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結い言  作者: 宮下
第1部 電車を見送る女
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 放課後、咲月と電車のホームにいた。

 時間は、五時四十五分。


「ちょっと時間、早いけど名無しさんの姿が見えたら、みんなびっくりしちゃうからね」


 遠くに、私がいつも立っていた線路脇が見えた。

 吸い込まれるようにあそこに行こうとした私を、咲月がここまで引っ張ってくれた。


「見ているだけじゃ、どこにも行けないよ。一緒に、行こう」


 その言葉と強く繋がれた手に誘われ、私はホームで電車を待っていた。私がいつも見送っていたのと同じデザインの電車がホームに入ってきた。

胸が高鳴る。動けない。息が苦しい。


「行こう」


 咲月が手を引く。硬直する方法しか知らなかった足が動いた。私は、電車に乗った。そして、すべてを理解した。

 そうか、私はこの電車に乗りたかったんだ。

 咲月と空いている席に腰かける。窓から見える景色は、私がよく知る光景だった。




 私は、夢を抱いて上京し、この町に来た。そして、絶望した。

 女優になりたいなんて大それた夢を持っていたなんて、今では考えられない。現実を知らないバカだった。頑張れば本気でなれると信じ、専門学校で学びオーディションを受け、成果はゼロ。バカなりに夢を貫いて生きて行けばまた違ったのかもしれない。私は、バカになりきれなかった。数年で、夢をあきらめ、私は社会人になった。

 学生とは違う、夢なんてこれしきもない、自分を押し殺してこなす仕事というものは、ただただ苦しかった。苦しくても、愛想笑いを浮かべてやりすごす。そうしないと、社会から淘汰されてしまう。自分を殺して、必死で無個性を演じた。そのうち、本当の自分がわからなくなっていった。

 そんな日々を繰り返していくうちに、段々と私は壊れていった。

眠るという当たり前の行為が、苦痛になった。眠り方がわからず、睡眠薬が必須になった。食べ物を見ても、食欲がわかず、大好きな唐揚げを見ても何も思わなくなった。息をするという当たり前の行為ですら、胸がつかえて苦しくなった。それでも、「大丈夫」その言葉で自分自身を縛り続けた。睡眠薬は、じきにきかなくなっていった。

 本音を言えば、地元に帰りたかった。それでも、それをみっともないこととして自分が許さなかった。応援してくれた親を失望させるのも嫌だった。ちっぽけなプライドでがんじがらめになり私は選択肢を自ら断っていった。

 本当の自分を隠して生きる私は、心から人を頼ることもできず、弱音を吐く相手もいない。孤独は、死を強烈に手繰り寄せ始めた。

 あの電車に乗れば、地元に帰れる。そうやって、あるかもしれなかった今を想像しながら、私は仕事帰りに電車を見送るのが習慣になっていた。あれに乗って帰りたい。涙が溢れ、視界がぼやける。もうクリアに世界を見ることができない。今が見えない私にとって、明日は真っ暗闇で恐ろしくてたまらない怪物のような存在だ。そんな怪物が、私の背を叩く。それは、あと数歩、前に進む勇気をくれた。

そして、私は電車に跳ねられて、死んだ。思い返してみると、平凡でつまらない人生だった。あるはずの選択肢をことごとく自ら消し去った私は、どこまでも愚かだ。それでも、後悔はなかった。私は精一杯、生きていた。生きて生きて、体が壊れるほどに生を感じ、最期の瞬間まで生き抜いた。よく頑張ったねと、あの頃の自分を抱きしめてあげたかった。

 電車の外を見ると、苦しい思い出が詰まった町が遠のいていく。それは、苦しみから遠のいていくような感覚だった。


『……ろくでもない人生だったな』

「思い出したの?」

『ああ』


 咲月は、いつか私にした質問をなぞるようにして言った。

「あなたの、名前は?」


 今度は、簡単に思い出せる。


『楓』

「楓さんか」


 咲月は、うれしそうににこにこしている。久しぶりに紡がれた自分の名前が、くすぐったい。気恥ずかしく、咲月から目をそらした。

 駅に止まった。疲れた顔をした社会人が乗り込んでくる。それを見ていると、いつかの自分が重なる。死んだような顔をして生きていた。今の自分のほうが、よほど健全で真っ当に思える。そんな矛盾が、バカバカしくて笑ってしまいそうだ。それと同時に、いつか来る咲月の未来を案じる。こんな大人になってほしくない。説教は嫌いだし、私に残せるものなんてなにもないのかもしれない。それでも、突き動かすなにかにせかされて、私の口は開いた。


『社会は……厳しい。お前は、まだ学生だから知らないだろうな。気づかないだけで、子どもってだけで色んなものに守られて生きているんだ。でもな、学校を卒業して唐突に社会に放り出されて思い知る。生きることの難しさを』

「そんなに難しいの?」

『ああ。なかには器用なやつもいるが、生きていくって、難しいぞ。苦しいし、悩んでばかりだ』


 電車内には、うつむいて気だるげな顔をしている人々がいる。くすんだ目をしている人々の中で、唯一、咲月の瞳には曇りがない。まだ、誰よりも純真だ。その中に、不器用な気配を感じる。


