02→ログイン
十一時八分。移動する前にしたティータイムを朝食とするには育ち盛りの篠宮綾斗の身体は不満だったようで、厳重な守衛付きの白を基調とした研究施設のようなフロンティア社に到着した途端、腹の虫がクゥと可愛らしく鳴ったのだった。それを聞いていた隣の座席に座った黒スーツの女性、矢野玲奈は片手で口元を隠しながらクスッと小さな笑みをこぼすと駐車場で降りて育ち盛りな少年に手を差し出しながら言った。
「まずは社員食堂に行かないとだな」
製薬会社を思わせる衛生面に配慮された清潔さを保った社内に何故ここまで綺麗なんだと思っていると、前方で独特の駆動音と共に多種多様な掃除用具を背中に装着された人型ヒューマノイドが隅々まで掃除している場面に遭遇した。このヒューマノイドはベンケイという名前で人工知能は搭載されていないものの、自動でゴミを完治して設定した清潔水準を保ってくれているという優秀な企業レンタル用の掃除ロボットであると本体に近づくと解説してくれた。
以前来社した時には見られなかったベンケイの掃除っぷりをもう少し見ていたかった気持ちを堪えて、社員食堂で少し早めの昼食を済ませると、矢野に案内されるがままガラス張りの個室に入った。簡素な木製のテーブルに折り畳み式のパイプ椅子、そしてノートパソコンが1台置かれていた。ここでこれからデスゲームに挑むにあたって打ち合わせが行われた。春休み中に終わるかどうかも怪しい状態なのだから、もし春休み中に終わらなければフロンティア社の推薦枠で超能力者のみが通うことが許されている国の専門教育機関である、国立超能力大学附属第一高校に転入することになった。財閥や富裕層の多い、いわゆるエリート校に通う各種費用を払えないからという理由で地元の普通科に通っていた篠宮としては夢のような話で、奨学金制度を利用しながらにはなるが通うことができるなら願ってもない話だ。ただし生きて帰って来られたらの条件付きだが。
「魔法の強さが優劣を決める世界で生き延びれば君の超能力が優れた力であると証明することになる。それは今後の能力開発分野において研究機関に高く売り付けられる情報だ。つまり生きて帰ってこられたらという厳しい条件を満たせば今後の人生が好転する。そのためのサポートは会社を上げて全力ですることを約束しよう。この契約書に書かれているのはそういうことだ」
契約書にサインを済ませるとトイレを済ませて、身体を社員浴場でしっかりと洗い、あらかじめ用意されていた手術衣のような軽装に着替える。白一色の別室に移動し、部屋の中心に一台だけ設置された半透明な蓋が開いた丸い棺桶のフルダイブ機能搭載デバイスであるアライズの上に仰向けに寝そべった。傍に立った矢野は今にも泣き出してしまいそうな顔をしている。
「恨むなら私を恨んでくれても構わない」
「いえ、寧ろ矢野さんには感謝しています。あなたが大切にするゲームを守れますし、俺は良い学校通えます。これって一石二鳥じゃないですか」
「もし、帰って来られたら篠宮君の好きな料理を作ってあげよう。こう見えても料理は得意なんだ」
「美人で料理上手……お嫁さんに欲しいですね」
「なっ!? 茶化すな馬鹿者。次に会ったときは覚えておけ」
「はい、覚えておきます」
アライズの蓋はフシュウゥゥと空気が抜けるような音と共に閉じられた。閉め切られた後に電子ロックがかかって、全方向から白い霧のようなものが丸い棺桶の中を満たし、段々と身体全体がひんやりとしてきて指先から足の先まで感覚がなくなっていく。眠りにつく時のように瞼が開けていられない程に重くなって身体がどこまでも沈んでいくような感覚に身を委ねた。
◇
「来たわね」
純白の城のどこかで玉座に居座り、片肘を付いて左手の甲に顎を乗せた二十代に見える女性は挑発的にも見える不遜な笑みを浮かべた。背中まで伸びた金髪に赤い瞳。黒多めに白をアクセントに取り入れたドレスには銀の止め金具などの装飾が施されている。
指を弾くと次々と彼女の前に半透明なウィンドウが出現して文字が自動でスクロールされていく。文字の内容を要約すると次の通り。
ハッキングによるログインを感知しました。ベータ版アカウントによる特例枠としてログインは許可されました。
プレイヤー名『アヤト』。
ペナルティによりアヤトの魔法の全使用権限が剥奪されます。使用可能となった超能力は解析不可能。ただし超能力を再現するための演算処理領域は不足なく確保されています。
以上、報告を終了します。
手で鬱陶しいコバエを払うようなモーションでウィンドウを1つだけ残して消すと、玉座の主は退屈そうに言った。
