小さな丘
気が付くと、咲月の机の上に二つ折りの白い紙が置いてあった。
いったい、いつ……。
私は、咲月の行動を一挙一動見逃さないように観察していたはずだった。
昨日の夜は、咲月は早々にご機嫌な様子で就寝した。そのまま一度も起きることなく朝を迎え、学校へ行った。もちろん私もついて行った。授業中の退屈しのぎに、書くのではないかと思い、ペン先がつむぐ文字もすべからく把握している。おかげで目が乾ききってしまった。ちなみにノートに書かれた文字に、怪しいものはなかった。
咲月は今、風呂に入っている。いったいいつ書いたのかわからないが、私はこの紙に書かれている内容を把握したくて仕方がなかった。しかし、私に折られた白い紙をめくる術はない。私の手は、白い紙をすり抜けてしまった。
『ただし、その願い事は誰かを不幸にするものに限る……か』
口にして改めて机の上に置かれている紙を見る。あの能天気な面で、なんて恐ろしいやつなのだと、自分の存在を差し置いて咲月に嫌悪感を抱く。いったい誰の不幸を願ったのだろうか。学校の友達だろうか。それとも、姿を見ない親だろうか。それとも、
「名無しさん?」
『!』
心臓が大きく跳ね上がった。その反動で、止まった心臓が動き出すかと思った。
「なに、してるの?」
『なにもしていない。お前の汚い机を眺めていただけだ!』
「え? 私の机すごい綺麗じゃない?」
物が少ない咲月の机の上は、小ざっぱりしていて綺麗だ。それでも、私はブツブツとお小言を言いながら咲月に気取られないように、すました顔で窓際に移動した。
咲月は、私に言われたことを気にしているのか特に物がない机の上をさらに綺麗にしようと奮闘している。
――咲月は、私の不幸を願うつもりかもしれない。
決して、サイトの内容が本当だと信じているわけではない。だから、不幸を願われようと、痛くもかゆくもないし、そもそも死んでいるから痛みもかゆみも感じない。これ以上、不幸になりようがない。何が起きようが、返り討ちにしてやる。それでも、妙に心が落ち着かない。あの何も考えていないような笑顔の裏にどんな黒い物が渦巻いているのか。私は、咲月の心を読み取ろうと睨み続ける。咲月の後頭部が、私に向く。きょとんとしたあどけない表情にあざとさを感じる。お前はそんな純真な人間じゃないだろうと、笑いさえ浮かんでくる。
私のあがった口角を見て、咲月も口角をあげた。
「なんだか楽しそうだね、名無しさん。心霊スポットに行くのがそんなに楽しみ?」
『ああ、そうだな』
私は、咲月のたわ言に乗ってやることにした。上辺だけの会話。腹の探り合いだ。
「明日の午後に行くから楽しみにしていてね」
『ああ』
「名無しさんは、何か願いごと書く? 私が代筆してあげようか?」
『いらない。不幸にしたいやつは、自分の力で不幸にしてやる』
「さすが名無しさん。頼もしいね」
のん気なものだ。私が不幸にしたいのは咲月だ。忘れてしまったのだろうか。
咲月が白い紙ふれた。
『あ』
思わず声が出た。
咲月が私を見る。それから触れている紙に視線を落とし、再度、私を見た。
「名無しさん、何が書いてあるのか気になるの?」
平静を装おうと努力する。そして、精一杯の平静をまとい答えた。
『べ、別に気にならない』
「そっか」
咲月は納得したようで、明日の準備を始めてしまった。
私は、会話が終わってしまったことに内心やきもきしていた。紙に何が書いてあるのか、遠回しに咲月から聞き出すつもりだったというのに。
咲月はそんな私の内情も知らず、せっせと荷造りに励んでいる。女子高生が持っていてもおかしくない可愛げなバックに、小さなシャベルやメジャー、望遠鏡など冒険に旅立ちそうな小道具が詰め込まれていく。
咲月は、ペン立てからカッターを手に取り、三センチほど刃を出して刃こぼれがないか確認している。上を向いていた切っ先が、突如、向きを変えた。その先は、私だ。
「名無しさん」
咲月は表情の読み取れない顔で、私を見ていた。光のない咲月の目の代わりに、カッターの先は、電気の明かりを受け鈍く光っている。
「私、名無しさんに触れるじゃない? 名無しさんを刺すことってできるのかな」
唐突に、狂気が顔を出す。負けじと、私は眼に力を入れた。
『やりたきゃやってみな……その時、死ぬのはお前だがな!』
しばらく殺気が交差する。恐ろしいほどに張りつめていた空気は、咲月が腕を下したことにより終わった。咲月は静かにカッターを鞄にしまった。
「なーんてね。名無しさん、びっくりした?」
いつものアホさがにじみ出るのん気な顔。それでも、私は騙されない。
