か細い糸を手繰って
たった一人で異界に入るのは実に約一年ぶりとなる。
クソ吸血鬼の紅蓮、そして相棒となるイノリに出会ったあの日からもうそれだけ時間が経ったのか——なんて感慨に浸る余裕は、残念ながら今の俺には欠片もなかった。
暗い“神殿型”の異界。
バイパーがデコピン一発で木っ端微塵にした巨大なミノタウロス。彼を王に据えた絶対君主制が俺に牙を剥いていた。
ミノタウロス……危険度7に該当する、牛の頭をした筋骨逞しい魔物。異界によっては人類とかなり近しい容姿をしているケースがあり、獣人たちからこれまた蛇蝎の如く嫌われている。
右を見ても左を見ても無数の牛頭。俺の全速力に軽々と追従し、俺の腕力を容易に上回る剛力で岩石を石を乱雑に削り出した武器を振るう。
バイパーに王を討たれた兵の怒りは、取り残された俺一人に全て向けられていた。
何分、何時間、何日……いや、何ヶ月経った?
途切れることのない会敵。一体倒すだけで体力を大きく消耗する。
道のわからない異界の深く、暗闇と魔物の足音、吐息、気配。師匠のお墨付きを貰った空間把握能力が仇となり、あらゆる音が俺の精神を蝕む。
心と体、両方がひどく疲弊する。
時間感覚はとうに消え失せ、自慢の方向感覚もままならない。
威勢よく挑んだのは、最初の一体だけ。
圧倒的な膂力の差に完敗を喫し、自分の無力を思い知らされ、そこから先は逃げるのみ。
——剣が軽い。
鎖によって封印されたアルスの魔剣は戦闘には使えない。
——《英雄叙事》が応えない。
まるで昔に戻ったように、栞が外れ、導線が途切れている。
「なんで——」
いままでずっと側にあったものが急に手の届かない存在になってしまったかのように、俺の手に、本が触れない。
思考が安定しない。
ふわふわと宙に浮いたように、言葉が浮かんでは消えていく。
逃げる足が、重い。
「……ざ、けんな」
危険度7一体すら倒せずに、無様に逃げ回っている。
「こんなに、俺は……!」
弱い。どうしようもなく、覆しようのない事実。
3年前の、ラドバネラとの戦争。あの時に似た無力感。何もできない、何も成せない自分への怒りが胸を満たす。
〈異界侵蝕〉にならなくちゃいけない。リステルを……俺の愛する故郷を守るために。強く、今よりずっと強くならなくちゃいけないのに。
「届かなくちゃ……ならなくちゃ……なのに!!」
右側面、薄い壁を突き破ってミノタウロスが出現する。
怒りで周辺への警戒が途切れた僅かな間、フィジカル一本で危険度7に名を連ねるミノタウロス渾身の突進が俺の脇腹を抉り、大きく突き飛ばした。
「がっ、……ゴハッ!?」
壁を二枚突き破り柱に叩きつけられ、その場に芋虫のようにうずくまる。
折れた柱の落下地点から這いずって逃げ出した先、眼前にミノタウロスの逞しい足が見えた。
——ミシ、と音を立てて頭蓋を握られ宙に吊るされる。至近距離で喜悦に歪む牛の頭と目が合った。
無手のミノタウロスが、武器を求めるように俺の背中の剣に右手を伸ばす。
「汚ねえ手で、さわんじゃねえ……!」
その手首を左手で掴み返し、指先を腱に捻じ込んだ。
「これは、渡さねえっ!」
『ブモオオオオッっ!!』
予想外の反撃に怒り吼えたミノタウロスが、俺の肉体を軽々と投げ飛ばし壁に叩きつけた。
「〜〜っ!?」
背中から全身に伝わる衝撃に呼吸を止め悶絶する。
追撃に飛んできた蹴りを顔面にもろに受け、受け身もできずに大理石の床をゴロゴロと転がった。
「かっ……! ゲホッ、ゴホッ。……くそ、ちくしょう……!」
……いつの間にか、全方位をミノタウロスに囲まれていた。
涎と、血と、涙と、汗と。悔しさと己へのやるせなさでぐちゃぐちゃに顔を歪ませる。
こんなんじゃダメだ。
超えなくちゃ届かないのに。仲間を守れないのに。
自分の身一つ守れないで、這いつくばって。
「俺は、まだ……!」
伸ばした右手を牛頭人の足が踏み潰す。骨肉が千切れるように潰れて血飛沫が飛ぶ。
「づぁあああああああっ!?」
右手を踏みつけられた状態で、石斧が俺の頭部を殴りつける。
頭部を抉られ、多分、頭蓋に罅が入った。一瞬にして意識が遠のく。
左手で身を起こそうと踏ん張って、血溜まりに手を滑らせどさりと地に伏せる。
「死ねない、しにたく、ない……!」
俺は情けなく、懇願するように声を漏らす。命乞いのように左手を伸ばし、当然、ミノタウロスは俺を蹴り飛ばして却下する。
