その停滞が示すもの
——時は遡り、『悠久世界』と『海淵世界』の本格開戦、その一週間前。
それは、この星に属しながらもこの星のどこにも存在しない。
しかし、すべての世界と地続きの地平に存在する『特異点』。
〈竜人〉ジークリオンの権能によって生み出された天を衝く“結晶塔”。【救世の徒】の本拠地のシンボルタワー。
その最上階にて、吸血鬼の紅蓮は。
「……エステラ。テメェなにしやがる」
「なにって、アホの拘束だよ」
極彩色の結晶を長方形にくり抜いた一室には椅子の一つすらなく。
本来であれば空虚な部屋の中央には、エステラによって十字のポーズで氷漬けにされた喋る吸血鬼のオブジェがあった。
「落ち着きなよ紅蓮。キミが逸るのはわかるけどさ」
エステラは〈旅人〉ロードウィルとの交渉で得た『幻窮世界』リプルレーゲンの情報を反芻する。
「二千年前、滅亡惨禍と同時に滅びたはずのキミの故郷が、どういうわけか誰の目にも留まらず生き延びていた。……より正確に言うなら、存在の認知が抜け落ちていた」
それは不可解な認識の誤謬。
『幻窮世界』は滅びを知った者に対しては不在を偽り、滅びを知らぬ者に対しては変わらぬ繁栄を維持し続けてきた。
「認識を植え付けたんじゃないね、これは。私たちが勝手に勘違いするように仕向けていた」
——全くどうやったのか。
そう言うエステラの口元は笑っていた。そして、目線は自ら氷漬けにした紅蓮に向いている。
「で? 私が止めなかったらどうするつもりだったの?」
「決まってんだろ、実態を確かめに行くんだよ」
一切の躊躇なく紅蓮は断言する。
外部からの観測がままならない七強世界へ単身赴くという無謀を、しかしエステラは口では咎めなかった。
「お前も知ってんだろ。どんだけ『残響回廊』に潜っても幻窮は見つからなかった。それが、今目の前にあるんだよ」
「…………」
「無事だったんならそれで良い。だが、どっかの誰かが死体を弄んでんなら——」
一呼吸おいて、紅蓮は紅い瞳を暗く輝かせた。
「この手できっちり送ってやらなくちゃならねえんだよ」
「それは、キミの願い?」
「いや、ケジメだ」
全身を赤い霧に変えて氷から脱出した紅蓮は、その十字架の頂上に腰掛けた。
決然とした表情、男に迷いはなかった。
「盟主の手足になると決めた俺が、故郷に贈る最大限の決着の付け方だ」
「どんな道を辿っても、“救世”の結末は変わらないのに?」
無力を嘆くのではなく。
運命を悲観したわけでもない。
揺るぎない覚悟があるゆえのエステラの問いかけに、紅蓮は鼻を鳴らして笑った。
「ハッ。終わりは同じでも、歩き方はいくらでも選べんだろ。心のままに。そのための力だ」
「……強者の特権、か。確かにね」
観念した、と肩をすくめたエステラは人差し指で中空を撫で、生まれた空間の裂け目から封のされた手紙を取り出した。
「そんなキミに、盟主からのプレゼントだよ」
「……マジか」
予想だにしなかった指令に、紅蓮は驚きながら封を切る。
そうして中身を読み込んだ吸血鬼は、少し、嬉しそうに笑った。
「キヒッ。楽しい里帰りになりそうじゃねえの。……なあ、ハーヴィー」
そうして紅蓮は、戦争の決着を見届けてすぐ、『幻窮世界』へ足を運んだ。
◆◆◆
『幻窮世界』観光ツアー三日目。
案内人エルリックに導かれたエトラヴァルトと紅蓮は北東地区の“旧市街”へと足を運んだ。
「はい、ここが旧市街です! 名前の通り、『幻窮世界』の過去を楽しめる場所です!」
両手を広げて歓迎をアピールする大はしゃぎなエルリックに対して、エトと紅蓮の両名はひどくフラットな感情だった。
「「旧市街ねえ……」」
呟きに込めた意味は互いに違えど、初日の遊園地と比べてテンションが低いのは明確だった。
二人の前に広がる街並みは、はっきり言って前時代的なものだ。
“旧”と名がつくのだ、当然、街並みは現代のものとは異なる。
しかし、二人の感覚では。
さらに言えば、『弱小世界』と揶揄されるリステル出身のエトですら、あまりにも資源的に古すぎる街並みだと感じた。
「これ、いつの時代の再現だ……?」
--<いやー、本当に古いねー>--
露骨に戸惑ったエトの内側で、シャロンも同様の感想を述べた。
「これ、モルタルってやつだよな」
--<二、三百年やそこらじゃ効かないよね>--
土壁や茅葺き屋根とは言わない。
ちゃんとした骨組みから組まれ、外気や災害への耐性を考えた上で設計された一般的な家屋だ。いや、それ以前の技術がそれらを考えていないと言えば語弊になるが。
だが一つ、致命的に異なる点がある。
--<エト、気づいた?>--
シャロンの問いかけに、薄く張り巡らせた自身の魄導から得た情報を精査したエトが頷いた。
「ああ。この街、1ミリたりとも異界関連の資源が使われてない」
——異界が出現してから五千年余り。
特異な環境で生成された異界の資源は様々な分野で活用され人類の発展に寄与してきた。
異界で産出された素材は、当然のように建築産業にも取り入れられる。
たとえば灼熱を凌ぐ、熱を奪う砂。
たとえば極寒を遮る、溶岩をそのまま押し固めたような鉱石。
たとえば大地震にも怯まない、卓越した耐震性を有する木材。
加工の難易度は既存の素材を遥かに上回るが、それを差し引いても研究しないという選択肢はあり得ない、人類の生活をより豊かな方向へと導く革新的な資源の数々。
