秋の風に吹かれて
右翼で瞬く閃光が誰のものかなんて、モミジには一瞬すら考える必要がなかった。
「ああ……」
驚愕も、心配も、不安もない。
湧き上がる感情はただ一つ、安堵と憧憬。
「やっぱり、カルラちゃんは凄いなあ……」
自慢の親友が弾ける姿に、モミジは少し、目を細めた。
「また突き放されちゃうな〜。もっと頑張らないと」
◆◆◆
驚くべきことに、カルラの参戦は戦線を立て直すどころか、繁殖の軍勢を押し返すだけのエネルギーを鬼人族全員に拡散した。
奮起した孫娘にリンドウが笑い、自らの背を脅かす存在にツバキが猛々しく吼える。全ての同胞が少女の勇気に背中を押され息を吹き返した。
繁殖の全盛期、その隆盛を。豊穣の地は、それ以上の力で押し返していた。
そんな物語を、それで終わってはつまらないと嗤う者がいた。
「……嗚呼。こんなところに居たんだね」
繁殖の軍勢の遥か後方。
彼らの巣穴とも言うべき異界の最奥で頁が舞う。
「名付けなきままの幽境の残穢……こんな辺境にあったなんてね。七強世界がここまで厳重に秘匿するなんて、よっぽどキルシュトルの件で痛い目を見たらしい」
灰の男は、一枚の頁を最奥に座す『胎盤』に恭しく献上する。
「君に意味を与えよう。今日から君は、繁殖の“母体”だ」
闇色の瞳が深く、深淵を見つめる。
「——物語は、悲劇を迎えてこそ完成する。全ては、遥かな旅路の終着点のために」
目の前で変質していく、幼竜、蛹、成竜……そのいずれとも違う“母”を前に、《終末挽歌》——グレイギゼリア・ベルフェット・エンドは、緩慢な祝福の拍手を送った。
「おはよう。久しぶりだね、惨禍の友よ」
深い深い異界の底で、一頭の竜が産声を上げた。
◆◆◆
突如巻き起こった地震は、これまでの地鳴りや侵攻の衝撃とは一線を画すものだった。
「なんだ!?」
「この揺れ、どこから!?」
正体不明の、立っていることすらままならない大振動に鬼人族たちが浮き足立つ。
成竜以外の繁殖の軍勢すら歩みを止めるほどの猛威を振るう地響き。
「慌てるでない! 敵から目を逸らしてはならぬ!」
より一層激しさを増す揺れに膝をつく者が現れる中、繁殖の軍勢の最後尾が爆発した。
『はっ——!?』
雪と土、そして同胞である繁殖の竜たちを木っ端微塵に吹き飛ばしながら、地の底から巨大な一頭の竜が姿を現した。
体高10Mを超えるその巨躯を前にした鬼人族たちに戦慄が走る。
「で、デカい……!」
「なんだアイツは! あんなの、記録には——!?」
「未観測の個体!? 馬鹿な、名付けなんて誰も……!」
全身を覆う鱗殻は、その全てが逆鱗のように禍々しく逆立ち、巨体を支える四つの腕は爪の先端に無数の付属肢を揺らす。
正しく竜の“翼”として成熟した二対の羽が空間を圧迫するように大きく羽ばたく。
長い首の先端、正しく竜の姿をした頭部の両側面に一列に並ぶ大量の複眼が不気味に輝き、花の花弁のように開く悍ましい口から酸を帯びているらしい唾液が零れ、真下の蛹を瞬く間に溶かした。
長大な尻尾は独立した別個の生き物のように唸り、泳ぐように自由気ままに空を切る。
これこそは、グレイギゼリアによって生み出された繁殖の“母体”。名付けと“概念の供与”によって生み出された、新たなる繁殖の竜である。
「く、来るぞ!」
「狙いは……右翼!?」
そんなことを知る由もない鬼人族たちは、突如として出現した新個体の圧力に押され、足を止めた。
しかし地鳴りによって崩れたのは鬼人族だけではなく、繁殖の軍勢も同様に気勢を削がれていたのは不幸中の幸いだろう。
だが、繁殖の母体と地鳴りを考慮しない成竜はその限りではない。
『GIGIGIGIGIGIGIGIーーーーー!!!!』
大気を震わせる悍ましい雄叫びを上げた母体が同胞の屍の山を築きながら疾走する。
無数の複眼が見据えるのは、黒髪の若い鬼人——カルラ。
「なによこいつ!?」
突如として出現した新たな個体に驚きを露わにしたカルラ。しかし対応は早かった。
左手の大鎚を捨て、腰から小太刀を抜き二刀を構える。巨体に見合わぬ高速軌道で瞬く間に距離を詰めてきた母体に対して、すれ違いざまに二閃。唐紅の剣閃が胴体に刻まれるも、有効打にならず。
「こいつ、硬……!?」
小太刀を通して腕に伝わる鱗殻の、成竜を凌ぐ硬度にカルラの表情が強張った。
「胴体がダメなら……!」
剣は止めない。背後に回ったカルラは繁殖の同志討ちによって広がった空間を最大限活用し疾走。跳躍から母体の翼に連撃を叩き込んだ。
