帰り道なんて
エトラヴァルトたちがツアー五日目に突入した日、時を同じくして。
未だ夢の世界に囚われるストラは自らの身に起きた無視し難い変化に小首を傾げていた。
「この服は……」
この世界が『幻窮世界』ではないことを証明しろ。
〈片天秤〉ジゼルから打診された「夢の世界を壊す」協力関係に応じるためにストラが提示した条件である。
期限は一週間。
それ以内に証明が叶わなければ真偽はどうあれ協力はしないと決めていた。
「まさか、自分が何よりも強い証拠になるとは思いませんでした」
しかし翌日。
ジゼルが証明に手を尽くすまでもなく、ストラはここが彼の言う“夢の世界”であることを認めてしまった。
身に覚えのない、しかし一年もの間暮らしてきた部屋で目を覚ましたストラが身につけていたのは寝巻きではなく、学園長エスメラルダから譲り受けたローブだった。
「間違いありません、ここに来る時に着ていたものです」
激戦を越える度に補修と補強を繰り返したローブの、それでも褪せない艶やかな感触を手のひらで感じる。
「夢の世界……ジゼルさんはそう言ってましたね。わたし自身が部分的に支配から抜け出したことで、世界に与えられた役割から解放された、ということでしょうか」
魂の知覚による肉体の変化。
ストラには非常に覚えのある事象だった。
「なるほど。エト様がいの一番に脱出できるわけです」
魄導を会得していない自分でもこうして主体的な認識、自我を取り戻せたのだ。ラルフも同じようになっているだろう。
そう考えたストラは、自然。
昨日の話し合いに来なかったもう一人の仲間に思考を割いた。
「イノリの現状に対する認識が気になりますね。多分、まだこの世界に囚われているでしょうし」
夢の世界はエトラヴァルトの脱出を“転校”、“配置換え”として処理した。
当時はストラも『そうなのか』と納得していたが、今ならばそれが整合性を取るための世界の調整だと認識できる。
であるのならば、未だに学校に在籍しているイノリはエトと違い脱出はしていないと考えるのが自然だった。
「どのみち、事態は最悪か、その一歩手前だと思いますけど」
◆◆◆
「というわけで、イノリの家に直接乗り込んでみようと思います」
「ストラちゃん、何がというわけでなのか俺にはさっぱりなんだが?」
イノリの様子を見に行くことには賛成だったが、そこに至るまでのストラの思考をさっぱり知らないラルフは引き攣った笑いを浮かべた。
「まあ、今更学校なんかに行った理由には合点いったけどよ」
この夢の世界に来てから、ラルフとストラは一度とてイノリの自宅に行ったことがない。
最寄駅は知っていたが、住所を知っているのはここにはいないエトラヴァルトただ一人。なので二人は、イノリと仲のいい生徒という“配役”を利用して彼女の自宅住所を特定、玄関前に辿り着くに至る。
「ちなみにだけど、ストラちゃん」
インターホンを鳴らす前に、ラルフは前提条件の共有を試みた。
「エトはさ、イノリちゃんの現状を把握してると思うか?」
「十中八九把握しているかと。その上で、エト様はイノリに猶予を与えたのだと思います」
「ストラちゃんも俺と同じ考えか」
エトであれば、イノリを無理やり連れ出すことができたはず、というのが二人の見解だった。
そもそもイノリに限らず、ラルフやストラ。その他、『幻窮世界』に救援に来た他世界の戦力の目を覚まさせることも不可能ではないはずだ。
だがエトはそれをしなかった。
「この世界がジゼルさんの言うように、囚われた人の夢、願望、記憶を基盤に成り立っているのなら、エト様はこれを壊そうとはしないでしょう」
「ああ。その辺、アイツは大事にするからな」
記録の概念保有体、《英雄叙事》を所有し、誰よりも、想いや記憶を尊ぶ在り方。
