ない。
時間が巻き戻るなんてことは、この星の摂理に反している。失われたもの、過ぎ去ったものがここにあるなんてことはありえないことだ。
——だが、例外は存在する。
初めから、この世界が星の原則が外れていたのなら。
俺たち冒険者は、そういう理不尽を知っている。
それは、異なる世界。
既存の法則や秩序を無視した世界。
重力場の乱れなんて当たり前。空間の非連続性、時間軸の乱れすら——異界ならば起こりうる。
「ここは——『幻窮世界』は。異界、なのか?」
◆◆◆
《英雄叙事》の編纂を実行。
『幻窮世界』リプルレーゲンの滅亡を確認。
穿孔度不明、『幻窮異界』リプルレーゲンの実在を認定。