『GIGIGIーー!!』
悲鳴と共に左翼が千切れ、どす黒い血が大地を溶かした。同時に、カルラの獲物も一度の攻撃で刃こぼれを起こす。
「嘘でしょ!? 闘気の守りを貫通して——」
直後、再生する。
強力な酸性を有する体液を撒き散らしながら、ほんの数秒で母体の翼が完治する。
あまねく竜が保有する埒外の再生能力。繁殖の母体も例外なく保有していた。
『GIGI——!!』
カルラを明確な障害と認識した母体が咆哮する。
空中、身動きが取れないカルラに対して超速の爪を振るう。
「なんの!」
前腕による苛烈な連撃。カルラはこれを巧みにいなすが、その表情は優れない。
「このっ……、デカい図体してやることこすいのよ!」
原因は、爪に浸潤する強酸性の体液。どういう原理かは不明だが闘気や魔法によるコーティングを貫通し武器本体の耐久を著しく損耗させる連撃。
カルラの獲物の二刀は瞬く間に溶解した。
「面倒な! 誰か武器貸して、なんでも良いわ!」
「お、俺のを……!」
カルラの頼みに、脇腹を深く抉られた同胞が戦斧を投げる。
「ありがと! あんたはすぐに治療行きなさい!」
しかと新たな武器を受け取ったカルラは鋭い視線を母体へと向ける。
カルラ以外に執着を見せない繁殖の母体は、新たな獲物を手に入れたカルラを前に不気味に嗤う。
両者、同時に動き出す。
「ふっ……!」
『GIGIーーーー!!』
目にも止まらぬ唐紅の連撃と、一撃一撃が大地を砕く埒外の爪撃が交錯する。
余人の介在を許さない高速戦闘。カルラと母体、両者のギアが上がる。
『ギギギギギギギーーー!!』
母体の活性化と共に、成竜以下も活動を再開する。
新たに羽化した10体の成竜がリンドウとツバキに牙を剥いた。
「カルラの援護に行きたいというのに、全くきりがないのう!」
「こいつら、意地でも僕らを縫い止めるつもりらしいな!」
二人の魄導使いと言えど、さしもの成竜を一撃で屠れるだけの力はない。個に秀でているのは、なにも鬼人族に限った話ではないのだ。
成竜は十分に優れた個と呼ぶに相応しい。
そして現状、成竜を安定して討伐できるのはリンドウとツバキ、そしてカルラの三名に絞られる。
加えて、豊穣の地と同胞を守るという使命を帯びる彼らの動きは必然、無意識にリスクを回避する。
決して倒れることができないというプレッシャーが、二人を賭けに出させることを許さない。
「振り絞れー! 幼竜をリンドウさんたちに近づけるな!!」
「カルラのところにも行かせるな! 絶対に邪魔はさせるな!」
立ち直った戦士たちが次々に戦線に復帰し火花を散らす。
当然、その中にはモミジの姿もあった。
「はぁ、はぁ……。やああっ!」
大粒の汗を垂らし肩で息をしながら、モミジは眼前の幼竜の脳天に刀を叩き込んだ。
「まだ、まだ……! カルラちゃんが、頑張ってるんだから……!」
たった一人、未知の繁殖の竜を相手に戦う親友の、戦場の反対側で瞬く唐紅の閃光に背中を押されるようにモミジが奮戦する。
「カルラちゃんの足は、引っ張らな……、え?」
刹那、悪寒がした。
その正体を掴めないまま、モミジは反射的に一歩引き、右翼を見た。
「なに、これ……」
形容し難い“嫌な予感”。それは、カルラの戦う右翼から吹き上がった。
「カルラちゃん……?」
◆◆◆
交錯の瞬間、カルラは目の前の母体のギアが段飛ばしに跳ね上がったことを悟った。
瞬きすら許されない高速戦闘。その中で、繁殖の母体が更に加速する。
「冗談でしょ……!?」
巨体にあるまじき超加速。カルラの最高速度を上回った母体がコマ送りのように少女の背後を取った。
『GIーー!』
「ぐっ……!?」
前脚のひと薙で吹き飛ばされる。体格・自重……シンプルなフィジカルの差に押し負けたカルラが戦斧を手放しながら激しく地面を転がった。
そこに、母体が追撃を仕掛ける。
踏み潰すように前脚を大地に突き刺し、間一髪転がり逃げたカルラの体を風圧だけで吹き飛ばす。
「カハッ……」
脳を揺らされながらも無意識に落ちていた槍を盾を掴み取ったカルラが立ち上がる——立ち上がった時には既に、背後で母体が翼を広げていた。
「んのっ……舐めんじゃないわよ!」
振り向きざま、唐紅の闘気を込めた槍を全力投擲。繁殖の竜は、見てから、槍を空中で掴み取りへし折った。
「そん、な——!?」
『GIGIGIGIGIGI〜〜!!』
喜悦の感情を覗かせた母体が無数の口吻を射出する。身を捩って避けたカルラの肩口や脇腹、額を鋭い先端が浅く抉り、避け損ねた口吻が左の太腿と右の脹脛を貫通した。