エトがこの世界を壊さずに姿を消したことが、ストラたちにとって、ジゼルの発言の信憑性を裏付ける証拠になっている。
「まあ今回に関してはぶち壊して欲しかった、というのが本音ではありますが……。いえ。イノリがいたからこそ、エト様には壊せなかったんでしょうね」
幻でも、記憶の再現でも。
少女がずっと探してきた兄と姉がいる。
「エトは、選択をイノリちゃんに委ねたんだろうな」
「しかし、いつまでもエト様一人に負担を強いるわけにはいきません。そろそろ、夢から醒める時間です」
静かに、しかし強く断言したストラが意を決してインターホンを鳴らした。
◆◆◆
「二人ともわざわざごめんね。帰り道と反対側なのに」
一ヶ月ぶりに姿を見せたイノリは、二人が思っていたよりは元気そうな笑顔を見せた。
「ちょっと体調悪い日が続いちゃってさ、心配かけちゃってるね、私」
「イノリ、ご飯はちゃんと食べていますか?」
「うん、そこは大丈夫。お姉のご飯美味しいから」
イノリは二人が届けた進路希望調査表や手紙の数々に目を通す。
「修学旅行……そっか、こんな時期に行くんだね。班決めまでには学校行かないとなあ」
「あーっと、イノリちゃん。今日は家の人は——」
迫るイベントに頬を綻ばせるイノリは、少しだけ不安そうな眼差しで玄関を見た。
「兄ぃは仕事。お姉は買い物。二人とも、もう少ししたら帰ってくると思うよ」
「……そうなのか」
「…………」
それっきり、部屋には重苦しい沈黙が訪れる。
時計の秒針が刻む音を掻き消すように、表通りを走る車の排気音が喧しく聞こえるほどに、静かでひんやりとしたリビング。
ストラは本題に切り込むために、大きく息を吸った。
「イノリ、聞いてください。わたしたちがいるこの世界は『幻窮世界』ではありません。ここは——」
「夢の世界、なんでしょ?」
「「——!」」
ストラとラルフが揃って息を呑む。
驚く二人を他所に、目線を白紙の進路希望調査表に固定したまま、イノリはまた口をつぐんだ。
「……はい。イノリの言うとおりです」
イノリはここが夢の世界であると、現実ではないと認識していた。
事態は、ストラが想定していた最悪だった。
「……現在、先行してエト様がこの世界を抜け出しています。現実でどれだけの時間が経っているか未知数である以上、わたしたちも早々にエト様に合流しなくてはなりません」
また、現実の肉体の状況も不明瞭。
ならば、わかっているのなら脱出しよう。
「ですからイノリ。これからわたしたちと——」
そうやって、ストラは説得するつもりだった。
「私は行かないよ」
俯いたまま、イノリはストラの提案を拒絶した。
「私は、行かない」
もう一度。
聞き間違いとは言わせないと——そんな強い意志を伴って。
「イノリちゃん、なんで」
「だって、ここには兄ぃとお姉がいるもん」
澱みなく、それ以上の理由なんてないと告げるイノリに、ラルフは冷や汗をかきながらも食い下がった。
「いや……何言ってんだよイノリちゃん! 現実で兄貴見つけんだろ? 姉さんの手がかり探すって、エトとそう決めたって……!」
互いの目的を果たすまで共にいる。
エトラヴァルトとイノリの契約は、同じ旅の仲間でありながらストラとラルフには決して踏み込めない領域。
そのためにイノリは何度も死線を超えてきたのだと、ラルフは知っている。
「イノリちゃん、ここは夢の世界だって自分で言っただろ! だったら、起きて探しに行かないと——」
「夢でもいいのっ!!」
「——っ!?」
それは、鼓膜に突き刺さるような悲痛な叫びだった。
「夢でも良いんだよ。ラルフくん」
ぐしゃりと手元の調査表を握りつぶして、イノリは奥歯を食いしばった。
「兄ぃが見つかる根拠は? お姉が生きてるって、どうやって証明するの?」
黒晶の瞳が揺れる。
「わかってるよ。エトくんのことは信頼してる。でも、兄ぃが見つかるかなんてわからないし、お姉の証拠があっても、それがいつのものかなんてわからない」