……異界の魔物は、危険度に比例して高い知能を有する。ミノタウロスは特に仲間意識が強い個体だ。
ゆえに、自分たちの王を殺されたことに激情し、俺を、なるべく尊厳を踏み躙り殺そうとしていた。
それは、唯一付け入ることができる隙。だが、俺の力では、その隙を見つけても、活路をこじ開けることができなかった。
再び壁に叩きつけられた俺は、ズルズルと滑り尻餅をついた。もう指先一つ、動かせなかった。
「あ、るす……」
名前を呼んでも、もう、応える声はない。『花冠世界』での邂逅で、彼女の魂は燃え尽きてしまったのだから。
残された約束を、果たさなくちゃいけない。
でも、俺は弱くて……弱音を吐かないと決めたのに。
眼前、脳震盪からチカチカと白熱する視界に石槌を振り上げる魔物の姿が映り込む。
避けなければ死ぬ。
わかっているのに、俺の体は動かない。
ミノタウロスは不細工に嗤い、武器を振り下ろした。
◆◆◆
——エトラヴァルト誘拐から5日後。
『極星世界』ポラリス、第二異界都市ノードの穿孔度6は未だに封鎖状態にあった。
変異個体の発生を理由に半径2km以内の住民は避難を余儀なくされ、普段は活気溢れる商店街はただ雪の降り積もる無人の廃都の様相を呈していた。
そんな穿孔度6『クノッソス』の入り口で、今回の封鎖の元凶であるバイパーは腕を組み、じっと何かを待ち続けていた。
そこに、カツ、コツと。
異界の中から足音が響く。
次第に大きくなっていく足音に振り向いたバイパーの目が捉えたのは、〈鬼王〉スイレンの姿だった。
「……つまらねえ野郎だ。結局持ち物頼りか」
失望を露わにするバイパーに、スイレンは首を横に振った。
「否、これは某が自主的に主導権を奪ったのだ」
死人が生者から肉体の主導権を奪った、その事象にバイパーは僅かな興味を抱き片眉を上げた。
「某がこの地と縁があるからであろうな。ここであれば、多少のわがままが通るらしい。……安心するといい、エトラヴァルトは傷つき、今は眠っている」
「んだよ、もっとつまらねえじゃねえか」
バイパーは落胆に肩を落とし力なく腕組みを解く。
「つまりクソガキはこの異界を越えられなかったってことだろ。結局、ソイツは口だけの、なにも成せねえクソガキだったってことだ。ったく、俺の勘も鈍りやがった……全く面白くねえ。テメェもとっとと失せやがれ」
吐き捨てたバイパーは、もう用はないとその場を去る。スイレンは臆することなく、その半歩後ろをついて歩いた。
「——何のつもりだ、テメェ。失せろっつったぞ」
「いやなに。貴殿が少々わかりやすい“嘘”……“誤魔化し”をするものだからな」
「嘘……俺が?」
立ち止まったバイパーが大気を震わせて嗤う。
「クカッ! カカカカカカカッ! 言うに事欠いて、この俺に嘘を問うか! 俺が興味を示す前に死んだ凡百が!」
全身を刺す殺気を意に介さず、スイレンはバイパーの横に並ぶ。
「そうだとも。某は貴殿に興味を抱かれる前に死んだ。貴殿はそういう男だ。自分を楽しませるもの以外に興味を抱かず、自分の欲と快の赴くままに生きる……そういう存在だ」
それゆえに矛盾があると、スイレンははっきりと断言する。
「貴殿はエトラヴァルトに興味を抱いている。多少の失望程度では見離さない程度には深い、他とは違う明確な“期待”をしている」
「根拠はなんだ?」
「某の勘だとも」
「……ハッ! 根拠のねえ言葉に意味はねえぞ、弱者」
バイパーは足を止めず、さりとて隣に並ぶスイレンを置き去りにしなかった。
「で? 根拠のねえテメェの勘を俺に投げつけた意味はなんだ? 今回だけで失望せずに、懲りずにクソガキを鍛えろとでも言いにきたか?」
「まさか。貴殿にそんな要求は無意味だろう」
スイレンは飄々とした態度で、しかし熱を込めた視線をバイパーに向ける。
「某はただ、忠告をしにきただけのこと」
「あ゙?」
「あまりエトラヴァルトを……我らが語り部を舐めるな」
両者足を止め、真正面から視線をぶつけ合う。体格差で遥か上から見下す〈星震わせ〉バイパーの殺気の込もった視線に欠片も怯まず、〈鬼王〉スイレンは挑戦的な笑みを浮かべる。
「某たちが代々継承し続けてきた《英雄叙事》は、遥かな命の軌跡だ。無数の人々の旅路、魂の記録の積み重ねだ」
その起源は古く、滅亡惨禍より以前から存在する。
