待ち焦がれた原風景
イノリに拒絶されたラルフとストラは互いに無言で、夕暮れの側道を並んで歩く。
道路を走る車の起こす風圧に揺れるスカートを抑えることもせず、ストラは鎮痛な面持ちで前を見ていた。
思い出されるのは、イノリの悲痛な叫び。
本質的に居場所を求める少女の、今は決して叶わぬ願い。だからこそ——
ストラの目が、はたと周囲を見回した。
この一年で馴染んだ、見覚えのない景色。
ストラたちが旅をしてきたどの世界にも該当しない形。
ストラはそこに、一人の少女の執着を感じずにはいられなかった。
「……この景色はもしかすると、イノリの故郷なのかもしれませんね」
「なんで、そう思うんだ?」
否定も肯定もしないラルフの静かな疑問にストラはゆっくりと答える。
「この世界は、囚われた皆の夢や願望、記憶を参照して生み出しているとジゼルは言っていました。そして、その仮説は多分正しい。正しい前提で、では。この世界の原風景は誰のものなのか」
「誰って、そりゃここに囚われた人たちの、だろ」
「そうですね。……それにしては、あまりにも矛盾が少ないと思いませんか?」
立ち止まったストラは、横断歩道の先にある商店街を指差した。
「『幻窮世界』は全世界に救援を要請しました。そしてわたしたち……というより、エト様が動いたことで多くの世界が救援に乗り出した」
エトラヴァルト個人の求心力ではない。
『海淵世界』が、戦争にて〈勇者〉を退ける活躍をした最も新しき英雄を派遣する。
『幻窮世界』の救助に全力を尽くすという源老の姿勢を他世界に報せるのに、これ以上なく適した駒がエトラヴァルトだったのだ。
「これが、突入前に私たちが得た最後の情報です」
ストラの言葉を謹聴するラルフは、彼女の思考を妨げないように自然に、側道の脇にストラを誘導する。
「情報通りなら、ここには多くの世界が救援にきています。そして、それだけの人員が夢に囚われている。下手すれば、今もなお増え続けているかもしれません。……それだけの人間が来てなお、この世界の舞台設定はあまりにも破綻が、矛盾が存在しません」
「たしかに……。でもさストラちゃん。この夢を作った誰かが土台だけは用意したって可能性もあるだろ?」
「最初はわたしもそう考えました。ですが、思い返してみてください、ラルフ。イノリの家庭環境を」
「……兄と姉と、イノリちゃん?」
「役職は?」
「兄貴の方は公認探索者で——」
「そこです」
ビシッと、ストラがラルフの鼻先に人差し指を突き立てた。
「異界と瓜二つのダンジョンという名の大穴。そして、冒険者と役割が似ている公認探索者。——その最強は、イノリの兄であるシンです。仮に黒幕がこの世界の基盤を整えていたとして、そこに、ここまで都合よく配役が決まるものでしょうか?」
あまりにも。
そう、あまりにも整合性が取れすぎている。
「わたしがこの世界を生み出した黒幕なら、誰かの記憶から抽出された存在を最も目立つ何者かにするなんてギャンブルはしません。それこそ、ラルフやエト様を現在のシンのポジションに納める方がよほど確実性が高い」
たった一人の記憶から抽出された可能性が極めて高い存在とは、客観性が失われるゆえに衆目に晒された時、それは矛盾を孕む確率が極めて高いものだ。
この夢の世界が数多の認識の集合で成り立つ以上、その目線を一点に集める“英雄”は、世界を安定させるために誰が見ても完璧でなくてはならない。
違和感など、欠片もあってはならないのだ。
「その点、シンは完璧です。まるでこの舞台が、初めから彼のために生み出されたものであるかのように」
ゆえに、議論は始まりの問題提起に帰る。
「だからストラちゃんは、この世界がイノリちゃんの故郷だって思ったのか」
「……はい」
ストラがふたたび歩き出し、その半歩後ろにラルフが続く。
ストラの思考は、自然、イノリの故郷に向かう。
「……イノリは以前、自分の故郷は災害のようなもので滅びた、と言っていました。彼女自身、当時のショックで記憶が曖昧らしく何が起きたのかまでは覚えていませんでしたが。……ですが」
「大氾濫、か」
「可能性は大いにあるかと」
辛い記憶なんて、人は誰しも忘れたいものだ。
ストラとて、両親が自殺したという事実こそ知れど、当時の記憶は曖昧だし、いじめを受けてきた日々を未だに夢に見ることがある。
人の記憶とは、実に繊細なものだ。
「辛い過去を忘れたい……そう思った時、人は案外、忘れられるものです。たとえ、他の記憶の相補性によって真実を推察することができるのだとしても」
イノリの故郷は。
彼女の言うとおり、もう存在しないのかもしれないと、ストラは口には出さなかった。
かの〈星震わせ〉バイパーは己の故郷をその手で滅ぼしたという。
しかし、男は自らの内側に世界を持つことでこの星の大前提に抗っている。
生まれた世界の滅びは、そこに紐付く全ての命の終焉であるという原則に。
イノリはバイパーのように魄導を扱えない。当然、世界を塗りつぶすことも叶わない。
しかし、外部からの介入ありきとはいえ、これだけの整合性の取れた形ある世界を生み出せるだけの原風景を、イノリは内側に持っていることが証明された。
そして、彼女の左眼。