『お前……その紙に私が不幸になるような願いを書いただろう』
咲月は、ふふと無邪気に笑った。
「だとしたら、どうする?」
『そんなもの私に通用するわけがない。だが、もし何かヘンテコなことが起こるようなら、問答無用でお前のことを殺す』
「名無しさんだって、散々、人の不幸を願ってきたんでしょ? 誰かに不幸を願われたとしても仕方がないと思うよ」
『うるさい黙れ!』
お前に何がわかる。私がどれだけの恨みを抱えて、ここまで血を流してきたのか。恨めしい。全てが憎くてたまらない。
憎しみに震える私をよそに、咲月は穏やかな顔で鞄の内ポケットに白い紙をしまい込んでいた。
次の日、咲月は学校が休みだからといって、昼頃まで寝ていた。何度、殺意が湧いたかわからないが、私は大人しく咲月が起きるのを待っていた。大人の余裕だ。こんな小娘にいちいち内心荒げるのはバカバカしい。そう自分を諭し、咲月に目に物言わす最高の瞬間を妄想した。泳がせて泳がせて、最大の恐怖を演出してみせる。時折、堪え切れず漏れる笑みに、いちいち嬉しそうに咲月は反応してきたが無視だ。昨日はたくさんお話してくれたのにと頬を膨らませているがそれも無視だ。今は、どうやって咲月に恐怖を与えようか考えるのに大忙しだった。
「よし、行くよー!」
『…………』
私は黙って咲月について行く。
春らしい柔らかな色合いの服に身を包んだ咲月は、年相応の明るい雰囲気を身にまとっている。まさか咲月が今から心霊スポットに赴いて不謹慎極まりない行いをするなんて、誰も思わないだろう。
この人ごみの流れに乗って生きていくほうが簡単だろうに。なぜ、こいつは自然の流れに乗らず、不自然な道を行くのだろうか。風に乗って、八重桜の花びらが咲月を包み込む。周りは、その花びらに目を細めているが、咲月は、そこに魅力を感じないようだ。誰もが刹那の幸せを求めて足を止めるその場所から咲月はどんどんと遠ざかっていく。こいつは、いったい何を目指しているのか。周りとは違う読めない背中は、あまりにも異質に感じた。
流れに逆らい続け、すれ違う人がほとんどいなくなってきた頃、その場所に着いた。
「ここだね。思ったよりも近かったね」
『…………』
丘の入口には、地蔵と思われる石の塊がいくつかある。いったいどれほどの間、ここに立っていたのか。顔の凹凸はほとんどなくなっており、中には体が折れているものまである。春だというのに、この丘には桜の一つもない。色を持たないこの場所に、好んで来る者は咲月くらいだろう。不揃いな間隔で乱暴に置かれた石段は、草や苔で覆われていた。
咲月は、楽しそうに不気味な地蔵を何枚もカメラにおさめている。そのカメラのレンズが急に私に向き、パシャリと小気味いい音を立てた。
「不意打ちショット」
『撮るんじゃない! バカ野郎!』
カメラを破壊しようと伸ばした手は、カメラを通り抜けその先にある木さえもすり抜け、私は地べたに這いつくばる形になった。悔しくってたまらない。
『くそッ!』
私は、咲月の足を掴んだ。靴下にべっとりと血をつけてやった、ざまあみろ。咲月は悔しがるどころか、このアングルが気に入ったのかカメラ目線を要求してきた。喜んでいる咲月にバカらしくなった私が、一抜ける。先を促すとようやく咲月は丘を登り始めた。咲月の後頭部を見ながら、私の胸は躍る。
――この先で、私は咲月を殺す。遊びは終わりだ。
一歩進むたびに死が近づいているというのに、先を行く後頭部はのん気に鼻歌なぞ奏でていた。
ものの五分ほどで丘の頂上に到着した。丘を登り始めてすぐに、私は変化を感じていた。異常に空気が重くなった。咲月からの反応がないところを見るに、私だけが感じているようだ。
「んー、ポストないねー」
咲月は、丘の頂上をぐるりと見渡す。墓石の残骸と思われる崩れた石がいくつかあるだけで、丘の頂上にお目当てのポストらしきものはなかった。咲月は生い茂る草をかき分けて何かないかと捜索を続けている。時折、咲月は何かを拾い上げては、残念そうに元の場所に戻した。それは、陶器の破片や折れた卒塔婆などホラー要素を含んでいるように私には見えたが、今の咲月には興味がないらしい。せわしなく動く後頭部を見て、殺すなら探索に夢中になっている今ではと思い立つ。あんなにも殺したかった獲物を前に、私は抑えきれないほどの昂ぶりで満たされるのではと思いきや、妙に冷静だった。
それよりも周りの気配が気になって仕方がない。先日、咲月が言っていた「もっと他の幽霊と交流してみるべきだよ!」という言葉を思い出す。どう考えても交流などできる雰囲気ではない。どこまでも生まれてくるのは嫌悪感。目の前の後頭部よりも腹が立つ存在でしかなかった。