「某たちはただ、己の軌跡を刻ませるのみだった。だが、エトラヴァルトは違う。彼は、我らの旅路を背負っている。矮小な身一つで、無数の命の軌跡をその身で受け止めている」
ただ事実を述べるだけのつもりだった。だが、スイレンの言葉は次第に熱を帯び、バイパーの殺気を押し返す勢いを見せる。
「〈星震わせ〉よ、なにゆえエトラヴァルトが語り部足り得るのか、貴殿はわかるか? この《英雄叙事》に刻まれた魂の残滓全てがエトラヴァルトを認めているからだ。数千年の歴史が彼を認めているのだ、〈異界侵蝕〉よ!」
「——」
バイパーは静かに、スイレンの言葉の続きを待つ。そこには、侮りは存在しなかった。
「こころせよ、古くから生きる蛮王よ。我らが語り部は、間違いなく物語を紡ぐぞ。誰もが目を剥くとびきりの物語だ。某たちは確信している。最も新しき継承者は、必ずや貴殿の……いや、世界の度肝を抜くと」
周囲の雪を溶かすほどの白熱をみせたスイレンの言葉に、バイパーは自然、頬を吊り上げた。
「——クカカッ」
バイパーは凄絶に嗤った。
それは自分より後に生まれ、先に死んだ一人の鬼人の度胸への、彼の最大限の敬意だった。
「面白え。テメェの言葉に乗せられてやるよ、スイレン」
名を呼ばれた鬼人は、「重畳」と頷いた。
◆◆◆
——目覚めた俺は、ここ最近で見慣れた天井を見上げていた。
「……屋敷?」
外はまだ明るく、遠くから戦いの音が聞こえる。繁殖の竜が、来ているのだろうか?
「——お目覚めになられたのですね、えと様」
枕元からの声に視線を向けると、濡れたタオルを手に持ったキキョウが微笑んでいた。
「安心いたしました。えと様、十日も目を覚まさなかったので」
「とおか……そんなに」
「はい。……えと様、なにがあったのですか?」
キキョウは、真剣な眼差しで俺を見る。
「えと様の怪我は、尋常なものではございませんでした。頭部の怪我は、あと僅かに深ければ致命傷に至っておりました」
キキョウは目の下に隈を作っていた。繁殖の全盛期と、それと重なった俺の誘拐、そして瀕死の重傷。多大な心労をかけてしまったことは想像に難くない。
バイパーは、なにも話さなかったのだろう。……そもそも、アレが倒れた俺を回収したこと自体驚きだ。運が良かった、と言っていいのだろうか。元凶に感謝する気には、到底なれなかった。
「俺は……なにもできなかった」
出てきた言葉は、誰に向けたものかもわからない懺悔。
「俺は、弱かった」
聞こえる戦禍に、身を起こす。
「……行かないと」
仲間が、師匠が、共に肩を並べた人たちが戦っている。
行かなければ。行って、剣を。
「——なりません」
起きあがろうとした俺の肩を抑え、キキョウは強い口調で無理やり俺を布団に押し戻した。
寝起きの体はあまりにも弱く……否。明らかに俺の力が弱くなっていた。
「えと様のお気持ちは、拙に推し量ることはできません。ですがここはどうかご静養を。えと様は今、大変弱っております。今のままでは、戦場に立ってもなにもできないでしょう。——えと様、どうか、今は休んでください」
強い口調と優しい手つきで、キキョウは俺の頭を撫でる。
「カルラちゃんの過去をお聞きになったえと様ならばわかるはずです。繁殖期の終わりに、かの竜は再び姿を現すでしょう。最も苛烈な侵略の日、皆の力が必要になります。当然、えと様のお力も。拙にできるのは、こうしてお願いし、皆の無事を祈ることのみでございます。——お願いします、えと様。明日のために、今は力を抜いてください」
「…………」
キキョウの切な願いに、俺は、ゆっくり肩の力を抜いた。
「……わかった。今は、休む」
布団の横に置かれた鎖に巻かれた愛剣に触れてながら、俺はもう一度目を閉じた。
◆◆◆
キキョウの魔眼は捉えていた。エトの魂が、かつてないほど弱まっていることを。命の火と言い換えてもいい、力の源泉が、弱々しく風に吹き消えそうになっていることを。
以前の彼であれば三日と経たずに完治していた怪我を、十日以上も引きずるほどに、エトラヴァルトは弱くなっていた。
「——どうか」
キキョウは願う。
「どうか、えと様が。カルラちゃんが」
戦いの果てに、最良の結末が待っていることを。
「皆様が、笑って明日を迎えられますように」
魄明の巫女はぎゅっと目を閉じ、両手を組んで、強く、強く祈った。