未だ正体が判然としない“無限の欠片”とされているが、少なくとも七強世界が欲し、確保している時点で尋常なものではないことは証明されたも同然であり——。
「……やめましょう。これ以上は邪推ですね」
何はどうあれ、イノリという大切な仲間により良い結果が訪れて欲しいというのはストラの偽らざる本心だ。
「ラルフ、ジゼルのところへ行きましょう」
「……ああ。エトに追いつかなきゃならねえしな」
◆◆◆
待ち合わせ場所は先日と同じカフェ。
クラシックな内装の角、ジゼルは退屈そうに欠伸をしながら携帯ゲームに勤しんでいた。
「……黒髪の子は来なかったんだ。仲間割れ?」
「貴方には関係ありません」
「そういうわけにもいかないんだけどね」
棘のあるストラの言葉に携帯端末から目を上げたジゼルは、二人の表情から説得が失敗に終わったことを察した。
「……まあいいか。やり方が少し変わるだけだし……えいっ」
結露したコップに指を這わせたジゼルは、浮かない表情の二人に向けて水滴を飛ばした。
「「冷たっ……!」」
不意打ちを受けた二人がムッとした表情でジゼルを睨む。
「ちょっ、急に何すんだよ!」
「なんの真似ですか、いきなり」
「切り替えなって。覚悟決めたんじゃないの?」
手元の携帯ゲーム機を叩き壊し、ジゼルはこの世界への未練をわかりやすく断ち切った。
「どんな話をして、どんな決別をしたのか知らないけどね。結果的に、君らは出ることを選んだんだろ? だったら集中してくれ」
「「…………」」
「まあ、君らがやることなんてほとんどないんだけどね」
押し黙った二人を他所に、ジゼルは人払いの結界を使いカフェの店内から人々を追い出した。
「僕は出た後の戦力が欲しいだけだから。それまでに切り替えてくれればいいよ」
「どうやって……」
「うん?」
ラルフの呟きを拾ったジゼルは、聴覚だけをラルフに向けて残りを脱出の準備に費やす。
「どうやってここから抜け出すんだ?」
「僕の“天秤の概念”を使う。夢と僕らのバランスを壊して、エトラヴァルトが空けた脱出口を万人向けに調節するんだよ」
ラルフたちには見えない“なにか”を弄るジゼルは、ほぼ単独で脱出を成功させたエトの特異性に目を細めた。
「全く、これだから熟成された概念は。世界を擬似的に電気信号に置き換えて、強引に脱出プログラムを構築したのか? 本当に無茶苦茶だな……よし、掴んだ」
右手で何か見えないものを掴むジゼルは椅子から立ち上がり、膝立ちの姿勢で目線を下に落とす。
目線の先には、先日、ジゼルが落としたグラスによって砕かれた石材の床。事前に楔を打っていた場所に意識を集中させる〈異界侵蝕〉は、空いた左手でラルフとストラを手招きした。
「僕の左腕を掴んで。なるべく素肌を」
「わかった」
「わかりました」
ジゼルの言葉で意識を入れ替えた二人はジゼルの服の袖を捲り、両手でしっかりと彼の左腕を掴んだ。
「一つだけ留意することがある。本来なら黒髪の子が持つ“概念”で座標を安定させる予定だったんだけど、それが叶わなくなった。だから、脱出した先の位置と時間が不鮮明だ」
「つまりどういうことなんだ?」
迂遠な言い回しに首を傾げたラルフに、ジゼルは端的に、この先で起こる可能性を列挙する。
「まず前提を整理しよう。僕らがこれから敵対するのは【救世の徒】だ。誰が来ているのかまではわからないけど、最悪、出た先でいきなり幹部クラス……つまり、〈異界侵蝕〉と同格の奴らとぶつかる可能性がある」
場所も、時間軸も不鮮明な脱出。
ジゼルは、脱出直後に『幻窮世界』の存亡をかけた戦いに放り込まれる可能性を告げた。
「君らは今、冒険者じゃない。『海淵世界』を代表した、『幻窮世界』を守る立場にある戦士だ」
「「…………!」」
「それでも来るかい?」
二人は顔を見合わせて、一斉に頷いた。
「当たり前だ。元々、そのために来た」
「戦う覚悟はできています」
「よし。それじゃあ行くよ——」
ジゼルの右手に、黄金の天秤が出現する。
「『調停者ジゼルが告げる 対価は意志 揺らす理は夢の残渣』」
——ギギギ、と。
重苦しい音を立てて、天秤が揺れ、左へと傾いていく。
「『我は過去を写す鏡 正しき現在を見渡せ 汝が未来、沙汰を下すは重ねし日々なれば』」
輝きを増す黄金の天秤が、音を立てて左へと落ちた。
「『終わりを迎えし空虚の夢よ!』」
ジゼルの右手が握りしめられ、天秤を破砕——真下に振り抜かれた右腕が、目の前の空間を引き裂いた。
「「「…………っ!」」」
三人、言葉は要らず。
一斉に、夢の出口に飛び込んだ。
◆◆◆
「…………ぇ?」
それは、小さい悲鳴のようで。
待ち望んだ歓喜のようでもあった。
大真面目な表情で『宝石の加工』に取り組むエトラヴァルトと紅蓮。
〈贋作〉工房という果てしなく胡散臭い名前の町工場にて、正真正銘、本物の宝石を加工するという奇妙な体験に没頭する二人は、背後の空を見上げるエルリックには気づけなかった。
「今の、気配は……」
遥か上空を覆う結界とは似ても似つかないナニカの破損。そして、その奥から僅かに溢れてきた気配たち。
ほんの一瞬の出来事で、勘違いかもしれなくて。
それでも、エルリックはその名前を呟かずにはいられなかった。
「クライン……?」
幻窮世界観光ツアーは六日目を終え、最終日の七日目へと突入する——。