「名無しさん?」
『!?』
気づけば、咲月が目の前にいて私の顔を覗き込んでいた。驚き、一歩後ずさる。こつっと一歩下がった足のかかとが何かにぶつかる。
「なんか険しい顔しているけど、どうかした?」
『……いや、なんでもない』
「……あっ、名無しさんの足元なにかある!」
咲月が、私の足元に飛びつく。咲月が拾い上げたのは、咲月の両手から少しはみ出るような大きさの木箱だった。なんのためらいもなく咲月が木箱のふたを開けると、そこには何も入っていない、茶色い木目に囲まれた空間があった。私は、その箱の中から嫌なものを感じ、思わず顔をしかめた。咲月は、目ざとくそれに気が付く。
「名無しさん、この箱なにかあるの?」
『……知らん』
私はそっぽを向く。これ以上、その箱を視界にいれておきたくなかった。
空箱なのに、凝縮された何かがぎっしりと詰まっているかのような印象を受ける。胃のあたりが重く、呼吸が苦しくなるような感覚に陥る。
「これが、ポストなのかな?」
『はぁ? どうみても箱だろ』
「でも、何かを入れられるものってこれくらいしかないじゃない? それになんとなく不思議な感じがする」
咲月はそういってひとしきり箱を色んな角度から眺めまわしている。そして、あの紙をリュックから取り出した。
「本当に願い、叶うのかな」
『……………』
咲月は夢見心地に二つ折りにされた紙を眺めている。
「誰かを不幸にする願いじゃないと叶わないんだよね」
そう言う咲月の顔は、なぜか寂しそうだった。
咲月は、紙を木箱に入れるかどうか悩んでいるようだ。ここにきて怖気づいたのだろうか。咲月の心情がわからない。
紙を入れるのを妨害しようかどうか逡巡している間に、咲月は静かに木箱に紙を入れ、そして蓋を閉めた。あまりにもあっさりとした動作だったので、口を挟む余裕もなかった。咲月は黙って、蓋のしまった木箱を見つめている。俯いているため、表情は見えない。残酷な願い事をしたにしては、覇気のない小さな背中に私の怒りはいまいち乗り切らなかった。
「……何も起こらないね」
いくら待てども、静けさのみが丘を満たしていた。咲月が願った不幸も、私の身に降りかかる気配はない。私は周囲に気配を巡らした。相変わらず、気味の悪い存在は、この丘にいた。ただ、私に対しての害意は感じられない。
『はっ! やはりただの噂話じゃないか』
「んー……闇人さんの情報でハズレは初めてだな」
咲月は、残念そうに立ち上がった。そして、箱を開けようとした。
「あれ?」
『なんだよ』
突然、驚いたような声を出す咲月に私は眉を吊り上げる。
「ふたが、開かない」
咲月はフンっと鼻息荒くふたを開けようとしているが、びくともしない。力の入れ具合を見るに、演技ではないようだ。
「無理! 名無しさんバトンタッチ!」
『はあ?』
咲月に木箱を押し付けられる。触れられないとわかっているはずなのに、生前のくせかつい手が出てしまった。その瞬間、指先に無機質でいて身も凍るような感触が走る。それは、確かな触感だった。咲月以外から初めて受けるその感触が、木箱だと分かった瞬間、全身の肌が泡立った。私は指先に触れたそれを勢いよく払いのけた。
「あー! 飛んで行っちゃった……!」
『帰るぞ!』
指先にちりちりと残る感覚がいまいましい。その感覚を紛らわすように私は、咲月の腕を掴み足早に丘を下る。咲月の体温が少しずつ指先の不快感を溶かしていく。咲月は、名残惜しげに木箱が飛んでいった方向を見ていたが無視して、咲月を引きずるように歩き続けた。
「名無しさん、見た? 箱が飛んだよ! やっぱりすごい不思議箱だったんだよ!」
咲月は私が木箱を払いのけたことに気が付いていないようだ。箱がひとりでに飛ぶという超常現象に出会えて一人ではしゃいでいた。この様子だと、人を不幸にする願い云々はどうでもよくなったようだ。うれしそうな咲月とは反対に、私のテンションはぐんぐんと下がっていく。掴んだ咲月の腕の温かさは、より私の心を凍らせた。なぜだかは、わからない。それでも、私が殺してやると息巻いていた咲月は、もういない。この感覚は幽霊だからか、はたまたただの勘なのか。
私は、咲月の顔を見る。咲月は、笑顔を浮かべた。その笑顔を見て、確信を持った。
――― 咲月は、もうすぐ死ぬ。
私にとって、それは喜ばしいことなはずなのに、なぜか喜ぶ気にはなれなかった。手のひらを通して感じる体温が忌々しい。
『ねえ、一緒に行こう』
こいつの手を取らなければよかった。私は、心の底から後悔した。