「ぁぁああああぁああああああーーーっ!!?」
強酸性を有する口吻が内部で唸り、もたらされた想像を絶する痛みにカルラが絶叫を上げた。
その声に、リンドウの表情が歪む。
「いかん……カルラ!?」
この期に及んで蛹から羽化し数を増し続ける成竜に囲まれるリンドウが焦燥に叫ぶ。
「そこを退けい!」
「行けリンドウ! ここは俺一人で抑える!!」
ツバキの声に、次の瞬間リンドウは駆け出していた。
「かたじけない!」
竜の攻撃に全身を裂かれ、抉られるのをものともせず、リンドウは最高速度でカルラの救出に向かった。
「が、ぁあああっ、ぁぁあーーーっ!!」
痛みに悶えるカルラは、両手に闘気を集中させ、口吻を掴み、捻じ切る。酸に両手を焼かれることすら厭わず、内側で蠢く口吻を両足から引っこ抜いた。
「づっ……ぐ、ぁあああっ……!!」
毒が全身に回り、痺れ、視界が歪む。
口腔に溢れた血を吐き出したカルラの眼前に、繁殖の母体が顔を近づけた。
「このっ……! あ、しが……!?」
酸によって筋骨のみならず神経まで破壊されたカルラの両足は、完全にいうことを聞かなくなっていた。
眼前、花が咲くように母体が口を開き、内側に備えた無数の鋭い歯を覗かせる。
「ひっ……!?」
生理的嫌悪、死への恐怖にカルラの全身が凍りついた。
ゆっくりと、やけに時間の進みが遅い世界で。カルラの視界が、闇に飲み込まれていく。
「カルラーーーーーーッ!!」
幼竜に左腕の肉を食いちぎられながらひた走るリンドウは、しかし、側方から吶喊した蛹に右足を砕かれ地を滑った。
「退けえい!!」
気迫だけで群れる繁殖を吹き飛ばしたリンドウだったが、致命的に遅れた。
母体が地に臥すカルラを飲み込もうと首をもたげた、その、刹那。
——ドッ、と。
カルラの体が何者かに押し除けられた。
「え」
辛うじて動くカルラの眼球は。
「よかった〜、間に合った」
自分の代わりに母体に呑まれる、モミジの姿を捉えた。
「嫌——」
あり得ないことだった。
左翼から右翼。広い戦場を真っ二つにぶった斬る大移動。悲鳴を聞き届けてからでは、どう足掻いても、モミジの実力では届かない距離。
——だから。
だから、そんな不可能を可能にするなど。“魄導”の開花以外にはあり得ない。
『——カルラちゃん。私思うの。人は、想い一つでどこまでも強くなれるって』
モミジが纏う鮮やかな秋色の鼓動は、少女の想いの証明だった。
『——大丈夫。何があっても、誰がなんと言っても、私がカルラちゃんを守るから』
カルラが手を伸ばす、その先で。
「——……」
何かを口にしようとして、つぐんで。
精一杯の笑顔を浮かべたモミジが、繁殖の母体に飲み込まれた。
リンドウが、地に伏す自分の弱さを叱責する。
「この、愚か者め……!」
モミジの最期を目にした者たちが怒りに震え、繁殖を根絶やしにせんと咆哮する。
誰もが叫ぶ、その声は。
カルラには一つとて届かず。
色を失った世界の中心にてのうのうと翼を広げる繁殖の竜に、カルラは喉が潰れるほどの絶叫を上げた。
「……せ! 返せ! モミジを……! 私の親友を返せ……! 返せ! 返しなさいよお!!」
酸に爛れた拳を握りしめ、何度も、何度も竜の前脚を殴りつける。
「ふざけんな! 吐き出せ! 返せ!! 返してよ!! 親友なんだ! たった一人の!! 私の、大切な……!! 大切、な……ごふっ!?」
鬱陶しげに振られた脚に吹き飛ばされたカルラは、まだ動く両腕だけで、動かない下半身を引きずり進む。
「うごけ! 動いてよ!! 私の足……なんで!? 血が出てない! 出てないのよ!!飲み込まれただけで……!だから動け!! その腹掻っ捌いて、だから、まだ生きてるのよ! 生きてるはずなのよ!!」
大粒の涙を流しながら、無様に地を這いながら、血を吐きながら絶叫する。
「約束したのよ! 一緒にお酒飲むって! 甘いやつ、準備したのよ! 甘くないやつも……あの子が気にしてたやつ、私の部屋に……! ご飯の、お礼も……! 言えてない、言えてないのに……ぁ、あぁああ、ぁぁあ、ぁああああああぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!?!?」
どれだけ涙を流しても、声を張り上げても。
繁殖の竜は、一瞥をくれることも、同じ末路を辿らせることすらせず。
カルラ・コーエンは、力尽きて意識を失った、
次話から現代軸に戻ります。