——見つからないかもしれないんだよ、と。
イノリは泣きそうな表情で言う。
「そしたら、私はどうなるの? この世界だけなんだよ、私が、兄ぃとお姉と絶対一緒にいられるのは。ここを出たら、もう二度と……。二度と、顔見ることだってできないかもしれないのに!」
迷子の子供のようだ。
ストラは、今のイノリを見てそう感じた。
「わかってるよ、夢なんて。それでもここを出たら、私、ひとりぼっちになっちゃう」
その姿に、言葉に。
ラルフは、『そんなことはない』と声を荒げた。
「そんなこと——だって、エトがいるだろ! 俺も、ストラちゃんだっている! だから、ひとりぼっちなんてこと」
「——うるさいっ!!」
それでも、イノリには届かなかった。
「わかんないよ、ラルフくんには! ストラちゃんにも!!」
近所迷惑なんて考えず、イノリはリビングのど真ん中で喚き散らす。
「ラルフくんにはお父さんがいるじゃん! 兄弟だって、帰る世界があるじゃん! ストラちゃんだって、リディアさんたちみたいな歓迎してくれる友達が、エスメラルダ学園長も!! エトくんにはリステルがあって、ミゼリィさんがいつでも待ってて——!」
一瞬、呼吸して。
下唇を噛みちぎりそうなほどに歯を食いしばって、イノリは涙を振り散らした。
「——私には何もない! 帰る家も、家族も、世界も! 私には! だからここしかないの!! ここを拒絶したら、私の居場所は、もうどこにもない!!」
「イノリ……。ですがエト様は、イノリと——」
最後まで共にいる、そう誓ったのではないかと。
ストラの言葉に、イノリはより一層表情を苦しそうに歪めた。
「わかってるよ、エトくんは約束してくれた。——けどさ、言えないよ。エトくん、世界を救うために頑張ってさ。本当に、本当に頑張って……!」
隣でずっと見てきた。
その困難な道のりを。
共にずっと歩いてきた。
苦難に満ちた日々を共有してきた。
だからこそ、
「だから、言えるわけないじゃん! 頑張って世界を救ったのに! 待ってる人がいて、約束した人がいて! ——なのに!! 私と一緒に、どこか知らない場所で野垂れ死んでなんて!!」
世界を救った英雄の最期が、そんなものだなんて。
そんなの、あまりにも報われないだろう。
隣にいたからこそ。隣にいたいからこそ認められない。
「……だから、私は行かないよ」
椅子から立ち上がったイノリは泣き腫らした顔を隠すように二人に背を向け、覚束ない足取りで廊下への扉に手をかけた。
「イノリ……!」
「イノリちゃん!」
二人の呼ぶ声に、イノリは小さく『ごめん』とは呟いた。
「ごめんね、二人とも。必ず……必ず追いつくから。ちゃんと、お別れするから」
力なく、扉を開く。
「だから……だから、今は置いて行って。お願い、だから」
締まりゆく扉の先の背中を追うことは、二人にはできなくて。
「今日は帰って。鍵、オートロックだから。心配しなくて、いいから」
イノリはリビングに二人を置き去りにして、自室へと帰って行った。
◆◆◆
——チクリと、肌を刺す違和感があった。
直感が、妙な胸騒ぎを起こした。
「あん? どーしたエト?」
工場見学の最中、直売所で買った饅頭を昨日とは打って変わってご機嫌そうに頬張る紅蓮の疑問に、俺は後ろ髪をひかれつつも首を横に振った。
「いや、なんか胸騒ぎがしたというか」
「胃もたれか?」
「もたれるほど食ってねえ……ってかお前それ何個目だ?」
「六個目」
「俺の分まで食ってんじゃねえか馬鹿吸血鬼!!」
「うわよせやめろ! ここで暴れたら揃ってマッシャーで肉団子になるぞ!!?」
紅蓮と揉み合ったあとも、胸騒ぎは収まらず。
選択を誤った——そんな感情が、脳裏にこびりついて離れなかった。