「じゃあ、私、子どものうちに幽霊になりたいな」


 器用でない自覚があるのか、咲月は素直な意見を述べた。


『その気持ちもわかる。でもな、苦しんで悩んだ先に、答えが見つかったりするんだ』

「名無しさんは、見つかったの?」

『……ああ』


 生きているうちには、見つけられなかった。そのことは、咲月に黙っておくことにした。

 咲月の頭をなでる。温かくて柔らかい。素直な子どもの頭だ。

 咲月は、少し照れくさそうだ。そして、それ以上にうれしそうだった。そんな咲月に胸が熱くなる。この子に、伝えたいことがたくさんある気がした。

 この温もりに少しでもなにか残したくて、私は得意ではない言葉を精いっぱいに紡いだ。


『どんなに今が苦しくても、必ず今じゃない明日が待っている。今がどんなに苦しくても、生きるための選択を考えろ。お前は、一人じゃない』


 私はこの子がどんな事情を抱えているのか知らない。そばにいられない自分が、知るべきことでもない。


『希望なんて向こうから勝手にやってくるもんだ。気長に生きてみろ』

「私のところにも来てくれる?」

『ああ。生きていたらな』


 生きていてほしい。それが、私の切実な願いだった。

“死”の中に、二度と希望を見出さなくていいように。できたら、悲しいことは少なに。できたら、笑顔多く……、人間らしく願いは尽きない。


『生きていたから、本物の幽霊に会えただろう? こうやって一緒に電車に乗れるなんて、ホラーマニアにはたまらないんじゃないのか?』

「うん、たまらないね」


 咲月は目を輝かせた。そして、二人で顔を突き合わせて、噴き出した。

 わからなかった咲月の思考が、今なら手を取るようにわかる。この子は、ただ寂しかったのだろう。私がそばにいることが、純粋にうれしくてたまらなかったのかもしれない。私の冷たい手に、温もりを求めるなんて馬鹿なことをするものだ。温めてやりたいと思っても、私には体温がない。お互いに欠けた部分を浮き彫りにし、心を痛めるだけだ。

 それでも、もっと早くに歩み寄っていたのなら。咲月の不安や迷いを軽くしてあげることができたのかもしれない。そんな風に後悔ばかりしてしまう私は、幽霊になるだけあって未練がましい性格だ。


『この先も、お前にとって生きていてよかったと思える出来事がやってくるよう私が祈っていてやる』


 咲月は、笑顔を返そうとしてくれたが、うまく笑えなかった。笑顔をあきらめた表情は、しょんぼりとしていた。


「……楓さんがいなくなっちゃうの、寂しいな」


 咲月の精いっぱいの本音に、愛しさが溢れる。

 この感情を抑える必要はもうない。好きなだけ、この子のことを想おう。


『言っただろう? 私の念はどこからでも届く。執念深いんだ。一生、咲月のそばに私がいると思えよ』


 咲月は、なにかをこらえながら微笑み、そして頷いた。

 私の気持ちに寄り添おうと、咲月が必死で背伸びをしてくれている。全部わかっている。全部わかった上で、私は甘い言葉を飲み込んだ。


「楓さんは、もう心残りない?」

『もうない』


 本当は、咲月の今後を見守ってやれないことが気がかりだった。

 それでも、咲月は生きているから。咲月を支えるのは、生きている人間でなくてはいけない。私の役目ではない。温かいこの手を、同じく温かい手が包んでくれる。きっとそんな日がやってくる。そう信じてやるのが、私がしてやれる今の最善であり答えだ。

 車窓から見える光景は、まだまだ都会の色をはらんでいる。このはるか先に、私の故郷がある。約束された未来に、身体がふと軽くなった。


『……私の人生もそう悪いものじゃなかったかもな』


 辛い記憶から離れていくと、楽しかった記憶やうれしかった記憶が鮮やかな色をもって浮かんできた。なんてことのないものだけど、それが私の幸せだったのだと気がついた。誰かがそばにいる。こんなにも幸せなことなんてない。


『全部、咲月のおかげだ。ありがとう』

「もう名無しさん、迫力ないね。誰も悲鳴あげてくれないよ?」

 

咲月がいたずらっぽく言う。

咲月に言われて、いつのまにか自分の手が綺麗になっていることに気が付いた。頭を垂れる血の不快感も消えている。

 時刻は、六時を過ぎたろう。それなのに、誰からも悲鳴が上がることはない。私は乗客の一人になっていた。ごく普通の、誰からも目を止められることのない一般客の一人に。


『ようやく、帰れる』


 ずっと望んでいた長年の夢が今、叶う。

感極まって咲月を見る。咲月は、私以上に泣きそうな表情をしていた。

 そんな顔をするな。握った手に力を込めるが、感覚は鈍い。


『見送ってくれるか?』


 咲月の目から、涙が零れ落ちる。

 私の頬にも、なにかが這う感覚がする。これは、血ではない。優しい温もりを含んだ、いつぶりかの涙だった。


『咲月に出会えてよかった。私は、先に行く。お前は、とうぶん来るなよ』


 咲月は、私のために綺麗な涙を流しながら、微笑んだ。


「……いってらっしゃい」


 その声を受けて、私の手から咲月の温もりが消えた。

好き嫌いせず、ちゃんとご飯食べろよ。そう言い忘れたことが、この世で唯一の心残りとなった。これから先、私の意志をついで、誰か咲月に注意してくれる人物が現れてくれるだろうか。私には、もうこの先の出来事はわからない。うまくやらなくていい、お前らしく生きていけ。

ただ、咲月の幸せを願い、私は故郷へと還った。


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