異界を持たないリステルですら砦や王城、学園といった重要な建築物には、探索省(壊滅済)の遠征や輸入を利用して異界資源を用いてきた。
今、この星の上にある世界の全て、異界の恩恵に与っていない世界など存在しない——それが、確認するまでもない人類の共通認識である。
つまり、エルリックが案内したこの“旧市街”は。
少なくとも異界資源の加工技術が未成立だった、もしくは未浸透だった時代の産物なのだ。
「リステルの田舎町以外にもまだ残ってる世界があったのか……」
エトの受けた衝撃はそれなりに凄まじいものだった。
最弱、故に『弱小世界』と揶揄されるリステルと同様の建築物が、現存に至る過程は違えど七強世界の一角である『幻窮世界』にあったのだ。
驚かずにはいられなかった。
「エルリック、ここに住んでる人たちはいるのか?」
「常駐している人はいません。職人さんや警邏さんが交代制で駐在してますけどね」
摩耗を防ぐための最低限の処置を行うための最低限の人員のみ、旧市街に出入りしている。
そう説明するエルリックの横顔に、エトラヴァルトは寂しさを感じさせられた。
「お客さんも、現地のみんなも、殆どの人はここには立ち寄りませんから」
「エルリックは、よくここに来るのか?」
俺の質問に、エルリックは少し不思議そうに目を瞬かせた。
「どうしてそう思うんですか?」
「紹介が手慣れてると思ってさ」
説明の合間の呼吸、視線の誘導など。エトの目には、非常に洗練された動きに見えた。
それだけではない。
旧市街を歩くエルリックの一挙手一投足があまりにも慣れ親しんでいた。そこにいることが自然であるかのように、エルリックという個人はこの地に馴染んでいる。
少なくとも、エトはそう判断した。
「好きなんだな、この場所が」
「…………、はい」
エルリックは、らしくない掠れた声で頷いた。
「ここには、思い出がたくさんありますから。——ごめんなさい、少しお手洗いに行ってきますね!」
慌てた様子で頭を下げたエルリックはエトに背を向け、〈王冠〉の旗印を掲げた小物屋の角を右に曲がった。
「思い出、か」
エト自身、強く覚えがある感覚だった。
「俺にとっての、あの丘みたいなものなんだろうな」
エトは今一度、ゆっくりと旧市街を見回した。
碁盤を想起させるような規則正しい配置とは真逆。
誰も彼もが好き勝手に、やりたい放題に増築やらを繰り返した結果、旧市街は常人が歩くには難易度が高すぎる混沌とした街並みと化している。
特にエトの視線を吸い寄せるのは、〈王冠〉印の小物屋だ。
ショーケースの中に並ぶ商品はどれもハートの細工が施されているし、商品はおろか、店の外観やら旗やら窓やら、何から何までハートづくしという悪趣味の極みのような建物だ。
混沌とした旧市街の中でもひときわ浮いた建物と言えるだろう。
「なんかすげえ既視感があるんだよな……」
割と最近、趣味が偏った誰かさんと話した記憶があるエトは、『まさかな』と首を振った。
「にしても、こうしてみると建物の構造自体は今とそんな変わらないんだよな」
変わらない、というのは勿論ハート御殿を除いた場合である。
混沌と並ぶ建物の数々は、確かに一般的な建築様式を無視している。恐らく、四桁年前の当時であっても『なんじゃこりゃ』と言われるであろう煩雑な建築。
だが、技術の基礎は今と大差がない——少なくとも、エトの素人目にはそう映った。
材料に使われる異界資源の有無以外に目立った変化がないのだ。
「昔から、『幻窮世界』の技術が優れてたってことか……?」
胸に溜まる澱んだ違和感。
エトは、それを言語化することを無意識に避けた。
「まあ、うち『弱小世界』だしな……」
技術的に大きく遅れているのは不思議ではないと、エトは自分を納得させた。
「……」
そんなエトの背中を、ひと通り旧市街を練り歩いてきた紅蓮が静かに見つめていた。
エトラヴァルトは、冒険者としていくつもの世界を旅してきた。
第四大陸では十を超える小世界と、『魔剣世界』レゾナ、『花冠世界』ウィンブルーデを。
そして、第三大陸の覇者『悠久世界』エヴァーグリーン。第一大陸の端では『羅針世界』ラクランに数日滞在し、『極星世界』ポラリスへと赴いた。
そして、大海を支配する『海淵世界』アトランティスすらもその身で体験した。
エトは歴史学者ではない。
そもそも、自他共に認める勉強嫌いであり30分本を読めば夢の世界に旅立てると豪語するエトは、勉強面ははっきり言って“馬鹿”である。
歴史の知識は、《英雄叙事》に蓄積された記録を断片的に読み解いたもののみ。
歴史の追体験など学者からすれば垂涎モノだが、本人がその情報価値を正しく認識しているかは甚だ疑問だ。
——さておき。前置きのように、エトラヴァルトには時代考証をする上での歴史的知識が不足している。
しかし、彼には他者には真似できない実体験と追体験がある。
そして、誰も持ち得ない直感がある。
無意識に蓋をした違和感。
目を逸らし、忘却した疑念。
——数千年もの昔から、異界資源に関わる分野以外、根本的な技術の進歩は起こっていないのではないか?
その直感に、どれほどの意味があるのか。
生まれた疑問を理解できなかったエトは、考察を諦めて記憶の片隅に追いやった。