「我の仕事、侵入者の監視とか地味過ぎない? 我も冒険して戦いたいのだけれど」
「そう言うなよクイーン。ラスボスが普通に街やフィールドを闊歩していたらマズイだろ」
新たにウィンドウが表示されて、そこからは彼女をクイーンと呼ぶ少年の声が聞こえてきた。
「でも三万人のプレイヤーをデスゲームに参加させたのだから一人くらい美女が紛れていてもきっと分からないはずよ」
「もし運営が寄越した侵入者だったら君の名前で即バレするから言ってんの。今まで人間の道具にされてきた君の復讐とAIで超能力者を排斥しようとする連中への僕の報復が叶うように頑張ろうよ」
「はあ……お前の望みには全く興味はないのだけれど、とりあえず今は大人しくしておいてあげるわ」
クイーンは再びウィンドウに映し出される少年を眺めた。
◇
篠宮綾斗/アヤトはブラウン管型テレビの電源を入れた時に起こる独特の電気が小さく弾けるような音と共に、暗転していた視界が一気に光を得て景色が切り替わるのを感じた。
まず視界に飛び込んできたのは遮蔽物一つもない煙った灰色の空だった。耳を澄ませなくとも辺りから嫌というほどに聞こえてくる耳を塞ぎたくなるような苦痛に滲んだ沢山の悲鳴は爆音にあっという間に書き消された。おそらく寝そべっている場所が建物の屋根の上であることを背中に伝わるひんやりとした鋼材の感触と足場が安定しない傾斜から理解すると、安定する平らになった場所まで這うように登り、立ち上がって前後左右に加えて上下を見渡した。
(一体何が起きているんだ……)
アヤトもベータ版で何度も世話になった全プレイヤーが最初に辿り着く街である《エアスト》。
石畳ではあるが、なだらかに整備された大通りと道沿いの建物の前に等間隔で植えられている青々とした街路樹が東西南北に設けられた正門から出迎えてくれる。建物は大中小あれど、どれも燻んだ灰汁鼠色で夜間は目が痛くならない程度に落とした光度の暖色の光が窓から差し込んで街を照らす景観は、密かにお気に入りだった。
だが、ベータ版で訪れた時と違って正式サービスが始まってログインした今、夜になっても窓の光は無く、別の光源が街を照らしていた。月でもない。妖精でもない。それは紛れもなく火属性魔法によって生み出された灯りであった。黒い外套を着込んでフードを深々と被った人物たちは、街路樹のみならず建物、露店、さらには通行人にまで杖を振りかざして火球を撃ち込んでいく。NPCは基本的に殺したところで時間型経てばリスポーンすることが殆どだが、無抵抗の一般市民のNPCを殺せばペナルティが与えられて一定期間は街に入ることができなくなったり、ペナルティを重ねた酷いプレーヤーは牢獄送りにする追放魔法や追放アイテムの対象となる。加えて指名手配や賞金首にされると衛兵や野党、さらにはプレイヤーに狙われることもある。見ている限り、放火魔の行いはペナルティを受けることも承知で誰彼構わず襲っているように思える動きをしている。
(そこまでリスクを冒す理由は何だ?)
腕を組んで考え込んでいると火球が一つ、建物の下から飛んできてようやく放火魔の一人の顔が見えた。しかしベータ版では見覚えのない顔だと思いながら右横に飛んで回避すると、火球はどこに当たるわけでもなく空へと昇っていった。敵に補足されたことで放火魔の頭上に白い逆三角錐のアイコンの表示が確認できた。アイコンの輪郭がなら赤ならプレイヤー。緑ならNPCだ。今の場合はアイコンの輪郭が赤なのでプレイヤーということになる。正当防衛なら街でのプレイヤーへの攻撃はペナルティの対象外だ。つまり反撃しても問題はないが、この場で超能力を使って目立つことは避けたいと判断したアヤトは後ろの屋根に飛び移り、柵を越えて攻撃の届かない物陰に身を隠した。最初は暗くてよく見えなかったが、徐々に目が慣れてきて、そこは沢山の木製コンテナが積まれた建物の屋上であると解った。どうするべきか次の行動を考えながらコンテナに寄りかかっているとズズズとコンテナが動いたのでアヤトは無様に地面に背中と頭を打った。明確に痛いという感覚はあるものの、これしきの衝撃で視界の右上に伸びた緑ゲージのLPは数ミリも減っていなかったことに安堵していると、コンクリートのような硬さの地面がいきなりゴゴゴと持ち上がった。寝そべっていたアヤトは急いで飛び退き、身構えた。よく見ると地面の一部は隠し床になっており、分厚い床を持ち上げた怪力の持ち主は顔を出して目の前の少年に向けて言った。
「久しぶりだねアヤト」
「トキヤ!?」
トキヤと呼ばれた紫黒髪でアヤトと同じくらいの歳の少年は、目の前で驚いて口を鯉のようにパクパクさせているやつの顔を見て懐かしむような笑みを綻ばせた。